第3話 クラーケン

2036年10月12日

第三シェルター地区および第二地区の海岸付近

 黄昏が、シェルターの向こう側に落ちていく。遮られることによって作られる影の角度で、明確に境界線を引かれたように感じて、幼馴染達と強く手を繋ぐことがあった。

 旧埼玉県の海が見えるその地区は、安全が確証された特に生存率が高いシェルターとして、移住している人々も有名人やアーティスト、奇跡的に当選した僅かな住民、そういった人種が入り混じって、本の中にあるような普通の街とは違っていた。

「旧時代の海外ドラマの、ほら、へんな人が住んでいるような街と似てるかも」

「へんな人が住んでる街?」

「政府の実験場で、異空間の中にあって、実は住民皆、科学者の街でしたみたいな。何十年も同じ姿で、中には入れるけど、外には出られないような」

 自分の言葉に、勝手に傷付いたらしい詩綾の言葉を聴きながら、鷲崎要は、自分の故郷について思いを巡らせる。詩綾が言う程、明確に変な街ではなかった。シェルター内に学校や商店街、病院などの施設が存在して、外に出る必要があまりなかった。特別外に出ていくと言う住民も少なかったように思う。

 修学旅行の日に、隣町のシェルターに出て一つ気がついた点があった。朝、街の人が、外に働きに出て行く時の活気があった。要たちの街は、その活気が少なかった。

「シェルター内で働いている人が多いからじゃない。ほら、リニアとか使うなんて、遊びに行く時くらいじゃない?」

 シェルター内に、娯楽施設は多数あるが、妙な窮屈さを感じて、外の海を見に行ったりなんかしていた。リニアの駅はシェルターの出口脇にすぐなので、大人たちに適当な言い訳をして、よく行ったように思う。無機質で長いエスカレーターに乗って、上を見上げるだけで頬が熱くなった。

「流星、あんたさ、そうやって海の成分調べてるとかマジ引くからやめてよ」

「ん? いや、成分じゃなくて、潮の満ち引きを調べてるんだよ。こうすれば、どれくらいのエネルギーで波が起きてるかとかが計算できるって父さんが教えてくれたから。それに、僕のAIに色々と覚えさせたいし」

「ごめん、マジ何言ってるのかわかんない」

 流星を馬鹿にする詩綾も自分の作った曲をお気に入りのラジオDJに送っていた。シェルター内でデータの転送をすると大人たちにバレるからと、メール越しで評価だけを受けるのが楽しいのだと口を緩めて電波の良いところを探していた。

 最新式の生活家電用ロボットが稼働するシェルター内は妙な静けさと清潔があるが、商店街は人工的な手が加えられてレトロな雰囲気がある。郷愁を誘うように人の手で感情を管理されているような居心地の悪さがあった。

 三人で放課後出かける旧埼玉から旧東京に向かい、その途中で広がる剥き出しの海岸近くの工場は違った。朽ちた鉄には錆がこびりつき、元々の形状がわからなくなるほどひしゃげた何かが工場内で息を潜めるように放置されている。

「この建物は、クラーケンのカナリヤを聞いたのかな」

 詩綾が恐々と建物の入口の案内板のようなものに触れながら囁く。電波状況が一番良い場所は、その案内板のすぐ下あたりだと、彼女はよく発表していた。アスファルトの隙間から不揃いに生える草が彼女のお気に入りのスニーカーにさわさわと触れては、風に揺れる。妙な静けさと、安堵を覚える鉄の錆びた匂いが、何故か要の胸をざわめかせる。

「この辺りの地区は、カナリヤ砲の範囲内ではないよ」

 工場の目の前に打ち寄せる海に何かを放り込んで、端末と繋いでいた流星が答えて、立体投影をして詩綾を呼ぶ。

「ほら、ここ。僕らが立っているのは、カナリヤ砲が届かなかった地区。被害がなかったけれど、当時の情報操作でみんな逃げたんだって。そのあとは、シェルター内に再編成されて建設されてるから、この辺の区画は整備の対象になったんだろうね」

 わざわざ頼んでも居ないのに見せてくる流星に詩綾が唇を歪めて「あーそうね」と適当に返す。それから気を取り直した詩綾が軽い足取りで、ゆっくりと、あたりを見渡してから、自分の携帯端末を操作して音楽を流し始める。くじらが反応するという音を取り除いた最近の流行曲ではなく、詩綾が自分で作った音楽だ。彼女は軽やかに、柔らかく歌い始める。

「しーちゃん、あんまり、そういうの流さないほうがいいよ」

「どうして?」

「いや、だってくじらが今来たら、どうすんの」

「使っちゃいけない音階なんて、そんなの本当に存在するの? ニュースの話なんて、人真似する妖怪の話を聞かされてるみたい。どれも本当じゃないし、たいした意味なんてないのよ」

 そう言い切って、詩綾は、自作の音楽を流してはよく歌った。彼女の父親は、世界的にも有名な音楽家だった。クラーケンのカナリヤが生まれるきっかけになった実験に、参加した一人とも言われている。カナリヤ砲で世界は救われた。少なくとも、教科書にはそう載っている。大抵はそれでも、と続く。

「要のお父さんだって、わたしのパパだって、世界を救ったのに悪いって言われるわ。世界中から、生物兵器なんて使っちゃいけなかったって」

「うちのお父さんは、いろんな言葉で責められるよ。いつも黒い服を着た人たちが、裁判だとか、講演会だとか、そういうのに来いって言う」

 幼い要と一緒に一度、父親は逃げたことがある。誰にも知られずに、朝方旧型のバイクに乗って道を走った。この工場まで来て、朝日を見た彼は、「帰ろう、要」と急に声の調子を変えた。

 理由を付けたがる人々の責めの言葉に、要の父親は色々な言葉を使うことを諦めて、笑顔を浮かべて頷くだけだった。

「どうして、言い返さないの」

 酷い言葉を浴びせられても何も言わない父親に問うたことがある。彼は、童顔だと人によく言われる円らな瞳を瞬かせたあと、少し遠くを見るように細めたあと、口の端を持ち上げた。

「その人にとっては、それが真実かもしれないから。そういういろんなものを、受け止めると覚悟を決めて、あの時、俺はポンちゃんと一緒に戦ったんだ。だから、それぞれの人にとっての真実は、全て受け止めることにしてるんだ。それら全てに対して、きちんと立って居られる男で居られたら、きっとこれからも要を、守れるお父さんでいられると思うから」

 この工場の向こう側の海際を見つめて、父親の声がゆっくりと波音と重なる。

「きっと、いろんな場面において、それぞれの人々の真実や事実は、それぞれの人々には大切なことなんだよ。でも、それは私たちにとっては、大した意味はなくて、私たちの行動を制約するものじゃないんだ」

 要の言葉に、詩綾は満足したようにうなずいて、軽やかな足取りでひび割れたコンクリートに描かれた白い線を踏みながら、歌う。二人の幼馴染の前では聞かせるこの美しい声を、詩綾は学校や父親の前で聞かせることはなかった。一度、父親の前で聞かせた時に、それまで酔っ払って居た彼が急に正気を取り戻し、かつての同僚に電話をかけて、詩綾を音楽が盛んな国に留学させようとまでしたことがある。詩綾はそれから、人前で、二人の幼馴染の前以外で決してその美声を聞かせることはなかった。


                  二

2037年2月12日

宇宙ステーション『アヴァロン』

 掲げていた携帯端末を下ろして、幼馴染の歌声が聞きたいと、ふと思う。すぐ近くに見える青く光る星はガラス製の人工物のような気がして、触れようとして反対側の腕を掴まれた。掴まれた先を見ると、宇宙服を着た初老の男が立っていた。

『足を踏み外したら、いくらクラーケンでも君を見つけ出すのは一苦労だよ』

 人懐っこい笑顔で、ほらおいでと手で招いて来る。彼の示す方向に向かう前に、もう一度振り返った。携帯端末に先ほどの画像を添付して送ると、幼馴染たちの既読が付く。彼らの言葉を確認しないまま、老人の背中に付いて行きながら、自分の足元を確認する。老人が着ている宇宙服はずんぐりむっくりとした大きな作りで、ところどころ塗装がはみ出ている、関節がぎこちないゴム製で出来ているような、昔の映画に出て来るような不格好なスーツだった。それに比べて、要の宇宙服は、パイロットの特別製だという全体的に身体に沿って作られていて、クラーケンの表皮によく似ていた。フルフェイスのヘルメット以外は全身をぴったりと覆っていて、体を覆うもう一枚の皮膚のような作りをしている。足元の感触も、そのまま伝わって、自分たちが全長60キロメートルもの巨大な人工物の上を歩いているのだと教えてくれる。彼よりも宇宙に適応しやすいスーツを着ているはずなのに、老人の方が足取りが軽やかだ。

『アンソンさんは、ここに住んで長いんですか?』

『うん?』

 アンソン・アンダーソンと名乗った老人は、この人工物、宇宙ステーション『アヴァロン』の外壁を清掃する仕事を請け負っているという。要が新たな住居として充てがわれた住居モジュール近くの外壁用ハッチから出入りする彼と顔見知りになり、話しているうちにこの秘密の宇宙散歩に連れ出してくれるようになった。

『このアヴァロンは、我々が立っているところからじゃよくわからないが、ちょっと不格好な四葉のクローバーみたいな形をしている。あの採光スリットが入っている実験モジュール群がほら、四つあるだろう? 丸いパンケーキを四つ切った様に中は区切られているんだ。我々の立っている住居モジュールは、いわばパンケーキの上に乗った丸いチェリーみたいなものかな。分かるかい?』

 分かるような分からないような説明で、彼はアヴァロンの外を見せてくれる。

『アンソンさん、外壁がキラキラ光っているのはどうして? パンケーキが常時回ってるのは、重力を作るためだって、教えてもらったけど』

『太陽電池パドルだよ。分かりやすく言えば、太陽の力を掠め取って自分たちの生活に使っているんだ。地上と一緒だ、生命を維持するのに、人は太陽が無いと生きていけない、残念ながらね』

『それでも、酸素も何もない宇宙でこうやって生きていける環境を作るなんて本当に、凄いことだと思う』

『――不可能にこそ可能性がある』

『え?』

『いいや、昔の偉い人の言葉を思い出していたんだ。私の娘も君のようにいつも何かにワクワクしていた』

 アーモンド色の優しい目で、アヴァロンを見つめては、色々と説明してくれた。優しい彼の言葉に頷きながら、青い星のことが気になって仕方がなかった。

『地球でのことが気になるかい?』

『友達を、残して来たから』

『そうか、私も、色んなことを地球において来てしまったよ』

 老人は、個人的なことは多くは語らなかった。ただ、アヴァロンの外壁はもちろん、内部も熟知しているようで、住居モジュールから実験モジュールへのドッキングモジュールが緻密なパズルのように組み上げられていると教えてくれた。

『このステーションは、宇宙を旅する宇宙船としての機能も備わっているんだ。そんな時が来なければいいけれどね』

 ドッキングモジュール内は、巨大な菜園になっている。試験的に植えられた植物たちが自由に成長したため、密林のようになってしまったそこが、彼の家だという。

『どうして?』

『私の仕事が無くなってしまうからさ。私の仕事はあくまでもアヴァロンの外壁整備だ。宇宙まで付いてはいけないよ』

『ここが貴方の家だから?』

『そう、ここが我が家だ。スーツが無ければ生命が維持できない、一歩踏み出せば死が待ち構えている、美しい夢の詰まった我が家だ』

 エアロック内でしばらく過ごさなければならない彼を置いて、要は住居モジュールから彼が教えてくれた四つ切りのパンケーキの一つ、実験モジュールの第1区画に向かう。アンソンと顔見知りになると、このアヴァロンの中には科学者だけではなく、整備する人々が多く存在することに気付いた。それほど、この宇宙ステーションは巨大なのだ。

「要、ほら、この前貸した本の続きがみたいって言ってただろう」

 住居モジュール内の整備や修復をしている技師と毎朝の訓練前に挨拶するようになって、やがて彼が日本のコミック好きだと知り、その話題で話すようになった。そのうち彼に本を借りるようになった。

「ありがとう」

「今日もクラーケンのとこに訓練に行くのか?」

「うん、その前に、ドクターのところに行くつもり」

「ああ、あのクールなドクターのところか」

「そう、定期検診。本は明日返すよ」

「ああ、感想教えてくれよ」

 彼は整備をしているというが、主にステーション内の機械の整備をして居るという。施設内の多くは機械の手で制御されているが、それだけではない部分をメンテナンスする人も居る。

「睡眠時間は、安定しましたか?」

「はい、ブラック先生」

 医者も、彼女のような精神科医が常駐していて、定期的に受けるようになっていた。血液検査やその他のデータを照らし合わせて、サプリメントを処方される。それを受け取って、医療区画を抜けて、アンソンが言うところの四つ葉のクローバーの茎部分、巨大な円柱状の実験モジュールに向かう。目的の区画に行くには、いつもエレベーターが使われる。リニアのように窓の外が真っ暗なエレベーターを抜けて、『実験モジュールセッション2』と書かれている区画に入る。アヴァロン内は、特に要が通る区画には人が少ない。誰も居ない区画を、抜けて、二つ扉を開けると、途端にプールのような匂いが鼻をつく。シャワールームのようなものがある部屋の手前のロッカーで訓練用パイロットスーツに着替えて、エアシャワーを浴びてから、巨大な扉の前に立つ。

『角膜照合、パイロット認証しました』

 人工的な声と共に、巨大な扉が開くとそこは、見渡す限り、プールが広がって居る。プールというにはあまりにも巨大なので、本当はここは湖の一部で、要は誰かの嘘に付き合わされて居るのではないかという気分になる。

「ああ、来たかい」

「こんにちは」

「彼の調子は良いみたいだ」

 このプールを管理して居る数人の男性が行き交う。

「ちゃんと寝たかい?」

「君と彼との数値はとても良いけれど、無理はしちゃダメだ。君はまだ細いからね」

「君のスーツの改良が良かったからね、プールの濃度も調整してある。息苦しいことはないと思うよ」

 彼らに背中を押されて、プールの上を走る鉄骨のような手すりを歩いて行く。水族館の水槽の上を歩くのは、こんな気分なんだろうかと、いつも思う。天井から垂れ下がるぷよぷよとした管のようなものがあちらこちらに張り巡らされて、それらがたまに脈打つ。巨大なダクトのようになっている上を歩いて行くうちに、飛び込み台のようなものが目の前に現れる。下には、一メートル先は濃い藍色をしているだけの液体が僅かに波打っている。

 そこから下を覗くと、いつも恐怖心が生まれる。この下に飛び込んでも、もしかしたらこれは幻想で何も受け止めてくれないのかもしれない。そう思ったとしても、要はそこに飛び込んで行く。これまで出会った人々のことを信じて、その身を投じるのだ。


                  三


 宇宙ステーション「アヴァロン」は、箱舟だ。この惑星に見切りをつけて、次の人類の移住を探すためにさまざまな施設と人類の叡智を詰め込んで建造された。その形は、四つ葉のクローバーに似ている。四つに見える葉の一つ一つは実は小さな実験モジュールの集合体である。植物プラントや実験用プール、果ては人類の遺伝子バンクまでの施設が作られさながら神に挑戦するように悠然と回転し続け重力変換だけでなく、太陽電池パドルから取り込んだエネルギーを施設の維持などに供給し続けている。

「箱舟には重量制限がある。ノアも選定には苦労したろうよ」

「ノアの場合、災害から逃れて逃げ込んで来たんだから、彼の選定じゃないだろ」

「そうだっけ?」

 トムヤンクンフレーバーの宇宙食を口の中に放り込んで、技術者たちの会話を聞き流して、ゆっくりと重力制御されている施設を歩いて抜けると、培養プラントが広がる広大な空間に出る。

『やあ、棗』

 培養プラントの中で漂うワカメのように見えた生き物が、そっと彼女に話しかける。

「昨日ぶり、ソーメン。調子はどうだい?」

 TRIDENTの生物兵器部門の主任である小早川棗がゆっくりと培養プラントのコンソールに自分の身に付けているセキュリティブレスレットを近づける。データを照合しながら、目を細めた。

「長い間、君の活動細胞の動きをモニタしていたけれど、活発期に入る兆候が見られるね。さすが兄弟、ポンズが活動域に入ると、君も共鳴するみたいだ」

 数ヶ月前のくじらとの戦闘で一匹のクラーケンがパイロットを乗せて戦った。戦ったクラーケンが顕著に示した活動細胞の動きが、ソーメンと呼ばれたワカメのような生き物の細胞の中にも見える。棗がソーメンを先の大戦の後回収し、培養プラントの中に入れてからモニタし始めてもう十七年にもなる。その間に、ワカメ状になった彼の姿が元に戻る気配はなかったが、彼らクラーケンを覆うネバネバの保護液が分泌され始めていた。ゆっくりとだが、修復機能を回復させ始めている証拠だった。

『棗、君の表現は正しくないな。奴と私は、兄弟ではないよ。同胞というやつだけどね』

「同じ戦場を駆けたクラーケンなのに?」

『棗、君は、同じヒューマンでも職場の同僚を兄弟とは言わないだろう? そういうことさ』

「言う人も居るよ、私は体育会系特有のマッチョイズムに付随する仲間意識という集団の連帯感を感じ難い性質ってだけで」

『私も君と同じだ。同じように戦場を駆け、パイロットを乗せて、人類の贖罪をいっしょくたに背負わされたとしても、私は、彼とは兄弟ではない。少なくとも、もう二度とここから外には出れないしね』

 数値を確認しながら、小早川がゆっくりとした仕草でブレスレットを翳そうとすると、培養プラントが震える。一瞬動きを止めた小早川が離れるより早く、一部が割れ中から培養液が漏れ出した。その奥から、ぬっと長細く黒いものが伸びて、小早川の腕を掴む。

「私たちを管理した気になっているか、兄弟」

 調整のされて居ない、艶やかで美しい声が黒いものから響く。

「管理じゃない。ただ、知りたいんだ。私たちがどこに向かっているか、とかさ」

「そんな明白なことを知りたいのか? 君たちが向かっているのは、混沌だよ。もしくは、無だ。宇宙の始まりと等しく」

 小早川がプラント脇の赤い緊急停止ボタンを押すと、あちらこちらから白い煙が噴き出してくる。腕に巻きついて居た黒いものが、白い煙にあたって干からびていく。ゆっくりとそれを外して、小早川は一歩下がった。

「その始まりが、いつ起こるのか、私たちは知りたくてたまらないんだ」

 ゆっくりと踵を返して、歩いていく。緊急停止ボタンが押されたこのプラントを含んだ区画は、数分以内に隔離され、除染作業が始まるからだ。


 手渡されてた候補群の多さに、少々頭が痛くなる想いをしていると告白すると、手渡して来た相手であるブライトン・ネモは笑った。

「いやあ、ごめんごめん。悪気はあるんだよ」

「あるんだ」

 ブライトンの優しい熊を連想させる風貌に毒気を抜かれて、データ量にうんざりしている風花隆二は気分を落ち付けようとデスクに戻ってトムヤンクンフレーバーのポップキャンディの包装を剥いていた。ようやく口の中に奇妙で癖になる味が広がる頃、この生物兵器部門の主である主任の小早川棗が現れた。

「最低だ」

 オフィスのドアが開いた途端に彼女はそう言った。エンジェルリングなんて宇宙の彼方に捨ててしまったようなボサボサの髪の毛を適当にポニーテールにしている彼女は、化粧っ気のない童顔を歪めて、一番奥の自分のデスクに戻って、もう一度言った。

「最低だ」

 デスクにドミノのように積んであるトムヤンクンフレーバーの宇宙食を一つ手に取って包装を乱暴に剥き始める。

「私が大切に大切に見守っていたソーメンが、除染になった。モニタできない」

「さっき、警報鳴りましたよね」

「プラントのガラスを割って、ほれ、この通り」

 腕に残っている赤黒い痣を見せて、小早川は呻いた。

「ちゃんと成分分析に回しました?」

「今私の端末に転送してもらってる」

 端末ブレスレットを机のノートパソコン型投影装置に繋いで、データを投影させる。彼女の仕様はすべてのデータが一気に投影されるようになっているので、小早川はプログラムをいくつか立ち上げてそれらを精査していく。一気に結果データが表示されるので何十というウィンドウが立ち上がるが、それらすべてを一瞬で読み取った小早川は腕を組んだ。

「活動期であることは、分かった。今までの何十倍というスピードで、修復されている。これは、予測されていたことだ」

「現存しているクラーケンの中で唯一活動が可能なポンズがパイロットを見つけたから?」

「カナリヤを使ったから、かな」

 ポイっとデータを横に流して、いくつかを積み木のように並べ替えて、小早川はもう一度腕を組んだ。

 映像が流れ始めて、クラーケンに少女が吸い込まれていく。

「この女の子、うちの管轄を通さずに、真木さんが直接連れてきた子ですよね」

「不可解なことに、奴には確信があったらしい。アーサーや我々に何の相談もなしに、独断でエレベーターに乗せたっていうから、驚きだよ」

 クラーケンと適性があるクラーケンのマッチングは小早川たちが行なっていた。新任としてこのオフィスにデスクが存在するようになって数ヶ月も満たない風花は、例外を聞いたことがなく、驚く。

「パイロットの女の子は、鷲崎教授の娘さんだ」

「うへぇ、ヘビーだ」

「先の戦争の英雄と言われた男か」

「通称、英雄ね。彼がクラーケンのカナリヤを初めて発動に成功させたパイロットだ。彼が成功しなかったら、クラーケンは完成せず、笑戦争は終戦しなかった。多分ね」

 画面が切り替わり、クラーケンの内部構造が投影され、現在のモニタされている数値がリアルタイムで表示されていく。

「クラーケンのパイロット候補はあと何人居るんでしたっけ」

「居ない。最後の子は、先月ユズコショウに同調し過ぎて意識が戻ってない」

 風花は持っていた資料を抱え直す。彼が持っているのは、全世界のシェルター内で安全が確認されているパイロット候補になるデータ群だった。アヴァロンのAI「アーサー」が大幅な処理を手伝ってくれるとはいえ、最後に候補生たちをこのアヴァロンに招くか決めるのは小早川であり、このオフィスの中にいる人間だ。

「チーフ、真木さんが呼んでます」

 後方から響くコールに、小早川は舌打ちして、「私の端末に繋げ」と返した。風花はブライトンと二人、パイロットの少女をじっと見つめる。制服姿の少女は、髪の毛は短く少年のような姿形をしている。

「でも、女の子なんだよなあ」

 自分の持っている資料の重さに呻きながら、ついそう呟いていた。

「英雄の娘っていうのは、どんな気分だったんだろうな」

「安全が保障されている。シェルター内の一番安全な区画に住むことが義務付けられて、年金も一生食うに困らない金も毎月振り込まれる。だが、この女の子を見ていると、そんなことが保障されていたとしても、言葉もないな。宇宙に呼ばれて、兵器に乗るように運命付けられ、人類の未来のために、戦わなければならない」

「その通りだ、ブライトン。我々は、人類のために戦う。生き残るために。君がそんな感傷に浸るなんて珍しいな、我々は水先案内人だ。海の魔物に襲われて転覆寸前のこの巨大な船の舵を取る。さて、そんなことはいい。真木に呼ばれた。ブライトンは一緒に来てくれ。風花は、そのまま候補生を絞れ。アーサーと手分けして、ユズコショウの歴代のパイロットの子孫でも共通の遺伝子情報でも持つ人間を探すんだ。年齢制限は大幅に引き下げる」

 パイロット候補生は、16歳以下と決まっているが、自己認識が確立されている年齢以上という規定があった。

「えっ、どこまで下げるつもりです?」

「赤ん坊までだ」

 言い置いて、早歩きでスタスタと小早川はオフィスを出て行く。ブライトンも慌てて追いかけて出て行く。その大きな背中と小さな背中が消えるのを見ながら、風花はため息をついた。持っている資料の重さが、増している気がする。仕方なくデスクに戻り、自分の端末とAI「アーサー」を繋げる。

「アーサー、ユズコショウと一番マッチングするパイロット候補生を僕と一緒に探して欲しい」

『お疲れですね、カザハナさん。貴方のリクエストを受け付けました。処理の条件を追加してください』

「あいあい、りょーかい」

 資料のデータ群を次々と繋ぎ合わせて、アソートをかけて行く途中に、端末に緊急連絡アラートが鳴る。それは、家族に害が及んだ場合に自動的に鳴るように風花が仕掛けたものだった。慌ててアラート内容を見ると、弟が「くじら」の襲った地域にいるという。慌てて、端末を弟の連絡先に繋ぎ始めた。その横で、アーサーからの優先順位が高い順に候補者の名前が上がってくる。アーサーからの注目ポップアップが付けられている一人目の候補者の名前を出す。

「真瀬し……あ、詩綾って読むのか?」

 口に出す頃に、ようやく弟と回線が繋がった。


 彼女の話は、有名だ。ノーベル賞を受賞した高名な科学者の一人娘であり、史上最年少で大学を卒業し、次々と学位を取得して、あっという間に有名雑誌に顔を飾った。彼女の論文はセンセーショナルに報道され、史上最もIQが高い人間の一人と騒がれた。小早川棗は、当然のように人類の命運を掛けた壮大なプロジェクトの中核を担う人物として、その名前は知られていた。だが、その姿を見る者は大抵絶句する。

「それで? 私を呼びつけて何の用だよ、真木」

 彼女が現れたモニタルームに居たものみんなが、このボサボサのポニーテールの少女がかの有名な小早川棗かとしげしげ見つめる。視線には慣れている小早川はモニタールームの中央に座り、腕を組んでいた男に向かって声をかける。

「小早川、君が来てくれるのを待っていたよ。彼と彼女のデータはモニタしていただろう?」

「勿論だ。さすが遺伝子のなせる技、と驚嘆せざるを得ない。素晴らしい数値だ」

 真木の隣に座り込み、彼女も視線を上げて前方の巨大なガラスを見つめる。手術室の観覧席のようなつくりになっているガラスの向こう側は巨大なクラーケン用修復ドッグプールになっている。修復液のプールの中で、現存する生物兵器クラーケンの中で唯一稼働可能な「ポンズ」が少女と共に泳いでいた。寄り添うように、ゆっくりとポンズは進み、少女はポンズの目の上あたりに右手を置いて、ゆっくりとドルフィンキックをしている。

「ハルモニア値が安定している。問題はリュクス値だが、パイロットスーツの感度も上々だ」

 開発部の主任がモニターの数値を見てニヤニヤしている。その隣に立っていた兵器開発部の課長が顎に手を当てている。

「元々の身体能力が高いのは助かる。だが、彼女はクラーケンのカナリヤ砲に耐えられたが、強度が不安だ」

「結局のところ、パイロットはクラーケンにとって心臓部だ。彼らがどれだけ高い能力を持っていても、クラーケンの能力を最大限引き出せる遺伝子相性が重要だ。見ろ、ポンズの粘膜強度が高まっている」

「安心しているんだろう、何せポンズにとっては、兄妹同然の相手だ」

「彼女の肺は、ポンズと同じCK液体に耐性があるな」

「これだけ高い数値は、初めて見た」

「ドクターから見解は来ているか?」

「訓練後の視力低下や不整脈の兆候があると報告がある」

「単なるストレス反応だろう。これほどの耐性を備えているんだ、他の機能に問題が生じるのはある意味正常な反応だろうな」

 小早川は苛々と隣の真木に視線を送る。その視線に答えるように、彼女に向けて手をあげる。

「小早川、彼女は尾崎徹の娘だ」

「知っている」

「彼の遺伝子の特性を君は研究していただろう」

「遺伝子の変異性をな。鷲崎徹は、我々人類が禁忌とした事項をあっさりと飛び越えた存在だった」

 他の研究者たちが彼女に視線を送ると、小早川は真木を睨め付ける。

「おい、真木。彼女は本当に、鷲崎徹の娘なのか?」

 彼女の問いに答えずに、真木は座り直し、足を組み替える。

「くじらの次の出現予測はついて居るんだろう? 小早川」

「出ている」

 小早川が操作する端末から投影された予測地区と時間が表示される。瞬間、モニタールームでは声が上がったが、真木は足を組み替えるに留めた。

「ユズコショウのパイロットが居ない今、ポンズと彼女を出す以外に道はない。パイロットスーツは完成しているんだろう」

「彼女の遺伝子情報を組み込んで、20パーセントの誤差で彼女をサポートできる。前回の戦闘よりは、カナリヤ砲に耐えられるだろう。戦闘時に都度、誤差を修正しなければならないがな」

「100パーセントではないのが、我々人類の限界か」

「これでも十分な数値だ。ポンズは他のクラーケンに比べて、カナリヤ砲の精度が高い。振動が少なく、かつパイロットを反射に使う際に、他の個体よりも同調率が高いからだ」

「その分、パイロットの消耗が激しい。……小早川、鷲崎徹の生態維持の数値が落ち始めたのは何度目の時だ」

「一度目ですでに出ていた」

 少女のデータがあちらこちらに次々と映し出され、大人たちはそれぞれ嘆息しながらその数値を目線で追う。

「どうした、諸君。怖くなったか。これが人類を救うと誓った我々の冤罪だ。僅か15歳の少女を供物にして我々は進まなければならない。ひとまず、今のところは、彼女を失うわけにはいかない。そのための対策は、練った。成功を祈ろう」

 そう言い置いた途端、アヴァロン全体に、警報が鳴り響く。くじらが出現した際の警報だった。アヴァロンは人類最後の方舟であり、最後の要塞だった。四つ葉のクローバーの様な部分の太陽電池パドルが立ち上がり、シロツメグサの花びらのような形を取り基地全体が回転し始める。周辺を移動していた衛星達が集まり始め、隊列を組み始めた。

 モニターの先で、クラーケンと少女がゆっくりと向かい合わせ、クラーケンの腹の中に収まっていく。その様は、まるで我が身を差し出し人々を救わんとする聖母にでも見えるだろう。

 小早川は、ポケットに突っ込みっぱなしだったトムヤンクンフレーバーの宇宙食バーを取り出して剥き始める。もう何年もまともな食事をしていない。自分の死期を悟って、小早川に大量の宇宙食バーを贈りつけてくれた彼のことを、いつも噛みしめる。

 ――私は諦めないぞ、徹。

 第三次世界大戦で、それまで平穏だと信じていた世界は一変した。小早川は、故郷を焼き払った男の力ない笑顔を忘れない。食べ終わって手を叩いていると、ふと隣に座っている男の顔の皺が激減していることに気付いた。真木もまた、小早川同様、くじらの出現によって人生が狂った者の一人であるはずだ。

「なあ、真木。お前、何人目の真木だ?」

 男は、答えずに一笑に付した。


                  四


 肩で息をする自分の呼吸音だけがやけに響いて、目の前に展開する情報量に息が詰まりそうだった。胸の奥から湧き上がる熱量に息が詰まりそうだ。感情のコントロールができずに、こぼれ落ちる涙が首まで落ちて行くのをぼんやりと感じていた。

 ――宇宙は、綺麗だ。

 クラーケンの中から見る宇宙は、色が鮮やかだった。彼の視覚が人間より感度が高いためか、色の差異が胸に突き刺さるほどセンセーショナルなのだ。頭の奥に隠しているようなものが揺さぶられて、こぼれ出してしまうような極彩色の世界の中で情報が目まぐるしく行き交う。目の奥が鈍く痛んで、目を閉じても変わらない視界に絶望しそうになる。完全に彼の視覚と接続した視界は、吐き気がする。取捨選択が出来ない膨大な数字と言葉の波の中で溺れそうだ。

「要」

 クラーケンの声は、優しい。父親の声にも似て、少しビブラートがかかったような、柔らかなテノールが名前を呼ぶ。

「ポンちゃん」

「うん、カナリヤ砲を使った。君には負担だろう。今、君とのハルモニアを解除する。そのまま、ただ私の声に耳を澄ませて」

 彼の声を聞いていると、柔らかい気配を感じて、世界がゆっくりと白くなっていく。初めてクラーケンのパイロットとして搭乗したという記憶は、そこで途切れた。

 目が覚めると身体中から管が飛び出て巨大なモニタに繋がれている。学校の教室ほどの白い部屋の真ん中に置かれた水槽のようなものに沈められた自分は、ぼやけた思考の向こう側で大人たちが行き交い、話し合うのを聞いていた。

「ハルモニア数値がこれほど高いパイロットは、鷲崎徹以来だ」

「リュトモス数値は、あまり多く変動すると活動数値に影響が」

「小早川の指示だ、カナリヤ砲は、何度も撃てない。ユズコショウのパイロットは起動すらしなかった。パイロットは、カナリヤ砲を撃つ際の、いわば反射板だ。パイロットによって精度を高めている」

「強いハルモニアは、反射板を磨耗するのが分からないのか?」

「代わりは無いんだ。ユズコショウのパイロットが深い昏睡状態に陥ったのなら、この世界でクラーケンに搭乗できる唯一のパイロットとなる」

「ユズコショウは、ポンズよりもより強いハルモニアを求める。年齢が高すぎたんだ」

「くじらの次の予想時期は?」

 学校の教室では、いつも彼らのような大人たちの声が聞こえた。「戦争の英雄の娘」や「大罪人」や「戦争の立役者」という単語が行き交って、理由をつけては要に「可哀想な子供」というラベリングをしたがる。

「第三次世界大戦を終わらせたのは、通称クラーケンと呼ばれた生物兵器です。彼らのカナリヤと呼ばれる恐ろしい兵器により、いくつかの国が崩壊し、戦争が終焉を迎えたのです」

 歴史の教師が、淡々と告げる教科書の中に、自分の父親の名前を見つけて、要はいつもそれをなぞった。生物学者としてクラーケンを開発したチームの一員であり、クラーケンのパイロット第一号。

 世界を救った英雄でありながら、戦争を巡る大きな裁判が起きて、真っ先に起訴された。戦争の責任は、父親にあると、メディアが書き立てて、家の前に色々な大人たちが集まっては声を上げる。彼らの声に怒りを一番見せたのは、幼馴染の詩綾だ。

 彼らの存在によって、要は、立っていられた。パイロットの適性があると、突然押しかけてきた白い制服の大人たちの差し出す書類に、目を通しきる前に、その中の一人が囁いた「この区画の子供達は、みんなパイロット適性が高い」という言葉で全てにサインをする決意をした。何処かで、自分が誰によって生かされているか、勘付いていた。メディアに酷い言葉を投げ付けられても、要の父親はいつも何処かに仕事に出掛ける。シェルター区画の大人たちは、決まった建物に吸い込まれるようにそこで仕事があるという。閉まりっぱなしの商店街ではなく、デパートの店員ではなく、いつも皆巨大な何かの法則で動いているようだった。その法則の中から現れた白い制服の人間たちが示唆した事実から目を逸らすことはできなかった。

「君は、世界を救う存在になれるんだ」

 映画を見ていたり、何かの拍子に現れる『世界は英雄を求めている』という広告は、日常にいつも入り込んできた。心の片隅に居場所を作ったその誰かの願いは、それが希望であると教え込まれていた。誰かの救いになれるのなら、それ以上のことは、ないのだ。


 保護液の中でごぷっと口から水泡が現れて上方へと消えていった。色々なモニターが沈んでいる巨大なプールの中がクラーケンの住処だという。要は、戦闘が終わってからこの水槽の中で、巨大な相棒と対話をすることを日課としていた。

「私の幼馴染の一人は、歌がとても上手なんだよ。詩綾の歌が、今でもたまに、聞きたくなる」

「そうか、一度聞いてみたかった」

 それまで、要の話をゆっくりと聞いていたクラーケンは、息を吐くようにそう囁いた。

「ポンちゃんは、詩綾のお父さんの名前を聞いたことがある?」

「真瀬涼介、か。データとしては記憶しているけれどね、彼と会話したことはないよ。ただ、徹が、自分の友人の話をしてくれたことがある。素晴らしい音楽家が親友なんだとね。とても男らしくて、いい奴だと教えてくれた。多分、その真瀬涼介、という彼の話だと思う」

「いい奴」

 囁くと、唇は震えるが、声は出ていない。クラーケンとパイロットは直接テレパシーのようなもので会話できる。先ほどの思い出も、要が思い浮かべるだけで、クラーケンには全て伝わっているようだった。

「君たち子供にとっては、徹の言う『いい奴』なんて言葉がどういうものを内包しているかは分からないだろうね。君の記憶を見る限り、真瀬涼介はカナリヤ砲の後遺症の影響で、音楽活動に支障をきたしてアルコール中毒患者だったようだ。一緒に住んでいる要の友人は、とても辛い思いをしただろう」

 詩綾は、表立って父親を批判することはなかった。彼女の中で、父親というものが非難一辺倒の存在ではないと言うことが分かっていたから、要も流星も何も言わなかった。ただ、家に泊めて欲しいと言われると受け入れて、よく二人で夜中まで話し込んだ。

「それでも、私たちは自分の親を、選ぶことなんてできないから」

 クラーケンのお腹部分に頭を押し付けてそう心で言うと、彼は笑う気配がした。一緒に浸かって水のように見える透明な保護液の中に彼の口元から振動が伝わってくる。

「どうして笑うの?」

「要、徹がよく言っていた。俺の娘は、俺を選んだんだって。俺を父親にすることを選んでくれたから、だから守らなきゃいけないんだ。あの子の存在が俺を強くしてくれる。なんて教えてくれたんだ。彼が私に、父親とは何かを教えてくれた」

 両手で触れるように、クラーケンの皮膚に指を食い込ませる。クラーケンの体はふわふわとしていて、柔らかくて、ビニール袋越しのゼリーのような感触がする。パイロットスーツとして支給された金魚のひだがくっついたようなウェットスーツは、要が動くたびにひらひらとひだの先が明滅する。クラーケンに想いを伝えやすくしているのだと教えられた。彼に触れると、明滅がゆっくりになる。

「お父さん。……ポンちゃんには、お父さんはいるの?」

 生物兵器なので、試験管ベイビーだろうと予想がついたが、疑問に思うと、彼は少し唸った。

「ごめん、聞かなきゃ良かったかな」

「いいや、構わないよ。何て、説明すればいいのだろうと、考えていたんだ」

「嫌なら、答えなくていいよ」

「うん。そうだなあ。要、私はね、あらかじめ死ぬ期間が決められた個体だったんだよ」

 実験用マウスを頭の中に浮かべると、「そうそう、そんな感じ」と彼は笑った。

「ロシアが中国に進行して始まった先の大戦は、凄惨を極めた。核だけじゃなく、彼らは細菌兵器も持ち出したからね。要、私はそんな酷い戦争の最中、産まれたんだ。細菌兵器で遺伝子が変容した海洋生物に、私の父親であるところの男が、あらかじめ死ぬように設定した細胞を組み込まれた個体だったんだ。でも、私の元となる細胞は生き残った。彼が望んだ死を迎えなかった細胞を培養して、産まれたんだよ」

 戦争を巡る人々の嘆き、淡々と語る彼の声に耐えきれなくなったのは、要だった。彼に体を寄せて、抱きしめるように両手を広げてしがみつく。

「ごめん」

「どうして謝るんだ。要、私の存在によって、戦争は終焉を迎えた。父は死を望んだが、私の生存がこの世界をより良い道への選択へと繋いだ。それ以上の誇りはないよ」

「……お父さんは、貴方のことを喜んでくれたんでしょう?」

「父は、私を見て、化け物と呼んだ。世界に終焉を呼ぶ悪魔だとね。戦争が終わる前に彼は心を病んで療養に入ってしまったから、喜んでいたのかは分からないな」

 要は、目を閉じる。彼の言葉の違和感の根底の意味を悟った気がしたからだ。シェルター内の動物博物園に行った日を思い出す。広い庭園の中を練り歩き、立体投影された太古の動物たちは、クラーケンと同じトーンで鳴いた。歓声を贈ると、人が求めるような高さの鳴き声を、返す。気持ち悪いと父親に泣いて訴えた。

 ――ポンちゃんは、人真似してるみたいだ。

 体を離そうとすると、彼の手腕が伸びてきて、要の頬に触れた。

「どうしたの、要。しょっぱいものを食べた徹と同じ顔をしている」

 どう言葉にして伝えればいいのか分からず言葉を探しているうちに、耳元に誰かの声が聞こえた。スーツの内部から聞こえるようなその声は、女性のもので、クラーケンから離れて水槽から出るように指示された。安堵に息を吐くと、水泡が口から吐き出される。

「要、行くのかい」

「うん、呼ばれてる」

「……徹も君みたいな表情をした後は、しばらく来てくれなかった。要、私たちクラーケンは、君たちパイロットが居なければどうにもならない。君が必要なんだ」

 響きが違う彼の声をそれ以上聞きたくないと、その場を離れて水槽出口のダクトに向かう。大きなホースに吸い上げられるようにしてダクトの外に出ても、長い廊下が続く。足元は金網で、下はクラーケンの住処だ。途中に左右から吹き当てられるなにかの煙や、強い風を裸足のまま通り過ぎて、体にぴったりと張り付くスーツを脱ぐとようやく、白い扉が現れる。

 その扉を開くのをいつも躊躇うのは、その向こう側の人間たちが、何を考えているのか分からないと思うからだ。それでも、進まなければ、明日は来ない。どんなに責められると分かっていても、いつものように朝食とお昼のお弁当用のおにぎりを握っていた父親の背中を思い出す。どんな結果になっても、受け入れてそれぞれの事実の前に、誠実になろう両手を握り、その扉を開いた。


 着替えずに出て行こうとした要に、プールの整備員が手渡してくれたローブを纏って指定された扉を開くと、見知らぬ背の低い女性が立って居た。

「やあ、鷲崎要くん。私は小早川棗、なっちゃんと呼んでくれ」

 彼女は腕を組んで、足を広く開き、仁王立ちでにやりと口の端だけあげる。もしかしたら要より年下かもしれない見た目だが、彼女の口調では、明らかにこの施設の人間のようだった。

「あの、ええと」

「なっちゃん」

「あの、なっちゃん、さんは、誰ですか? 初めてお会いする方だと思うんですが」

 彼女は鼻を鳴らし、「ふふん」と言った後、顎を上げて告げる。

「私はなっちゃんだ。お姉さんと呼んでくれてもいい」

 高飛車に言い切られて、腕を掴まれる。

「君がポンズと会話するところは見させて貰ったよ、私たちに君は必要なんだ」

 彼女は迷わず歩いて行き、要が来たことのない区画に向かい、容赦なく扉を開いて行く。

「あの、なっちゃん」

「何だね」

「何処に、行くんですか?」

「何処に? それは君が考える必要のないことだ」

 要は唇を噛んだ。一ヶ月前、授業中に突然、教室に白い制服を着た男たちが入ってきた。腰を抜かす国語教師を押しやって、彼らは机の上にタブレット端末を置いた。父親が死んだことと、クラーケンのパイロット候補生としてアヴァロンに行くようにと。朝食を食べながら、今夜は同僚と飲みに行くので遅くなると告げた父親は、何ら大きな変化はなかった。いつもの朝が午後になって、急に歪んだ。幼馴染が泣く中で、ただ大人たちの言う通りに車に乗った。自動操縦で、家まで運んでくれるそっけない車だ。父親が一緒に逃げようと言ってくれたバイクのように風を切るものではなく、押し込められてただ荷物のように運ばれた。

 車の窓の向こう側に広がった空は、今立っている場所のように青かった。

「なっちゃん、私、死ぬんですか?」

 要の問いに、ようやく小早川は振り返った。彼女は笑いながら一歩踏み出して、要の胸に人差し指を押し付ける。

「私たち大人は、君を死なせないために、死ぬ思いをして、知恵を絞っている。断言しよう。君は、死なない。私たちが、絶対に死なせない。そのために世界中から天才を集めたのだからね」

 くるっとすぐに方向転換をしてから、さっさと彼女は歩き出す。身長は要より低いが、歩幅が広く驚く速さで進んで行く。手は冷たい。白い手の甲には血管が浮いていて、指先の皮は硬い。爪の色は紫色に近かった。細くて小さく見えるその体のアンバランスさに気づいて驚いていると彼女は肩で風を切るようにして、新しい扉を容赦なく開いて行く。

「諸君! 紹介しよう、彼女がクラーケン、ポンズのパイロットであり、我が同胞鷲崎徹の娘である、要だ。我々が求めていたニューヒロインであり、この世界を救う少女である!」

 扉の向こう側には、見るからにヨレヨレの大人たちがじっとこちらを見ていた。着ている白衣は茶色くなり、口には何かの残りカスがこびりつき、目は虚ろだ。髪の毛に寝癖がついたまま、何かのキーボードを狂ったように打っている男も居る。要が絶句している間に、小早川は彼らの様子に慣れたもので、「まあ、ユズコショウの一件で諸君は瀕死だ」と言ってから、ゆっくりと歩き出した。

「君は簡易的にしか、自分が何者であるか、を知らないだろう」

 いくつもセッションごとに設けられた部屋を抜ける廊下を歩いていくと、エレベーターの入り口に行き着く。勧められるままそれに乗り込むと、スケルトンのため、エレベーターで抜けていく区画が下から上までよく見ることができた。

 ――宇宙船の中を駆けていくみたいだ。

 授業や資料、映画の中で見ている宇宙船というのとはまた違う、階層ごとに蟻の巣のように張り巡らされた研究施設の中で、人々はそれぞれに自分の使命を見つけて打ち込んでいる。

「ここアヴァロンは箱舟と呼ばれている。だが実際は、ほとんどの機能を実験や研究施設に重きを置いている。要くん、君は、きっと戸惑っているだろう。それはしかたない。君は選ばれた人間であり、常人より逸脱した日常を送り続けなければいけない使命があるのだから」

 選択の余地はないのだと、小早川は続ける。彼女は家に押しかけてきた報道関係者や、裁判に関わる人々、お金が絡んだ途端に好奇心を持って接触してきた大人たちと同じ言葉を使った。

 ――ポンちゃんは、こう言う人の言葉しか、知らないんだ。

 唐突にそう気付いて、人真似をするクラーケンの言葉を、ぼんやりと反芻する。

 ――少なくともポンちゃんは、自分の利益のために、私にかける言葉を作為的に変化させるようなことは、しない。

 エレベーターの速度がゆっくりになり、開かれた扉の向こう側は、先ほどとは違い、長い廊下が待っていた。

「ここは、クラーケンを専門に分析するチームが居る」

 ただの白い壁だと思っていた中が透けて、人が現れる。その様子に驚いて居ると、小早川がウィンクして口の端をあげる。

「クラーケンを分析して得られた成果を、実験する施設でもある。ここの区画は試験的に様々な実験がされている」

「実験、壁を、抜けたり?」

「そうだ。クラーケンが実は様々な能力を秘めて居るということは、まあ君もよくわかって居るだろう。くじら討伐は、彼らの使命のほんの一部だ」

 もったいぶった言い回しで、彼女はちょうど現れた透けている壁から抜け出てきた青年を捕まえる。

「あ、チーフ。ええと、お知らせしたいことが」

「風花君。それよりまず、彼女の質問に答えたまえ」

 ひょろりとした風貌だが、つり目の目元が色っぽい印象の男は、突然のことに対処ができない様子で、少し吃った後、肩で息を吐いた。要に体を向け、こちらを観察してくる。

「ええと、貴方は、鷲崎要、さん?」

「こんにちは」

 まずは頭を下げると、男はびっくりしたように後ずさりして、それから胸を抑える。少しおどおどとしていた。

「こっこんにちは。あの、俺に質問って」

「あの、ポンちゃんのことを聞きたくて」

「ポンちゃん」

 小早川がこそこそと「ポンズのことだよ」と耳打ちしている。風花は「ああ」と合点した様子で、顔を歪めるような少し癖のある笑顔を見せた。

「ポンズのこと、どんなことですか?」

「ポンちゃんのパイロットは、私だけなんですよね」

「そうだね、クラーケン一体に適応できるのはパイロット一人だけ。現時点で、この世にクラーケンポンズのパイロットは、君一人だよ」

「他に、クラーケンは居るんですか。居るなら、そのパイロットの方に、聞きたいことが、あって」

 少し思案した様子の風花に、小早川は肩を叩いて、「ユズコショウを見せよう」と言う。

「残念ながら、パイロットを持ったクラーケンは、ポンズ一体だけだ。だが、この施設の中に居るユズコショウに君を会わせよう。彼女はポンズと違って、聡明だ。君の質問に答えてくれるかもしれないよ」

「彼女」

 小早川は歩き出しながら、「クラーケンに性別は無いがね」と続ける。その小さくなっていく背中を慌てて追いかけると、後ろから風花が「後で連絡しますね、チーフ!」と声で追いかけてくる。

 とにかくハイペースで歩いていく小さな背中を追いかける。こんなことが、故郷でもあった。


詩綾の背中によく似ている。彼女の家庭は、いつも彼女にとってストレスだったようだ。月ごとに、詩綾の父親は違う恋人を連れて帰る。あの日も、彼女にとって大切な日に、父親は現れずに代わりに、数日前に恋人の座を勝ち取ったらしい女が座っていた。

「詩綾、駄目だよ、せっかく、優しい人が詩綾を想ってくれたことなのに」

 肩を怒らせて、音楽の発表会の会場から飛び出していく彼女を慌てて追いかけた。

「この世界の音楽は終わったの! 終焉に向かっていく世界を甘んじて受け入れている連中に、私の音楽を聞かせたく無い! 私の音楽は、私だけのもの!」

 きっと父親は、酔いつぶれて彼女の家のリビングで寝ている。癇癪を起こした詩綾の行き先は、いつも一緒だ。三人しか知らない、工場跡地の、凸凹したコンクリートの上で、詩綾は、会場で流すはずだった彼女の音楽を流す。

「せっかく綺麗なのに、みんな聞けないのもったいないよ」

 そう言うと、膝を抱えて、詩綾は海を見つめる。

 その発表会は、芸術的才能がある者たちがこぞって参加して、それぞれの作り上げた楽曲を発表しあい専門家が審査するというものだった。優勝者は有名音楽レーベルに所属する作曲家になれる。やりとりがあると言う知り合いのDJが、その一次審査に彼女の作品を送って通ったという。きっとすぐにプロになれるよという周りの人間の言葉を跳ね除けて、詩綾は走る。全てに背を向けて。


 ――詩綾は、本当は追いついて欲しかったんだ。

 容赦なく歩いていく小早川の背中を追いかけながら、息を切らせてそう思った。

「君の身体能力は高い。だが、人に合わせてしまう悪い癖は、直した方がいいよ、要君」

 息を切らせて小早川が待つ扉の前まで行くと、そう言い置いて、腕の端末を扉に翳した。その向こう側から、むっとした蒸気が顔を撫でて行く。彼のプールと一緒の臭いがすると、あたりを見渡して、仄暗いそこは夜の水族館のように赤い光が落ちてきていた。円柱状の水槽が目の前にいくつも、神殿のように規則正しく置かれて行く。

 こぽこぽと、水音がする。なにかの破裂音が響いて、歩こうとして足元に変な感触がすると床を見て、床にふわふわと立ち上る奇妙なものが気になった。顔を近づけようとして、肩を叩かれる。

「クラーケンの一部だ。気にしない方がいい」

 何のことか分からず、促されるままその薄暗い空間を進んで行くと、マングローブのように中央に何かに巻きつかれた巨大な円球が見えた。床に張り巡らされた生き物の一部のような柔らかくて赤黒いものが、円球に巻きついて、呼吸をするようにゆっくりと全体が膨らんでは縮む。

「ユズコショウ、客だ。ポンズの大切なパイロットだよ」

 円球の中から、視線を感じて近づくと、クラーケン特有の手腕の吸盤が見えた。形の揃った吸盤がこちら側に吸い付いては離れる。

『初めまして、要さん』

 ソプラノの優しい響きだった。円球の中は相変わらず手腕しか見えない。もう少し近づこうとして、巨大な青い瞳がこちらを見ていることに気づいて驚いた。要の知るクラーケンの形より少し歪で、より巨大だった。

『私の名前はユズコショウ・シオ・ショウユです』

 ポンズもそうだったが、ネーミングセンスが問われる名前だと思いながら頷くと、笑う気配が耳を撫でる。

『私たちは、貴方のお父様に名付けて貰ったんですよ。徹は、優しくてユーモアのある人でしたから』

 頷くと、隣に立っていた小早川はにやにやとこちらを見ている。

『彼女は、私の声は聞こえないんです。クラーケンは、ハルモニア数値の高い相手、簡単に言えば相性の良い相手としか、こうして通じ合えないんです』

 春の気配を感じるような、透き通った声だった。この声が自分ただ一人に聞こえることが残念に思えた。

「ユズコショウ、もう彼女と話しているのか?」

「ええ、棗」

 人工合成したような声が、何処からか響く。

『棗のような人間には、声で会話できるように指定された音波があるので、そこに波長を合わせているんですよ。彼らは、私たちをよく、知りたいようですしね』

 ――それじゃあ、誰にも聞かれないで話せるんだね。

 そう思うだけで、ユズコショウの手腕は揺れた。聞こえているよと言う合図のようだ。

「棗、彼女と二人にしてもらえませんか」

「ああ、構わないよ。ただ、くれぐれも忘れないでくれたまえよ。彼女は君のパイロットじゃない」

「ええ、もちろん。彼女は、ポンズがずっと探していた、大切なパイロットですから」

 小早川はさっさとその場を立ち去って、開いていた扉が閉じられる。そうすると、そこは酷く暗い。ユズコショウが居る円球の中だけが青白く光って居るのが、美しく感じられた。

『要さん、さあ、二人きりになりましたよ。私の元をどうして訪れてくれたのですか?』

 ――クラーケンは、一体なんなの?

 幼い頃から、支給品の耳栓を与えられて父は強く言った。「くじらに勝てるのは、クラーケンだけだ」と。クラーケンは、人類を滅ぼしにやってくるくじらを倒すために存在するのだと。

『私たちは、第三次世界大戦を終結させるために産まれた、生物兵器です。私たちのお腹の中には特殊な器官が存在して、その器官を使うことによって、超音波のようなもので物理的に外界へ干渉することができます』

「私のお父さんは、どうしてパイロットに選ばれたの?」

『選ばれたのではなく、徹は自ら望んでパイロットになりました。彼は私たちを開発したチームの一員で、遺伝子相性が一番良かった。テストパイロットとして、彼は自ら志願し、そして結果的にはクラーケンを乗りこなせたのは、彼だけになった。だから、人々は彼の名前を記録し、英雄として讃えた』

「お父さんじゃなくても良かったってこと?」

『来たるべき時に、来たるべき者が、現れた。人はそういう者のことを英雄と呼ぶ。時代の寵児、まさに時代が彼を望んだ。そういう存在でした。彼でなくては、ならなかった。徹が居なければ、終戦を迎えることなく、国や人々の生活は今の水準を下回って居たでしょう』

 記憶の中で父親が笑う。少し子供っぽく、へへっと口の端を持ち上げる、可愛らしい笑い方をして、周りの空気を変えるような人だった。口を結んで、要は足元を見つめる。心臓のように、張り巡らされたクラーケンの一部組織が、どくんと脈打つ。

「貴方達クラーケンは、どうしてパイロットが必要なの?」

『私たちクラーケンは、生物として、個としては、不完全。心臓が、存在しない生き物みたいなものです。貴女は私たちにとって、心臓であり、反射板』

「反射板?」

『私たちは、力をコントロール出来ないんです。焦点を合わせることが難しい。でも、パイロットという存在によって、私たちは、クラーケンになる事が出来る。人類を救うために作り出された生き物に』

「人を、救う為の、生き物――」

『要さん、ポンズと話しましたか』

「いっぱい、話したよ」

『どう思いましたか? 幼稚だとか、会話が成立しないだとか、思いませんでしたか?』

「少し、子供みたいだなと思った。自分の言葉の意味を理解していない、感じ」

『私たちは、重要なものが無い、生物兵器。徹はいろんなことを教えてくれましたが、私たちは人で言うところの、心が理解しきれませんでした』

「心が理解できないから、パイロットが居ないと、戦えない?」

『構造上でも、そうなって居ます。貴方達パイロットによって標準を合わせて居たり、さまざまな音を感知します。波、と表現できるかもしれません』

 頭の中で、すいすいと泳いでいくポンズの姿が浮かぶ。

『そう、そんな感じ。貴方達パイロットが居るから、私たちは、海を泳いでいける。貴女たちによって人を理解して、クラーケンで居られるんです』

 ふと、正面の巨大な生き物を見つめる。クラーケンは、あまりにも強大で、いくら説明されても、その存在が不可思議で酷く曖昧に思えた。

「貴方達は、何者なんですか。クラーケンは、何処から来て、何処に行く存在なんですか?」

『私たちは』

 ユズコショウが答える前に、耳を劈くアラームが鳴り響く。不安を煽る音に視線をあげると、『くじらが現れたみたいですね』と囁かれた。

「クラーケンにはそれが分かる?」

『ええ、私たちはそう作られたから。でも、パイロットが居ないと、宇宙を泳ぐことはできない。ポンズは恵まれています。一緒に居てくれる、貴女が居るから』

 先ほどの質問の答えが欲しいと思っても、すでにユズコショウとの対話は遠ざかって、辺りの気配が一変して行くだけだった。心臓の音にも似た、細胞の呼吸音がする中、ゆっくりと踵を返した。

 扉の向こう側には、腕を組んで仁王立ちをした小早川が立って居た。

「話は済んだかい?」

 頷くと、腕を掴まれる。それが当然のように、彼女は猛然と進んでいく。

「ポンズの準備は出来ている。君を休ませることが出来ずに申し訳ないが、我々が全力でサポートする。大丈夫、君にはそれだけの能力がある」

 エレベーターに乗りこむと逆さまに落ちていく感覚に陥る。透明な壁の向こう側で、それぞれの部屋でなにかの研究を進めて居たらしい人々は、先ほどと変わらず、何かをし続ける。それぞれの研究や部屋に物語があり、彼らはその中で主人公だ。

 ――私は、本当に、ここにいるべきなんだろうか?

 ユズコショウの声や、小早川の話を聞いていると、焦燥感が募る。両手を見下ろして、耳をすます。

『君が必要なんだ、要』

 少し艶やかな響きがするクラーケンの声が、聞こえる。ユズコショウは、パイロットのことを、心臓だと言った。確かに、クラーケンに乗りこむ時に、柔らかくて暖かいものに包み込まれ彼と一体になるような気持ちになる。優しく決して要を傷つけないように、彼は大きく口を開く。心を開くように。

 ――貴方が私を必要だっていうなら、今行くよ。

 心の中で伝えると、目まぐるしく景色が変わるエレベーターはまた元の階層に戻る。湿っぽくて、人のよだれにも似た、雨の日の植物の匂いがするそこを進めば彼が待っている。


                  五


 真木啓司は、かつてクラーケンを作り出したチームの一員であり、謎多き男だった。小早川にとってそんなことは関係ない。この箱舟の責任者として、彼と向き合う老人たちと話し合わなければならない。

 実験モジュール群がひしめき合う第1区画の手前、コロセウム会議室と呼ばれた巨大な全面モニタルームの中央に真木と立つことに、苛立ちを覚えていた。

『くじらが発生した状況は?』

「現在アーサーが調査中です。あと一時間ほどで、対策が打てるかと」

『次も発生する可能性は?』

『調査中です』

『アヴァロンの稼働状況は?』

「――現在80パーセントほどです」

『航行可能なのか?』

「それは、計画の実行命令ということでしょうか?」

「そうだ」

 小早川の問いに、隣に立っていた男が答えた。

「アヴァロンは、箱舟だ。くじらの出現が増加している現在では、その役目を果たすべし、と我々は考えている」

「我々、ね」

 小早川は唇を片端だけ器用に持ち上げた。コロセウムを三百六十度囲う様に映し出されているモニタの中で静かにこちらを睨め付けているのは、各国の代表やこの計画を実行しようと費用を出した者たちだった。TRIDENTは彼らの承認が無ければ計画は実行できない。彼らの思惑が、すでに隣の男と同じであることに、内心舌打ちがしたかった。

 彼らは、地球を見捨ててアヴァロンに種の保存を託し宇宙に出航せよと迫っているのだ。元々宇宙ステーションというのは名ばかりで、様々な実験モジュールだけではなく、宇宙航行にも耐えられる自給自足が可能な施設も存在する。

「現在、軌道エレベーターは修復中ですが、積荷はいつ、どのような形で届くのですか?」

『届かない』

 一人の老人の言葉に、他の老人達は視線を向ける。隣に立っていた真木はうっすらと笑みを浮かべてその答えを聞いていた。

『すでに計画は承認されている。君は実行を、急ぎたまえ』

 何も映し出されていないモニタに向かってついに、舌打ちをする。

「行儀悪いぞ、小早川」

「お前に何を言われても、腹が立つだけだ。クラーケンが唯一、くじらに対抗できる手段だぞ。その為の、研究も進んでいた。御誂え向きに、貴様が連れてきたパイロットもカナリヤを撃てる。それでも、地球を見捨てると、彼らは決断したのか」

 戦う手段がようやく見つかったところに、その機会を奪われたのだ。憤りでついポケットの中を弄る。何も入っていないそこから手を出して、指を噛みしめる。

「その為の、アヴァロンだろう。くじらの出現は、すでに予測が出来なくなった。いつ、一ヶ月前のようなことが起きないとも限らない。我々は、種を蒔かねばならないのだよ」

「おい、三番目の真木。お前は肉体の呪縛から解き放たれた気でいるだろうがな、所詮クラーケンと同じだ。人間によく似た作りの、全く違う種類の生き物になっているだけだよ。それは、進化ではない。種の崩壊だ」

「これは、進化だよ小早川」

 背中を向けて歩き出すその男を、舌打ちしながら見つめ、一度視線を落とす。

 かつての父親の背中を思い出す。十七年前、母親と妹と一緒に故郷も消えた。父親が作った兵器によって。あの時のように、彼女は無力ではない。最善を尽くすことができると、ポケットに手を突っ込み、歩き出した。

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