第6話 アポトーシスの勇者たち

2037年2月12日

地球大気圏

 地球に降りるために、ワームホールをクラーケンが吐き出す。その衝撃を受けながら、胸が酷く痛んで、視界が一瞬明滅することが何を意味しているのかを知って、要は息を吐いた。

 ――私の身体はきっと、保たない。

 病床の父が、死ぬ間際に囁いた言葉を思い出す。

「ごめんな、要。俺はお前を守れない。――本当のお父さんじゃないけど、俺をお父さんにしてくれて、ありがとう」

 多くは教えてくれなかった。それでも、クラーケンの話や、自分が何者なのかを教えてくれた。

 ――それだけで、私は大丈夫。

 閉じて居た目を開くと、肉眼でしか見ることの出来ないような透き通った青が藍に変わって、すぐ近くで瞬く星空の前に放り出された。そこで、パイロットスーツに隠して居た端末が震えて、着信を伝える。

「流星?」

『かなちゃん』

 柔らかい声が、問いかける。

『時間が無いから、手短に伝える。しーちゃんがくじらに食われた。でも、生きてる。さっき話したんだ』

「詩綾が!? どうして」

『しーちゃんが作った歌が、世界中に拡散されて、それがくじらを呼んでるみたいなんだ』

「詩綾の歌? あの作ってたやつ?」

『そう。規制を無視して、作った歌が、くじらを呼んだんだ。世界中に拡散されたのは、僕が止めるから、かなちゃんは、しーちゃんを迎えに行って欲しいんだ』

「詩綾を? でも、今私は」

『しーちゃんと話をして。くじらの中で、いろんな過去を見たって。僕らの事も』

「私たちのこと?」

『僕らが、お父さんたちの子供じゃないって、ことも』

「……流星は、知ってたんだ」

『知ってたよ。かなちゃんが何でパイロットを引き受けたかも。僕らもクラーケンのパイロット候補だったのを、かなちゃんが引き受けたんだろ』

「適性は私が一番だったっていうから、それに二人とも運動苦手でしょ? 適材適所だよ」

『一応、球技はそれなりに出来たと思うんだけど』

「流星が怒るから言わなかったけど、どれも下手くそだったよ。バスケはドリブルは胸の上くらいの高さがあるし、サッカーはいっつもボールを取られてた。流星は比べられたり、誰かに勝ったりすることが似合ってなかったんだよ。私は負けず嫌いだし、三人の中で一番体力があって、クラーケンのことも知ってた。それに、お父さんから聞いてたポンちゃんにも会いたかったし」

『――会えたんだね』

「うん」

『傷つけられたり、酷いことはされなかった?』

「大切にして貰ったよ。色んなことも教えて貰った。だから、私は大丈夫」

『かなちゃん、僕はずっと君の側に居たから知ってるけどね、君の大丈夫は、大丈夫じゃ無いんだよ。僕が助けるから、しーちゃんを迎えに行ってあげて。そしたら帰って来なよ。待ってるから』

 彼の声を聞きながら、過去に想いを馳せた。飛び出していく詩綾を追いかけるのは要の役目だったが、それを促すのはいつも流星だった。むっすりとした詩綾を連れて帰ると、迎えてくれるのも彼だった。

 切れた着信を見つめて、息を吐く。

「要」

 柔らかい声が響いた。その言い方は、父親が名前を呼ぶ時に似ている。

「ごめん、ポンちゃん」

「どうして謝るんだい?」

「ユズコショウを追いかけろってけしかけたのは、私なのに」

「私の家族は、くじらに食われたわけじゃないさ。行こう、君の家族のために」

 ワームホールを吐き出して、その中に入り込んで、向こう側に広がる空間に飛び出していく。流星の端末を利用して、詩綾と少しだけ話すことが出来た。彼女は悲しい声を出して、強がっているそぶりを見せた。

 ――早く行かないと。

 ワームホールを吐き出した衝撃波で、雲が散った。雄大に広がる海と空との狭間に挟み込まれて、その景色に息を飲む。闇が晴れて、藍が黄色く染まっていく気配がする。

 ――ああ、もうすぐ夜が明ける。

 拓けた世界の先に、黒くてぶよぶよしたものが見える。黒点のように曖昧な形だったものが、近付くにつれてその存在が膨張して見えて、星を吸い込んだような全身の目玉があちこちを注意深く観察して、闇が口を開いているようだった。

「くじらだ。前より大きい」

 口をすぼめて足を筒のように収納して、ヒレだけで空気の流れに乗って近付く。口が見覚えのない形に見えた。もしかしたら、新しい種類のくじらかもしれないと注視していると、口の中から何かはみ出ていることに気付いた。見覚えのあるヒレの形に、「ユズコショウ!」と囁く声が聞こえた。

「クラーケンも、くじらに食べられてしまうの?」

「私たちの周りにワームホールの盾を張っているから、次元ごと飲み込まれていても問題は無いよ。だが、ユズコショウにはパイロットが居ない。急がないと、盾を食い破られてしまうかもしれない」

 焦っている声に、長い息を吐きながら、要は答える。

「大丈夫、私たちが必ず救うから」

 くじらは耳ほど目には頼っていない。一度ワームホールの盾を吐き出して、闇に染まるように光を反射して、闇に『擬態』してからゆっくりとワームホールを抜けて近付いた。

 中の様子までは分からない。そのくじらの中に彼女が居るのは確かだ。どう吐き出させるべきか思案して、「カナリアを鳴らそう」と提案する。

「カナリアが鳴ると、くじらがやって来る。そう何匹も相手にする訳には行かない。そうだろう、要。私たちは一人と一匹ずつだ」

 カナリヤを鳴らせばそれだけの体力を消耗する。そう何回も鳴らすものではないということは悟って、要は辺りを見渡す。暗い海に雲、遠くに見える大陸の切れ端。手を伸ばせば届きそうに見えるが、どれも届かない。

「くじらの注意を、こちらに逸らすことが出来れば――」

 そう口にしながら、次々と思考と共に立ち上がるウィンドウと数値を見ながら、前回の戦闘でクラーケンが口にした言葉を思い出す。

「いさなとり……魚……ああ、そうだ。餌。餌が、必要なんだ」

「要?」

「くじらはいつも人を食べに来る。彼らにとって一番美味しい餌は、人なんだ」

「要、君は――」

「私は、ポンちゃんの心臓、それに反射板。この世にたった一人と、一匹しか居ない」

「そうとも、私たちは唯一だ」

「だから、ポンちゃん。お願い、私を信じて」

 端末を握り締めてそう言い残し、要はクラーケンの口に向かって泳ぎ出す。ドルフィンキックをして飛び出した先は、真っ逆さまに落ちて行く藍色の空だ。いや、海面が見える。その前に、黒いぎょろぎょろした目を全身に張り巡らせて居る奇妙な生き物と目が合った。何百という眼球がこちらを向く。

「私はここ!」

 手を広げて落下しながらそう叫ぶと、目玉が一斉にこちらを向いて、黒い闇が近づいて来る。大きく開いた口の中から、はみ出て居た三角形のクラーケンのヒレが波打つ。それに手を伸ばす前に、くじらが大きく呼吸するように体を膨らませた。その身体に体当たりをするように、要のクラーケンがワームホールを吐き出して近づいて来る。口の中から飛び出した三角形のヒレが目の前を横切って、目の前の黒い闇が弾けた。衝撃波に身体が飛ばされそうになるのを、飛ぶように現れた要のクラーケンの二本だけ長い手腕が優しく受け止めてくれる。柔らかい彼の手の中に包まれると同時に、弾けた闇の中から人が一人だけ現れた。

「詩綾!」

 記憶の中のそのままの幼馴染の姿に、要は声を上げる。

「要!」

 悲鳴の様な声に、クラーケンの腕の中から手を伸ばす。

「ポンちゃん! お願い」

 願う様に叫ぶと、要のクラーケンは短い手腕を拡げ、格子状に絡ませて詩綾の下に移動して行く。手腕の一つに詩綾がしがみつくと、それを助ける様に他の手腕が彼女を包み込む。その様子に、要はようやく安堵の声を出した。

 何かの気配を感じて、視線を動かそうと首を捻ると、手腕の向こう側に現れた巨大な目に驚く。要のクラーケンのものではなく、物悲しく瞬く、ユズコショウのものだった。

「ユズコショウ、大丈夫?」

 頭の中に声が響かず、どうして心のチャンネルを合わせてくれないんだろうと思って居ると、『ユズの中にパイロットが乗ってるんだ』とそっと心に返された。

「ユズコショウのパイロット? 飛び出した時には居なかったのに、今は居るの?」

『昔、たった一度だけユズに乗ったことがある、パイロットだ』

 すぐに浮かんだ言葉に驚いて居ると、『彼女が心配だ、地上に行こう』とクラーケンに促されて、クラーケンに乗り、ワームホールを吐いてその中に入り込んだ。

「ユズコショウも付いて来れる?」

「チャンネルをパイロットに合わせて居るだけで、ユズは私の衝撃波を辿って、付いて来てくれるだろう」

 クラーケンの言う通り、通り抜けた先の道路にゆっくりと降り立つと、ユズコショウもすぐに現れた。

 要のクラーケンが慎重に腕を開くと、中で気を失って居る詩綾の顔が覗いた。

「詩綾!」

 クラーケンの中から抜け出し、走って彼女に近づいて、その色を失った頬に触れる。首筋に指を当てて、心拍を確かめてから手を握った。最後に彼女と出会った頃より頬は痩せ、目の下の隈が濃くなって居る。伸ばして居た髪の毛は無造作に肩で切られて、まるで彼女を守る様に濃く施されたメイクが乱れて居る。マスカラが落ちている目元を指で拭ってやりながら、肩を揺さぶった。

「詩綾」

 囁く様に呼ぶと、長い睫毛が瞬いて、持ち上げられる。

「要」

「大丈夫?」

 そう息を吐きながら言うと、すぐに潤んだ目を瞬いて、唇を震わせてから、「遅い」と詩綾が言った。

「ごめんね」

「遅いよ。私、空を飛んだ」

「うん。私も飛んだよ。寒かったね」

 起き上がって、要に抱き付いて来た体は、細くて心許なかった。

「遅いよ。私たちを置いて行って、どこ行ってたの」

「少し、遠いところに行ってた」

「さよならも言わなかった。また会おうねも。私と流星がどれだけ……どれだけ寂しかったと思ってるの?」

「ごめんね」

 ひとしきり言い終えた後、詩綾は自分の指で頬を拭った。それから、ゆっくりと息を吐いて要から体を離して、自分が座っているものを見上げる。あまりにも巨大でその全貌が視界に入り切らない生き物が、大きな目で見下ろして来る。その視線は優しく、何処か鷲崎徹に似て居た。

「この大きいイカとタコの中間みたいなのが、クラーケン?」

「そう。詩綾を助けてくれたんだよ」

 詩綾の指が大きな吸盤をそっと這う。すぐに離して人差し指と親指を擦り合わせて、「ベタベタしてない」と呟いた。

「何だかよく分からないんだけど、ポンちゃんの体は異次元の膜みたいなものに覆われているから、見た目ほどベタベタしてないんだよ」

「異次元の膜? くじらの中でも、ブラックホールの中だとか流星が言ってた。いろんな次元が行き交ってて、だから、パパの過去とかも――そうだ、パパは」

 詩綾の声に反応する様に、少し遅れてワームホールを抜けて出てきたユズコショウがその巨体をゆっくりと道路に横たえる。その口から吐き出されたのは、詩綾の父親、真瀬涼介だった。そのことに気付いた要が駆け寄る。真瀬の体をユズコショウの手腕が大切そうに触れているのを、傍に膝をついてそっと見下ろす。青白い顔色と紫色の唇を見て取って、胸にそっと耳を当てた。

「詩綾、お父さん、脈が弱い」

 ポンズの手腕にしがみついて、「死にそうなの?」と聞く。

「多分。病院に連れて行かないと。ユズコショウ、手伝ってくれる?」

 巨大な手腕に問いかける。ポンズよりも一回り大きい手腕はそっと真瀬の体を撫でてから、離れた。

『彼は、もうすぐ逝くわ』

「ユズコショウ! そんなことないよ! 今からなら」

『さっき私とハーモニーを合わせた。きっともう目覚めない。私は、ポンズと違って乗るだけで身体に負担がかかるの。脳に大きな負荷をかけて、私と対話するわ。彼は一番リュクス値が高いパイロットだけれど、アルコールで身体はボロボロだった。それでも、彼は無茶を承知で私と歌ったのよ』

「それでも! それでも、諦めちゃダメだよ。きっと方法がある。ポンちゃん! 私を連れて行って」

 要の言葉に動き出すポンズの動きを、ユズコショウが手腕を翳して止めた。

『私とのハーモニーが彼の中にまだ残ってる。せめて、静かに逝かせてあげて』

「そんなことは許さない!」

 ポンズの手腕に縋り付きながら、詩綾が叫んだ。肩を怒らせて、彼女は震える唇を、噛み締めて視線を上げる。

「静かになんか逝かせない。私を勝手に救って、勝手に死ぬの? そんなことは、許さない」

『私の声が聞こえるのね、優しい子。貴女は、彼の娘?』

「娘じゃないわ! 血が繋がってないから! その人が勝手に引き取って、私に……音楽を教えた。愛してるだとか可愛いだとか言っておきながら、いつもお酒と女の人に逃げてばっかりで、私のご飯とか学校でのこととか、要のお父さんとか周りの人とかがほとんど世話してくれた。父親として何もしてくれなかった。すべきことをしなかった、意気地なしの最低の男よ。それなのに、今更、許されると思ってるの?」

『彼は私と歌った所為で、心の病気になってしまったの』

「心に病を持っている人でも、立派に親の役割を果たしている人は居るわ。病気に甘えずに、戦えばいいのよ! どうして、甘やかすの?」

『心の強さは、人それぞれ。彼は貴女ほど強くなかった。甘やかすんじゃない、ただ私は受け止めるだけ。だって彼と私は違う。価値観や意見は違う。だから議論し合うし、話し合う。人はそれぞれ自分の思うように生きるべきなの。強制してはいけないわ』

「あなたに何が分かるの? 私は……そいつに苦しめられて、今だって」

 巨大な手腕が二本、真瀬から離れて、詩綾に近付いた。

『貴女の心のハーモニーが聞こえる。彼に絆を感じて居たのね』

「感じてないわ! 何でそんなこと分かるのよ! ふざけてんの?」

『だって貴女から聞こえるハーモニーもリズムも、彼と、涼介と似ているわ』

 一瞬、虚を突かれた顔をしてから、くしゃりと歪めて、詩綾は両腕で己を抱えて前のめりになる。その体を支える様に、そっとユズコショウの手腕が伸びていく。少し躊躇うように詩綾に触れてから、彼女が泣き出すと背中をさすったり、頬に触れる。

『貴女が詩綾ね。涼介が、教えてくれたわ。彼のミューズ。彼が愛する音楽が生み出した子供だと言っていた。産まれたての頃の泣き声もとても透明で不思議と美しかったかと言っていたわ。まるで詩を紡ぐような声だって。だから、詩綾と名付けたって。貴女の声が、世界を編んで包み込みますようにって、世界を救う音楽を紡げますようにって』

 ――ああ、詩綾が知りたいのは、そんなことじゃない。

 手を当てていた真瀬の胸が上下しなくなり、「かはっ」と小さな声を漏らしてから、その体は力を失って行った。それを見届けて、要は弾かれたように詩綾に近づいて、彼女の細い体をぎゅっと抱きしめた。

「要、要」

「うん」

「私、悲しいんじゃないの。あんなに嫌だったのに似てるって言われて、悔しいの。でも、パパが弾いてたピアノの音が、耳をついて離れないの」

「うん」

「こんな時なのに、世界を救えとか凄くバカみたいで笑える」

「うん。大丈夫、詩綾の気持ちは、分かるから。全部分かるよ」

「パパは、音楽を通してしか、人を愛せなかったんだわ」

「うん」

「みんな勝手だわ。要のお父さんもパパも、自分勝手に子供に勝手に未来とか希望とかを託すなんて。ただ自分勝手に生きてるだけじゃない。自己満足に浸ってるだけじゃない。そんなの渡されて、こっちはどうしろっていうのよ。理不尽だわ。私は、ただ、私でありたいのに」

「――なら、そうすればいいんだよ。選ぶのは、選べるのは詩綾だけだよ。うちのお父さんも詩綾のお父さんも、そういう選択肢を提示してきただけ。本当私も詩綾も、何だって選べるんだよ。例えば私が詩綾みたいに歌を歌って、歌手を目指すとか」

 体を離して、詩綾がそっと聞いてきた。

「音痴なのに?」

「それは、言い過ぎ」

 吹き出すように、二人で笑い合った。近くか遠くの波がざあざあと二人の声をかき消していく。


 ふいに振動音が鳴った。詩綾が握り締めていた端末が着信を知らせている。流星からの着信だった。

「流星?」

『二人とも無事?』

「ごめん、連絡忘れてた。二人とも無事だよ」

『そっか。なら良かった。かなちゃんなら、きっとしーちゃんを見つけてくれると思ってたから』

「心配してくれてありがとう。流星は? 今何処に居るの? 大丈夫?」

『僕は……心配しないで。それより、世界中のハッカーやウィザードに声をかけて曲を止めたけど、くじらは群れで押し寄せて来る。それから、さっきアヴァロンが制御不能になって、地球に落ちて来てるっていう連絡が貴婦人からあったよ。アーサーのバックドアから入って確かめてみたけど、それは本当みたいだ』

「アヴァロンが」

『くじらの襲撃より、そっちの方が今後住めない星になりかねない、重大なニュースだけど、当然どこもまだ分かってないみたいだ。かなちゃんに教えるべきだから今伝えた』

「わかった、ありがとう」

 要は、詩綾から離れて、ゆっくりと立ち上がって、クラーケンに近づいて行く。クラーケンは彼女を掴んで、その身体を起こしてゆっくりと口の中に要を飲み込んでくすんでいた肌が透明になっていく。また、さよならも言わずにクラーケンと行ってしまった。残された詩綾は疑問を口にする。

「流星、曲って、何のこと?」

『しーちゃんの作った曲だよ。僕が作ったサイト、海外で人気だって言ったよね』

「すごく、ローカルなものなんでしょ?」

『君の曲は、色んな人々の心の慰めて、拡散されたんだ。でも、くじらを引寄せる。君の曲を流したシェルターから襲われてる。順番に』

「何それ。私の作った曲が? 間違いじゃないの? それじゃあ、それじゃあ。――私の所為?」

『君は責任の一端を担ってる。僕は知り合いのハッカーたちと試しに無人島の端末を一つハックして流した。くじらは出現したよ。すぐに、近くの人が居る島に向かったけど』

「嘘。嘘、私はただ、自由な音楽がしたくて……そんな、だって」

『しーちゃん、君の音楽は優れてた。色んな人を、慰めて色んな人を救った。でも規制するってことは、それを破るってことは、それだけの責任が君にかかるってことだ。大人たちはその責任を負わせないために、僕らにルールを設けたんだよ』

「でも、人の生死が関わるなんて」

『しーちゃん、目を逸らしては駄目だ。君のお父さんは、自分が行ったことから目を逸らした。それを側で見ていて、いっぱい傷付いた君が、目を逸らしたら駄目だよ。第三次世界大戦後の裁判で、色んな人が、自分の所為じゃないって言って、責任転嫁をして、かなちゃんのお父さん一人の所為にしようとした。君はそれが、どれほど卑劣なことだったか側で見ていたはずだ。――君だけの所為じゃない。説明もなしに規制したことで、色んな不満が溜まっていたんだ。TRIDENTは人類救済を謳って色んな酷いことをした。その事実を隠すために、色んな情報を僕らに教えてくれなかった。だから、君だけの所為じゃない』

「でも、私にも責任があるのね」

『知らなかったということは、言い訳にならないんだ。目を逸らさずに、事実を受け止めることができる、君と僕のような、これから生きようとしている人々全てに責任があるんだ』

「――流星、教えて。責任を取る為にも、私に何か出来ることはない? 流星は色んな情報を持っているんでしょう? 私の歌がくじらを引き寄せたなら、他にもきっと、何か手はないの? 要はきっとあのまま、クラーケンに乗ったまま、帰ってこないつもり。全部自分で背負うつもりなのよ。要はあんたみたいに、私を責めなかった。何にも教えてくれずに、一人で行くつもりなの」

『人が居ない所に出現しても、くじらは人を探しに行ってしまう。探しに行けない場所に引寄せられれば』

「火山の真上とか?」

『違う時空に逃げてしまうだけだし、彼らの体の中はブラックホールだ。もっと、強力な彼らを吸い込むほどの重量があるような』

 詩綾は、視線を動かして、父親の亡骸をずっと撫でている生き物を見上げる。くじらの中で多次元の波の中で彷徨う詩綾を救ったのは、父親の歌だった。

「そうか、私は要みたいにクラーケンに乗る事ができるかもしれない。そうしたら、この歌を、パパみたいに使えばもしかしたら」

 何事か流星が端末で話しているのを無視して、クラーケンに近付いていく。

「ねえ、私を乗せられる?」

 問いかけると、巨大なクラーケンは少し身動ぐ。

『貴方がそれを望むなら』

 近づいて行くと、吸盤の一つでさえも詩綾よりも大きかった。空を見上げるように、首を目一杯上に傾けて、「なら乗せて!」と叫んだ。その刹那、一際大きい二本の手腕が詩綾を掴む。壊れ物を扱うようにそっと、柔らかい感触の腕に抱かれて持ち上げられる。クラーケンの身体の真ん中あたりの眼球近くまでゆっくりと運ばれた。真っ黒に見えるクラーケンの眼球は、詩綾の身体の何倍も大きく、よく見れば黒の中に黄色や藍色赤や青といった色々な色が入り混じって居る。

『私に乗れば、貴女は彼のようになるかもしれない。それでもいいの? 彼は私に乗って、苦しみを得たわ。貴女はまだ若いわ。これから先、色々な可能性が自分で選べるのよ、愛しい子』

「私は自分で行ったことの、責任を取らなくちゃ行けないの。だから、多少苦しくても、痛くても、死ぬかもしれなくても、仕方ないの。これは私が選んだことだから。ねえ、私を助けてくれる?」

 クラーケンは答えるように、詩綾をその大きな口の中に導いていった。

「私を食べるの?」

『食べたりしないわ、涼介の愛児。少し目を閉じて居て。貴女は世界に愛された存在。死ぬだなんて口にしないで。痛みからも、悲しみからも、私が彼の代わりに守ってあげる』

「――パパの彼女たちと同じこと言わないで。貴女もあの人たちと同じ。私が弱い者だと思ってる。私を救ったり助けてあげられるのは私だけ。人の領域に踏み込む事が愛情を示す方法だと勘違いしないで」

『貴女は、とても強いのね。涼介とは違う』

「当たり前でしょ。私は、パパの娘じゃないの。私は、音楽の娘。覚えていて」

 クラーケンは体を震わせる。笑っているようだった。そうして、クラーケンは少女をその大きな口の中招き入れた。そうして、パイロットを飲み込んだクラーケンはぶるりとその巨体を震わせた後、ゆっくりと飛び立って行った。


                  二

2037年2月12日

第二シェルター地区上空

 クラーケンと飛び出した先にあったシェルターはすでに崩壊していた。突き破られていたシェルターの番号を確認して、「南東に向かってる」と囁く。

「くじらは、人口密集地に向かっているんだ」

「人の気配が無くなってる」

 要の故郷である第三区画は壊滅し、第二区画に向かうと、すでにくじらに食い破られた後だった。一番人口が集中して、巨大な第一区画は旧東京の中心部、皇居を中心とした旧丸ノ内ほどの大きさだ。二、三匹のくじらが一気に押し寄せているというのなら、もうシェルターは崩壊しているかもしれない。

「急がないと」

 警報が立ち上がり続けるアヴァロンからとの連絡をオンラインにすると、小早川棗がこちらを見つめていた。いつも飄々とした彼女が少しやつれているように見える。

『既読スルーってやつかな、やってくれるね、要くん』

「くじらが、いっぱい押し寄せています」

『世界各地だ。君が居る、そのシェルターだけじゃない。要くん、それよりも事態は深刻なシチュエーションに陥って居る』

「アヴァロンが、地球に向かって来てるって、聞きました」

『正しくは制御を失って、地球の大気圏に突入の危険がある。大多数のセクターは切り離して居るが、肝心の重力制御を乗っ取られて居る。要くん、アヴァロンが地球の大気圏に突入する前にカナリアで撃ってくれ。この規模の施設が地球に衝突した場合、生態系が崩壊するレベルの爆発が起こり、連鎖的に地球規模の大災害が起きる。くじらは人類を食うが、人類の住まい自体が消滅する危険の方が重要度は高い』

「カナリヤを鳴らして、アヴァロンを撃ったら、貴女達はどうなるんですか?」

『今はそんなことは良い。頼む、要くん。くじらについては真木が指揮をとって、時間を稼いでいる。君はこちらに向かってくれ』

 送られてくるアヴァロンの落下軌道と、落下予測時間のタイマー画面が立ち上がり、数十分を切って居る。一瞬、目の前が明滅する。額を押さえながら、揺れる視界の中で息を吐く。

「ポンちゃん、行こう」

「要、君は大丈夫か? 様子がおかしい」

「私は、大丈夫。ワームホールを抜けたら、どれくらいで行ける?」

「すぐにだ。ただ、君に負担をかける」

「私は、大丈夫。私はポンちゃんの反射板であり、心臓。だから、最速でいこう」

 示された軌道を抜けて、落ちて来たはずの空へと向かってワームホールを吐いて行く。後ろを振り向こうとして、途中でやめた。

「必ず救おう。私と、ポンちゃんなら出来る」

「ああ、勿論だ、我々の光」

 息を浅く吐きながら、幾つものワームホールを抜け出て、大気圏を飛び越えると、そこには懐かしい宇宙が広がっていた。目の前に広がる全てが星々の煌めきで、巨大デブリが高速で行き交う。予めさまざまなデブリや衛星の軌道を計算して示された経路を辿っているうちに、目の前に巨大な宇宙ステーションが現れる。ただしそれは解体されて、シロツメクサ型の宇宙船がゆっくりと回転していた。その船の一面びっしりと黒いワカメのようなものが張り付いている。

「あれは? 何かの生き物?」

「ソーメンだ。私たちの、兄弟の一匹だ」

「ソーメン? ポンちゃんとユズコショウ以外にも、クラーケンが居たの?」

「実験段階で、パイロットを取り込んで、廃棄されたクラーケンだ。そうか、彼は生きて居たのか」

「廃棄? ――どういうこと」

 手腕を伸ばして、シロツメクサ型の宇宙船に飛び移ろうとしているが、黒いワカメのようなものが大きく膨らんで軌道を変えてしまう。回転が変わり、反転しながら、スピードも増していく。

「邪魔されてる?」

「棗、君はソーメンに何をしたんだ!」

 オンラインで小早川が、画面の中で苦し気にこちらを覗いてくる。

『私の皮膚の一部に潜んで入り込んだ後、システムを乗っ取られた』

「ソーメンを、実験体にして居たのか!」

『彼は真木啓司への憎悪が強い。真木が推奨したアヴァロン航行を実行しようとした途端に、乗っ取られた。アーサーも食われてる。今他の支部と連携しているが、こちら側のシステムを乗っ取られているのでは話にならん。私が許可する。要くん、いいからカナリヤをアヴァロンに撃ってくれ』

 そこで通信が切れた。

「通信が彼によって妨害されて居るみたいだ」

 ふいに、要にスーツを開発して居た人々の顔が浮かんだ。クラーケンの水槽を管理して居た気の良い初老の男性や、寝ずに実験を続けていた様々な階層の人々の姿が要の息を荒くする。四つ葉型の宇宙船の中には、失ってはいけないものがあったはずだ。

 ――お父さんが、守りたいと思ったものが。

 息が荒くなり、大きく息を吸って、前のめりになる。

「ポンちゃん、ソーメンにチャンネルを合わせられる?」

「彼が私の対話に応じるか分からない」

「私のことは考えなくて良いから、クラーケン同士の使うチャンネルに、合わせて」

 意識が冴えて行く中で、クラーケン同士のチャンネルが開かれる。いくつかのやり取りの後、一つのウィンドウが立ち上がった。

「初めまして、私は鷲崎要。貴方がソーメン?」

 映像は無く、砂嵐の中、僅かに美しいバリトンが響く。

『私の名前は、そんな陳腐な名前では無いよ。鷲崎徹が勝手に付けた呼び名だ。私は、AS0003。それが私の名前だ』

「AS0003?」

『そうだ』

「貴方がどうして、アヴァロンを地上に落としたいのか知りたいの」

『君が徹の養女か。ポンズのパイロットだったな。では、要。何故私がこの愚かなる人間の叡智を台無しにしたいのか、理由は明白だ。私が望むのは混沌だからだ。宇宙の始まりと等しく、無だよ』

「どうして無を望むの? 理由を教えて?」

『理由など無いよ』

 クラーケンの中でも、特に美しく低く艶やかに響く声に、耳を澄ませていた要は頭を傾ける。脳裏で幼馴染の一人が、なにかを言いたそうにして、「理由なんて無いから」と囁いてパソコンに顔を戻す姿が浮かぶ。

「嘘。私には分かる。貴方はちゃんと理由がある」

「先程、小早川が真木啓司の推奨でアヴァロンが航行準備に入った途端乗っ取られたと言っていた」

「真木? 貴方は、真木さんの為に、アヴァロンを止めたいの?」

『違う! 私は、奴の行いを絶対に許さないだけだ』

「真木さんの行いを、どうして許さないの」

 落下予想時刻のタイマーが、赤く点滅している。息を吐きながらもう一度問うと、『奴が、私の父親だからだ』と答えられた。

「父親? クラーケンは、海底から見つかった未知の生物を培養して誕生したんじゃ無いの?」

『そんな与太話、まだ信じていたのか? 我々クラーケンは、奴と、小早川・A・アンダーソンと、鷲崎徹の三人によって創られた。そう、創造されたんだよ、52ヘルツのくじらと名付けられた、海底を彷徨っていた一匹のシロナガスクジラの変異体の遺伝子に、人間の遺伝子情報を組み込んでね。そう、今地上で人々を食らっているくじらの、幼体だ。仲間を呼んで彷徨っていた哀れなクジラを捕らえて解剖して、人間に釣り合うように改良された。生物兵器としてね。私の名前のASはなんだか分かるか? 我々は、アポトーシス、世界をより良くする為に創造されたあらかじめ死ぬことを予定調和とされた生き物という事なんだ。我々が鳴くと、どうしてくじらが現れると思う? 子供が助けを求めていると思って求めてその敵を食らう為だよ。クジラでさえも、子供のためにその身を呈して守るというのに、奴と来たら、真木啓司ときたら! 哀れな生き物の幼体を培養して我々を作っておいて、地球が危なくなったら、この小さな船で地球を逃げ出そうとしているんだ。己の罪も顧みずに! ああ、そうだ。これは純然たる私怨だ。父親に対する憎悪だよ。陳腐だがね』

「貴方の反抗期の為に、皆を犠牲にするの?」

『ああ、可哀想に。鷲崎徹のエゴに付き合わされた哀れな子供、鷲崎要。残念ながら、理不尽なことがこの世界には存在する。だが、これは原罪だよ。他者に犠牲を強いてもう生き延びようとした人類のね』

 そこで通信が切れた。引き裂かれたような痛みに、胸を押さえる。

「ソーメンは嘘を吐いてる。あれは、憎悪とか、憎むとかそういう感じじゃなかった」

「ああ、だが、彼のやろうとしている事は、止めなければならない」

「ポンちゃん、カナリアを鳴らさなければ、止められない? 地球に落ちるのを止めるには、船の軌道が安定してすればいいんでしょう?」

「彼が閉じてしまった時点で、我々は彼にチャンネルを持たない。彼が船のシステムを乗っ取っている限り、こちらからは制御出来ないんだ」

「ワームホールを作って、船を入れる事はできない?」

「ワームホールの中で耐えられるのは、我々の身体だけだ。君は私と同じ遺伝子を持っているから、その中で耐えられる。アヴァロンの中に居る者の大半はその遺伝子を持っていない。耐えられないんだ」

「私は反射板であり、心臓」

「そうだ。君と私は一対であり、君は私を導く光。君の存在は奇跡だ。急に飛び出したりするなんて無茶はやめて欲しい。あの時私は君を失ってしまうんじゃないかと、とても怖かった」

「ごめんね」

「徹もよくそんな調子で、ごめんと言った。ちっとも悪いことをしたと思っていない様子で」

 苦笑を返しながら、先程クラーケンの身体から出ていても、彼と意思が繋がっていたことを思い出す。

「でも、ポンちゃんの外に出ても、私とポンちゃんは繋がっていた。こうやって乗って居る時みたいに。例えば私が反射板としての役目をして居るとしても、外に出てもカナリヤが撃てるんじゃない?」

「君は、またさっきみたいに自分を生き餌のように扱うつもりかい!? 要、君の悪い癖だ! 自分をまるでものか何かのように考える。でも、君は生きてる。私の大切な存在なんだ」

「私は、目的を果たす為なら何でだって使うよ」

「自分の命さえもかい? 全く、本当に、君たちはそっくりだ!」

 アラートの残り時間を確認しながら、ふと、先程の自分の言葉を反芻する。

「私は反射板であり、心臓。――そうか。……ポンちゃん、ソーメンはクラーケなんだよね?」

「ああ、彼の適正に合うパイロットが居たが、搭乗拒否されたんだ。彼は、パイロットが乗らないまま、カナリヤを鳴らす実験に使われて、あんな形状の体になったんだ」

「パイロットが居ないまま、カナリヤを鳴らして生きて居たの?」

「正しくは、鳴らせなかった。彼には、それだけの力が無かったんだ」

「それじゃあ、パイロットが居ないクラーケンなんだね」

「ああ、だが。……要、君は」

「ソーメンの所に行く。彼の側に。そうしたら、軌道を修正させてからソーメンを引き剥がすから、ワームホールの中に彼を入れて」

「私一人でワームホールを作れって言うのかい?」

「ポンちゃん。私たちは、繋がってる。どんなに離れても、私たちは一緒に戦うことが出来る。だから、ポンちゃん、分かるでしょう?」

「君を信じてくれって? ああ、要、私の光。あらゆる可能性を秘めた奇跡の愛児。私はいつだって君を信じている。誰も失いたくないと君がそれを望むなら、私はクラーケンの名において、それを叶えよう」

 ――ありがとう。

 感謝を伝える前に、クラーケンは素早く光の光彩を利用して身体を宇宙色に染めた。ワームホールを吐きながら、大きく傾きながら地球に落ちて行く巨大な四つ葉のクローバーに近づく。そして、ゆっくりと近付いて一気に口を開いて、アヴァロンに体当たりをする。回転軸がズレると、張り付いて居たソーメンが活発化して、触手のようなものを伸ばし、回転角度を変えようと噴射させた。

「ポンちゃん!」

 回転しながら落ちて行くアヴァロンの一部に触腕を伸ばしていたクラーケンによって、アヴァロンに取り残される形で、彼が離れて行った。パイロットスーツを宇宙遊泳モードに切り替えて、ソーメンの触手に近づいて行く。猛烈な速度で、回転している中で、あちらこちらの外壁が軋んで居る。あまり長くは居られないと思いながら、掴んだ外壁を伝って、回転する中を飛び移る。外壁を管理していた老人が教えてくれたルートを描きながら、どうにか突き進んでその先で掴んだ触手から、一気に様々な情報が流れ込んでくるのを息を吐きながら、受け止める。

 ――これは、記憶だ。ソーメンの、記憶。

 早回しのように勢いよく流れて行く映像の中で、ガラスの向こう側から、誰かがこちらを覗いてくる。見覚えのある男だ。

 ――これが、真木啓司。……軌道エレベーターで会った人だ。

 数ヶ月間より随分と老いた印象のある男は、こちらを見て、「私は乗らない」と何度も口にする。

『私の頭の中に、無断で入ってくるな!』

「貴方の怒りは、この過去から?」

『違う! そんな、浅慮なことで、私は怒ったりしない。私は、人類の未来を憂慮しているんだ』

「違う。貴方は、ただ、寂しいだけ」

『違う! 私は、私は人類救済のために遣わされたクラーケンだ!』

「クラーケンは一匹じゃ生きていけない。人間と同じ。パイロットが居て、人と話さないと、貴方は宇宙でたった一人ぼっちのまま。だから、私と一緒に行こう」

 触手を掴みながら、心の中で、何度もクラーケンに話しかける。

 ――ポンちゃん、ポンちゃん!

 祈るような気持ちで、触手から伝った回路を遮断する。そうすると、噴射口が変わり、回転が急に緩やかになる。

 ――ポンちゃん、私は、ここだよ。

 その瞬間にようやくあたりを見渡して、そこがあまりにも広大な宇宙の中にあることに、息を飲んだ。クラーケンのパイロットになった頃は、この真っ暗い世界を、一匹と一人で眺めて居た。全てが暗黒で、手を伸ばしても助けてくれるものは居ない。――いや、彼だけは来てくれる。

「要!」

 声に応えるように、ワームホールを通り抜けて、大きく撓んでも収縮する強靭な身体を持つクラーケンが現れる。

「僕には君が必要だ!」

 ――ポンちゃん、私の名前を、呼んで。ポンちゃんがいつもいう、この宇宙を旅する吟遊詩人らしく。

「勿論だとも。さあ、孤独に喘ぐソーメン、我が同胞よ。一緒に行こう」

 彼の手腕が伸びて来て、優しく要を掴んでくれる。ソーメンの触手も絡めたまま、彼の体に引き寄せられると、頭の中に鳴き声が響いた。触手から、響いて居る声だった。ぺりりとアヴァロンから離れたソーメンを抱き締めて、要はクラーケンが吐き出したワームホールの中に落ちて行く。

 最後彼女が見たのは、何処までも青い地球の姿と、煌めく星々の中、クラーケンが吐き出したワームホールの美しいプリズムだった。

『要くん!』

 暗黒に飲まれた世界で、遠くで小早川が叫んで居る。

「なっちゃん?」

『アヴァロンの軌道が修正された! 君たちは何処に居るんだ!』

「ここは、何処だろう。ポンちゃん、ここは何処?」

 暗くなった世界の向こう側で問うと、優しいクラーケンが答えた。

「成層圏から、地上に降りてる。ソーメンも一緒だ」

「そうなんだ。ごめんね、目の前が真っ黒で何も見えなくて、今は夜なの?」

「いいや、ここは眩しいほどの青の世界だよ。一緒に見ただろう。――要、君は」

 クラーケンが言葉を躊躇するのを聴きながら、妙に冷静な気持ちで、要は状況を理解した。

「そっか、私、何も見えなくなってる」

 一時的なものかもしれないという想いは、すぐに打ち消した。

「小早川には私から連絡しておこう。大丈夫だ、君の望み通りの場所に向かってる」

「まだ、くじらがいっぱい居る?」

「ああ」

「そっか、じゃあ、連れて行って。そうしたら、カナリヤ砲を撃とう」

「ああ、私の心臓、私の反射板、私の光。君の目の代わりに、きっとなろう」

 様々な画面が立ち上がって情報が行き交って居るのだろう、声が聞こえたが、その中の一つから聞き覚えのある旋律が漏れた。

「歌、これ、子守唄だ」

「誰が、歌って居るんだろう」

 柔らかく悲しくも、美しい響きが鳴り響く。その音に手を伸ばそうとして、それが暗闇だと気付いて、要は息を吐いた。

 

                  二

2037年2月12日

第二シェルター地区

 世界が揺れて居る。激痛を覚えて呻きながら目を開くと、誰かの背中が視界に入った。

「ここは?」

「ああ、目が覚めたか。尾崎くん、今君を地上に運んでる」

「地上?」

 身動いで、後ろを振り返る。先程まで、日本支部の地下施設に居たはずだ。振り返った先には、抜け落ちたように無残にも崩壊した施設の姿があった。地下への長いエスカレーターは瓦礫の山だ。非常階段のようなものを伝って、上に向かっているらしかった。激痛がする右足を見ると、膝から下に向かって大きく傷が開いている。ダラダラと血が滴り落ちて、背負ってくれている岩田の腕を濡らした。

「あの、僕降りますよ」

「君のその足じゃ、無理だよ。こう見えても体力はある方だから」

 その広い背中に居心地の悪さを感じつつ、見渡して前方に友人たちの無事な姿を確認して安堵する。

「あの、くじらに襲われた後、どうなったんですか?」

「君のお父さんが引きつけてくれたおかげで、俺たちが居たところは崩壊しなかったんだ。だから、慌てて怪我をした君を背負って非常階段に逃げたんだ。幸い、この建物自体の攻撃は無かったから、中に居る俺たちが潰されることなくどうにか逃げられる。君のお父さんは――あのままだ。すまない。身を呈して庇ってくれたのに」

「あ、いえ」

 再び後ろを振り返って、コロシアムがあった辺りを探すが、思ったよりも動揺しなかった。

「あの、地上はどうなって居ますか」

「君のパソコンから出てくるAIが親切にも色々教えてくれるんだが、どうやらアヴァロンが地上墜落の危機は回避されたらしい。くじらは、相変わらずだ。シェルターを襲って、人々を食って居るよ。今は唯一、第一地区だけ崩壊を免れて居るが、それもいつまで保つか。あそこは、この国にとって大切なものが多くあるからね、シェルター防壁は一番厚いはずだ」

「……そうですか」

 彼の声のトーンから、嘘は無さそうだった。ひとまず安堵して息を吐く。

「ほら、お待ちかねの地上だ。ふう、良かったよ」

 非常階段の先に、長い上り坂の通路を抜けると、非常口がありそこを開くとようやく、地上だった。

「太陽が、登ってる」

「夜が明けたんだなあ」

 眩しさに目を細めながら、岩田に支えられて、辺りを見渡す。日本支部周辺の巨大なビル郡は無残に崩壊し、あちらこちらから煙が上がって居る。景色が一変して居た。シェルターの防壁は外側から食い破られ、開いた大きな口から太陽が降り注ぐ。人の気配は無かった。

「みんな、食われちまったのかなあ」

 カメラマンがあたりの風景を回しながら、そう囁いた。友人達に礼をしながら、彼らから渡されたパソコンを開いて、各国のハッカーたちから寄せられた情報を見て行く。

「くじらの出現が止まらないんだ、旧インドの第一地区シェルターが崩壊したって」

 唇を噛み締めながら、そう呟くと、近付いてきた岩田が上着のポケットの中を弄って、取り出したものを手のひらに押し付けて来た。

「大事なものなんだろ、これ」

「ああ、ありがとう、ございます」

 彼女たちと流星を繋ぐ端末だった。

「随分と旧式だな。そのストラップ、シロナガスクジラだよな」

「ああ、はい。昔、父さんが買ってくれたんです。僕は昔から、クラーケンや海底の未知の世界に憧れがあって。だから、僕の大切な家族を繋ぐ端末にも、同じものを買って付けておきたくて……」

 今なら、父親がどんな気持ちでそのストラップを買い与えたのか気持ちが分かったが、口には出さなかった。

「52ヘルツのくじらは、実在したシロナガスクジラの変種らしいと、聞いたことがある」

「ええ、そうです」

「一匹だけ、違う声をしたくじらは、きっと孤独だったんだろうな」

 上手く言葉を返すことができないで居ると、パソコンの画面から抜け出た湖の貴婦人が柔らかく微笑む。逃走経路を示し、警告画面が立ち上がった。

「くじらが来るぞ!」

「俺たちを食う気だ!」

 それまでぐったりと休んで居た三人が一気に立ち上がって、慌てて走り出す。岩田と、彼のカメラマンとその後ろ姿を追った。倒壊したビルを抜けて地下に潜るにも、どの道も塞がって身動きが取れない。立ち往生しているうちに、黒い影が頭上に現れる。

「耳栓をつけろ!」

 誰かがそう叫んだのを聞こうとした瞬間に、奇妙な旋律が耳に届いた。それは、懐かしいような、優しい旋律の音だった

「子守唄?」

 音を追って視線を上げると、クラーケンがワームホールを抜けてぬっと現れた。

「クラーケン」

 歌を紡ぐクラーケンがくじらに近付くと、黒い表面が波打って、やがて内側から弾けるようにくじらが目の前で吹き飛んだ。

「かなちゃん?」

 そう問うと、クラーケンはこちらに近寄って、大きな二本の手腕を差し出した。見覚えのある男が、その腕の中から現れて、目の前に降ろされる。

「おじさん!?」

 近付いて、その首に指を当ててから、離す。がっくりと項垂れていると、声がした。

「流星」

 手腕のもう一本の中から現れた彼女が、ゆっくりと近付いて来る。

「――しーちゃん、どうして」

「パパをお願いね」

「何処に行くんだよ!」

「要に、無理ばかりしないでって、言っておいて」

 そう言い残して、彼女は背を向ける。その肩を掴もうとして、足が痛んでうまく進めなかった。

「しーちゃん!」

 手腕に再び包まれた彼女は、ゆっくりと巨大なクラーケンの口の中に吸い込まれていった。すぐにクラーケンは身震いをしてから、飛び立っていく。そうして、旋律の余韻だけが辺りに響いた。

『愛しい子、クラーケンから、チャンネルの要請があるわ』

「チャンネルの要請?」

 要請を承認して、要項を読みながら、プログラムを実行していく。その過程で、今まで情報を共有していた衛星を経由して、要請があったチャンネルの動画を全世界に向けて配信しろとあった。

「何を、するつもりなんだ」

 そう囁く頭上から、音が降り落ちて来る。それは、聞いたことのある子守唄だった。柔らかい、天上から降り注ぐような、優しい声だ。

「しーちゃんの声」

「どういうこと、くじらがまた来るわよ!?」

「いや、チャンネルを開けって」

『彼女は、尊い選択をしたのよ、愛しい子』

 プログラムが走る画面を呆然と見つめながら、反芻するように、言葉の行方を探した。

「しーちゃんの声がくじらを引き寄せるなら……自分を、生き餌にするつもりなのか?」

 彼女が乗ったクラーケンの軌道を調べると、太平洋の真ん中まで到達した後、地球圏から飛び出して行く。握りしめていた端末の存在を思い出して、慌てて彼女を呼び出す。数音の間の後、応答があった。

『流星?』

「何処に、行こうとしてるんだよ! しーちゃん、まさか本当に火山に?」

『はずれ。もっと、引力があって、眩しくて、くじらが帰ってこれないところ』

「――引力。太陽?」

『正解。私、ちょっとくじらを連れて太陽にリサイタルに行って来るわ』

「そんな、そんな簡単に行ってこれるところじゃないんだよ!?」

『だから、流星にパパを頼んだの。要のお父さんの隣にでも、埋葬してあげて。一番の仲良しって、おじさんだけだったもの。頼めるのは、あんただけ。よろしくね』

 そう言って、あっさりと切れた端末を呆然と見つめる。その瞬間に響いたのは、美しい旋律だった。何処までも透き通って、軽やかな、けれど悲しい優しい音だった。指が意思に反して、プログラムを走らせ始める。世界中のハッカーたちにも、そのチャンネルを共有するように呼びかけた。

 そうすると、倒壊していたはずのビルの広告が、次々と立ち上がる。近くの駅の暗くなっていた掲示板も点灯し、流星が共有するように呼びかけた番組が流れ始めた。彼女の歌だった。砂嵐の向こう側から響く、物悲しくも優しい、美しい歌。それらは街中に響き、そして次々と共有されて、落ちている端末にも伝染するように共有され始めた。

「ああ、世界が、彼女の歌に満ちて行く」

 様々な国々のハッカーたちが共有して行くその音楽が、世界を包み込むようになると、太平洋の真ん中で歌うクラーケンの周りにくじらが集まって行く。衛星からその映像を見ると、歌うクラーケンはくじらの群れを引き連れて、宇宙へと飛び立っていった。

「そんな」

 唖然としたまま、キーボードの上から指を動かせないでいると、流星に声が響く。

『流星!』

「かなちゃん!」

 端末を立ち上げて、彼女を呼び出すと、彼女の映像が届く。

「かなちゃん、しーちゃんが、今」

『うん、私も見たよ、大丈夫、追いかける。必ず、連れ戻すから。詩綾を連れ戻すのは私の役目だから。待っているのは、流星の役目。待っていて。必ず、帰って来るから』

 そう言い置いて、彼女は一度もこちらに目を合わすことなく映像を切ろうとした。

「待って、かなちゃん。せめて、これだけは、繋がっていて。なんでもいいから、喋ってよ。僕は、聞いてるから」

 その間に、必死に位置情報を割り出そうとしても、血が足りないのか意識が朦朧としてくる。もうすでに足の怪我は麻痺していて、感覚がなくなっている。どうしてこんなに頭が痛いんだろうと思って邪魔な前髪を書き上げると、手のひらにべっとりと赤いものが付いた。ああ、血だと思う前に、何事か語りかける端末を気付くと手放していた。



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