第4話 クレイジー・グレイス

2037年2月12日

第二シェルター地区

 警報が鳴り響くと、これからいざデートへ繰り出そうとしていた婚約者が助手席で怒り出した。運転席で自動操縦にエラー表示にうんざりしていた男は、彼女の文句に適当な相槌を返していると、付けっ放しにして居た端末からラジオ番組が流れ出す。

『ヨーマイメン、俺のバイブスが届いているかい? まずは最初に、俺のお気に入りの一曲から。今ネットで大ブレイク中の歌姫グミ・エラトの、ハイパーエキセントリックなエモーショナルサウンドだ。トロイメライ・スカイハイ、チェキラッ』

 轟音と共に、シェルターが閉まって行くのを二人で見上げながら、端末から流れ出る美しい音階に目を細める。

「グミ・エラトって合成音声の架空のアイドルなんでしょ?」

 罵詈雑言をまくし立てていたが途端に音楽に聞き入っていた婚約者の声に、男は頭を傾ける。音楽好きの同僚が、最近凄いアイドルが現れたと昼休みの最中にまくし立てていたことを思い出した。

「松野がさ、なんか言ってたけど、数ヶ月前の、どっか外国のシェルター内放送で流れてから、それ聞いてた有名音楽プロデューサーがシェアして、一気にバズったらしいよ。で、そっからトントン拍子でその週にホットワードランキング入りして、誰がこの曲作ったんだって話になったんだけど、そのローカル局のDJが本人の希望で正体は明かせないって発表したんだってさ。そっから、色々憶測は流れてるけど、今のところ正体は不明」

「だから、合成音声のAIなんでしょ? どーせ、あと数ヶ月したら実はどっかの企業の戦略でしたとか言ってさ、また洗脳説だとか、あーだこーだって。くっだらない」

 何処からか取り出したのか、どら焼きを貪り出した彼女が、「やっぱ第3地区のどら焼きは最高だわ」と呟いて幸せそうに口の端を上げる。食べるのが下手くそで、口の端から零れ落ちているどら焼きの皮につい笑ってしまう。

「まあさ、俺たちは今話題のナイトアクアリウムに行こうじゃないですか」

「知ってる? あそこの売店でしか売ってない鉱物ソフト、コクがあって美味しいんだって」

 左手の薬指に嵌められた指輪を撫でながら、彼女が言う。その横顔の円やかさに腹の底から力が湧く気がして、その頬に手を伸ばそうとすると、振動で手が震える。驚いて端末のプラットホームを呼び出すと、警告画面が立ち上がった。

「えっ、何これ」

 一斉に目の前が警告画面だらけになる。彼女の口から落ちたどら焼きがサイドブレーキの上に落ちた。何が起こっているのかと調べようとしていると、乗っていた車が揺れ始める。遠くから、轟音がこちら側に向かってくると閉まっているシェルターの向こう側から光が射した。

「嘘、何あれ」

 漏れた光の向こう側から、何か黒いものがこちら側を覗いて来る。人類の存命を掛けた強度を誇るシェルターがあちら側から捲られて、ゆっくりと黒いものの姿が浮き彫りになり、男は引き攣った笑いが喉から漏れるのを感じた。

「くじら?」

 途端にブルブルと震え出した婚約者の身体を抱き寄せようとして、彼女は腕の中で暴れて、警告を無視してドアを抉じ開けようとし始める。

「ちょっ、危ないよ、今外に出たら」

「何言ってんの? シェルター壊れてんじゃん。私は一人でも行くから」

 自動操縦に切り替えている自動車は、アラートが鳴ると自動的にロックがかかる。この一帯の自動車は皆停止し、中で何をしても自動保護ロックがかかって出ることができなくなる。

「いや、今すぐに誘導操縦がかかって」

 男が言葉を続けようとする前に、自動車の中の機能が全て自動安全マニュアルに沿って切り替えられるとアラートが立ち上がった後、自動車はゆっくりと動き出す。近くの安全な区画に順番に誘導すると言う。

「ほら、これに乗ってれば安全だ」

 男が息を吐き出す横で、婚約者は、憤怒の表情で振り返る。額には縦に皺が走り、肩を怒らせ、目が血走っている。

「どうしたの」

 問う前に、彼女は突然頭をヘッドボードに打ち付け始める。額から血を流してもそれを気にも止めずにひたすら打ち続ける様子に、しばらくたってようやく異変を感じ取った男が止める。

「どうしたの、ちょっと、待って、なんで」

 腕の中で暴れ出す彼女を羽交い締めにしているうちに、端末に腕が当たり、音楽が流れ出す。先ほどの、アイドルの歌だ。透明な声が響くと、婚約者は突然昏倒して、ぐったりと身体を預けて来る。無残な彼女の顔面のありように言葉を失いながら、轟音が響く正面のシェルターの割れ目を見ると、そこには当たり前のように月が浮かんでいる。

 端末から流れる音楽が、柔らかく光に包まれるように響く。呆然としながら、手を伸ばしてその音を消す。静寂が車内を支配して、婚約者の場違いな程安らかな寝息が響く。ようやく身体の緊張を解いて、息を大きく吐き出すと、振動が響いて来る。何度目かの振動の後、その地響きのような音がこちらに向かっているのだと気づいて婚約者側の窓を見上げると、黒い穴が開いていた。

 それが自分を飲み込むものだと認識する前に、男の意識は途切れた。


                  二

2037年2月12日

旧欧米地区シェルター

 音楽は死んだ。そんな台詞を残して走り出したい気分に陥りながら、ルイ・ティタニアは持っていたカップに注がれた黒い液体から、視線を正面に向けた。今まさに、東アジア地区の警報の影響で、こちら側――旧欧米地区シェルターが閉められようとしているのを眺めた。ルイの立っているセントラルビルの20階から見るそれは、地面から迫り上がる塔のような佇まいで、何度見ても慣れない。カップに唇を引っ付けようとしていると、肩を叩かれた。

「ルイ、構成会議だ」

 構成作家のパックが話しかけて来る声に、耳を傾ける。

「君のミューズから、連絡が届いてる」

 その声に、片眉をあげると、パックはタブレットを見せた。宛名は、グミ・エラト。ここ数カ月、全世界のネットワークで話題を攫っているアーティストの名前だ。いつものように音声ファイルが添付されている。再生すると、合成音声がノイズ混じりに、「クレイジー・グレイス」と告げて、音が鳴りはじめる。

「新曲だ」

 つい心が弾んで、声が裏返る。慌てて音量を上げて、彼女の声に聞き入る。彼女らしいエモーショナルで透明感のある美しく伸びやかな声だった。何オクターブを行き来する軽やかさの中に、胸を締め付けるような憂いがある。

「ああ、彼女らしい」

 第三次世界大戦前に流行したダンスミュージックの流れに、ファンクを混ぜている。ブラック・ミュージックに最近夢中のようだが、オーセンティックなロックサウンドも心地よく根底を支えている。グミ・エラトらしい、自由で伸びやかで、センセーショナルなサウンドに、ニヒルティックなリリック。

 ルイは、グミが何者か知らない。そもそも彼なのか、彼女なのかも分かっていない。出会いは、とある地下に潜っている音楽愛好家のチャットだった。サバトと呼ばれるそのオンライン上の音楽愛好家たちの集いの中に、今世界的に禁止されている音域を用いた曲を紹介する習慣があった。第三次世界大戦以降、52ヘルツのくじらが現れてから、ある音域の音楽は作ってはならないという規制が産まれた。くじらは音に反応して人に襲いかかる。くじらが好むらしいとされる周波数の音域は使ってはいけないという、その規制に多くの音楽家たちは職を失った。

 まるで音楽の魔女狩りだという声が囁かれる中、決められた周波数の中の音楽が街に溢れ、それしか知らない子供たちが楽しそうに笑っているのを見ると、それも正しいのかもしれないと思う者も居た。ルイは、大戦前は叙情派ロックと呼ばれるロックの中に人の感傷を引き出すメロディを組み込んだブリティッシュスタイルの音楽を奏でる音楽家だった。そのジャンルの第一人者だったと言っていい。だが、戦争が終わった途端規制の音域の音楽を作るものという烙印を押され、ファンは去り、ギターもピアノも奪われ、残ったのは腹の膨らんだ妻と空っぽになった古ぼけたアパートだけだった。

 せめて音楽に触れて居たいと、友人のツテから幸運にもシェルター内で放送するラジオ放送のDJの職を得て、産まれてくる子供達のために、淡々と職務をこなした。経済が安定して、くじらを倒すために各国の有識者が集まってTRIDENTという組織がくじらについての論文や生物兵器に乗せるために世界中の子供たちに検査を受けるように義務付けるようになっても、「君もパイロットになろう」とエンディングトークでマイクに向かって囁くたびに、ルイの心は落ち込んで行った。

 音楽が鳴ろうと鳴るまいと相変わらず、くじらは訪れて、世界各地のあちこちのシェルターが襲われる。本来人の心を慰めるはずの音楽は失われ、クラーケンのカナリヤ砲の影響で笑いも失われつつある。そんな時だった。捌け口を求めて昔の仕事仲間と酒場で話し込んでいると、こんなものがあると、入室ログイン用のIDを教えてもらった。かつての音楽業界の仲間たちが集まって、秘密裏に旧世代の音楽を楽しむという秘密クラブのようなものだ。ログインIDは都度変化し、『湖の貴婦人』と名乗るアンダーグラウンドでは有名なホワイトハッカーが守るそのサバトに、まるで鬱憤した人々の心を癒すように、グミ・エラトは現れた。

 誰しもが、彼女がポンと示した音楽に熱狂した。ルイは、彼女の出現に立ち会えたことに感謝し、そしてこの僥倖を自分と同じような境遇の者たちに共有したいと、シェルターが閉じている運転点検の日に、彼女の音楽を番組で流した。昼から夕方の、一番リスナーが少ない時間を狙って流したその曲への反応は、熱狂の一言だった。それを聞いていた絶滅寸前のアーティストがオンラインでそれを流し、そこから瞬く間に拡散された。

 ルイは、職を失うと覚悟して居たが不思議なほどそういった言葉はかけられなかった。閉鎖感の漂う世界の中で、人々はずっと、求めて居た。ヒーローの出現を求めて居たのだ。グミはまさに、時代が求めて居た存在だった。

「貴方に、私の曲を預ける」

 サバトで知ったのか、ある日急に、グミ自身から接触があり、ノイズ混じりの合成音声でそう前置きされた新曲が送って寄越された。タイトルは「トロイメライ・スカイハイ」、クラッシックとダンスミュージックが融合されたその爽快感と憂いが混じった音楽は、ルイが共有すると世界中のDJが流し始めた。それからだ。グミは、新曲を作るとルイに送ってくる。彼女が何者かは誰も知らない。唯一のヒントは、彼女が常に使用している、シノナガスクジラのアイコンだけだ。様々なサーバーを経由して送ってくるため、彼女がどこの国に住んでるのかすら分からない。サバトの管理者に問い合わせようとして、やめた。彼女が何者であろうとも、彼女が音楽を作り続ける限り、ルイは彼女を信じ続ける。いや、例え作り続けなくても、今まで彼女が作った曲で救われた者が居る。少なくともルイは救われた。彼女の自由な音に、美しい声に、皮肉が効いて居るが、剥き出しの人間らしい言葉に。

「ルイ」

 パックの声にようやく周りに意識を戻して、構成会議へと意識を戻す。

「彼女の新曲を、今日も中心に構成しよう」

「勿論だ」

 ミキサーと相談して、彼女の合成音声部分も流そうと言い合う。今までは曲の部分だけ流して居た。ルイと同じ興奮を、リスナーにも味わってほしい。ADが放送時間までの時間をカウントし始める。

「ルイ、予告を流したら、リスナーのメールが殺到してる」

 グミ・エラトに対する賞賛や、危険を顧みずに規制外の周波数を使う批判、様々な声が押し寄せる。一つ一つに目を通す合間に、轟音が響いて顔を上げる。シェルターが完全に閉じると、街の景色は一変する。光が遮断されるため、シェルター内は自然光に近い光量の空が人工的に作られる。息が詰まりそうだと、人工的な空を見るたびに思う。

 グミはこんな空のことを、「私たちに嘘を吐く鏡」だと表現した。彼女にはどんな風に、世界が映っているのだろう。

「ルイ、なんかアラートが鳴ってる」

 ぼんやりと窓の外を眺めて、カップを傾けて居たので、パックの声には驚いた。音の元を辿ると、自分の端末からだった。アラート先をめぐると、サバトの管理人からのメールが何通も届いている。「サバトがアタックを食らった、情報が流出する」とそれだけのテキストメールに、最低限の非常口への案内が届いて居た。

「パック」

 顔もあげずに、案内された案内口へ逃げつつ、自宅の端末へ遠隔操作でウィルスを送る。

「どうした? ルイ」

「彼女を守るためだ。新曲を流す用意はもう出来てるんだろ?」

「出来てるが、まだ番組が」

「いいから流せ」

「おい」

 ルイの勢いに気圧されたミキサーが他の番組へ、曲を提供すると連絡を入れる。その間に、ルイは持っていた端末を壊す。「おい、何やってるんだ」とパックが呻いたが、構わない。

 その刹那、轟音が響いた。


                  三

2037年2月12日

第二シェルター地区

 シェルターが閉まる音にだけは慣れない。シーモア・リャナンが通う大学は、旧東京地区に建てられている。この地区は、第三次世界大戦の最期の砦となった決戦の地で、カナリヤ砲がなければ核兵器によって焼き払われていた土地だった。現在は、シェルター内の学区地区として編成されて、シーモアの通う大学が中心近くに建てられている。

 今時珍しい、という表現がされるが、民間の大学だった。TRIDNTの情報統制がされている中、学長が変わった男で、純粋に学問を極めるためにと門徒を開いている。わざわざ故郷を離れて異国の大学に通う理由は簡単だ。シーモアの故郷は焼き払われた。第三次世界大戦のよりにもよってカナリヤ砲の直撃を食らった土地で、シーモアは産まれた。

「逃げなさい! シーモア! うふふ、逃げっ、うふっ。うふふ、あはは!」

 カナリヤ砲は、人の感情を増幅する。特に、第三次世界大戦では、笑いに強く作用した、らしい。らしいというのは、後の報告書や文献に書いてあったからであり、幼いシーモアの母親は笑いながら悶え死んだ。自宅から地下へのシェルターへの道を走る途中、シーモアをかばうようにして、身体を痙攣らせて最後は心臓発作で吐瀉物を吐いて、重力に押し潰されるようにぐしゃりと倒れて死んだ。死に顔は壮絶で、今でもたまに夢に見る。

 シーモアは、先にカナリヤ砲の情報を掴んでいた政府から支給された耳栓を装着させられていたから助かったと思っている。実際にはその耳栓に効果はなく、シーモアの聴覚が人より低いことが幸いした。ある周波数の音が拾えないので、母親のように悶え死なずに済んだ。ただし、カナリヤ砲が鳴っている最中、シーモアはずっと笑っていた。つまり、母親が死んだ時もにやにや笑って見下ろしていたのだ。感情面では、自分の方こそ悶え死にそうだった。

 カナリヤ砲は、生き残ったものには深いトラウマを刻む。人の死を笑うということは、自分の倫理に反する。人は倫理に従うことで安心感を得ている。その安心感を覆され、自分は母親の死を笑って見ていたのだという嫌悪感に押し潰されそうになった。物心着く頃には難民援助の施設の、端っこで膝を抱えていた。父親は職場で奇跡的にカナリヤ砲を逃れられる場所にいたという。施設の中で再会したが、シーモアの心の傷が深いのを知ると、親子二人で難民救助への申請をし、新たな土地で人生の仕切り直しを図ったのだ。

 シーモアは、第二の故郷であるこの国のことを、それなりに気に入っている。心の傷を癒しきれないまま、電子機器で一人で学習したが、幸い知能指数が高かったために難なく大学へ編入出来た。

「シーモア、あのさ」

 何を考えているのかわからないが、面白い友人も出来た。

「リュウ、このプログラムはわかるか?」

 尾崎流星は、いつも青白い顔をして、筋肉がつかないひょろ長い身体を丸めるように机に向かっている。彼の父親は、TRIDNTの幹部だという。普通、関係者は、補償金もでるので関連学校に通うが、彼はいつも手製のおにぎりを食べながら、文献の中に埋もれていた。自作の端末でネットの世界で自由に泳いで、流星の履歴を調べてみると、エリートが集められる地区の子供で、父親と二人暮らしだった。自分と同じ環境だと妙に親近感が湧き、彼に接触するようになった。

「シーモアは、どうしてこんなにネットのこととか、詳しいの? パソコンも自作しちゃうしさ。そのプログラムも自作なんだろ?」

 なにかの折に聞かれたので、過去は伏せて、小さな頃からの友達がこいつだったからだと、今の時代では馬鹿にされるようなパソコンを示すと、彼は笑った。

「分かるよ、僕もずっとそいつと友達だ」

 その調子で、二人でシェルター内の有名な電気街に出掛けた。自作のパソコンを見せてもらったが、高価な部品なんて何一つ使わずに、彼なりの美学で作り上げられた「キフジン」という名前のそいつは、なかなかにクールだった。

「部品に金をかけない奴は初めてだ」

 馴染みのジャンク屋の店主に頼んだプレミアがついているボードの在庫を聞いている最中に、そう呟くと、彼は興味のなさそうな様子で、今時珍しい携帯型のオンライン用端末にくっついているストラップを弄った。

「与えられたものの中で、最善を尽くしたいだけなんだ」

 変わった奴だと、お気に入りのスイーツ専門店に連れて行って話してみると、彼は慎重で実に聡明で、優しい男だと気付いた。ただ、いつも青白い顔をして下を向いているので誰も彼のよさに気付かないのだ。

「リュウは、どうしてこの大学に入ったんだ?」

 そう問うと、少し考えた仕草をしてから、「親友のことが知りたかったから」と答えた。

「僕のお父さんは、TRIDNTに勤めていて、系列校に通った方がいいんじゃないかって言われたんだ。でも、僕は、TRIDNT以外の視点から、僕の考えを通して、見て見たくなって」

「親友のために?」

「自分のために」

 随分と過保護に育てられたのだろうか。酷く慎重で、いつも何かに憂いているようなことを彼はいう。

「親友はどんな奴なんだ?」

「優しいよ。三人組で仲がいいんだけど、僕ともう一人が何だかんだ色んなことに右往左往しているうちに、自分なりの最善を見つけて歩いているような。色々と、強いからそういうことができると思うんだけど」

 彼の調べたい親友のことが、パイロット候補生になったと聞いて、そういうことかと思った。アラートを聞いて、いつものことかと耳栓を付けてそのままレポートを再開する者さえいる。カナリヤ砲を経験したシーモアは、いつも怖くてたまらない。手も震える。だが、それと同時に、無いと思っていた正義感が腹の底から沸き起こる。自分の母親を殺した者を、心底憎む気持ちだ。クラーケンなどは、この世から抹殺すべきだ。だが、第三次世界大戦を集結するには、あの兵器は必要不可欠だった。もし、パイロットになることが叶ったなら、自分はどうするだろう。

「シーモア、なんか腕の光ってるよ」

 父親から安否の連絡が腕の端末から入る。無事だと伝えて、パソコンにアラートが上がっているのを見つける。

「ん?」

 命の恩人である電子機器に対して、非常に深い感謝を覚えると同時に、自分としては敬意のある彼らが悪用されるのだけは嫌だと思っていた。ネット上で知り合った有名なハッカー集団と交流をしていると、彼にこのサイトを一緒に守ってもらえないかという案件がいくつかあった。その中の一つが、アタックを受けている。地下ネットワークに作られた音楽用のサイトだが、かなり有名なハッカーが作り上げたAIプログラムに守られていたが、パトロールしていたホワイトハッカーたちに見つかってアタックを受けているらしい。ファイヤーウォールにアタックをかけているのは、複数の人数だ。くじらがやってくるとその影響で手薄になるオンライン上のサイトがいくつかある。そこを経由して、顧客情報に入り込み、さらにそこから芋づる式にアタックをかけ続ける厄介な連中がいることは知っていたが、ついにその連中に見つかったらしい。知り合いのチームで対応にあたるが、人数が足りない。隣に居た流星にも声をかける。

「流星、このプログラムを組んでくれ」

「え? 今?」

「今だ。知り合いが厄介な事態に巻き込まれてる」

 押しに弱い彼は、こうして、何回か色々とプログラミングを頼んだことがある。その度に、深く聞こうとはせず、彼らしい堅牢たるものを作り上げて返してくれる。

「ええと、どんな事態に巻き込まれてるの?」

 意外にも、そう聞いてきた。

「驚いた」

「え?」

「いや、他人の事情に深く入り込むのは良く無いんだと、君は思っているタイプかと思ってたので」

「友人が困っていたら、助けるのは当たり前だけれど、流石にこれだけ膨大な量の情報を守るプログラム組めって急に言われたらどんな事情があるのかと聞きたくはなるよ」

 受け身だと思っていた彼の言葉に驚いて視線を向けると、端末の画面をこちらに向けてくる。

「そこは、要するに秘密クラブだ」

「えっ」

「安心しろ、セクシャルなやつじゃない。旧時代の音楽愛好家たちの、集いの場だ」

 中の画面を見せてやると、普通の飲料品専門ECサイトのようにAIプログラムが立ち上がり、お気に入りの銘柄を聞いてくる。そこに、特定の銘柄を打ち込むと、右上のカートの中に特定の銘柄が入る。そこで、購入案内に進んでいくと、途中でパスワードを問われる。そこでようやくIDとパスワードを打ち込むと画面が切り変わる。

「くじらの出現で、音域に制限が入っただろう。くじらが襲いかかるのは何ヘルツの、云々は昔から言われていたが、そこにTRIDNTからの正式のお達しだ。誰も異を唱えることはできない。世界中から特定の音楽ジャンルが衰退した」

「僕の父さんも、昔はレコードをいっぱい持ってたけど、捨てたって」

「許可が降りて、その規制音楽を流せるのは、機会も含めてほんの一部だ。まあ、違法だが、そういう旧時代の音楽に飢えてる連中が集まってお互いの情報を交換したり音源をプレゼンし合うような、そういう場だ」

「TRIDNT至上主義の一部の団体からしてみたら、なかなかな環境だね」

「その辺の過激な連中からのアタックだというのは分かる。それに、最近グミ・エラトっていうアーティストが流行ってるだろ」

 画面から顔を上げて、流星は不思議そうにこちらを見つめる。

「知らないのか、グミ・エラト」

「知らない。音楽は聞かないから」

「その秘密クラブの誰かが共有した情報を、秘密クラブの会員がラジオで流したらしい。そこから、有名プロデューサーが共有して、一気に拡散されたらしい。旧アムステルダム、旧インド諸国、そこから、日本まで時差が生まれて、次々と旧アジアに広がった」

 それまで、ヘッドフォンをつけて何やら論文を書いていたミシェルが顔をあげる。

「何の話?」

「グミ・エラトの話」

 ミシェルは片眉を器用に上げて、「あー、あの流行りの」と言って顔を戻した。その脇から入り込んだのは、風花だった。それまで、兄からだという連絡に怠そうに対応していたのに、旧に前のめりになって喋り出す。

「おいおい、君たち本気か」

 哲学科の教授陣が一斉に自宅に帰ってしまったため、風花は講義が全部飛び、そのままこのカフェテリアでゲームを進めるつもりだったらしい。

「グミ・エラトが、どういう存在か分かってないのか?」

 兄がTRIDNTに勤めているらしい風花も変わり者だった。大学に入るまでは、天才少年で通っていたらしいが、彼はその知性をもっぱらゲームに消費している。

「グミ・エラトはまさにこの鬱屈した世界に舞い降りた女神だぞ」

「女の子なの?」

「声質は明らかに、女性のものだ。今は、色々と変えることができるが、彼女の歌は色々と検証されている。言語は英語だが、色々と癖がある。旧アジア圏ではないかという説が有力だ」

「どう、女神なのかわからんな」

 風花はそわそわと揺れながら、唾を飛ばす勢いでシーモアに顔を近づけてくる。

「彼女の歌を聴いたら、誰しもが恍惚とするんだ。我々には感知できない周波数の何かが出ているのでは無いかとも言われているが、そんな陳腐なものじゃ無い。彼女の紡ぐ言葉は、実に詩的で、センシティブ、かつエモーショナルだ」

「はあ」

「音楽規制の中で、生き残ったのはリラクゼーションだとか、クラッシックのごく一部だとか、ニューラブ系だとか、ハイパークラッシック系だとか意味不明なジャンルが現れて音楽の主要な人の心を揺さぶるものが抜け落ちた中に、彼女は彗星の如く現れたんだ。音楽規制なんてものともしない彼女の曲を聴いて、みんな気づいた。音楽は本来、美しいものであり、心を揺さぶるものであり、人類に寄り添うべきものであるとね」

 残っていたおにぎりを食べようと手荷物をごそごそとしていた流星が半分聴いていないような返事を返していると、ついに風花は端末を操作して音声をマックス値にし、噂のアーティストの音楽を流し出す。

 成る程、正体不明の彼女の声は美しかった。

「これが彼女の最新曲、ク」

「ちょっと待って、この声、これがグミとかいう人?」

 風花が苛立ちも露わに「そうだよ」と返事をすると、それまで呑気にしていた流星の顔色が一気に変わった。

「音楽規制の音域無視してないか?」

 シーモアの呟きに、風花は「それがいいんだ!」と胸を張る。正直呆れる。

「何のための規制なんだ。俺たちが生き残るためだろう。それを、いっときの娯楽のためになんで無に返すんだ。お前たちは、馬鹿なのか?」

 急に端末をごそごそ弄りだした流星が顔を上げた。

「僕、この人知ってる」

「ん?」

「この、エラトとかっていう人の、声」

「そりゃあ、知ってるだろうよ、これだけ流れてば」

 悩んだ様子で、何かを思い出しながら、ゆっくりと流星は言葉を探すようにあたりをきょろきょろとした。

「そうじゃなくて、この声の持ち主」

「は?」

「どういうことだ!」

 風花が親の仇のように揺さぶり、シーモアが驚いて顔を覗くと、揺さぶられながら流星は、驚きながらも、何処かで嬉しそうに、端末を示した。

 彼が流した曲はグミ・エラトの代表曲をアカペラで歌う女の声だった。

「まあ、声はたしかに似てるが」

「この曲は、もう何年も前に、本人から聞いたものだ」

「本人から?」

「僕の幼馴染が、多分、そうだ」

 流星は少し泣きそうな顔をして、それから風花から流れる音楽に耳を傾けて、両手で顔を覆ってから呻くように「良かった」と絞り出した。

「もう、随分と前に、音楽はやめてしまったのかと思った」

「流星と幼馴染ということは、若いのか。流星はスキップしてるもんな」

「どんな子だ!」

 二人に詰め寄られて、少し力なく笑いながら、流星はポケットの中から旧世代の端末を出して、ストラップを撫でた。

「僕の幼馴染は、いつも何かと戦っていて、でもその戦いは、いつも自分ではなくて家族の、僕かもう一人の幼馴染のためもので、だから、言葉は悪くて、不器用だけど、とても、優しい子なんだ」

 何度も、「良かった」と繰り返した流星は、涙を零した。シーモアはその様子にカフェテリアのナプキンを差し出す。

「リュウの幼馴染は、英雄なんだな」

 そう付け加えると、辺りに一斉にアラートが鳴り響く。個別の端末に強制的に鳴るようになっているKアラートだ。

「シェルターが閉じたのに、どうしたんだ?」

 端末を弄る前に、ミシェルが鋭い声を出す。

「シェルターが襲われてるわ。私たちの区画よ!」

「おいおい、どういうことだ、俺たちの区画だけじゃ無い。どんどん情報が流れてくる。同時に一気に来てるんだ、ここだけじゃない、色んな国の、主要なシェルターが襲われてる。くじらが群れになってるんだ」

 自分の端末を見ていた流星が、急に立体投影をし始める。鞄の中から、投影とリンクできるキーボードを取り出して、リンクしながら、コントロールして、次々と画面を展開させていく。

「おい、リュウ?」

「僕の幼馴染の居場所が、おかしい」

「どういうことだ」

 赤く光る丸いマークが点滅し、中央に配置されている地図は、見覚えのある地形だった。

「僕は、僕らだけが使えるネットワークを構築してる」

「何のために? え、お前そんなん見つかったら一発だぞ」

「僕らの故郷の第3シェルターは、多くは監視対象だった。僕の父さんは、TRIDENTの幹部だし、僕らは、母親が誰かわからない。同じシェルター内の僕と同じ年頃のみんながそうだとは、思いたく無いけど少なくとも、僕の幼馴染はパイロット候補に選出された。彼女が拒否したら、僕らのどちらかが選ばれるかもしれないと、脅されたんだ。だから、僕らは家族である僕らのために、ネットワークを構築したんだ。せめて僕らの間だけでも、連絡を取り会えるように。持っている端末はフェイクだ。直接、発信してるのは、それぞれの耳の軟骨に打ち込んでる」

 言葉を失っている三人を無視して、流星は素早く構築してあるネットワークを展開させて、ローカルで自己構築してあるネットワークに繋ぐ。「彼女」を呼び出すためだ。

『流星、久しぶりね、愛しい人』

「湖の貴婦人、僕だ」

 隣でシーモアが悲鳴をあげる。「湖の貴婦人だって!?」と流星の肩を掴むが、それに構わず続ける。

「詩綾の発信アドレスを渡すから、彼女が今何処に居るか、教えて」

 文字配列で微笑みの表情を構築した彼女は、柔らかくこちらに手を伸ばす。その手に顔を傾けて、片耳を差し出す。端末が埋め込まれた方だ。湖の貴婦人と呼ばれたAIはそこから、構築されたネットワークから、外の世界に飛び出していく。

「流星、どういうことだ。お前、湖の貴婦人って、TRIDNTのアーサーの前世代に作られたAIと名前が同じだぞ? 何処かのウィザードが構築してた伝説の存在だぞ」

「湖の貴婦人は、僕が構築したんだ。父さんと一緒に。アーサーは、彼女の構成を基礎として、TRIDNTの人たちが作り上げた存在だ」

 質問にだけ答えて、貴婦人が寄越した座標を展開させて、そこに向けて周辺の衛星の角度を変える。

「おい、そのコード。嘘だろ、キラー衛星じゃないか」

「貴婦人と一緒に世界を巡る度に、色んなネットワークの情報から、色んな衛星たちとも話したよ。彼らは言語を持っていて、僕は、彼らの声を聞く力があるんだって、思ってた。実際は、プログラミング言語で話してるだけなんだけどね」

 淡々と話すその横顔を信じられないものでも居るような顔で見て居ると、「みんなそんな顔をして、僕を見る」と彼は答えた。

「リュウがクレイジーなハッカーだっていうのは、この際どうでもいい。グミは今何処に居るんだ」

「旧ハワイ諸島上」

「彼女は、あんな溶岩に飲み込まれた島の上で何をしてるんだ? 第三次世界大戦の後に、人が国外退去した島だよな」

「物凄い勢いで移動してる。貴婦人、この速度は?」

『流星、彼女は今、こちらに向かって居るわ』

「どういうこと?」

『正しくは、彼女を飲み込んだものは、という言い方が正しいわね』

 顔色を変える流星の頬を、貴婦人は数字で出来た手の甲でそっと撫でる。

『52ヘルツのくじらに、彼女は飲み込まれたのよ』

「飲み込まれたってことは、まだ生きてる?」

『生命維持は、まだ出来て居るわ。くじらの内部構造のデータが何とも言えないけれど、彼女はまだ生存して居る。少なくとも、今は』

「貴婦人、父さんとの連絡は」

『繋がらないわ。アーサーと交渉したけれど、拒否された。彼に接触するには、直接内部に入らなければならないわ』

「……地図を」

 GPSで座標を確認した後、端末を取って踵を返そうとした彼の腕を、シーモアが掴む。

「どこに行く気だ」

「父さんに会わないと」

「この混乱の最中、シェルター内を移動するのか? 今、くじらに襲われてるんだぞ! 俺たちは避難経路を辿れって、指示が出てる」

「みんなは、逃げて。僕は行かなきゃ」

 走り出す彼の後を、三人は無言で追いかける。驚いて振り返ると、「こんな面白そうなこと、追いかけないはずがないだろ」とシーモアは言い、「彼女に会えるなら行くぞ!」と必死の形相で楓が言い、ミシェルは「友達でしょ、水臭いわよ」と答えた。


 シェルターが閉まると、いつものことだと静観していた人々がいつものように道を歩いていた。彼らの歩みが変わったのは、見えるはずのない空がシェルターの隙間から見えた時だった。誰かが悲鳴を上げて、続いて一斉に隙間から覗いた何かの反対側に走り出す。

 人々が走る中、一人の男は、ゆっくりとした足取りでシェルター内の繁華街へ向かう。人々が建物の中から慌てて逃げ出し走り出して行く中、繁華街の奥まった商店街の少し細い道を抜けると、風俗店が並ぶ中に、小さなバーの看板が見える。看板によって入り口が塞がれて居るような細い階段を降りると、小さいが品の良い雰囲気の店の中に酒の匂いが混じる。音楽もかかっておらず、薄暗い中、中央に置かれたグランドピアノからポロポロと音が鳴っている。自動演奏だ。そのグランドピアノを避けるように設けられたテーブルに、突っ伏している男が一人いる。店員も逃げ出したのだろう。

「真瀬」

 声をかけると、男は動かない。肩に手を置いて、無理矢理身体を持ち上げるように押す。

「おい、起きろ」

 無理矢理起こされた男は、呻きながら、薄目でこちらを見上げる。記憶の中での男は、色男で有名で、幾人も女性に声をかけるような快活さと、妙な人懐っこさがあったが、見る影もなかった。目は虚で髪はボサボサに、彼の魅力の一つである癖毛が伸び放題にあちらこちらを向いている。流石に美しい鼻梁はそのまま保たれているが目の下のクマや伸びた髭に、色が悪くガサガサの唇が薄く開き、見るも無残な姿に成り果てていた。皺くちゃの白いカッターシャツには酒を零したのだろう、シミがついている。

「真木か」

 ため息を吐くようにそう呟いて、男は前のめりになる。

「私だ、起きろ」

 頬を叩いて、男が持っていたグラスを奪う。

「真木、ユズが、好きだって言った……リズムが上手く取れないんだ」

「お前の娘が、くじらに食われたぞ」

 それまでぼんやりとしていた様子が目が開かれて、男を見つめ返す。

「詩綾をどうした」

「食われたんだ。くじらにだ」

「どういうことだよ」

「そのままの意味だ。君の娘が、くじらに襲われて、食われた。だが、彼女の生体反応は失われていないと、連絡が入った。ポンズが救出に向かったが、ポンズは、カナリヤ砲を撃てるが、それだけだ」

 真木の胸ぐらを掴み、男が顔を近づける。

「あの子が、生きているのは本当なのか」

「そうだ」

「いつ、食われたんだ」

 真木は、腕時計をちらりと確認して、「一時間前だ」と言った。

「くじらが複数現れて、次々と世界各地のシェルターを襲い始めた」

「くじらは、一匹で行動するんじゃないのかよ」

「俺たちの十六年の記録ではな、だが、その記録ももう意味がないかもしれないな。奴らは群れをなして、この地球にジャンプしてきている」

 男は顔を覆い、何度か拭うような仕草をした後、立ち上がろうとして失敗して、机から転げ落ちた。

「ユズは」

「彼女は、またパイロット候補者の脳を壊した。今のところ、有力な候補者も、くじらに食われている」

 真木はゆっくりと、跪いて、男に顔を近づけた。「お前の娘が、一番有力なパイロット候補者だった」と囁いて、男の濁った瞳を見つめる。

「詩綾が」

「徹の研究が成功したということだ。我々がこの世に送り出した子供達が、この世界を救うんだ」

「……子供達に戦争をさせるのかよ、真木」

 頭を抱えて、呻く男の首根っこを掴み、真木は囁く。

「今更何を言うんだ。その為の我々だろう。クラーケンを創り出した我々が、この責任を負わなければならない」

「俺はただ、ユズと話しただけだよ」

「何を今更、そんなことを言う。十六年前、お前がその声を使いユズコショウと対話し、彼女から聞き出したことを使って、徹はポンズにカナリヤ砲の撃ち方を教えた。そして、カナリヤ砲を撃ったことで、くじらが現れた」

「戦争が終わるからって、徹に頼まれただけなんだ」

「自分の所為ではないと言いたいのか? 何の利害関係も無いと? クラーケンの遺伝子を組み込んだ子供を育てて置いて? 今更そんなことを言うのか?」

「詩綾は、ユズの娘だ。俺には、もう本当に、それだけで十分だった」

「ユズコショウと同様の遺伝子を持つ子供だ。娘とは違う。彼女は、この世界のために産まれた。お前はただの養父だ」

 胡乱になる男の肩を掴み、がくがくと前後に揺らして、「出来損ないのな」と吐き捨てて、真木は立ち上がった。

「だが、ユズコショウの好む音質を保ったまま、彼女は育った。そこはお前のおかげとしよう。徹もその点も考慮して、お前から彼女を引き剝がさなかった。さて、昔話はここまでにしよう、涼介、お前が望んで居たことだ、もう一度ユズコショウに会わせてやる」

 フラフラとしながら、男は頭を机に打ち付ける。その衝撃で、柔らかい声が自分を呼んだ。

『涼介』

 賢い彼女は、その言葉だけで、真瀬涼介を受け入れた。優しい声音、ピッチは完璧で、絶対音階を持つ彼の耳に彼女の声は素晴らしいアリアのように響いた。

『私たちクラーケンは、貴方達と同じ波長では会話して居ないのを優しい貴方は知っているでしょう』

「ああ、そうだね、君の声は、とても綺麗だあ。脳に直接届く神様からの啓示みたい」

 美しい声を褒めると、彼女は嬉しそうに笑った。そう、幼馴染に報告すると、肩を掴まれた。

「しっかりしろよ、何言ってんだよ。クラーケンは笑わない。人真似をしているだけだ、どうしてそれが分からないんだ、涼介」

「俺は、彼女と心を通じることが出来たんだ。彼女たちクラーケンは、人の手が産み出した、未来への切符だ。クラーケンは、確かに、深海から人が産み出した不自然な生き物かもしれない。でもさ、彼女は、海の記憶があるっていうんだ。分かるかなあ、彼女は、海を泳いだことがあるって言うんだ。彼女の声が音叉のように、遠くに響いて」

 手を伸ばすと、音色が見えた。共感能力も高く、音に色が見える能力があった真瀬は、水槽の中に居る異形の生き物に音楽を見た。美しい七色の色彩を纏った彼女は、神話の女神のように海への郷愁を教えてくれた。

「彼女は海に還さなきゃいけない!」

 セイレーンの歌声のように誘う声に抗えない真瀬がクラーケンの実験施設に火を放った。炎に包まれていく世界の中で、呻きながら、ユズコショウの声音を聞いていた。鷲崎徹が、真瀬の行動にヒントを得て、クラーケンの特質を調べて、やがてクラーケンのカナリヤが産まれた。

「俺は、世界を終わらせる為に、彼女と話したんじゃ無いんだよ! 綺麗だったんだ、ユズの声が、ただ、綺麗で」

 呻きながら、両手を見下ろした。この手のひらに、小さい手のひらが乗せられた日のことをもう思い出せない。頭を掻きむしりながら、頭の中を支配する音色から必死に意識を逸らす。

「真木、真木。真木! お前はその為に来たんだろ! ユズと話して生き残ったのは、俺だけだろ?」

 薄汚れて油の匂いがする指先の間から、真木が顔を寄せてくる。

「そうだ。彼女の声に耐えられたのは、君だけだよ、耐えられたとはとても言い切れない状態だったがね」

「ポンズはカナリヤ砲を撃つだろう。それじゃあ、また、人が食われる」

 真木は、言葉を待って居るようだった。時間を惜しむように、人としての時間を放棄した男が、こちらの様子を呑気にも見て楽しんでいる。だから答えた。

「俺をユズコショウに乗せてくれ」

 男は望んだ答えを手に入れたのか、満面の笑みを浮かべた。


                  四

2037年2月12日

第一シェルター地区

 もう、この仕事も終わりなのだと、速報を聴きながら、岩田は思った。

「健二郎さん! 何呑気に加奈子ちゃんからのお土産食べてるんですか! 避難命令出てるんですよ!」

 20畳あるかないかの、なんだか狭いのか広いのかわからないオフィスに詰め込まれた机の一つをあてがわれて、今まで一度も掃除したことがない。食玩のコレクションは埃にまみれ、資料という名前のタブレットが積み上げられて、今は懐かしのアナログ原稿が段ボールに入ったまま机の下を占領している。昼食がわりのトムヤンクンフレーバーの携帯食があちらこちらに転がっている。この我が家のような安心感を齎す場所も、今日でなくなってしまう。そんな感慨に耽っていたかった。ゆっくりと、食玩の横に置かれた家族写真を手に取る。赤ん坊を抱くまだ若い細君がこちらを見て微笑んでいる。

「んー、これ食ったらな」

 携帯端末に、娘からの連絡が入っている。妻からも激怒の連絡が入っている・退職祝いの席は流れたが、とにかく居場所を教えろとのことらしい。居場所を簡潔に返して、荷物を整理しなければならないなと、ぼんやりする。

「健二郎さん!」

 岩田健二郎、報道記者。と書かれた名詞とも向き合い、後輩の新婚旅行土産を頬張る。

「健二郎さん! 速報出てます!」

 タブレットを持ったまま隣の部署から走って来たカメラマンの男がその場で映像を投影する。シェルター内での避難命令の速報から、いつも以上に慌ただしくなったオフィスが一瞬喧騒を止めて、皆映像を食い入るように見つめる。シェルターの内部からの映像だ。いつものようにドーム状にせり上がったシェルターの白い壁を追っていると、あるはずのない空が見える。悲鳴が上がり、空の向こう側から、ぬっと黒いものが顔を出した。

「くじらか」

「TRIDNTの動きは?」

「例の、真木特務一佐が声明を発表しています。非常事態宣言と共に、迎撃体制に入るため、一般市民は誘導に従い、避難せよ。ですって」

「真木、ねえ」

 隣で食い入るように映像を見つめていた新婚旅行帰りの後輩が、猛烈な勢いで端末を捲り始める。

「健二郎さん、真木一佐って、あの例の、クローンの噂がある人ですよね」

「どっかのパークのキャラクターみたいに、世界で見渡すと同時には二人存在しない仕組みになってるがな。が、どう考えても死亡している事故に巻き込まれていても地球の反対側で生存確認されてる。ありえんだろ、どう考えても。上には、俺たちに知らされていない人間を培養する施設が組み込まれてるんじゃないかって言われているな」

 アラートによって会議が飛んだと怒り狂った汐入が帰ってくる。彼女は新婚帰りの後輩の菓子を奪って貪った後、爪を噛み、ぎりぎりと歯を鳴らした。

「特務機関だかなんだか知らないけど、情報統制盾にとって、秘密の儀式とか行ってるんでしょお。分かってるんだからねえ。国民は騙せないわよお。さっさとクラーケン出しなさいよ」

 第三次世界大戦終戦後産まれの後輩の言葉に、岩田は苦笑する。TRIDNTという組織は、降って湧いたように人類の救世主として担ぎ出されて十五年が経っただろうか。52ヘルツのくじらという脅威に対して、特務機関である明らかに急凌ぎの組織に、最初は反発が多かった。そもそも、TRIDNTという組織はどう産まれたのか。有識者を集め結成とあるが、その前組織というものがあり、そこに真木啓司、鷲崎要の名前がある。彼らは元々、海洋研究を進めていた科学者のチームの一員であり、彼らがクラーケンを産み出したと言われている。

「健二郎さんは、第三次世界大戦で、戦場に行ったんですよね」

「俺はね、一応呼び出しに応じて、基地には集められたよ。戦闘訓練が始まりましたよって時に、カナリヤが鳴って、それどころじゃなくなった」

「そもそも、戦争って中国の春を起こすためにロシアが侵攻して始まったんですよね」

「お前、それ教科書通りだろ、ちゃんと勉強してないのか?」

「情報統制世代なもので」

「あーまったく。あのな、第三次世界大戦は、ロシアが中国に侵攻して始まった。始まりは、アメリカの北朝鮮への攻撃だったがな。世界の近郊のバランスが崩れたんだ。ちょうど、異常気象も各国で起こっていた影響もある」

 戦争を経験していない岩田の世代は、戦争を楽観視していた。すぐに終わるものだろうと思っていたが、中国の春と呼ばれる戦争による情報革命がもたらした大改革が起こり、第三次世界大戦が一気に拡大し、悲惨なものになった。

「当然、日本も参戦になる。そんな時だ、急に、クラーケンが現れた」

 強力な生物兵器が投入されたロシアへの侵攻で大量の死者が出たという。クラーケンの登場は当初、情報が錯綜していたためキングコング登場のような扱いをされた。資源も国力もない弱貧国の最後の足掻きのような嘘によるプロパカンダだ。そんな呆れにも似た、現体制への不満がネットに溢れる頃、ロシア近郊の小さな国が消滅したという情報が入ってきた。

「クラーケンは、あっという間に状況を一変させた」

 イカにも似た巨大な化け物が進行する度に、次々と国が消滅していく。凄まじい勢いで、情勢が変わり、世界の地図が書き換えられていく。長らく政治不信に陥っていた日本のマスコミはクラーケンの登場に一気に態度を変えて感嘆や賞賛を惜しまなくなった。このままいけば、この国はこの世界を代表する富が舞い込むと、そんな卑しい考えも何処かにあった。少なくとも岩田はそんな空気を感じていたし、事実みんな明るくクラーケンの存在を受け止めていた。そして、ついに終戦の日がやってきた。中国が革命で解体し、ロシアもクラーケンの活躍でアメリカへとの講和を再び結び、世界に平和が取り戻された。スーパーヒーローとアメリカでは鷲崎徹の存在が大々的にニュースになり、それにつられるように日本のマスコミたちも戦争の英雄たちを称え始めた。そんな最中だった。

「最初は、一匹だけだった。そもそも52ヘルツのくじらは、専門家の間では有名なまあ所謂都市伝説みたいなものだった。昔から観測されていて世界中のあちらこちらに、現れては消える。そんな存在だった。そいつが現実ものとして現れてたまげているうちに、アメリカのロサンゼルスが無くなったと聞いた。人がみんな、くじらに食われたんだ。為すすべがないまま、たらふく子供も女も、男もじーさんばーさんも、みーんな平等にかっ食らったどデカイのが消えて、大騒ぎしたのはアメリカだ。すぐに先鋭チームを作ったが、そうこうしているうちに、くじらは世界各国に現れて人を襲い始めた。戦争終結だ賠償金だとか言ってる場合じゃない。色んなものを立て直す前に、くじらは襲ってくる。そんな時だ、クラーケンに乗って戦争の大英雄様が、くじらと戦って勝った。そっからだ、あっという間にTRIDNTが出来て、国連からの委託機関だと言われて全世界の子供達に一斉に検査をしてくじらが何故やってきたのか、クラーケンしか倒せなかったのか、そんな風に世界中大騒ぎだ」

 国民は、原因を欲しがった。有識者の見解で、くじらは音に反応しているのではないのかという発表の後、クラーケンが原因ではないのかと誰かが叫んだ。

「カナリヤ砲はまあ、簡単に言えば音で人の感情を増大させて内臓を自己破壊へ導く、ってやつですからね。音っていうと、他に原因ないかもじゃん、みたいな安直な思考ですよね」

「これがまた、その後もくじらが定期的に来るのがいけなかったのよ、要因が見つけられないでジリジリする、まあストレスは溜まると爆発するわけで」

「第二次世界大戦後の、東京裁判みたいなことが、鷲崎徹周辺で起こった」

「ま、責任の所在を国民は求めたがりますからね」

「所詮、この国は、村社会が根底にあり、身内しか信じない。妬み嫉みもあったが、何よりクラーケンという存在の脅威が強かった。当然の拒否反応と、思いますけどね」

「陰険だからなあ」

「真木は当然、鷲崎徹を庇った。そうして、あの巨大組織TRIDNTの顔役として連日マスコミを騒がせる存在となりました、ちゃんちゃん」

「最後端折りましたね」

「だって口疲れてきちゃった」

 無言で後輩に渡された菓子の包装を千切っていると、後輩は持っていたコーヒーも手渡してくれる。

「真木啓司、ねえ。東京大学の研究室から、ハーバードに行ってるんですよね」

「鷲崎徹とはハーバードで会ったというが、こいつらの経歴ってめちゃくちゃエリートだしどのつくオタク何だけど、その後に何で急にクラーケン研究でチームを作ってるのかが謎で。このクラーケン研究は元々、小早川・A・アンダーソンっていう研究者が居たんだが、ノーベル賞も取っている凄い博士の研究なのに、途中から消息が曖昧になっていて。病気になったって言う話もあるけどな」

「TRIDNTを作る前に、実はある組織が彼らに接触してたっていう噂もある」

「ある組織?」

 タブレットで検索して示してやると、うわっと一斉に声が響いた。

「keraunosって、あれですよね、秘密結社的な」

「都市伝説かと思ってた」

「そこから、色々と技術が彼らに渡ったっていう話だが、嘘だか本当だか知らんが、いよいよもって、宇宙大戦争でも始める気なのかもしれんな」

「そんなことよりまず、国民を守ってほしいよ」

 あちこちの記者たちから共有ルームに情報が上がって来る。

「ああ、いよいよやっこさんたち、群れでおいでなすったのか」

「クラーケンって一匹しかいないですよね」

「第三次世界大戦で使われようとしたのは、一匹だけじゃないっていう話だが、その辺は全然教えてくれないからなあ」

「軍部にお金流しても、全然情報くれないって怒り狂ってましたよ」

「金なんてね、こうなっちゃ、もう意味はないんだろうな。上の連中は、一体、どんな気持ちでクラーケンをくじらと戦わせてるんだろうな」

「やれトマホークだ、やれ戦車だっていったって、もうあの規模じゃ手の打ちようがないからな」

「人食いブラックホールみたいなもんなんでしょ、ようするに」

 バリバリと、岩田の菓子を齧る音だけが響く。避難用サイレンが鳴り響く中、誰しもがもう動こうとしない。

「パイロットは、女の子だって話じゃないですか」

「ああ、この前のクラーケンの?」

「日本人の、女の子だって。鷲崎徹は、クラーケンに乗って、きっとパイロットになった子みたいな女の子を守りたかったはずじゃないのかな」

 つられたように、みんなお菓子を食べ出す。

「そんなこと、鷲崎徹になってみなきゃわからんよ」

 岩田の言葉が響く頃、サイレンが一層大きくなり、その横で緊急放送が始まっていた。岩田はそそくさと上着を着始める。

「岩田さん、何で上着着てるんです?」

「決まってんじゃん。現場行くんだよ。最後に、くじらがガンガン飛来してくるの見たいじゃないの」

「奥さんとか、娘さんとか待ってるんじゃないんですか?」

「奴らが待ってるのは、俺じゃなくて退職金。カメラマンの子居ないの? 一人で行っちゃおうかなあ」

 お菓子を食べて居た一人がカメラマン室に走っていく。その様子を眺めてから、岩田は窓の外から上空を見上げる。無機質な白い壁が、まだそこには広がって居た。


                  五

2037年2月12日

宇宙ステーション『アヴァロン』

 深海魚のように裾がちらちらと光るスーツを着込んで、クラーケンの住まう水槽の中に身を投じる。こうして入るのは、何度目かもう分からない。柔らかい感触の液体の中でドルフィンキックをすると、息を吸うように満たされた気持ちになる。

 スーツのお陰もあるし、この液体が水とは違い、空気も含んでいるので息苦しくないからかもしれない。朝起きて陽の光を浴びた感覚に近いのかもしれない。すっかり、泳ぐことと歩くことが同じ割合になってきている影響なのか、陸上生物という自覚が薄らいでいるからかもしれない。自分が変わっていく感覚が、心地よい。

『要くん、アヴァロンから飛び出す経路は、我々が誘導する』

「了解」

 頭の中を覗いて来る大人たちの声が聞こえて、胸が軋む。

 ――お父さんも、こんな気持ちだったのかな。

 いろんな人間の批判に晒されても、いつものように朝を迎えて、弁当作りをする父親の背中が浮かぶ。他愛のない会話が今は、懐かしい。

「要」

 不思議な声の響き、優しい気配。両手を広げてその場に止まると、深い青の中から彼が現れる。ビニール越しのゼリーのような体が少し動くたびにたわむ。伸びてきた手腕が要の頬を柔らかく撫でて行く。

 初めて出会った時、ただ恐れを抱いた相手が今は一番安心する。

「要、いよいよ君と一緒に戦えるんだ」

 ワクワクしているというように、彼の体がゆらゆらと揺れた。

「この前は怖かったよ。またあんな風に、怖い想いをする?」

 その言葉を待っていたかのように、クラーケンは「君がそんな風に思わないように、一緒に戦うよ」という。

「ポンちゃんは、怖くない?」

「恐怖を抱くかってことかい? 人間の抱く恐怖心は、生存戦略だ。危機回避能力だと思う。でもクラーケンであるところの私は、そんな風に感じたことはないんだ。いつでも、死は身近なことで、愛すべきものだから」

「愛すべきもの?」

「死とは無であり、無に帰るということは、回帰するということになる。この世界は、生命が絶えず回帰して次の生命へと繋がっていく。生命の連鎖というもののなかに、私が仲間入り出来ることだと理解している。クラーケンとして、産まれたこの私が、輪の中に入れる。それが、死への想いだ」

「そっか。でも、私は怖いよ。お父さんが死んだ時も、きっとポンちゃんが死ぬかもしれない時も、怖い。死は、別れだから」

 父親ならどう言うだろう。未来のために、死も厭わないと言うだろうか。答えは出ないまま、クラーケンに導かれて、彼の内部に入り込んでいく。

 初めて彼の中に乗り込んだ時、無我夢中で何もわからなかったが、彼と一緒に居て、訓練を重ねるうちにクラーケンの中に入るということは、自分の中にも彼を受け入れているということにもなると気付いた。

 ――私は、ポンちゃんの大切な心臓で、反射板。

 そう教えられた。クラーケンは、パイロットがいなければカナリヤを鳴らすことができず、戦うことが出来ない。彼らがそういう構造の、生物兵器だからだ。人が、彼らをそう作った。

「パイロットを乗せないように作られていたら、ポンちゃんはもっと自由に戦うことが出来たのかな」

「私のような生き物は、人にとってただ闇雲に恐怖を煽る脅威だ。枷だと考える人もいるだろうね。でも、私は少なくとも、一人で飛び出していく生き物でなくてよかったと思っているよ」

「寂しい?」

「一人でただ戦場に出ていくなんて、それはただの人殺しの道具に違いないからね」

 警報が鳴り響き、穏やかだった液体の中が大きく揺れて、波が起きる。

『クラーケン、パイロット搭乗。ハルモニア値安定、リュトモス波発射、パイロットは衝撃に備えてください。アヴァロン、第三形態、クラーケン誘導システム開始』

 無機質な声が響いて、目を閉じると、世界がゆっくりとたわむ。意識がクラーケンと混同しそうになるのを保ちながら、ゆっくりと自分の体のありかを探して、まぶたを持ち上げる。

『要くん、見事な搭乗だ。君が着ているパイロットスーツはクラーケンの外皮を培養して作られている。君がクラーケンと同調しやすいよう助けになってくれると同時に、君の身体を守るために役立つように出来ている。間違っても脱ぐなんて馬鹿な真似はしないでくれよ』

 目の前に展開される誘導システムに身を委ねているうちに、柔らかい声が思考に入り込んでくる。

「ポンちゃん?」

「私は呼んでない、違う区画でクラーケンが誰かと同調しようとしてるんだ」

「クラーケンが?」

 世界がクリアになる前に、大きな振動で前のめりになる。目の前にアラートが次々と並んでいく。

「ユズコショウだ! 勝手に、水槽を出て行くつもりだ」

「ユズコショウ? あの中に居ないと、危ないんじゃないの?」

「パイロットも居ないのに一人で出て行くのは、無謀だ。要、彼女の区画へ移動するように、棗に指示を仰ごう」

 目の前の誘導システムにエラーが並んだまま発射孔に向かおうとして居た体を方向転換する前に、大きく世界が揺れた。遠くで轟音が響き、液体の中が大きく揺れる。

『駄目だ! ユズコショウに隔壁を突破された。そのまま成層圏に向かってる』

「追いかけては行けないんですか? ユズコショウを、追いかけないと」

『今はそれどころではない。許可できない』

「ポンちゃん、ユズコショウはどうして、逃げるの」

 問いかけると、僅かの躊躇いの気配の後、クラーケンは吐き出すように答えた。

「ユズコショウの、パイロットを救いに行くためだ」

 クラーケンは、ワームホールを自分で作ることが出来る。その中に入り込んで、移動先に抜ける。異次元のトンネルを自分で開けることが出来るのだと、教えられた。まるで何かを求めるかのように飛び出したユズコショウの姿を、クラーケンの中で見ていた要はふいに疑問を口にする。

「ユズコショウは、パイロットを求めて、地球に降りたけど、パイロットが居なくても自分でワームホールが作ることができるの?」

「強度の足りないものしか作れない。パイロットが居ないクラーケンは、無力だ。自分を傷付けると分かっていても、ユズコショウは行ったんだ」

「そんなに、パイロットが大切なんだね」

「何よりも。私達の存在意義だから」

「ユズコショウは、ポンちゃんにとって、大切な存在なんでしょう?」

「ああ、彼女は私の兄弟なんだ。ずっと、一緒だ」

「その大切な存在が危険なことをしているんなら、追いかけなきゃダメだよ」

「ワームホールを作るには、アーサーのバックアップが必要だ。そうじゃないと、君に余計な負荷がかかる」

 胸が締め付けられるような痛みを感じて、要はパイロットスーツの上から、胸を押さえる。

「要? どうしたんだい、君は、何だかとても体調が悪そうに見える」

「私は、大丈夫。それなら、行こう。私は、大丈夫だから、ね、行こう。大切な人を迎えに行かなきゃ」

「ああ、ありがとう、要」

 アヴァロンの構造を、頭の中で映されて、要は呻きながらそれを展開させる。アヴァロンは箱舟であり、現代の研究施設を主とした現代の重力を生み出すためにモジュールセントリフュージが採用されている。巨大なクローバーが、重力を保つために回転しているのだ。その回転に巻き込まれないように、発射孔が設置されているが、クラーケンのブースター構造は複雑だ。ワームホールを口から展開し、その中を通り抜けながら、次の空間に移動して行く。そしてその心臓部である要は、そのフィードバックを受ける。衝撃に耐えながら、息を吐いた。


                  六

2037年2月12日

第一シェルター地区

 今時ラジオDJなんて古代の職業だと、昨晩飲んだ相手に笑われた。現実として、メディアの枝葉が伸びて閉まった現在では、ラジオの地位は限りなく低い。ドライバーという職業が自動運転技術によって十数年前に消えてから、彼らによって支えられていたリスナー層が大幅に激減した。青春のモラトリアムから抜け出せなった際にラジオに救われた身としては、それは悲しい出来事だった。

「それでも、俺はラジオのマジックを信じてるんだ」

 大真面目に友人に言うと、「最後に生き残るのは、ローカルだからね」と牛串を食べる片手間に答えられた。

「実際、音声っていうのは、人に強烈な印象を植え付けるよな」

 リスナーから届いたメールを見ていた構成作家が、背もたれに身体を預けながら顎を撫でた。

「好きだった女の子の声は強烈に覚えていたりするしな、それがトラウマに繋がっていたりする場合がある。眠れない時、ラジオを聴いてるだけで一人じゃないって思えるし。音って偉大だよね」

 二人で構成を話し合っているうちに、薄汚くなったスタジオブースの扉が開かれる。

「グミ・エラトの新曲が配信されてます!」

 ディレクターが何をそんなに息を切らせているのか分からないが、彼の言葉を要約すると、今話題のアーティストの新曲が配信されたのでそれに乗じたいとのことだった。

「今週のプッシュアーティストだし、すぐに出しましょう!」

「はあ、じゃあ、その曲は流すとして、今週のメールテーマ何にする?」

「どうせなら、その曲にテーマ合わせようよ。ええと、手川ちゃん、その曲名なんだっけ?」

 本番が始まり、ディレクターが中で残り、外でミキサーに指示を出されつつゆっくりとメールを読み上げる。ここのところ、くじらの襲撃が増え始めて不安だとニュースで取り上げられるが、ラジオDJに届くリスナーの声はいつもの通りだ。誰かに恋をしている、不倫をしているが不安だ、上司がムカつく、道で老人に飴を貰った。リスナーと一緒に笑ったり、怒ったり泣いたりするこの時間が、涙が出るほど幸せなのだ。

 特務機関だかなんだかが、情報規制をしているという動きがある。噂で聞いたことがある。彼ら子飼いのハッカーたちがネットを監視しているのだと。だが、自分はラジオの力を信じている。この世界の人々の声を、信じている。突然やって来る宇宙生物のことが人生の全てではない。人間は、音楽を楽しみ、愛を語り合い、子供を祝福する生き物なのだ。そう、勝手に信じている。

『ヨーマイメン、それじゃあ次はこの曲。バイブス全開でみんながエレクトしちまうかもしれないけど、そこはピースにいこう。グミ・エラトの新曲、最高にメロディアスな祈りの歌だ。クレイジー・グレイス、チェキラッ』


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