アポトーシスの勇者たち
真瀬真行
第1話 トロイメライ・スカイハイ
この先にあるのは、暗黒だ。海底に潜んでいた生き物たちが姿を現して、潮を噴き上げる。天高く、宇宙まで届くように。
『要!』
少女の名前を呼ぶ生き物は、大きくうねった。ワームホールを通り抜けてこの宇宙を自由に泳ぐことが出来るその強靭な体は、少女を求めて毛を逆立てる。
『僕には君が必要だ!』
彼の声に、少女は答えた。
「ポンちゃん、私の名前を、呼んで。ポンちゃんがいつもいう、この宇宙を旅する吟遊詩人らしく」
彼らの声は、遥か地球の重力を超えて、解き放たれる先を目指して、螺旋を描きながら光に包まれた。
一
2037年1月12日
旧千葉港跡地
東京湾の旧千葉港跡地に建造されたそれ、人類の存続を賭けたそのエレベーターは巨大だった。自分たちの存在がまるでちっぽけな蟻のようだと雄弁に語るそのありように、三人は言葉を失った。あちらこちらからカンカンと建設現場さながらの音と、何千何万の人々が行き交い、あっという間に夜を迎えて朝を迎える。
かつては国を支えた港跡地には、巨大な透明なビルにも見える、円柱状の建物が空の彼方にまで伸びている。人類の叡智である軌道エレベーターは、旧関東地域の人間であればその姿を目にすることができる。旧埼玉のシェルター地区で生まれた三人は、いつも遠くに見ていた細いボールペンほどの建物を生まれて始めて間近に見上げる。
一番右で一番大きな鞄を持った背の高い少女は口を開いた。
「軌道エレベーターってこんなに大きいんだね」
その左隣の小柄な少女は、白いワンピースの裾をくしゃくしゃに握りながら、赤い唇を噛み締める。
「要、本当に行くの?」
「うん、パイロットに選ばれたからね」
「かなちゃん家は、僕が責任を持って、定期的に掃除しておくから。たまには、帰ってくるでしょう?」
ワンピースの少女の左側で布袋とビニール袋をがさがさと音を立てながら運ぶ少年は、眼鏡を押し上げながら背の高い少女に囁く。
「うん、きっとね。私は、帰ってくるよ。二人のところに」
背の高い少女、鷲崎要は口の端を持ち上げた。巨大なカーボンチューブを嬉しそうに見上げる。直径三十メートルはあろうかというその透明な円柱の中に浮かぶカプセル状のエレベーターが口を開けて次々と人や物を飲み込んでいく。
「あの大きな管を通って、宇宙に行けば、ようやく。彼に会えるんだ。きっと、凄い名誉な事なんだよね、私、世界を救う手助けができるもの」
ワンピースの少女、真瀬詩綾は唇を歪めて、長いまつげを瞬かせた。
「何が名誉よ……私たちは、要は……前の戦争のツケを払わされるだけ。私たちの所為じゃない! そうでしょう?」
詩綾の問いに、眼鏡の少年、尾崎流星は肩を落とす。筋肉のまったくついていないひょろりとした身体は、猫背気味の所為で酷く薄っぺらでひ弱な印象を持たせた。しきりに眼鏡を鼻の上に押し上げてから、彼は言葉を区切り区切り詩綾に伝える。
「しーちゃん、僕らは、かなちゃんが行ってくれるから、免除されてるんだよ。そうじゃなかったら、監視がもっとひどくなってた」
「どういう意味よ……要は、私たちの犠牲になってるってこと?」
詩綾が息を吸いこもうとした瞬間に、その肩を要は掴んだ。少し前後に動かして、ゆっくり手を離してぽんぽんと叩く。
「詩綾、私は、楽しみなんだ。心配しないで」
誰かが口を開く前に、白衣の男が数人近づいてきた。壮年の彼らには表情が無く、真ん中に立っていたオールバックの男が要に自らのバッジを示した。
「TRIDENTの真木だ。君が鷲崎要さんだね」
腕を掴んでいた詩綾の手を、要は微笑んで離す。たまらず顔を覆って、詩綾は呻くような声を出した。
「これから、セキュリティチェックを行ってから、君のDNA判定をもう一度機械とマッチアップする。そうすることで、上に上がりやすくなるからね」
上、と示した上方には厚い雲が覆っている。
「上には……何人くらいの人が居るんですか?」
「あくまで中継地点だからね、ステーションと言っても、それほどの人数は居ない。我々は維持できる技術がまだ無いんだ。資産もかかるしね。……そうだなあ、ざっと百人居るか居ないかくらいかな。それに、『彼』も居る」
「彼」
「そう、かつてこの世界に三度目の戦争をもたらした、福音の末裔だ。彼は非常に知能が高くてね、この状況を完全に理解している。……君を待ってるよ。鷲崎教授の一人娘である君と話すことを楽しみにしている。……それに」
言葉を切って、「言い過ぎたね」と笑んで真木は要に先を示す。彼らの歩みの先に追いつくために歩き出そうとすると、もう一度腕を掴まれる。
「戦争の道具に乗るのよ、要。そんなことになったら……、きっと無事に帰れない」
「もう私に帰るところなんてないよ。待っている人も居ないし」
「私が居るわよ! 私たちが……行かないでよ、要」
さよならを口にしないで、引き剥がされて泣き崩れる詩綾から背を向けた。傍に立っていただけだった流星が近付いて来て、手のひらに何かを握らされる。それがなにかを確認する前に、彼らから背を向けて、要は歩き出す。空気が湿って、もうすぐ空が泣きだすのかもしれない。その前に、早く上にあがってしまわなければ、そう呟いた。
軌道エレベーターは、少ない資源とリスクで人を宇宙に運ぶことができる。膨大なエネルギーと資産を使って、海に落ちるリスクを承知で宇宙服を着こんでロケットに乗り込むことはない。
「素晴らしい技術だろう。あのカーボンチューブを作ることができるなんて、人類は本気にしていなかったと思うよ。でも僕らはやったんだ……生き延びるためにね」
要は電子音がして、先程流星から渡されたものを見直す。手のひらに乗る大きさの、旧式の携帯端末だ。同じ大きさのシロナガスクジラのストラップが付けられていた。流星からのメッセージを見直して、ふと立ち止まって後ろを振り返った。軌道エレベーターを取り囲む様にして整備に走る白い制服の大人たち。人々は皆必死でその胸のバッジはたまに漏れる太陽光に反射して光る。
彼らの向こうに、要の幼馴染二人がこちらをじっと見て立っている。セキュリティゲートを越えられるのは家族だけだ。父子家庭だった要の父親は今年の初め病死している。親戚もおらず、家族と呼べるのはあそこで立っている二人だけだった。
「さよならを、言わないのかい」
要の視線を追った真木が問うた。要は、ストラップを撫でながら口の端だけを持ち上げて、彼らに背を向けて応えた。
「言ったら、きっと二人はその言葉だけを覚えているから」
促されてエレベーターの入り口に近づくと突風が真木の髪の毛を乱した。白混じり髪の毛はコロンの匂いが剥がれて、乱れると少し男を幼く見せる。要は少し長く伸びた髪の毛を耳にかけながら、歩くスピードを考慮せずに後ろについてくる男たちを振り返る。
三本の鉾のマークがついているバッジを付けた男たちは、表情が読めない。国連合同空圏特務機関TRIDENTの三つの鉾は、海の神様の持っている鉾を模していると言う。
「僕らは空はてっきり上にばかり繋がっていると思っていたんだ。けれど、海の中にこそ、僕らの世界が広がるすべての叡智が詰まっていたんだよ」
流星がもっともらしく詩綾に説明すると、要の家のソファを占領した詩綾は寝ながらマニュキュアを塗ったばかりの爪を眺めてふうんと聞き流していた。
「そんなことより、最新音楽チャートを流して、昨日配信のヴィーチャの曲が聴きたいの」
「詩綾、ちゃんと聞いてるの? これは大切なんだよ。総ては今から五十年前に海の底で見つかった異次元へと繋がる次元波の波がね」
「ああ、うんうん。そーね。ねえ、要、パパがまた新しい女作ってしばらく家に帰りたくないから、要の煮物食べたい。イカとか山芋が入ってるやつ」
「家に帰りたくないのと煮物、関係ないじゃないか」
「流星、あんたうるさい」
いつものリビングの風景を思い出して、笑おうとしてうまく笑えなかった。彼らの声が遠ざかって、もう一度現れたセキュリティゲートで我に返る。発行されたチケットと遺伝子情報を組み込んでいる腕輪を示されたスキャナに翳すと、それまで壁だと思っていた場所がホロホロと崩れるようにゲートが現れた。
「パイロットはこちらから通っていただきます」
髪の毛をぴっちりと固めて結びあげている女が、無表情のままそう告げる。彼女の胸にも三本の鉾のマークがついており、白い服に傷一つない白のハイヒール、ストッキングまで白一色で不気味だった。白い女の示すまま進んでいると、真木たちは違う入り口から入るらしく「それでは後で」と言い置いてからどこかに消えてしまった。
「……あの」
白い女は淡々と、要のIDとチケット情報を入力して、持っている端末と何やら照合しているらしかった。
「準備が出来ましたら、中にどうぞ」
このままゲートを進めと言っているのだと思い、黒くぽっかり空いた穴の様なその中に入っていく。
「鷲崎教授の娘さん、ね。それじゃあパイロット適性も通るわよね」
独り言の様な白い女の言葉が反響している黒い世界の中で、ぼうっと光が目の前を横切る。
『我々人類は、三度の大戦を超えて、空だけではなく、地中だけではなく、宇宙へと飛び出す力をようやく手にしました。その技術を可能にしたのが、三人の科学者が創設したこのTRIDENTです。創立した科学者たちは、先の大戦で使用した技術利用し、戦争にではなく人類の平和の為に素晴らしい福音を齎したのです。そう、生物型探査船リヴァイアサンの原型となる生物を発見し、彼らをより人類に適する形へと変化させ、宇宙を航行可能にする技術を確立したのです。人類最後の希望とも言えるクラーケンのパイロットは、彼らと遺伝子配列の相性が……』
第三次世界大戦の終わり年に産まれた第三世代と呼ばれる要や詩綾たちには、何故大人たちが躍起になって宇宙を目指すのかが分からなかった。生物兵器戦争と呼ばれた大戦が人類に齎した宇宙航行時代の幕開け、ニュースでそう報じられてもぴんとこなかった。
色々なことに置いてけぼりにされたまま、世界は猛烈なスピードで進んでいく。きっと「世界にとって私は、取るに足らない存在なんだよね」と、故郷で海を眺めながらいつもそんなことを考えていた。
「鷲崎要さん」
名前を呼ばれて顔を上げると、明るい通路の真ん中でぼんやりと要は立っていた。
「スキャニングおよびマッチングは完了しています。こちらに着替えて、指定されたシートに座って、お待ちください」
結局何をされたのかも分からず、手渡された透明なビニールにパッキングされた白い服を手渡される。白い廊下を抜けて行くと、デパートでよく見かけるカーテンだけで仕切られたフィッティングルームのようなものが廊下の端に張り付いていた。カーテンを開けると、白で統一された壁と鏡、奥の壁の真ん中にぽっかりと開いた四角い口に衣類を入れろということなのだろう。
「制服、返してくれるのかな」
呟きながら見つめた先に、長身の少女が立っている。女としては未完成で、骨ばっていて少し膨らんだ胸が無ければ少年のようだ。筋肉が発達してアスリートのようだといつも詩綾は言う。
「要、ちょっとだけでもいいから女の子っぽい服着たら? スレンダーで、背も高いんだから今みたいにシンプルなのだけじゃなくていろんなのが似合うよ」
詩綾はきっと似合うからと、ハイモードの服を見せて言う。ひらひらレースや、ふんわりシフォンスカートでは隠しきれないものを詩綾は大丈夫だからと、ふっくらした唇に乗せて言う。その服を受け入れることができないまま、口先だけの「そうだね」と慰めだけでやり過ごしてきた。
少し特徴のある鼻梁、写真の中の母親と同じ形の唇に頬のふくらみ、目頭は鼻から少し寄り気味で、釣り目と言われる。父によく似ていると、昔から付き合いのあるご近所さんたちが言っていた。性別が違うのにどこが似ているのだろう。要は、鏡から視線を外して手早く服を脱いで、着替えた。着なれた制服も、何処に繋がっているか分からない四角い暗闇に託して手放す。少し迷って、流星から渡された携帯端末は、ポケットに滑り込ませてから、カーテンを開けた。
『当エレベーターは、稼働時間を約20分後に予定しております。搭乗予定の方は速やかにお近くの係員まで……』
無機質な声が響いている中、白い廊下を抜けると、表情の無い人形の様な白い女が待っていた。
「着替えたわね。それじゃあ、行きましょうか」
「――座席に、ですか」
「ええそうよ、パイロット候補生たちは座る位置が決まっているの」
「どうして」
「観客が、首を長くして待っているからよ。貴女取って食われちゃうかもしれないわ」
それは、白い女特有のからかいだったのだろう。どこか笑いを含んでいるその唇の形に、嘲りを感じて要は下を向いた。こめかみがジンと響くような感覚がする。
「まあ、要ちゃん。父子家庭なんて大変ねぇ。お父さん再婚した方がいいんじゃないかしら」
「あら駄目よ、要ちゃんのお父さんは、死んだ奥さん一筋なのよ」
「今時ねえ。そんなに素敵な人だったのかしら」
近所の女性たちはわさわさと騒ぎ立てては、遠ざかっていく。どう答えれば正解なのだろう。そう思っていつも唇を噛んでしまう。詩綾に腫れた唇を見つけられるといつも怒られていた。
「言いたいことを我慢なんて、あんたはしないで!」
言葉を選んでいるうちに、白い女に手を引かれて、無機質なドアの向こう側に案内された。
『当エレベーターはTRIDENTの技術の粋を集めた、人類のいわば最後の希望を託す箱舟であり……』
教室ほどの空間の中に、あらゆる人種が閉じ込められて、それぞれ話し合ったり端末を持ち寄って顔を寄せ合い話し合ったりしている。その誰もが白い服を着て、その胸には三つの鉾が刻まれている。
「貴女の席はここよ」
白い女の案内に従っていると、ふいに声が聞こえないと思い顔を上げると、見知らぬ男性と目が合った。顔を左に振ると妙齢の女性とも目が合う。もう一度右を向くと、眼鏡の老人とも目が合った。そこでようやく、不躾な視線を様々な人々から受けていることに気付いた。
「ああ、ゲートを無事通過できましたね」
無神経な響きだと思って振り返ると、真木だった。彼の取り巻きのような男たちは要の席の周りに次々と着席して、真木は、当たり前のように要の隣に陣取った。取り澄ました様な顔が、不信感を煽る。何処か飄々とした佇まいで、彼から香る匂いも横顔も気になった。
「着席してお待ちください。間もなく運転を開始いたします」
促されたのは白で統一された歯医者で座る様な椅子だった。大人の男一人が座ればちょうどいいようなつるんとしたつくりの椅子に、こわごわと座って搭乗員に促されながらシートベルトを締める。
「これから少し、きついかもしれません」
「え?」
お腹に力を入れてと言われて、困惑しているうちに身体がふわりと浮いた。ように感じたのは一瞬だった。
『こちらのエレベーターは上昇負荷にかかる人体への影響を最小限に……』
アナウンスが遠ざかる。いくつも連なる様に開けられた丸い窓から見える景色が糸のように細くなって視界が揺れた。そうか、重力とはこんな風に体が重くなって意識が遠ざかるものなのかと考えているうちに、遠くの方から轟音が近づいてくる。
「彼が来るぞ」
誰のことだか分からずに卵型の椅子にしがみついていると、ようやくふんわりとした無重力に近い状態に差し掛かり、体全体にかかっていた重圧が遠ざかり周りの人々を見る余裕も出てきた。要はゆっくりと、首を左右に振って、隣に座った真木やその向こう側の男性の様子を観察する。彼らは恍惚としたような、口を半開きにして少し嬉しそうな顔をしてこちらを見ている。
彼らの視線を辿った先、窓の向こう側に柔らかそうでぬめったものが通り過ぎた。窓にぺたりと紫色の何かが張り付いて離れると白い跡が残る。ナメクジの通り道の様なその跡に、ぬめったものが全体的にテカテカしているのは体液を纏っているためだろうと気付いた。きっと触ったら、柔らかくたわんでぺちゃぺちゃとしていて、あの様子だと弾力性がありそうだ。
「クラーケン」
幾つもの窓を占領していたぬめったものが、『彼』の足先だけだと要は知っている。父親が嬉しそうに何度も教えてくれた。
人類最後の砦である宇宙ステーションの守護者、第三次世界大戦で世界を震撼させた生物兵器――心優しき天駆ける吟遊詩人。父親はそう要に教えた。
『ああ、君が徹の大切な宝物だね』
窓の端から巨大な黄色の眼球が覗く。柔らかな低音が頭の中で響いて、その黄色が決して敵意を持っていないことが分かる。後ろの遠くから悲鳴が聞こえるが、要の耳には彼の声だけが響く。
『クラーケンの一族、人造破壊兵器、人類最後の希望。いろんな名前で呼ぶけれど、私は君のお父さんが名づけてくれたこっちの名前の方が気に入っている。私の名前はポンズ・ポンズ・ショウユ。道化師さ』
唖然としているうちに、彼の身体が遠ざかっていく。
『大丈夫、要。私たちはすぐに出会える。そこで、いろんな話をしよう』
エレベーター全体が軋む不自然な音がして、彼の足が遠ざかっていく。窓に手を伸ばして、指先だけでそのシルエットを辿った。
はあ、と息を大きく吐く声がする。声の出どころを探すと、真木だった。
「ああ、すまない。彼は……我々には酷く脅威でね。私くらいの年の男は先の大戦をどうしても……思い出すんだ」
「戦争の?」
「ああ……でも、華々しくも彼らと同じ部隊に召集された君のお父さんと違って、私は後方技術士として終戦を迎えたよ。彼らの歌声も、彼らの強さもこの目で確かめることはできなかった」
何処か恍惚の表情で窓を見つめる真木の姿を詩綾が見たら、怒り狂うかもしれない。詩綾の父親は高名な音楽家で、彼と同じように戦争に参加して、そして要の父親と同じパイロットとして参加した。
「友達のお父さんは……今でもその後遺症で苦しんでいますよ」
真木には届かなかったようだ。戦争に魅了された彼の様な男を幾人も見て来た要は、それ以上言葉を重ねずに、外を見つめた。いつも故郷から見上げていた積乱雲はもう遥か下だ。大気圏を抜けた後に広がる、ただ深い蒼がじっと要を見つめ返してくる。
――いつかきっと、父さんと行こう。彼に会いに。
約束は果たされず父は逝き、要は一人銀河の入り口に立とうとしている。人類の最後の砦、宇宙ステーション『アヴァロン』が目に映った。巨大な箱舟は、コロニー移住への足掛かりだと言われている。脅威が迫るこの青い星では生きられないと、政治家は言った。
はたしてそれが真実なのか、要は分からない。大人たちは日々情報を隠して、子供たちに多くの世界を見せようとしないからだ。詩綾はそんな大人たちに怒り狂い、要の家のリビングで音楽を聞いていた。
「詩綾、これ見たら何ていうだろう。アヴァロンは、不思議な形をしているんだよって」
呟くと、それを聞いていたかのように、ポケットの中が震えた。流星が詩綾にも端末を渡したという三人だけのチャットが開かれていた。早速、アヴァロンを写そうとしていると、詩綾からデータが送られてくる。クリックしてそれを開くと、それは音楽だった。
「トロイメライ・スカイハイ?」
曲名なのか、タイトルが付けられた音楽データを端末にダウンロードしていると、隣に居た真木がちらりとこちらを見てくる。慌てて、音量を下げて、再生しながら携帯端末を耳元に当てる。いつも要の家の使われていないピアノを弾いたり、流星に作らせた機械で音楽を作っていた詩綾らしい柔らかい音に微笑む。
「ああ、綺麗」
呟くと、遠くの彼方から地響きに似た音が響いた。そしてすぐに衝撃が伝わる。警報が鳴りだした。突然のことで、困惑の声があちらこちらから上がって、すぐに「逃げろ!」と叫んだ誰かの指示を鵜呑みにして、人々が立ち上がり非常出口に殺到する。
「外はもう、宇宙なのに」
誰かが囁くと、エレベーターに衝撃が走る。車でもぶつかったかのような音だ。要は耳を押さえて衝撃が去るのを待った。まず耳と目を守れと父親が耳元で囁く。自分の運命を信じて、それから前を向けという教えを守って顔を上げると、ヒビが入った窓が目に入る。割れた宇宙の向こう側から、青い瞳が覗く。
「52ヘルツのくじら」
すぐに、座席の前にあったイヤホンを耳に詰め込む。両手でさらに押さえて、頭を抱えるようにしながら、奥の座席に中腰で移動する。そこからすぐに、手のひらの向こう側で泣き叫ぶような声がした。一度鳴きはじめたら、5分は鳴き続ける。それが過ぎたら、生存率が上がる。
――奴らの声が、弱まる場所に、逃げ込まないと!
5分耐えてから、息を大きく吸って、走り出す。
【奴らは何も求めない。突然やってきて、餌を狩る。屠って根こそぎ食い散らかして、そして居なくなる。それが52ヘルツのくじらだ。いいか、要、人類はもう奴らの餌だ。奴らがやってくる限り、地球では生存が望めない。だから、この星から逃げるんだ】
眼裏で父との記憶が蘇る。幼い頃から幾度も、父親は要にそう教えた。
走っている最中に、目の端で人が倒れているのが嫌でも目に入る。座席で蹲ってそのまま体が痙攣を起こしている者も居るが、彼らは耳や目から血を流しもう手遅れだった。衝撃が何度も走る。くじらたちがエレベーターに体当たりするのだ。彼らの声を聴いた獲物が動けなくなっている間に、食ってしまうためだろう。
「早く! こっちだ!」
真木だった。耳に何かを付けている。くじら用のイヤホンが、国から支給されているものよりカプセル型でつやつやしていた。
「他の人は」
「いいから、君はこっちだ」
強い力で押し込められたのは、非常用出口前の小さなスペースだった。
「いいかい、僕が合図したら、君は息を止めろ。出来るだけ長い間、彼が来るまで」
「何を」
問おうとする前に、真木は何かのレバーを下げて叫んだ。
「非常用の酸素マスクを口につけろ! 耳も押さえるんだ! くじらは、僕たちの呼吸音を目当てにやってくる。大きく吸って、出来るだけ息を止めるんだ!」
誰かが答える前に衝撃が再びエレベーターを襲った。激しく揺れてミシミシとあちらこちらが悲鳴を上げている。要も耳を押さえようとした瞬間に、奇妙な音がした。
「口笛?」
問う前に、レバーがようやく作動して口を開いた非常口の向こう側から、大きな宇宙が覗いた。びゅうびゅうと激しい風が要を包んで宇宙に連れ去ろうとしてくる。慌てて近くの何かに手を伸ばそうとして、向こう側にぽっかりと空いた何かに気づいた。
――宇宙を飲み込んだ、瞳。
宇宙だと思ったのは彼の大きな瞳で、その大きな目玉がぎろりとこちらを映す。酷く穏やかな色を湛えていて、先ほど見せてくれたぬめって大きな足がこちらに伸びてくる。
『一緒に行こう』
「息を止めるんだ!」
真木が叫んでいる声につられて、大きく息を吸い込むと、足が二本伸びてきて思いのほか優しく包む様に要を掴んだ。
――来る。
そう思っているうちに、あっという間に真っ黒の世界に吸い込まれていく。視界の端で、非常口にしがみつく様にして真木がこちらを見ていた。
「クラーケンを信じるんだ! 彼はただ、君を……」
激しい爆発音がして、爆炎にエレベーターが包まれていく。手を伸ばそうとして、叶わないことに戦慄いた。死の気配がした。きっとあそこに居る人は、誰も助からない。
『大丈夫、一緒に救おう』
頭の中に、優しい声が響いた。彼が、何者か分かって居た。第三次世界大戦を終わらせた、生物兵器クラーケンの最後の一匹。要の父親と戦場を駆けたという。
「ポンちゃん」
愛称を呼ぶと、彼が喜ぶ気配がした。
「どうすればいいの」
『私に、乗り込んで欲しい』
クラーケンに乗り込むのは、少しだけ勇気がいると父親は要に教えた。クラーケンは、巨大なイカに似ている。イカと違うのは、彼らの足の数は決まっていないし、千切れてもすぐに再生する。その何本も足の間に隠されたように彼らの内部に繋がる口が存在する。そこは人間と同じ口ではない。そこにパイロットを受け入れて、彼らの意思をパイロットに預けるのだ。
『私を、信じて欲しい』
身体の力を抜いて、その柔らかくてべとべとする足に抱きついた。いや、彼の場合は腕だろうか。不思議な安心感に包まれて、頬を擦り付ける。その刹那に彼の一部はむくむくと膨らんで、表面がぼこぼこと膨らんだ。光が破裂したように視界がハレーションを起こして、鮮やかな黄色と黄緑とピンクがあちらこちらから飛んでくる。声を出す前にゆっくりと彼の口の中に吸い込まれて真っ暗闇になった。光の余韻が、暗闇の中でも要を安心させて、遠くから聞こえる脈動に安心した。幼い頃、泣いていると父親が抱き上げて聞かせてくれた音と似ている。
急に開けた視界の先に、宇宙が落ちてくる。いや、きらきらと光る先に、ぶよぶよの半透明の身体を収縮させて音を鳴らしてエレベーターに食らいつく生き物が居た。『52ヘルツのくじら』だ。体中に赤くて丸いものがはりついていて、一つ一つがぎろりとこちらを睨んでいる。
「目の、集合体」
『あいつらは目と耳に頼り切りだ。僕の作戦を?』
「手早く教えて」
『私が指示を出せば、この空域の衛星をハックできる。太陽フレアがこれから1200秒後にやってくる、あいつらはその間はあの目を収納するんだ。その間に、私のカナリアで音を消す』
「カナリヤ」
『不安かい?』
いいえと答える前に、クラーケンはエレベーターにはりついたくじらに体当たりをする。エレベーターには無残にもヒビが入って、何かがばらばらと落ちて行く。唇を噛み締めると、優しい声が響いた。
『まずは、力に訴える。腕っ節が弱ければ、君は私を認めてくれないだろう?』
冗談のような言葉を重ねて、いくつもの触腕でくじらに巻き付く。腕の中で嘶くくじらの身体は思ったよりも柔らかい。いや、柔らかいと思った感触の向こう側に、七色に光る膜の様なものが見えた。
『くじらは、異次元の膜で覆われている。私たちが触れることができない空間の断絶だ。現存する武器では傷一つつけることはできない、私を除いてね』
「カナリヤの泣き声がくじらを傷つけることができる?」
『私たちの声は、人からある種の感情を引きだして、増幅させる』
リビングでよく、詩綾は忌々しそうに、クラーケンの戦場の記録を語った。彼らの歴史は、音に敏感な彼女の方が、畏怖をもって語る。――笑戦争、先の戦争のことを大人たちはそう呼んだ。何十というクラーケンたちが『カナリア』を鳴らし、笑い死にする人々を量産した。音は、音楽は、人の死について関与すべきではない。詩綾は怒ってソファを占領してはそう熱弁をふるった。
「くじらも笑うの?」
『いいや、あいつらは笑わない』
問いを続けようとして、唐突に気付いた。彼らは人の息の呼吸音を感知して近づいてくる。
『私が、私たちが、あいつらの撒き餌として引き付けるんだ。目を失ったやつらの感知能力は、落ちてる。膜を纏ったままのあいつらは砂に潜った貝と一緒だ。だから、音で引き付けて、あいつらが捕食するために異次元の膜を口のところだけ開ける。そこに、銛を打ち込む』
「銛?」
問いには答えずに、クラーケンは歌い出す。要の耳にはそれは悲しい旋律に響いた。母が子に与える様な子守唄のような、郷愁を掬い上げる悲しい音色。
『まずは、彼らに闇を与えよう』
周辺の何百という衛星の情報が目の前を駆けて行った。データが可視化されるように彼は配慮してくれたのだろう。魚のように泳ぎ回る衛星に自転回路にアクセスして、太陽フレアの発生時間の予想経路を予想する。太陽フレアの発生時間のレコーダーが出現し、カウントダウンが始まっていった。
『要、人は昔、その小さな身体で巨大な海の生き物を捕ったという。無謀にも、小さな細い槍みたいなものだけで、立ち向かったんだ。なんていったかな』
触腕で掴んだくじらがぬるんと抜け出て行く。膜が張った状態では、長時間くじらを捉えきれない。この空域は凄まじいスピードで様々なものが移動していく。泳ぎ回る衛星に当たらないように航路を計算していると、クラーケンの笑い声が聞こえた。
『私たちは水先人だ。もちろん、漁師であり、戦士であり、人類の最後の希望でもある』
笑い声と共に、衛星の航路干渉アクセスキーが出現して、次々と開かれていく。泳ぎ回る衛星の群れが、要の従う様に次々とくじらに体当たりをする。爆発に巻き込まれないように回避して離れると、次々と衛星がくじらに向かって行った。
『大丈夫、先の大戦で兵器として使われたものが大半だ。要、私たちは様々な世界にアクセスできる。私の声は、どこまでも届くんだ。もちろん、君の声もね。さあ、君の声を聴かせて欲しい』
父が死んだ日、要は幼馴染たちに手を握られて、海の向こう側を見ていた。小さな街の、小さな家の出来事なんてたいしたことのないことはないはずだ。そう思っていたのは要だけで、様々な人間たちが訪れて、ニュースで父の顔が映り、過去の大戦で父が何をしたのかを知った。
要の声は誰にも届かずに、知らない誰かから見た父が画面の向こう側で映し出されるたびに、胸が苦しかった。幼い要の手を握って良く笑っていた父の姿を誰も知らないのだ。喉から漏れる声が、誰かの心に届くならば。そう思って胸に手を当てた。
「私は、くじらが恐ろしい」
『うん』
「誰も傷つかない、誰も食べられない世界が、見てみたい」
『君が望むなら、叶えよう。私たちにはそれだけの力があるんだ』
太陽フレアのカウントダウンがゼロに近づき、衛星たちが盾になって影を作る。凄まじい熱い波が訪れて、音が消える。くじらの全身の目は引っ込み、一瞬その巨体が縮んだ気がした。
フレアが去り、世界の音が蘇ると、クラーケンが声をあげる。要も声をあげた。瞼を下すと、遠い記憶の彼方、幼い要が父の掌を求めてよたよたと歩くさまが通り過ぎる。「お父さん」と呟くと、瞼が持ち上がった。衛星が配列を変えて、再びくじらに襲い掛かる。くじらは嘶くように何か音を漏らしながら、離れて行こうとする。叫ぶようにクラーケンの声に声を乗せる。それは唸り声だった、叫び声だった、要の父を呼ぶ声だった。
刹那、世界が光に包まれて、明滅する。蛍光色の斑が残る暗闇の世界の中で、唸り声をあげると、クラーケンの触腕がくじらを捕える。
「青い」
『彼らは、異次元の膜がなくなると、僕らの目にはそう映る』
「海の中に居る、私たちの世界の鯨みたいだ」
水底の深い蒼を全て集めたような色のくじらは、ぶるんと震えて、抵抗するように口を開いた。その口の中に、鋭く叫ぶと衛星群が飛び込んでいく。
『さあ、勇気をもって行こう。これは、何と言ったかな。そう、いさなとりだ』
巨大な口だった。心の奥から湧き上がる声に従いながら、要はその口の中に吸い込まれるように、呟いた。――祈る様に。
「あなたは、ここに居るべきじゃない」
喉の奥から漏れた声が泣き声だと気付く前に、視界が白くなる。視界に色がもう一度戻るころ、クラーケンがその口からカナリヤを発していたのを、衛星群が反射させてレーザービームのように増幅しているさまが見れた。くじらは大きくたわんで、やがて風船のように膨れて行く。自分が叫んでいるのだと、要が気付いたのはくじらが破裂して中から大きな衝撃が産まれているのを感じた瞬間だった。
くじらが千切れて霧散していくさまを見ながら、肩で息をしている自分に気づく。手のひらを探すと、視界が一瞬揺らいで、世界が消失する。驚いていると、雪が降り積もった世界を手で払いのけるように、白い世界に色が戻る。
『おめでとう、勇気ある要。君は世界を救ったんだ』
場違いのように明るく響く声を聞きながら、要は震える両手を祈るように合わせた。
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