第5話 父親たちの戦争

2037年2月12日

旧ハワイ諸島上空より日本の第二地区へと移動中

 父親は、いつも酔っ払っていた。詩綾の記憶の一番幼い頃から今まで、彼が正気でいることは少ない。クラーケンに乗った後遺症だと大人たちは言ったが、幼い詩綾にとって、彼はいつ暴れだすかわからない恐ろしい生き物だった。けれども極たまに、世界で一番美しい音を奏でる美しい男になる。

「音には色が付いていて、美しいメロディは光るんだ」

 艶やかな低音がそう囁いて、その喉から漏れる旋律は物悲しく、その指が導く世界観は壮大で、詩綾の耳に鮮烈に響いた。父との共通点を探して、それの少なさに気づく頃には、彼が実の父親ではないと気づくようになっていた。酒浸りで、しょっちゅう知らない女性を連れて、家のリビングで呻きながら倒れている他人の男が、汚くておぞましくて大嫌いだった。

 ――それでも。

 極たまに現れる綺麗な音を奏でる男は、幼馴染の父親と同じ眼差しをしていた。

『詩綾!』

 意識の下から、幼馴染が呼ぶ。どうにもならないことが起きると、詩綾の世界には音が溢れ出す。まるで群れか何かのように、鮮やかな音たちが襲いかかってくる。耳を塞いでも頭上から降り注いでくるそれを振り払うように、いつも走って逃げていた。幼馴染は、そんな詩綾を追いかけてくれる。腕を掴んで、「そっちは駄目だよ」と言う。もう一人の幼馴染は、こうすれば怖くないよと、音を整理する方法を教えてくれた。様々な道具を使って旋律を制御すると、それは素晴らしい調べに変わる。それは、自分の言葉だと、詩綾は感じていた。

 ――要、流星。私ね。

 その先に、どう言おうとしたのかは分からない。身体が揺れている。胃の中に入っているチーズバーガーとグミが出てしまう。

『詩綾!』

 不意に、意識は覚醒した。瞼を持ち上げてみると、そこは果てしのない暗闇で、立っているのに逆さまで、空中に足が張り付いて蝙蝠の気分を味わった。手を何かに伸ばそうとして、暗闇がふいに開けて、驚いた。

 眼下に、故郷が広がっている。旧埼玉新都心第3シェルター地区、第三次世界大戦で活躍した軍人恩給を受けた人々が中心に当選した人類の未来都市。だが、目の前に広がるシェルター地区は、いつも目にしている景色とは違い、自然物の割合が多いように感じる。人工的に作られた街の清潔さはないが、剥き出しの土と、緑の気配がする。

「何これ」

 つい先程まで居た駅がまだ建設途中だった。何故か手に持っている携帯端末で駅の建設日時を検索する。

「2021年? 私が産まれる前だ」

 詩綾が生まれるちょうど1年前の光景を見ている。瞼を何度か閉じては開いて、顔を左右に振る。記憶の中に比べてると、足りない建物が多い。視界の半分は更地で、遠くに蜃気楼のように建設途中のビル群が見える。

「でも、もしここが、本当に2021年なら」

 流星の父親に見せた写真を反芻する。詩綾は駅の位置から、自宅の位置を探る。写真の中の父親は正気で、笑顔を見せていた。小学生に上がる前くらいまで、父親が教えていたという音楽教室に通っていたので、その位置も探す。自宅から大通り沿いに駅に向かって歩いて十五分程度の距離だ。一戸建てが並ぶ二丁目を抜けて、駅前のマンションとデパートが立ち並ぶ一角に近づく。

「三丁目の公園の、向かい側」

 公園と同じ大きさの更地を大通りを挟んで向かい側に、見覚えのある建物が並んでいる。どういう仕組みなのか、詩綾は逆さまのまま、景色が動いて、カメラの映像のように景色がズームされる。二階の窓を覗き込むと、父親が、幾人かの子供達にピアノを教えている。彼はまだ若く、髪も黒々としていて、肌も輝いて、目も優しい。元々整った顔立ちの彼は、微笑みを浮かべると俳優の様だと言われていた。

「パパ」

 声を出しても、彼はこちらを向かない。ふいに手元の端末が鳴って、メッセージが届いた。確認して、幼馴染からの個人宛メッセージで驚いた。

「流星?」

 音声応答で答えると、『しーちゃん!』と切羽詰まった声が返ってくる。

『ああ、良かった。大丈夫? 今周りには、何があるの?』

「流星、私、パパを見てる。昔の、私たちが生まれる前の、パパの姿」

『しーちゃん? どういうこと? そこに来る前の記憶はある?』

「くじらに食べられたの。大きな口に飲み込まれて、目が覚めたら逆さまで、昔のシェルターを遠くから見てた」

『くじらに飲まれて、時代を逆行してるってこと?』

「夢じゃないよ、流星。パパが、普通に、笑って、ピアノ弾いて、歌ってるの」

『くじらの中は、……だ……しーちゃん、君は今……だか』

 そこで、急に音声は途切れた。目の前の景色がホロリと崩れて、今度は斜めになって窓の外から父親が誰かと話している声が聞こえる。

「涼介、現実を見ろ。真木と小早川が作り出そうとしてるのは、クラーケンの遺伝子を継いだ子供達だ。もう人間じゃないかもしれない。俺たちを喰い殺すかもしれない。きちんと制御できる環境で育てないといけないんだ」

「徹、俺ね、ユズと約束したんだ。もしユズの子供が出来たら、俺が大切に育てるからって。きっと綺麗な声をした、音楽に祝福された子供だ。もう、名前は決めてある」

「ユズの子供じゃない。ユズと同じ遺伝子を継いだ、いわば兄弟だ。涼介、お前何してんだよ」

 窓に近づいて、父親の影になっている男の顔を確認する。要の父親、鷲崎徹だった。鷲崎は頭を抱えたように、何度も父親を説得しようとしている。その言葉と、状況を理解して、詩綾は心臓の音で何も聞こえなくなる。

 ――クラーケンの遺伝子を継いだ、子供。私は、パパの子供じゃない。

 妙に安堵して、再び震えだす端末を胸に押し付ける。瞼を閉じて、開いてから、流星からの着信に応じる。

『しーちゃん!』

「流星、私」

『くじらの中は、ブラックホールだ! 様々な次元が入り混じって、行き交ってる。だから、君は目の前に色々な時代や、時が流れて、その中を行き来してる。だから、僕の声をちゃんと……』

「流星、私たち、パパたちの子供じゃない。クラーケンの遺伝子を継いだ子供だって」

『しーちゃん』

「くじらの中はブラックホールなんでしょ? どうしてかわかんないけど、私は、今パパの記憶を追ってる。そこで、私たちがパパたちの子供じゃないって言ってた。ねえ、流星、これ知ってたの?」

『……知らなかった。でも、分かってたよ』

「いつから?」

 その言葉に驚いた。幼馴染の一人である、流星は、いつも機械に夢中で、要と詩綾を支えることはしても積極的に多くを話すタイプではなかったからだ。

『かなちゃんがパイロットに選ばれた時の父さんの反応を見て、僕やしーちゃんも無関係じゃないと思ったから』

「なら、何で教えてくれなかったの!」

『仮定の話をしたら、君はすぐに暴走して、きっと何処かに行ってしまう。それに、かなちゃんは、きっと僕らのために、パイロットになることを受け入れたんだ』

「どういうこと?」

『かなちゃんがパイロットに選ばれたことと、僕らがクラーケンの遺伝子を継いでるってことは、無関係じゃない』

 声音は流星だが、彼の話が頭に入ってこない。うまく整理が出来ないまま、再度問いただそうとしているうちに、また音声が途切れた。端末に付いたシロナガスクジラがまったく揺れていないことに気づく。この空間は、風が無いのだ。

 ――もしかしたら、夢かもしれない。でも、夢なら。

 記憶の中で、一番古く、唯一父親が酔っ払っていなかった日を思い出す。まるで詩綾の記憶に呼応するように、また逆さまに世界が現れる。ズームすると、三丁目の公園の砂場が見える。

「シーア。僕の、可愛いシーア」

 父親は、詩綾をそう呼ぶ。少し舌ったらずにして、両手を広げて、幼い自分に手を広げる。

「可愛いなあ。なあ、見てくれよ徹。僕のシーアの手は、むくむくで真っ白で、ちっちゃくて。守らなきゃいけないって、全身で教えてくれてるみたいだ」

 要の父親が同じように砂場で遊ぶ要を見つめる。

「ああ、なんて可愛いんだろう。あの子達が、俺たちを父親にしてくれたんだ。自分たちが背負わされた運命なんて知らずに、あんな風に、元気で笑ってくれてる」

「勘違いするなよ、徹」

 彼らの傍に、女が立った。小柄で、ぼさぼさの髪の毛を振り乱して、カサついた唇を噛み締めて言葉を続ける。

「君たちは、あの子たちの父親じゃない。遺伝子上の父親じゃ無いんだ。あの子たちはいずれ、クラーケンに乗ることになる。この世界を守るためだ。君たちは養い手だよ」

「勘違いしているのは、君だよ小早川。俺たちがクラーケンに乗って、カナリヤを鳴らした罪滅ぼしにあの子達を引き取ったと思ってるんだろう」

「違うのか?」

「ああ、全然違う。君は、分かっちゃいない。小早川、俺は要を見たとき、ああ、なんて可哀想で可愛らしい生き物だと思った。壊れそうで、きっといろんな大人たちの手を渡っていくんだろうって。そう思って、見ていた。だが、要は瞼を持ち上げて、俺を見たんだ。俺を見て、笑ったんだよ。俺のために、微笑んでくれたんだよ。その時に、ああ、この子は俺を選んだんだって、そう思った」

「プロラクチンの暴走だろう」

「勘違いするなよ、小早川。男の父性は、プロラクチンの暴走では引き起こされない。そもそも人間に本能と呼べるものが、どれほど残されているかは疑問だ。運命論なんてものも、俺は信じない。それは君も知るところだろう。そんな俺が、あの子に出会った時に感じた。ああ、この小さい子は世界に祝福されるべきだ、俺は守ってやりたいとね。君の言う通り、この子か、詩綾か、流星はクラーケンに乗って世界を救うだろう。だがその前に、小さな子供なんだ。愛情を持って育てられるべき、小さな子供なんだ。自分たちは確かに祝福されて、この世に生み出されて、親に愛情を持って育てられたという確信を持って育つべき、子供達なんだ。そして、要は愛情を与える役目を俺にくれた。そう俺は確信してる。養い手なんかじゃない、俺は、あの子の父親だ。そうすべきだと、俺を確信させてくれたあの子のためにも、俺は父親で居られるし、そうあるべきなんだ」

 そこでふと、小さな詩綾を抱きしめている父親に、鷲崎が話しかける。

「なあ、そうだろう? 涼介!」

「え? 何の話?」

「詩綾が、お前の子供じゃなくても、お前は、詩綾の父親か?」

「何言ってるんだ、当たり前だろ。この子を見ろよ、こんなに可愛くて、可愛い声をしてる。この子は、俺のピアノを聴くとよく笑う。父親の音が分かるんだ。そうだろう? この子がパパって呼ぶのは、俺だけだ」

 幼い頃の、正気だった頃と同じような顔をして、父親が笑う。詩綾は、斜めになった世界から、その様子をじっと眺めた。

「勝手な理屈」

 詩綾は思わず、囁いた。父親の理屈に、怒りを覚えた。

「それなのに、パパは、病気に向き合わずに、お酒に逃げた」

 ――私を置いて。

 ほろほろと、煮込みすぎた魚のように、手で触れようとすると、今見ていた次元が崩れていく。何かが通り過ぎて、その中に漂う人々が、流されるように通り過ぎる。様々な次元が入り乱れる嵐のような中に、吸い込まれていく人々に手を伸ばそうとしても、届かない。

 ――悲鳴だけが、聞こえる。

 次元が入り乱れる中で、人々の声だけが重なり、悲鳴の重唄が響いている。呆然とその台風のような様を見つめた。他に音が無いか、耳を澄ます。遠くから、低音が届く。ほのかな旋律に、意識を向けると、詩綾の立っている世界が一瞬電球がついたように明るくなるった。生き物のように、その旋律に反応してまた光る。

「眩しい」

 目の前が光の余韻で蛍光色に染まることが耐えられず、目を閉じて両手で覆う。そうすると余計に、音がよく聞こえた。低くて、艶やかで、柔らかい旋律に耳を澄ます。その声は、まるで、子守唄を歌ってくれた父親とよく似て。

「詩綾!」

 父親の声が、世界の向こう側から聞こえる。眩しさを覚悟して手を目元から離すと、奇妙に割れた天井のようなところから、ヌルついた長い生き物の足が見えた。巨大なイカのような、細長い足が揺れる。寄生虫が脳を食い破って鼻から出ているようだった。血潮にもよく似た光が、こちら側に射してくる。

「シーア!」

 足によって裂かれた世界の向こう側から、空が覗く。近づき過ぎて巨大に見える月と、青に近い藍色の海が見えた。

「パパ」

 この世でたった一人しか知らない詩綾のあだ名を呼んで、父親がこちら側に手を差し伸べている。その手を取れるような関係では、もう無かった。彼はあまりにも、詩綾の人生を蔑ろにして、いつも逃避して、自分は悪くないと恋人たちに言わせるように仕組んでいた。だからきっとこれも夢の一部なのだと思っていた。

「どうして、手を取らないんだ。ほら、パパだよ。シーアのパパだ」

「貴方は、違う。私の父親は、いつもお酒のことしか考えてない人。女の人たちから、お金をせびって、生きている人。今更こんな風に都合よくなんか現れない」

「なんで! パパだよ、シーアの、パパだ。ピアノをいつも、弾いてたじゃないか」

「何年前の話? ピアノはもう調律が全部狂って、私も弾いてない」

「子守唄を、聞かせただろう。いつもパパが歌うと、シーアは喜んでた」

「私はもう、子守唄が必要な子供じゃない」

 手をこちらに差し出したまま、父親は悲しそうに眉を下げた。

 ――どうして、傷付いた顔をしてるんだろう。ずっと傷付いて来たのは、私なのに。

「でも、今、詩綾には、助けが必要だろう? ほら、助けに来たんだ。一緒に逃げよう」

「何処に? 貴方が居る限り、私は何処に行っても、貴方から逃げられない。だから、一緒になんか行きたくない」

「でも、詩綾の父親は俺だよ、ほら、父親の言うことを聞いて」

「貴方は、私の父親じゃない。こんな時だけ、父親の権利を主張しないで。貴方は私の父親になることを選んだけど、義務を怠った。だから、私は貴方の子供じゃないし、貴方の所有物じゃない。私は、私」

 言い切ると、彼は少し戸惑った後、笑顔を浮かべた。その表情が恐ろしくて、詩綾は後ずさる。両手で自分を抱きしめるようにして居ると、端末が震える。表示を見て、すぐに応答した。

『詩綾』

「要、今何が起きてるの?」

『詩綾は、くじらの中に居るんだよ。今、ポンちゃんとそっちに向かってる。流星が、バックアップをしてくれるから、そこから動かないで。必ず助けるから』

「何が起きてるの」

『世界のあちこちで、くじらが現れてるよ』

「じゃあ、そっちに行きなよ。私は大丈夫」

『大丈夫じゃないよ。詩綾の強がりは、もう聞き飽きた』

「要!」

『なあに』

「父親が、ここに来てる。どうして?」

『真瀬のおじさんはクラーケンに乗って、詩綾を助けに来たんだよ』

「今更?」

『詩綾、おじさんにとって、今しか無かったんだよ』

「勝手だよ、そんなの」

『そうだね。勝手だね。だから、詩綾にも勝手に選ぶ権利があるんだよ』

「……ねえ、要。父親が本当の父親じゃなくて、私たちはクラーケンの遺伝子を継いでるって知ってる?」

『……知ってるよ。死ぬ前に、お父さんが、教えてくれたから』

「何で! 教えてくれなかったのよ!」

『だってそんなの関係ある? クラーケンの遺伝子を継いでいて、お父さんと血が繋がっていなくても、詩綾は詩綾だし、私は私。私のお父さんは、鷲崎徹』

「要はいっつもそう。物分かりのいい振りして、我慢する。だって、そしたら私たち、兄妹とかじゃないの?」

『頼りないお姉ちゃんで、ごめんね』

「馬鹿、私の方が、誕生日先じゃん」

 笑い声が聞こえて、『今行くから、待っていて』と言ってから切れた。位置情報を取得するまで、携帯は切らないように流星から連絡が入ってくる。流星お気に入りのAIが画面の中で微笑んだ。

「詩綾」

 ああ、そうだまだこの人は居るんだったと、顔を上げて父親を見上げる。よく見れば、父親は奇妙な格好だった。イカのような生き物のの口から体を半分出して、こちらに手を差し出して居る。まるで、一緒に食べられようとしているようにも見えた。

「私は、要と流星と行くわ。パパは、パパの人生を生きて」

 そう伝えても、きっと分からないだろうと思っていた。その予想通り、父親は濁った瞳を瞬かせてから、何かを言葉を探して、ゆっくりと口を閉じる。それから、少しはにかんで、息を大きく吸った。

 父親の喉から漏れたのは、子守唄だった。不思議な旋律の何処か異国の言葉混じりの、柔らかい響きは、幼い頃よく聞いた。眠りの浅い詩綾の為に父親はベッドサイドに座って、闇の中囁くように歌っていた。

 そのリズムは鼓動と同じで、寄せては返す波のように、頭に響いて行く。低音は艶を帯びていて、恋人に愛を囁くような官能的に響く。

 ――ああ、この人にとって、私は恋人の代わり。

 そう気付いた瞬間に泣きたくなりながら、美しく響く父親の歌声に耳を澄まさずに居られない自分に悲しくなる。

 ――それでも、私の音の一部を作り上げたのは、確かにこの人なんだ。

 唇を噛み締めていると、差し込む光の量が増えていく。イカの足のようなものが、この空間を切り裂き始めたのだ。一向に父親に近付かない詩綾に焦れたのか、父親はイカの口の中に吸い込まれて、本格的にこちらに奇妙な生き物ごと近付こうとしてくる。恐ろしさで後退していると、『詩綾』と父親の声が頭の中に響く。

「やめて! 私は、貴方とは行かない」

『パパのシーア』

「やめて! こんなの、父親の愛じゃない! ただの執着。私は要と、流星と行くの。貴方は、家族じゃない」

 何度もリフレインする歌の余韻が、辺りに響いて、まるで賛美歌のようだ。クラーケンを使って、増幅させているように、その賛美歌は複雑な旋律を纏っていく。頭の中に入り込んでくるその音に頭を抱える。目の前を行き来していたはずの次元の波は、どんどんと歪んで行き、音の波の中で弾けるようにたわんで散り散りになっていく。

 詩綾の体が宙に投げ出される前に、目の前を、残像が通り過ぎる。幼い頃、宝石のようなお菓子が欲しくて駄々をこねた事がある。

「泣かないでよ。そんなにグミが食べたかったの? シーアにはまだ無理だよ。歯が溶けちゃうかもしれないんだ。転んだ? 痛いの? 大丈夫パパが守ってあげるから。ほら徹たちが呼んでる。一緒に行こう。パパの手を掴んで」

 その残像を掴もうとして、腕が泳いで目の前に開けた黒い空に息を飲む。開けた世界で見上げた月は、遠かった。


                  二

2037年2月12日

第二シェルター地区

 シェルター間リニアは緊急停止していた。駅からシェルターへ抜ける通路へ誘導している駅員たちの奮闘を横目に、流星は持っている端末で幼馴染の位置を調べながら、ルートを検索する。

「交通機関は全てダウンしてる。自動誘導も始まって、交通機関は全部ダメだね」

「おい、リュウ、お前どうするつもりなんだよ?」

 シーモアにそう問われて、いつもそんな風に問いかけるのは、自分の役割だったなと流星はおかしく思った。

 ――しーちゃんは、いつもまるで突風のように駆け抜けていく。追いかけるのは、かなちゃんの役目だった。

 自分だけが、いつも置いていかれている気配がしていた。パイロットに決まった幼馴染に対して、詩綾は憤りを見せて泣いていた。

 ――きっと、最低だけど、考えちゃいけない事だけれど、僕は、どうして僕じゃないんだろうって、思っていた。

 鷲崎の名字を持つ要は、近所でも学校でも目立っていた。メディアが押しかけて、彼女の陰鬱な横顔を見つめる度に胸は傷んだ。だが一方で、自分は選ばれないんだろうと思っていた。要や詩綾は、姉妹のように仲が良い。家族のように、流星も彼らと共に過ごした。彼女たちの才能にも、人格にも圧倒された。それでも何処かで、羨望を持っていた。仲間はずれのようで愚かしいが、それでも流星は彼女たちの透明で美しい輪の中から疎外感を感じていた。悔しくて、認めたくは無かったが、それを口にしないのに祖母に聞かれたことがある。

「お前は、恥ずかしくないの? 女の子の後をついて回って。男なのに。胸を張って、自分を持ちなさい」

 ――こんな時に、そんな事を思い出すなんて、どうしてだろう。

 視線を巡らせて、誘導されて大勢が大挙して走っていく反対の道を見つめる。

「シェルター内は自転車は禁止だし、シェルター内の飛行は禁止されているから、今はドローンも飛んじゃいない」

 ひとまず反対側の道を歩きながら決意していると、教授陣用の駐車場が目に入る。

「……盗もう」

「え?」

「教授の、車を盗む。非常用にマニュアル運転が出来るようになってる。そのプロトコルさえ流し込めばいい。旧型自動車なら、操作しやすい」

 幸い、殆どは車を置いて避難指示に従って居る。目に付いた手前の青い中型自動車に近づいて、鞄を漁り出す。

「この車種は、シェルター仕様に、後付けてシステムを載せてるから、旧型の名残も多く残ってる」

「おい、指紋認証じゃないと」

「そういうのは、解除すれば良い」

 端末を車に近付けて、プロトコルを実行する。緊急警報を受けて黒くスモークがかかっていたフロントガラスが透明になる。

「緊急警報のアラートをまず解除してから、マニュアルに切り替える。そこからは、ローテクだ。シーモア、下敷きを貸して」

 そういうなり、シーモアから奪うように下敷きを借りて、窓の外側から下に押し込む。そうすると、一気にロックが解除された。

「おいおい、マジかよ」

「昔の映画で車泥棒の人がよくやってる手口だな!」

 風花が手を叩いて居る。急いでドアを開けて、運転席に乗って、端末を助手席に座ったシーモアに手渡す。自動車のフロントナビに繋いで、誘導システムを起動した。

「緊急警報からシステムを切り離してるから、これで、行きたいところにマニュアルで向かえば良いはずだ」

「おい、リュウ。一個聞きたいんだが、お前運転できるのか? 未成年だよな?」

「大丈夫、僕はこの手の運転ゲームは網羅してる」

 悲鳴が聞こえるのを構わず、ハンドブレーキを確認してからギアを変え、クラッチペダルを踏み込む。ゲームにはない感覚に息を吐きながら、エンジンを起動して、ゆっくりとペダルの踏み込みを緩める。

「おい、リュウ、本当に分かってるんだよな? 今気付いたんだが、未成年者の運転を幇助してる時点で俺たち全員犯罪者だ。全員運転免許持ってない」

「黙って! 貴婦人、誘導してくれ。最短ルートを、この車が出る最大値の加速で進む」

『分かったわ、愛しい子』

「なんで分かってるんだよ、おい、止めてくれ!」

 悲鳴をあげる後部座席も無視して、道路に出ていくと、アラームが鳴り出した。

「貴婦人!」

『大丈夫、私に任せて』

 嫋やかに淑女がフロントガラスの中で微笑むと、アラームが全て解除されて、シンとした車内になる。その空気に耐えきれなくなったのか、風花が端末から音楽を流そうとして、それを隣の席のミシェルに奪われて居る。

「ところで、リュウの幼馴染は、くじらに食べられて居るんだとしたら、くじらの体内では、何が起きて居るんだろうな」

 ふとした疑問をシーモアが口にすると、それに対してミシェルが車内に持ち込んだらしい自分の端末から映像を投影させる。

「今、民放がリアルタイムで動画を流して居るわ。シェルター内の誘導が終わって居ないけど、自衛隊が時間を稼いでいるみたい。といっても、正直、シェルターを突き破ってくるくじらに対して、避難経路を確保するための防衛のようだけれど」

「くじらに有効な武器は、この国は保有していないからな」

「守る事を前提とした作りだから、撃ち破られて、中に入られたら押し戻すしかできないでしょうしね。すぐにTRIDENTがクラーケンを出してくると思っていたが、時間がかかっているわね」

 運転している流星に視線を送りながら、二人の会話が続く。ミシェルが立体投影している映像の中で、リポーターがなにかを続けている。

「情報統制を受けても、メディアはこうして、まだ真実を流そうと苦心しているところも、あるのね」

「人に、野次馬根性がある限りはそれが商売になるからな」

 二人の会話を聞き流して居た風花がミシェルから奪い返した端末から、お目当ての音楽を流し始める。流星は、目の前の運転に集中して、二人の言葉や風花の流す音楽にも注視はしていなかった。

 大きな通りを抜けていくと、破損したシェルター付近に近付いたのか、道路から乗り上げて乗り捨てられている自動車がいくつも続く。ドーム状になっているシェルターの中央を横断するように作られている広い中央道路が見るも無残な姿になっているのを、まともに見ている暇はなかった。貴婦人の誘導で、比較的に大きな通りを過ぎて居たが、乗り上げた車が障害になり、先に進めないトンネルの前に出る。迂回路を示され、その通りに、曲がっても、頭上から落ちてきたのだろうシェルターの一部が道路を塞いでいる箇所があった。

「貴婦人」

『衛星からデータを照合しているわ……愛しい子、ルートを変更するわね。くじらが、こちらに向かっている』

「どういうこと?」

『危険が迫っているということよ』

 慌てて発進し、貴婦人の誘導のまま、誰も居なくなった商店街を走っていく。そこを抜けるとようやく、流星の父親が務めるTRIDENT日本支部の本社ビルが視界の端に映り始める。

「こんな時に、凄く馬鹿な事かもしれないけど、なんか、現実感が無い」

「言いたいことは、よく分かるよ」

 何処かで、いつも他人事だった。機械越しで見ていた幼馴染たちの関係や、自分にあまり興味のない父親、くじらの存在がいつもどこか他人事で、実態が無かった。それが、こうしてハンドルを握り、誰も居なくなった街でようやくその正体を実感して居た。

「あれ、ちょっと待って、誰か居る」

 本社に向かう大通りに戻る途中、老年の男と奇妙な程大きな荷物を思った男が急いで走っている。それを見ていたミシェルがウィンドウを下げて、「危ないですよ!」と声をかける。

「こっちにはくじらが出ますよ! 避難するのは真反対の、地下に続く道です!」

 シーモアも窓を下げて、男たちに話しかける。信号を出して、車を停止させて、男と目が合って気付いた。

「あ、君」

「……岩田、健二郎、さん」

 学校の校門前で話しかけてきた報道記者だと気づく頃には、彼らは猛烈なダッシュでこちらに近付いてきて、「乗せてくれ」という。そして、風花が素直にドアのロックを解除する頃、堂々と乗り込んで来た。

「あの、この車避難場所には向かわないんですが」

「大丈夫、君に会いたかったんだ、尾崎流星くん」

「リュウ、知り合いか?」

 困惑する三人に対して、「この人たちは報道記者なんだ」と返して、流星は岩田を見返す。

「くじらが世界のあちこちのシェルターを襲ってる。鷲崎教授の娘さんが乗ったクラーケンは、こちらに来ているのか?」

「クラーケンがどう動くのかは、僕は知りません。あの、今急いでいるんで、降りて貰えませんか?」

「TRIDENTが君たちに何をしたか、俺は知ってる。君の幼馴染がどうして、急にパイロットに選ばれたか知っているか?」

「僕ら三人が、父さんたちの子供じゃ無いから」

 振り返って答えると岩田は、「それだけじゃない」と続ける。

「クラーケンに搭乗するには、遺伝子の合致が必要だと言われてる。今までパイロットに選出された子供達は皆、十六歳以下だ。十七年前、初めてくじらが現れた後、国連に委託されてTRIDENTは子供を妊娠した妊婦たちに一斉に抗体ワクチンだとかいうものの接種を義務付けた」

「――僕たちだけじゃない?」

「俺の娘は、一番下の娘は、一歳の頃風邪にかかった。一度医者に見せてもらって薬を出された。それを飲んでも、やっぱり熱が続いた。その夜心配した女房が病院にもう一度連れて行ったんだ。その後、娘は二度と戻らなかった。インフルエンザの新種にかかったから、遺体は焼却処分しなきゃ返せないって言われて、小さな骨壷だけが帰ってきた。女房は未だに、下の娘は何処かで生きてるって信じてる。実際、そういう風に奴らに連れて行かれた子供も居た」

「……僕たちみたいに」

「俺は知りたいんだ、本当に俺の娘は死んだのか。もし生きていたら、何処に居るのか。どんな目にあって、誰に育てられて、何をして居るのか」

「僕は、父に会いに行くだけです」

「なら、連れて行ってくれ。せめて、手がかりが欲しいんだ。生きていなくても、娘が今何処に居るのか、それだけでも、知りたいんだ」

 岩田の剣幕に、その場に居た誰しもが言葉を噤んだ。流星は、無言でクラッチペダルを踏み込んだ。

 遠ざかって居たはずの、TRIDENT日本支部の本社ビルが近付いて、車内の気まずい雰囲気をかき消すように、風花が音楽をかける。

「この曲、今週のプッシュアーティストの曲ですよね」

 カメラマンの男が、車内の空気を保つためにと、言葉を探すようにそう囁くと、「そうなんですよ!」と風花が食いついた。

「グミ・エラトっていう、レジェンド何ですけどね」

「この曲確か、アメリカのシェルターのDJが流してから一気に他の国のシェルター内放送に広がったんですよね」

「そう! そうなんですよ、グミの音楽の魅力は何と言っても、この自由な音楽性! 第三次戦争以降作られた規制なんかをぶち壊して、僕らに未来を見せてくれたんですよ」

「規制を無視した、の間違いだろう」

 シーモアの言葉に、ふと流星は言葉を上げる。

「しーちゃんは、よく、規制されてる波長を無視して、色んな音階を混ぜて音楽を作ってた」

「音楽は音を楽しむと書いて、音楽だ。カナリヤだかなんだか知らないが、僕たちは、心が求める音が聞きたいんだ。彼女はヒーローだ。勇気を持って、この閉鎖感溢れる世界に風穴を開けてくれたんだ」

「何のための規制だよ、くじらが来るかもしれないから規制されたんだろう。死にたいのかよ」

「――鷲崎徹がカナリヤを鳴らしたから、くじらが来たと発言した研究者が居た。俺は取材したことがある。その記事が引き金で、戦争裁判が起きて、鷲崎徹が裁判に引っ張り出された時、情報が錯綜したんだ。結局TRIDENTが乗り出して、うやむやのうちにその研究データを掻っ攫って行った。正確な情報は、全部TRIDENTが持っている筈だ。音楽規制は、TRIDENTが強いた。なら、くじらとカナリヤは無関係じゃない。そう俺たちは考えていた。もし、仮にカナリヤに似た波長の音楽が流出しようとしたら、TRIDENTご自慢のAIアーサーに見つかるか、奴ら子飼いのハッカーたちに見つかる筈だ」

「グミ・エラトは、強力なウィザードに守られているサバトと呼ばれる音楽地下ウェブから発掘されたんだ。あんたの言うことが正しいなら、もし、そのウィザードの目を潜り抜けて居たとしたら」

「くじらとグミに関係性があるってことか?」

「関係があるどころじゃない。この騒ぎの発信元が、グミだとしたら」

 その呟きの後、車は急停止した。流星が急ブレーキを踏んだのだ。

「しーちゃんはそんなことはしない! 彼女は、人の為に、音楽を紡いで居た。もし起こるとしたら、それは意図せずに起きたことだ……もし、いや、もしかしたら。――貴婦人」

『ええ、流星』

 フロントガラスから顔を出した湖の貴婦人の笑顔に、岩田やカメラマンは悲鳴を上げた。

「くじらの発生を、追える?」

『貴方が望むなら』

 彼女が紡いだ発生の時刻と世界地図がフロントガラスに投影される。

「グミ・エラトの楽曲が流された国も追える? 時系列に」

『少しの、間、時間を頂戴、愛しい子』

 そう言い置いて消えた彼女の様子に、岩田が「何だ今の」と問うと、訳知り顔に風花が「ようこそクレイジーな世界へ」と答えた。


                  三

2037年2月12日

宇宙ステーション『アヴァロン』

 トムヤンクンフレーバーの携帯食を片手に、小早川棗が司令室に向かうと、すでに各セッションの責任者たちがその場に座していた。円卓を囲んで立体投影される凄惨な様子に、それぞれが言葉もなく淡々と分析をしていた。

「各国シェルターの80パーセントが突破された」

「真木少佐の元、軍を配備しているが、現代の兵器でくじらに対抗できるものはクラーケンしか存在しない」

「全て時間稼ぎだ。主なシェルターが落ち始めている」

 あちらこちらのセッションから情報が行き交い、タブレットを片手に奔走する助手たちが見える。

「あー、諸君、良いかな」

 咳を一つついてから、語り出したのだが、彼女を振り返る者は居ない。近くにあった音声拡張器をオンにしてから、小早川は息を大きく吸った。

「諸君! お忙しいところ恐縮だが、私の話を聞いて欲しい」

 拡張器から甲高いノイズが混じり、それまで忙しなく動いて居たその場の全員が動きを止めた。

「現在、人類は危機的状況である。想定危機のフェーズ4は先程超えた。諸君は手順に従って計画を推し進めて居ることと思う。そこで、私からの提案がある。アーサー、頼む」

 次々と映し出される立体投影の中にアヴァロンが映し出される。小早川の指示で、アヴァロンが変形し、シロツメクサのような形に変形する。そのありように、動揺の声が上がるのを小早川は手を挙げて制する。

「これより、アヴァロンは航行態勢に入る。各研究セッションは分離作業に入る。分離後は各国のステーションと連携を取りたまえ。すでにオペレーション済みだ」

「しかし、アヴァロンは人類最後の手段であり――」

「アヴァロンには唯一くじらに対抗できるセッションが残っている。この危機に、人類の最期の希望であり」

「繰り返すが、人類は滅亡の危機に晒されている。課せられた種の保存を優先すべきと判断した」

「あまりにも短絡的だ! 目の前で家族が殺されているのを見殺しにして、宇宙に出ろというのか。何のためのアヴァロン何だ!」

「アヴァロンは、箱舟であり、人類を危機から救う為の手段の一つである。私は私に与えられた権限を行使し、アヴァロンの宇宙航行を宣言する。諸君は、指示に従いたまえ」

 苛立ちや反発を見せる部下たちの在りように、小早川は苦笑する。彼女は、先程のオンライン会議を思い出して居た。

『アヴァロンは地球の戦闘に参加すべきでは無い。即刻、航行準備に入りたまえ。本来の箱舟としての役割を、果たしてくれ』

「それが、老人たちと君の結論か、真木」

『そうだ。我々は、我々に課せられた使命を果たすべきだ』

「故郷を見捨てて、新天地に種を蒔けとは、なるほど。効率的だ」

『感傷に耽るのか?』

「いいや、感傷的なのは寧ろ君の方だよ、真木。それでは、君の無事を祈ろう。何人目の君かはもう分からないがね」

 そう告げると、彼は画面の中で『三人目だよ』と告げて消えた。

「今更人道的という言葉を使う気にはなれないが、諸君。時間が来たようだ。この箱舟は、果てのない旅へと出る。家族への別れが必要な者は、今のうちに送信しておきたまえ」

 警報が鳴り響く中、ナビを続けて居たアーサーの声が響く。

『切り離し体制に入っていた第四区画から、発進許可の申請が出ています。クラーケンポンズと、そのパイロット鷲崎要のIDを確認しました。許可しますか?』

 視線が集まる中、小早川は「許可する」と答える。

「彼らのバックアップには私が入る。これより、分離作業に入る。諸君、最善を尽くそう。我々は、人類救済の為にここに居ると決めたはずだ」

 その発言に、慌てた様子の幾人かを黙殺し、立ち上がった画面に同じ口上を告げる。その場を辞し、小早川は颯爽と研究室に戻った。

「チーフ!」

 部下の一人が駆け寄って来るのを、手で制し自分の端末からデータを全て移行させていく。

「チーフ、宇宙に出るっていうのは」

「決定事項だ。君とブライトンが行くんだ。いずれこのセッションは全て切り離される」

 端末から引き抜いたデータチップを引き抜いて、風花に押し付ける。

「チーフは残るってことですか?」

「私は、この星でやるべきことがあるんだ。……家族との別れは済んだか?」

「――弟に、さっきメールを送りました。地球でシェルターが襲われているっていうのは、本当みたいで」

「ユズコショウが逃げ出したことと、何か関連があるだろう。ポンズたちが向かっている。君は、地球のことは考えず、これからのことを考えろ」

 受け取ったデータをじっと見つめ、頷く風花の肩を叩く。その瞬間に痛みが走り、呻いた。

「チーフ?」

「大丈夫だ、少し傷んだんだ。ソーメンに掴まれたところがね」

 呻きながら、長袖をめくる。傷だとも思っていなかった箇所が黒く盛り上がり、タールが肌に張り付くように見える。

「これは――」

 何かを口にする前に、腕に張り付いたタールのようなものから触手が伸び、小早川の端末に伸びて行く。あちらこちらに伸びては、破壊し、壁の一部に張り付いて侵食するように壁の隙間に入り込んで行く。

「チーフ!」

 机の上に置いてあったタブレットを割って、破片を腕に突き立てそのタールをえぐり出そうとする前に、タールが腕から抜け出て壁に吸い込まれて行く。

「ソーメン、何をする気だ」

 警報が鳴り響き、各セッションが切り離されるアナウンスがされ続ける。そのアナウンスが一瞬止み、ヒューズが飛んだように音が低くなり放送内容が不明瞭になった。

「ソーメン」

『各セッション切り離し作業を開始します。重力制御装置、運行停止、これより、地球への帰還命令を受諾』

「地球への帰還命令?」

「ソーメンのやつ、アーサーを乗っ取って、アヴァロンを地球に落とす気だ」

「チーフ!」

「各セッションに伝えろ! このままだと全て地球に落ちるぞ!」

 鳴り響く警報の中、小早川は走り出した。



                  四

2037年2月12日

TRIDENT日本支部

 研究プラントが次々と停止していく表示を見上げながら、尾崎創一は呼び出されたオンライン会議室への長いエスカレーターに乗っていた。TRIDENT日本支部の本社ビルは、アヴァロンの実験施設に通ずる作りをしている。巨大なビル群には研究員が詰めているが、その地下に蓮子状のウォーターフロントのような施設がありそこが、日本支部の中心部になっていた。

「やあ、創一」

 エスカレーターの行き着く先で、真木啓司が立って片手を上げた。彼の隣に降り、蓮子状の中央部に進んでいく。いくつも種が埋まっているような空洞が空き、その空洞全てにスーパーコンピューターが埋められている。巨大な情報処理が可能な一角になっており、尾崎はその主任として日本支部を任されていた。

「真木、君が来ていたのか」

「緊急事態だ」

「ああ、そうだな。この施設の切り離し作業はもう始まっている。地下区画を経由して無事深海ゴンドラに運ばれるだろう」

「アヴァロンの宇宙航行の準備も完了し次第開始される」

「――いよいよか」

「その通りだ、我々が十七年前に構想した計画が現実のものとなろうとしている」

 真木は立ち止まり、隣に立った尾崎の肩を叩いた。

「あの少女は残念だったが、涼介がユズに乗っている。君のせいじゃない、我々は最善を尽くした」

「……君は変わらないな、真木」

 表情を変えない男を見返して、尾崎は答える。

「我々は、見据えなければならない現実がある。救わなければならない大勢の無辜なる存在が居るんだ」

 頭を振って、言葉を返さずに尾崎は一呼吸置いた。そして、歩き出す。蓮子の花の花弁のような形状になっているコロセウム型の地下施設内で、何百人というオペレーターたちが立体投影された画面を見ながら、様々な情報を処理して居る。緊急事態が発令されて、この施設もやがて深海に建設されて居る支部に異動になるが、それまでここに残った者たちは世界中の施設との連携を続けていた。

「尾崎主任、ニューヨークのシェルターが壊滅しました。くじらは、まだ現れ続けているようです」

 オペレーターの一人がこちらに声を張り上げる。

「日本では、どれほどのシェルターが襲われている?」

「全てのシェルターに現れ、第三区画はすでに壊滅しました。この地区周辺にもくじらの群れを確認」

「くじらが群れを成す原因は?」

「まだ、アーサーからの解答はありません。特定の周波数を突き止めきれず、原因と思われるシェルターはすでに壊滅し、シェルターAIからの解答がなされていません」

「避難誘導と共に、自衛隊と連携し、最大限の収容を開始するんだ」

 息を吐きながら、尾崎はコロセウムの中心に立ち、次々と立ち上がる立体画面を処理し続ける。

「所長、受付より連絡です」

「受付?」

「息子さんが、訪問をご希望です」

「息子? 流星が? 避難して居ないのか?」

 途端にアラートが鳴り出し、建物全体に地響きのような音が響いた。オペレーターから悲鳴があがり、映像がどんどんと落ちていく。

「施設を切り離す。君たちも避難を開始してくれ。深海ゴンドラへ移動するんだ」

「所長は」

「私は、後から向かう」

 オペレーター達が避難をし始めて居るのを見届けている最中に、コロセウムに現れた人影に振り返って、尾崎は絶句した。

「流星」

 初めて出会った時、何て幼いんだろうと思った彼は、あっという間に尾崎と同じ背丈になった。彼がハンドメイドしたノートパソコンを持って、少し悲しい目をめがねの内側に押し込めた十五年前息子になった少年が立っている。

「父さん」

「どうして、避難して居ないんだ?」

 いつも、どこか怯えた目をした大人しい子供だった彼は、はっきりと言い切った。

「ここの、システムを貸して」

「何を言って居るんだ!? そんなこと、できるはずがないだろう」

 父親の言葉を聞かずにその場でパソコンを起動して、彼が作り上げたAIを解き放つ。幼い頃、アヴァロンの全権を担うAIアーサーの基本プログラムを彼に教えたことがある。十年程かけて、彼はそれを「湖の貴婦人」と名付けて大切にして居た。その大切にして居た彼女は、少年の組んだプログラムを飛び越えて、こちら側に微笑みかける。

「しーちゃんが、くじらに食われた。でも、しーちゃんはまだくじらの中で生きてる」

「何故そんなことがわかる?」

「僕には、分かるんだ」

 彼が立ち上げた画面の向こう側から飛び出した貴婦人は、微笑んで次々と投影を始める。各国の様々な情報が行き交う中から、一つの画面を投影した。

『貴方の疑問に答えるわ、愛しい子』

「貴婦人、ミシェルのデータを統合して、抽出できる?」

『ええ』

 流星の言葉に促された少女も、持っていた自作のパソコンを広げて、投影をし始める。示された地図のようなものに、後からやってきたカメラを抱えた男と、小太りの男は声を上げた。

「それで、結果はどうだったんだ?」

「この、くじらがアタックをかけてきたシェルターの時系列の情報と、あらゆるネットワークに流れるグミ・エラトの楽曲の配信経路を辿ったら、間違いなくそれは一致してる」

「このくじらの襲撃は、グミ・エラトの楽曲に原因がある、と言えるってことか」

「それだけじゃない。グミ・エラトの楽曲の周波数と、カナリヤ砲の周波数のデータを照合してる」

「そんなデータ、どこに残ってたんだ」

「ここに。この支部の地下は、ようするにアーサーの脳と同義語だ。貴婦人から聞き出して、アーサーのバックドアを使った。この照合が一致すれば」

 流星が言い終わる前に、浮かんだ投影装置に「一致」という赤い文字が示される。

「これで、次にくじらがアタックをかける予想が、つくはずだ。貴婦人、これをアーサーに伝えて。それから、世界中のウィザードに声をかけるんだ。グミ・エラトの楽曲を、ハックする。周波数を変えれば、くじらの次のアタックは産まれない」

 画面から飛び出していく貴婦人の後ろ姿に、呆然としながら、尾崎は少年を見下ろした。

「流星、お前は」

「貴方が、僕の父さんじゃないことは、ずっと分かってたよ。ばあちゃんも、事あるごとにお前はうちの子じゃないって、言っていたから。でも感謝してる。少なくとも僕は、僕らは、体が切り刻まれた訳じゃない。殴られたり蔑まれたり、された訳じゃない。尾崎流星っていう名前を貰って、二人から離れないで済んだ。僕は二人みたいに才能があった訳じゃないけど、こうして、二人を救うための力を尽くす事が出来る。見ているだけじゃなくて。それは、父さんが言葉がうまく話せない僕のために、パソコンをくれたからだ。少なくとも、僕はこいつが居たから、孤独じゃなかった」

 プログラムを走らせたパソコンからようやく顔を上げて、少年は尾崎をじっと見つめる。

「僕のお父さんでいてくれて、養育してくれて、感謝してる」

 尾崎は、言葉を探そうとして、口が戦慄いた。喉からこみ上げたものが嗚咽だったと悟って、片手で顔を覆う。

「私は、責任を取っただけだ。お前たち化け物を生み出した事に対しての」

 その言葉に、瞬間的に岩田は怒気を滲ませる。

「あんたは! あんたがそれを言っちまうのか!」

 岩田が尾崎に掴みかかろうとした瞬間に、天井が大きく揺れて、轟音が響いた。オペレーターたちが居たコロシアムの壁にヒビが入っていく。ぐにゃりと歪んだ支柱が倒れて来るのを、尾崎はぼんやりと見上げて居た。

「何が起こっているんだ!」

「逃げろ!」

 轟音が収まった後、瓦礫にまみれながら流星が顔をあげると、そこに巨大な生き物の口があった。

「くじら」

 そう囁くと、歪な形をした斑点のような目を全身に貼り付けた生き物は、口らしき箇所を大きく広げる。咄嗟に流星が顔を腕で守るように庇うと、耳に僅かな旋律が届く。呼吸なのか鼓動なのか、身動ぎをしたくじらが、旋律に動きを止める。旋律を辿って夢中に視線を動かすと、風花の端末を持ってぼんやりとコロセウムの中央に立って居た尾崎が居た。

「父さん!」

 流星がそう叫んで呼ぶと、彼は少し、困ったような顔をして、端末をくじらに掲げた。

「父さん、そんなことをしたら」

「流星」

「父さん」

「すまない、すまない。私たちは、――」

 そう囁くような声が、耳に届く前に、くじらが尾崎を飲み込んだ。その大きな口らしきものの中に。


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