第2話 くじらと英雄

                  一

2037年2月12日

第二シェルター地区

 平日朝のシェルター間リニア内は混んでいる。かつての通勤ラッシュほどではないが、席に座れない程度には乗車率が高かった。リニア内の乗客の体臭と乗り物特有の匂いが混じり合う、妙な気怠さを伴う感覚を、朝から尾崎流星は堪能して居た。

 運良く座れたドア横の席で、手元の携帯端末を見つめる。それは、パイロット候補生として旅立つ鷲崎要に手渡したものと同じ規格のものだ。もう一人の幼馴染である、真瀬詩綾にも渡して、三人で通信が出来るようにしている。流星が構築したローカルネットワーク経由で、三人だけ何処に居ても繋がるようにしてあった。

『しーちゃん、かなちゃんちの冷蔵庫に、トムヤンクン作って入れておいたよ。温めて食べて』

 詩綾個人宛にテキストを送っても相手がオンラインにならない。ここ数週間彼女に送った流星の言葉の数々は未読のまま蓄積されているようだった。一息ついて、座席に背中を預ける。

 要と詩綾、それに流星は幼馴染だった。三人とも父子家庭で、父親同士の仲が良かった為、物心ついた頃から、三人で行動して居た。幼馴染というより、ほとんど家族に近い。流星の父親は仕事で忙しく、詩綾の父親は病気の為、自動的に要の家に三人でいる事が多かった。春に要の父親が急死するまで、三人の食事は鷲崎家で用意されていたし、祖母がたまに世話をしにやってくる流星以外の二人は、姉妹のような関係で、詩綾はほとんど要の家に泊まり込んで居た。

 だが、要の父親が死んだ後急に、要はパイロット候補生に選ばれたと迎えが来た。

「パイロット候補生か」

 口に出して、顔を上げると、目の前の席に座っていた男性と目が合った。地味な色のスーツに、やけに大きな皮の鞄を大切そうに抱えている老年の男性はじっと、こちらを見つめてくる。恥ずかしさを覚えて視線を、落として端末を撫でる。ストラップには、シロナガスクジラが付いていた。これも三人お揃いに付けたものだが、もしかしたら詩綾は外してしまっているかもしれない。彼女は拘りが強く、良くも悪くも意思が強い。流星は要がパイロット候補生になった後、飛び級で大学への進学を決めたが、詩綾はそのまま地元の高校に通うかと思ったが、すぐに通わなくなった。

 流星が作って上げた作曲プログラミンソフトを入れたパソコンを持って、図書館やカフェを渡り歩いて居るらしい。詩綾の自宅にはほとんど帰らず、要の家に寝泊まりするか、流星も知らない何処かに居るらしかった。音楽の才能があったので、知り合ったDJだとか言う人物と交流があるらしい。詩綾に頼まれて構築した音楽サイトでたまに楽曲を発表してそれが反響があるらしいが、それもよく分からない。あまり突っ込んだことを聞くと激怒されることもあるので、そっと距離を置いている部分もある。

『ちゃんと、食べるんだよ』

 見られることはないと知りながらも、一応テキストを送って携帯を落とす。要から連絡はなく、詩綾は行方知れずだ。ふと、目の前を通り過ぎる立体広告が目に入る。リニア特有の、座っている乗客の目線にある一定の期間に現れる立体広告は『君も、英雄になれる。クラーケンパイロット候補生募集開始』という刺激的なキャッチコピーのものだった。

 ――英雄か。

 クラーケンという生物兵器が時代に登場したのは、流星が生まれる約三十年前に起きた第三次世界大戦の最中だ。第三次世界大戦、通称笑戦争。この通称が付けられた由縁を話す際、教師たちは一呼吸置いた。あの日の不快な感覚が、今でも思い出せる。流星はずり下がった気がする眼鏡を押し上げた。

『次は学園前、学園前です。本日もご利用いただきありがとうございます』 

 アナウンスにハッとして、慌てて立ち上がり、開いた乗車扉から駅へと降りる。今日の講義は一限からだ。遅刻に煩い教授のため、足早に駅を通り過ぎて、校門へまでの道を進む。徒歩三分という距離なので、地下の駅から地上に上がってしまえば大学構内に入る事ができるが、講義がある教室までが遠い。腕に付けてある最新式の携帯端末で時間を確認する。ギリギリだった。

「あの、ちょっといいですか?」

 校門へ入る手前で急に声をかけられる。振り向くと、先程リニア内で目が合った老年の男だった。傍らには、明るい色のひらひらスカートとニットカーディガンを合わせた、おっとりとした雰囲気の女性が立っていた。何処かバランスを欠いた二人組だ。独特の世間擦れと、人懐っこさを感じる。この手の人種には心当たりがあった。なるべく冷静に、手早く相手に告げる。

「今、急いでるんですが」

「君、尾崎流星くんだよね、僕こういうものです」

 差し出された名刺を受け取らずにその文字だけを見つめる。

 ――報道記者、岩田健二郎。

「記者の、方ですか」

「そうです。貴方のお父さんの事や、鷲崎要さんのことを取材したいと思っておりまして」

「……お話することは、ありません」

「鷲崎要さんが、パイロットに選出されたというのは、ご存知ですよね? TRIDENTからの正式発表はされていないが、我々は、二ヶ月前のくじらが軌道エレベーターに現れた際に、彼女がクラーケンに搭乗したという噂を耳にしてるんだ。幼馴染である君なら、何か知っているんじゃないかな?」

 またか、という気持ちが正直な気持ちだった。要の父親は、戦争の英雄だった。先ほどのキャッチコピーが言うところの、クラーケンのパイロットだった。戦争が終わった後、彼がクラーケンに搭乗した所為でくじらが現れたのでは無いかという報道がされた。色々なメディアが責め立てて、やがて「戦争犯罪人」と言われ始めた。その呼び名が付けられる頃には、連日鷲崎徹周辺の人々への監視も厳しくなった。平和保護団体だとかいう怪しげなNGO団体に起訴されて裁判へも呼ばれていた。その頃からだろうか、詩綾の父親は、様子がおかしくなり、流星の父親は仕事を言い訳に家に帰らなくなった。流星の父方の祖母が三人の面倒を見てくれることもあったが、彼女は父子家庭に反対で、母親の居ない三人を「哀れむべき子供達」として扱った。

 ――ばあちゃんは未だに、僕のことを、何処か他人行儀に扱う。

 一息ついて、目の前の男からさっさと立ち去ることにした。彼らに関わると、ろくなことはない。端末を確認すると、もうすでに聴講票は配られているだろう。

「あの、尾崎君?」

「お話しすることはありません、失礼します」

 彼らから、急いで遠ざかる。彼らのような人間が紡いだ言葉によって、幼馴染たちはいつも辛い想いをしていた。せめて彼女たちに何かしてあげる事ができれば。端末を握り締めて、大学への道を走った。


 少年が背を向けて、何かに追われるように走って行く。まだ若木といった風情のその薄い体のありように、物悲しさを感じる。息を吐いて、岩田健二郎は隣に立った女性に視線を送る。

「逃げられちゃいましたね」

 岩田の隣で、バッグの中から何やら飴玉を取り出して口の中に放っていた汐入沙也加はもごもごとさせながら言った。

「言い方悪かったかなあ」

 岩田は肩にかけていたバッグを持ち直す。近所の老舗鞄屋に頼んで特注してもらったビジネスバッグは、軽量で書類が大量に入る。飛行機の機内持込サイズギリギリのところも気に入っていた。その中から、朝後輩から手渡された資料を取り出す。今時、紙媒体で持ち歩くなんてと周りから言われるが、これが一番しっくりくる。

「彼が幼馴染なら、まあデリケートな問題ですからね」

「惚れてたかな」

「どうでしょうねえ。あの反応を見る限り、親しい関係だったみたいですけどね。サードチルドレン世代独特の、価値観かもしれませんけど」

 汐入は、ジャケットのポケットに突っ込んでいた端末を取り出して、確認し始める。

「鷲崎要か、鷲崎って、英雄鷲崎の娘ですよね」

「そうだな、そして彼は例の尾崎の一人息子だ。シェルター第三地区出身だってことだが、ようするに笑戦争の軍人恩給対象者ってことだろ。それも、エリート中のエリートだ。一番安全性が高いシェルター出身で、幼馴染は英雄の一人娘。頭脳明晰で、飛び級で大学に入るっていうんだから、彼の将来も約束されたもんだよな」

「将来ねえ。その割には、TRIDENT傘下の大学に入りませんでしたよね。ここって、私立でしたっけ。今時珍しい」

「あの様子じゃ、悩める若者なんだろう」

 やれやれと首の後ろを掻きながら、岩田が資料を捲っていると、端末を見ていた汐入が顔を上げる。

「しかし、ろくな情報が入ってこないですよね。これが情報統制ってやつかなあ、嫌な世の中」

 持っている端末を振りながら、汐入が苦笑する。くじらの登場以降、TRIDENTが国連に委任される形でこの国の実権を握ってから、様々な報道に規制がかかり始めた。岩田が報道記者として全国を飛び回っている頃に築いたネットワークも、ハッカーの登場で次々と壊されていき、監視対象となっている。おかげで、岩田はインターネットやSNSをあまり信じておらず、携帯端末も旧式の通話のみのものにしている。資料は紙束を持ち歩き、信頼できる情報屋からの情報をこうして、地道に集めている。

「さっき、タイちゃんから聞いたんだが、二ヶ月前にあの事件があった頃、軌道エレベーターの搭乗者リストの中に、鷲崎要があったのは確定したらしい。問題は、本当にクラーケンが出動したか、だよな」

「カナリヤを鳴らしたかって、ことですよね。人間の耳には聞こえない周波数だから、測定できる施設に問い合わせるしかないんですけど。一応、民間の施設にはいくつか問い合わせてるんですが、まあ当然答えは返ってこないです」

 バッグを持ち直して、岩田は自分を立っているところを見直す。シェルター間を移動するリニアは地下に駅があるため、地下から地上に上がってこなければならない。その入り口の奥には、不自然に大きな道路が続いている。数百メートル先には、この地区を多くシェルターウォールが収納する施設がある。その開閉施設は強大で、また騒音も酷い。クラーケンの技術が利用されているというがそのために機密情報扱いで、まともに人が住めないため、工場か見晴らしの良い移動用の地上道路になる。

 この辺りは、戦争が起きる前は、活気のある下町で、岩田が妻と初デートした土地でもあった。その時代を吸い込んだ建物たちは戦争で瓦礫になり、くじらの登場でシェルター用の土地にするために舗装されて、コンクリートで覆われてしまった。素っ気ない景色に、「つまんねぇ世の中になっちまったなあ」と呟く。

「うーん、子飼いのハッカーたちに声をかけてるんですけど、セキュリティが厳しくてアヴァロンには近付けないみたいです。アヴァロンご自慢のAI、アーサーは相当鉄壁みたいで。あーもー、手が出せないなあ。あ、そういえば、アーサーと言えば、さっきの尾崎くんのお父さん、アーサーの開発に携わってたみたいですよ」

「へえ。そりゃすげーな、さっぱりわからねぇわ」

「ですよねえ。ま、取り敢えず、本社に戻りましょうか。ミーティングの時間が差し迫ってます」

 二人連れだって、駅に向かおうとすると、広い道路をゆっくりと自動操縦で掛けている車が通り過ぎる。その車から漏れるラジオの音に、岩田は「おっ」と言う。大音量で音楽が流れ、中で男女がいちゃついていたからだ。

「青春だなあ」

「今の、話題の曲でしたね。ネットアイドルの曲じゃなかったかな」

「ネットアイドルねえ。顔見なくてもアイドルなんだから、最近の若いやつの考えることはわかんねぇなあ」

「確か、グミなんとかっていう。まあ、アイドルなんて一過性のものですからね。顔なんかなくても何でもいいんじゃないですか」

 岩田とは違う観点で車を注視したらしい汐入の言葉を聞き流しながら、岩田はカバンを担ぎ直して駅への道を歩き出した。


 第三次世界大戦終結後、数年も経たないある春の空の谷間から、急に黒い何かが落ちてきた。いや、降りてきた。どこかの遠い宇宙からやってきた彼らのことを、人は「52ヘルツのくじら」と呼んだ。

「52ヘルツのくじらって、何十年も昔から観測されてたんでしょ?」

「僕らが知ってる、海の生き物の鯨は、シロナガスクジラでも39ヘルツくらいの周波数でしか鳴かない。元々は、他に同じ周波数の泣き声を持たない孤独な鯨ってことで、学者の間でも有名だっただけで、それが実在はしていても、人は見たことが無かったんだ。数年周期で居場所は測定されても、姿かたちがどんなものかまでは分からなかった」

「夢か幻か、そんな生き物と同じ周波数を放つ生き物が空からやってくるなんて、びっくりするわよね」

 昼食に選んだマカロニサラダをスプーンでかき混ぜながら、ミシェル・バンシーはしわくちゃの紙束を振った。ミシェルは非常に優秀な研究者だが、書類や衣類などすぐに汚してくしゃくしゃにしてしまう。彼女の書き込みが事細かに赤く付け加えられているその書類を受け取りながら、尾崎流星は右手で持っていたおにぎりを口に運ぶ。梅干し入りのおにぎりは、ところどころに塩の塊が張り付いて妙に辛い。

『TRIDENTの発表では、52ヘルツのくじらをクラーケンの一匹が撃破したとの情報が……なお、このパイロットは先の戦争で東京裁判によって断罪……』

 誰かの端末から漏れる、途切れ途切れのアナウンサーの言葉に、溜息を吐く。大学のカフェテラスだと油断をしていた。ともすればあらゆる情報がテレビやSNSから溢れ出てくる世界で、彼女のことが耳に入らないはずがないのだ。

「リュウの知り合い、クラーケンのパイロットなんですって?」

「ああ、うん。そう、皆良く知ってるよね。僕の故郷で、唯一選抜されたんだ。幼馴染ってやつで……仲良かったんだけどね」

「リュウ、その子に恋してたのね」

「そんなんじゃないよ……ただ、かなちゃんは……なんていうか、家族みたいなものだから」

 要がパイロットに選出されてから数か月後、流星は故郷を離れて飛び級制度を使って大学に入った。正体不明の宇宙生物に襲撃され続けていても、世界はまだ機能していて、学ぶための門戸は開かれている。

「この大学に来たのは、彼女を助けたいから?」

「それも、あるけど」

 ミシェルの問いは、こそばゆい。そんな大仰なものではなく、ただ、世界に何が起きているのか流星は知りたかった。軍の管理下に置かれている学校に行けば学費は免除される。だが敢えて、流星は民間の学校を選んだ。高い学力と実績が求められるTRIDENTに所属している学校は、世界各地の優秀な生徒たちが集められて、世界に必要とされる人材という名のもとに勉強漬けの毎日を送っている。

「52ヘルツのくじらは、レジームシフトによってこの星にやって来たと考えられている」

 段差のある大きな教室の中央の壇上に立って、教授が示した先に立体投影される現在確認されている「52ヘルツのくじら」の姿は醜悪だ。悪夢からそのまま飛び出したように見える。ぶよぶよと半透明の身体中に目が張り付いていて、くじらというにはあまりにも姿がいびつで、どちらかというとクラゲやタコに似ている。

「彼らの52ヘルツの周波数が何を示しているのか、何と交信しているのかは分かって居ない。最新の論文では、彼らが仲間と交信していると考えられているが、それも宇宙の膨張による何らかのエネルギー変動によるレジームシフトが発生し、そこで生物の爆発的な生態変化が生じたと予測される。だがこれも、我々の現時点のテクノロジーが導き出した結論に過ぎない。不確定要素が今後どのような展開を見せるのか現在の研究を邁進するのみである」

 教授の言葉は、教室に霧散して、流星には立体装置のくじらが嘲笑っているように思えた。妙にがっくりした気持ちになって、淡々と次回までのレポートの概要を端末に記憶させているうちに講義は終わっていた。暗雲を背負っているような気分でゆっくりと荷物を纏めてカフェテラスに戻る。

 まだ研究室に所属していない流星はカフェテラスの一角を「巣」にしている。比較的な安全なシェルター地区でありながら緑の多い広大な土地に建てられた大学施設は円を描くように配置されており、カフェテラスが存在する食堂は巨大なドーム状の温室に併設されている。しょっちゅう貴重な昆虫が逃げ出したと焦って虫網を持って走って行く白衣の連中を横目に、積み上げた資料本を手にとって朝食と兼用されている昼食をかき込む。

「そもそも、そのレジームシフトが何故起きたか、が分からなきゃ意味がないよな」

 隣でノート端末を叩いていたシーモア・リャナンが呟く。恰幅の良い身体を揺らして、爪を噛みながらノートを流星に見せた。彼は気さくな同学部の友人で、流星と同じく入学式後の大学デビューに興じる同級生たちを尻目に、ただ黙々と課題をこなしていた。炭酸飲料の2リットルボトルを持ち歩き、奇妙な味の菓子パンを片手にこのカフェテラスの一角を占拠して、教授が目を剥くほどの緻密なプログラム構造とマニアックな構成をした独自の分析プログラムを立ち上げていた。課題作成時に何故か彼と仲良くなってそれ以来、彼と同様変わった連中が集まるカフェテラスの一角に流星も席を置いていた。

「見ろよ、リュウ。ここ十年で起きたレジームシフトのグラフ」

 シーモアは奇妙な形をしたグラフを立体投影してみせる。

「レジームシフトは主に気候要素が原因で急激な変化が起こる。だが明らかに、笑戦争からこっち、様々な地域で爆発的にジャンプが起きてる。ランダムでタイムマシンに乗ってるみたいに、原因が特定できない気候のジャンプは、悪夢でも見てるみたいだ」

「笑戦争からってことは、原因の中にクラーケンのカナリヤが含まれている可能性があるってこと?」

 いつの間にか間に入り込んできたミシェルは食い入るようにグラフを見つめた。ふと気付いたように自分の端末からデータを引っ張ってくる。

「つまり、こういうことか」

 地図情報を整備してからグラフを作成して、シーモアのグラフと同期させる。

「このデータは?」

「第三次世界大戦時の、カナリヤの発動記録。そっちの記録の地域情報を同期させれば」

 ミシェルの軽やかな合図の後に、同期データが立体マップとして投影されて、シーモアのデータと合致する箇所に色がついて行く。

「真っ赤だ」

「カナリヤが、レジームシフトに影響があるってこと?」

「少なくとも、このデータを見る限りは」

 シーモアの隣から、ゲームシナリオを熟読していた風花楓がグラフを見上げる。楓はボサボサの髪と瓶底眼鏡と最新モードの服装をしている、見るものを圧倒する、哲学科の生徒だった。

「カナリヤってさ、構造上の謎が多いんだよね。TRIDENTが戦争の後、その辺りの情報全部引き取って、クラーケンの全てを機密扱いにしたし。まあ、君たちが今ここでざわざわしてることって、もうあちらさんが知ってることだろうし、所詮僕らの学問なんて、膨大な手間暇がかけられている余暇の遊びみたいなものだし」

「なんだよ、カザ。世界の英雄戦争から締め出された一兵卒だからって、拗ねてるのか? そんなの、この大学に入学した連中はみんなわかってる。俺たちは、TRIDENTの連中がしている戦争から締め出しを食らって、のほほんと生きている。だからって、知りたいと言う欲求に不誠実で居る必要は何処にもない。最善を尽くして天命を待つなんて愚かな真似はしたくない。世界は情報を制するものが支配してきた。賢者は情報を制するべきだ」

「戦争は、己の主張を他者に強いる暴力行為だ。くじらが人類にしているのは、戦争なんかじゃない。ただの捕食行為だよ。彼らが生存するための正当な行為だ。彼らの餌たる僕らは滅びゆく種族だ。何千何百万年と続いていた生命の歴史に争う方が愚かだろ」

 楓が手元の冊子に視線を戻したのを横目に、流星はグラフを見つめながら過去の帳を上げる。

【どうして、私が悪いの?】

 幼馴染の詩綾が泣くのを堪えるような震えた声で囁く声が聞こえる。流星と要と詩綾は幼馴染だった。故郷では、他に味方が居なかったとも言える。

【詩綾は悪くないよ。私も、流星も悪くない。誰も悪くないんだ。ただ、価値観はそれぞれで、見えている世界も、倫理観も人それぞれなだけだよ】

 流星は息を吐いた。過去の幼馴染の言葉が彼の背中をいつも押してくれる。

「僕の幼馴染は、クラーケンのパイロットだ」

 シーモアは目を輝かせて、楓は冊子から上げた視線を流星に向ける。

「彼女は、今も僕らのために戦ってる。その彼女を、どうしてただ応援してるだけでいられるんだろう。僕には、分からない。だから、せめて知りたい。もし出来たら、彼女を助けたいんだ」

「民間の大学に所属している僕らなんて、出来ることに限りがあるのに?」

「愚かなカザよ。確かにTRIDENTの天才集団には俺たち平民が敵うことはないだろうよ。彼らには高速で計算してくれるスーパーコンピューターもデータバンクも最新の兵器も装備も完璧だ。だが、それがどうした。情報は、この世界では完全に制御はできない。ネットの世界には彼らが統制しようとした情報なんてダダ漏れだし、ホワイトハッカーはごまんと居る。スーパーヒーローだけで戦って勝利する世界なんて、映画やゲームの世界だけだ。それに、民間の大学生だからこそ、出来ることがあるんだ」

「例えば?」

「ただ正義だけを貫ける」

 楓は鼻で笑ったが、流星はシーモアの肩を叩いた。

「それじゃあ、レジームシフトとカナリヤが結びつくかもしれないという仮説は立ったわけだ。他の視点も入れて、情報の精度を上げていこう」

 会話に入ることなく、グラフを見つめて居たミシェルはふと思い立ったように彼女の端末からプラットホームを立ち上げて立体に投影される植物を模したリンクツリーを呼び出す。

「カナリヤって、要するに音響兵器よね」

「その辺の構造も機密扱いだからな。そもそも、クラーケンの構造も、俺たち一般人の大多数は分からないよな」

「クラーケンのパイロットがどうして募集されているかも、実は曖昧なプロパカンダで知られているわよね」

 流星はふと、街のあちらこちらで見かけるクラーケンのパイロット選出要綱を思い浮かべる。TRIDENTは、特務機関であり、52ヘルツのくじら討伐のために、国連から委認されている。TRIDENTは第三次世界大戦で産み出された生物兵器クラーケンをくじら駆除に再利用するために生き残っている個体を回収して独自に開発したという。

 先の戦争の負の遺産を請け負った奇妙な機関のことを、流星と同世代の少年少女たちはヒーローの集団だと考えている。絶対的悪である、くじらを退治するために組織された正義の味方であると。

 クラーケンのパイロットは、特殊な能力が必要であり、遺伝子上の特性で適性が左右される。そのため、全国民の16歳以下の男女は遺伝子検査を受ける必要がある。その適性検査の数値基準を超えた者が、アヴァロンに招かれてパイロット候補生として教育を受けることができる。パイロット候補生になった者には多額の年金が支給され、家族はさまざまな恩恵を受けることができるとされている。

「特務機関なんて、あんまり心地よい響きじゃないけど、みんなヒーローになれるって勘違いしてるわよね」

「何を言ってるんだミシェル、パイロットになるなんてそれ以上の名誉はない。候補生は1億人に1人の割合だ。それだけの難関を乗り越えて、さらに世界を救うチャンスがあるなんて最高だろ。親類には年金が支払われて、どの国に渡航しようと特別待遇を受けることができる。シェルター内住居だって保証される」

「1度だって、パイロットが帰って来たことがある? かつての赤紙制度でしょ」

 ミシェルの言葉は、詩綾の言葉に重なる。幼馴染のパイロット候補選出の知らせを受けて、泣き出した。

【こんなの間違ってる。要は、親戚も居ないし、お父さんだってこの前死んだばかりなのよ? 年金を支払わなくていいからって、選ばれたんでしょう?】

【しーちゃん、かなちゃんの能力が高いから選ばれただけであって】

【要の父親が、有名なパイロットだからでしょ? 前の戦争の責任を負えってことなのよ!】

 持っていた端末を投げて壊して、暴れた後、詩綾は何処かに飛び出していった。彼女が壊した端末を拾いながら、要は何処か他人事のように受け止めていた。「選ばれたのなら私は受けるよ」とだけ、言い置いて。

「名誉のために死ねってことなのよ。クラーケンは、前の戦争で何人ものパイロットを食い殺したと言われてる。生き残ったパイロットだって、トオル・ワシザキと後は彼のチームの幾人かだけでしょう? まだ解明されていない不確定要素が多すぎるものに、16歳かそこらの未成年を乗せて、くじらを倒そうとしてるってことでしょう。何だかよく分からないものに、自分の未来を蒙昧にも託そうだなんて、私はごめんだわ」

 シーモアも楓も黙って、それぞれが視線を逸らした。流星は視線を落としてから、ズボンのポケットに突っ込んだままの、携帯端末を取り出す。流星が構築したローカルネットワーク経由で、流星と幼馴染たちを繋ぐ機械だ。シロナガスクジラのストラップを付けているそれを立ち上げると、最新コメントが届いていた。要からだ。添付されているファイルを開くと、黒い空の中に浮かぶ、青い地球の画像だった。ピースの形を作った要の右手も一緒に写っている。彼女の長細い手は、少しブレている。

 すぐに、詩綾もログインしてくる。「生きてる?」と、彼女の問いに、要はすぐに、「生きてるよ」とだけ返してログアウトした。流星はコメントを送らずに、携帯端末を閉じて、ズボンのポケットに突っ込んだ。

 郷愁の余韻はすぐに消えた。警報が鳴り出したのだ。急襲警報、Kアラートと呼ばれたそれは、すべての電子機器に強制的に介入して情報を流す。周りの人間が一斉にポケットやカバンの中から耳栓を取り出して耳に突っ込んだり、覆ったりしている。国から支給されたそのくじら用の耳栓は、アラートが鳴ると装着する義務がある。音が失われた世界の空を、何かが包み込むように覆っていく。学校や図書館や市役所などはシェルター内での建設が義務付けられている。くじらが出現したとアラートが鳴った以上、シェルターは閉じ、ここ一帯は移動や走行が不可能になる。

 ――僕らの目には、何も映らないように。

 ミシェルの言う、何だか分からないものに、流星の毎日は支配されている。幼馴染は宇宙に消え、なんだか分からないものに乗り、戦っている。せめて、流星だけでも世界の根底にあるものを知りたいと思った。宙に浮いているような毎日の常識に、理由が欲しい。誰かの手が加わったものではなく、流星の目で見て考えたものを彼女たちに教えたい。

 ――かなちゃん、君はいつも無理をしてしまうから、どうか。

 祈るような気持ちで、閉じていくシャッターの向こう側を想った。ポケットに突っ込んだはずの端末を取り出して、流星もメッセージを送った。



                  二

2037年2月12日

第四シェルター地区

 誰しもが耳に何かを挿入しているのを眺めながら、真瀬詩綾は、駅のベンチに座った。最近彼女が根城にしている第一地区のカフェホテル近くの駅だった。彼女は、国から支給された耳栓を持ち歩いて居ない。義務だと言われているが、彼女は音を遮断されるのが嫌いだった。

 ――誰かに何かを押し付けられるのなんて、まっぴら。

 それに、こうして、慌ててシェルターの中に逃げていく人々を見つめるのは愉快だった。Kアラートが先程鳴った。この世界に定期的にやってくる、音で人々を捕食する気持ちの悪い生き物である「52ヘルツのくじら」がやってきたのだ。彼らがやってくる際には、変な臭いがするそうだ。空間を移動した際に生じるなにかの痕跡だと偉い科学者が言ったが、詩綾はそんなものは信じて居なかった。

 小腹が空いて、スクールバッグの中からお気に入りのグミを取り出して、一つ口の中に放る。そうしていると、携帯端末がスカートの中で震えた。確認して、すぐにログアウトした。幼馴染の男は、幼稚だ。彼の頭でっかちな世界で、要が救えると思っている。

 ――私達は、戦争の遺物。

 大切な家族が宇宙に奪われた日、ついにその結論に至った詩綾は怒りに任せて、父親の私物を漁った。彼はいつだって、酔っ払ってその辺の女の家に転がり込んでいる。詩綾が彼の部屋を漁っても気付きもしないだろう。

 ずっと気になっていた。どうして、シェルター内の特に安全が保証されている地区に三人が住んでいるのか。近くのスーパーの店員をしている親切そうなおばさんも、タバコ屋のおじいさんも、病院勤めの父の愛人も、皆抽選が当たったか、親戚が戦争で功績を残したという理由があった。

 ――いろんな理由があったけど、みんな戦争の前は故郷があった。でも、私達は違う。ずっと、あそこに住んでいた。

 人工的に郷愁を演出する、奇妙な街。シェルターの第3地区、戦争の爪痕が大きく残った人工の浜辺がある街。商店街には店を構える人間が少なく、どこのシャッターも錆びていて誰が描いたのか分からないイラストが鮮やかにペイントされている。要と流星と夜遅くまで遊んだ公園は、要の父親が迎えに来てくれた。


「要ちゃん」

 顔を上げると、流星に良く似た造りの壮年の男が立っていた。華奢で骨張った、いかにも白衣が似合いそうなところどころ白髪が混じった男。

「尾崎のおじさん」

 流星の父親である尾崎創一は、どこか草臥れた印象のある男だった。昔から、笑顔に良く似た無表情を見せて、しげしげと流星や要や詩綾を観察してくる。子供の可愛らしさに微笑んでいるというよりは、どこか他人事でペットにでも接するような雰囲気だった。他人行儀で、安心できない。それは、彼の胸に光る三本鉾のバッジがより一層そう意識させる。

「要ちゃん、危ないよ。今アラートが起きてる、もうすぐこの辺りにくじらがやってくるかもしれないんだ」

「平気よ。私が死んでも、誰も困らないもの」

 少し戸惑うようなそぶりをみせて、尾崎は近づいてくる。彼に向かって、詩綾は、スカートの中に突っ込んでいたメモリディスクを見せる。

「パパの楽譜。整理してたら、これが出てきた」

 動きを止める彼に、腕に巻きつけている携帯端末を起動させて、同期しておいたデータを再生する。

 姿の見えない女が、詩綾の父親に促されて歌い始める。少し恥ずかしいという彼女に、父親が手を伸ばす。

『綺麗だよ。ほら、歌って』

 とてもいとおしいものを見るように口の端を不器用に持ち上げて、姿の見えない彼女に向かって父親が微笑んだ。

「ねえ、おじさん。この人誰?」

 人形のように表情をそのままに、尾崎は口を開いた。

「要ちゃんのお母さんだよ」

「どうしてパパと恋人みたいな感じなの? もしかしてパパの不倫?」

 父は今まで連れてきた恋人にも、詩綾にもこんなに優しい表情を見たことはなかった。

「彼女は、僕らにとっては、とても大切な存在だった」

 母親の話は、一度もされたことがなかった。詩綾の父親は、物心ついた頃から街で引っ掛けた女を連れ帰り、酔っ払っていた。かつては著名な音楽家だったというが、大量の譜面のデータがあるだけで、楽器もフルートの口の部分が部屋の端に転がっているくらいだった。

「ねえ、尾崎のおじさん。私のお母さんはどんな人だったの?」

 僅かに顔を右側に揺らして、ゆっくりと言葉を区切るように囁いてくれた。

「彼女は、勇敢で、優しくて。美しい人だったよ」

「名前は?」

 それ以上の答えは無いと知りながら、詩綾は前のめりになって問うと、肩を叩かれて尾崎は離れた。

「君のお母さんのことは実は僕は、よくわからないんだ。涼介は多くを語らないからね。でも、どんな人かは教えてくれた。詩綾ちゃん、涼介のことで君がきっと色々思うことがあるのは分かるよ。君は僕にとっても娘同然だ。要ちゃんが居なくなって不安に思うことがあるなら僕が」

「おじさん」

 言葉を遮って、尾崎の背中に、詩綾は問う。

「流星のお母さんって、どんな人?」

 そこでようやく振り返って、尾崎は少し困ったように頭を傾けて口を開かなかった。胸ポケットから耳栓を取り出して、詩綾の手に握らせる。

「僕の会社の人に、君を迎えに来て貰ってる。避難シェルターに行くんだよ。涼介は凄く不器用なやつだけど、君のことをいつも心配しているんだ。それを忘れないようにね」

 他人の言葉は、詩綾の思考から滑り落ちていく。

 ――私の気持ちは、分かるはずがない。

 腕につけている端末を立ち上げて、着信履歴を辿る。もう一年、父親からの連絡はない。広い背中を思い浮かんで、唇を噛んでから、視線を落とす。

 その様子を見て、尾崎は言葉を重ねることはなかった。彼の耳に取り付けられた携帯端末から誰かを呼び出した。

「ああ、私だ。彼女がここに。ああ、回してくれ」

 間もなく、数台の白塗りの車が滑り込んでくる。自動操縦が当たり前の時代に、旧時代のマニュアル車が駅のホームに乗り付けられる。全身白い格好をした男たちが詩綾を囲う。普通の女の子だったら、軍に保護されてシェルターに行くだけだ。幼い頃の詩綾だったら、この扱いに何の疑問も抱かなかっただろう。人々を守った英雄の子供だから、こうして父の仲間だった人が、守ってくれようとする。

 ――守っているのは、私じゃないのに。

 どこか白々しい雰囲気を感じて、促されて車に乗りながらポケットの中身を探る。先ほど落とした電源を入れ直そうかと、ぼんやり考えながら腕の端末を見つめる。腕の端末は、詩綾の声だけで起動するようにしている。「起きて」と囁くと、音もなくプラットホームが示される。誰かからテキストが届いている。ネットでやり取りをしている、音楽の趣味が合う相手からだった。見流して、プラットホームに戻る。詩綾の楽譜状にしてあるプラットホームの音符の一つを押すと、音が流れ出す。

 父親の残した楽譜を詩綾がアレンジして、メロディラインを整理したものだ。ぼんやりと、音を辿る。最近好んでよく聴いているブルガリアンミュージックのラインを取り入れている。クラブミュージックも好きだが、ノーブルな音楽もこうして自由に取り入れながら音と自由にダンスする感覚が、詩綾の心を楽にしてくれる。

【詩綾、パパはもうダメなんだ。もう、世界の向こう側の音が聞こえない】

 お酒と吐瀉物と尿の臭いの中で、呻くように父が囁いた声が、詩綾の顔を俯かせる。

「おい、アラートが」

 前の座席に座っていた白い男が呟いた瞬間に、地響きにも似た音が、響いた。Kアラートが一層強くなり、何が起きているのか詩綾が端末で調べる前に、車が傾いだ。轟音が近くで響いて、世界が斜めになる。窓ガラスが割れて、助手席に居た男の呻きが聞こえた。

「くじら」

 言葉が喉から漏れる前に、天井が割れて、ぬっと闇が出現した。闇は、赤い斑点がついている。くじらは、獲物を見つけると、人体に有害な叫び声を上げる。とっさに先ほど受け取った耳栓のありかを考えて、そして無性に恥ずかしくなった。

 ――今更生きようとして、どうするの。

 家族は初めから壊れていて、幼馴染の一人はこの世界の犠牲になって、もう一人は遠く離れてしまった。話を聞いてくれる相手も、自分たちが何故ここに居るのかの疑問に答えてくれる人間は居ない。なら、彼らの栄養になるのも悪くない。

 ――どうせなら、私をあんたの一部にして、遠い宇宙に連れて行ってよ。

 父親も家族も居ない、虚空の彼方に。そう思って目を閉じた瞬間に、風圧を感じた。座席に体を縫いとめられるようなそれに、息もできない。死への恐怖はないが、好奇心はある。どうにか顔に倒して、目を開けると、大きな口と目が合った。そこの先に見えたのは、常しえの黒。

 ――ああ、どうしよう。食われる。

 そう考える間も無く、詩綾の世界は閉じた。

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