第四章④

 粉塵巻き起こるその中に、僕はオルセンさんに覆いかぶさるようにして地面に倒れこんでいた。間一髪、間に合った。《悪魔堕ち》は余程力を入れていたと見えて、当分黒翼で撒き散らされたこの灰神楽は収まりそうにない。

「鹿山さん? どうして、ここに?」

「最初の患者が《悪魔堕ち》になった時から、もしものために満石さんから戦況を共有してもらっていたからね」

 今言った通り、満石さんは本当に最悪を想定して僕へ出撃中の映像を共有してくれていたのだ。何とか一度目の危機は去ったが、まさか二体目の《悪魔堕ち》が現れるとは満石さんも想定していなかった。僕の病状とオルセンさんの危機を天秤にかけ、満石さんは苦渋の決断を下したのだ。

 僕の方も《死に至る病》の患者ではなく、初めて《悪魔堕ち》と向き合わなくてはならない事態に内心冷や汗ものだった。でも、それよりも患者の前に跪き、首を垂れていたオルセンさんを見た時に、懺悔のような彼女のその言葉を聞いた瞬間、その全てが吹き飛んだ。

「……何、やってんだよ」

「え?」

「何、悩んでるんだよ」

 本当に、一体何をやっているだよ、オルセンさん。君は、悩みを克服したんじゃないのか? ポジティブに物事を考えれる人だったんじゃないのか? 祈る事で、神という内なる自分との対話の中で、時には悩みを解消し、時には全て神に問題を押し付ける事で、幸せに生きるんじゃなかったのか?

「だって、これは、わたくしの、我儘だから」

「我儘?」

 オルセンさんの言わんとしている事がわからず、僕は首をかしげた。オルセンさんは組んだ手を放すことなく、震える手そのままに、擦れて震える声で僕につぶやいた。

「これは、この望みは、この願いは、わたくし一人だけでは叶える事が出来ないのです。だから、これはわたくしの我儘なんです。両親すら捨てた自分を受け入れてくれる、守ってくれるような人がいなければ、誰かにわたくしを受け入れるよう強制するような望みを抱いたわたくしは、罪に塗れて……」

 そして最後は言葉ではなく、想いが彼女の両目から零れ落ちた。頬を伝い、流れる雫が僕の手に触れる。その熱を感じた瞬間、僕は全てを理解した。そんなもの、罪でも何でもないと、オルセンさんが悩む必要なんてないと、僕はわかってしまった。こいつは、自分の悩み(絶望)は神に押し付けれるくせに、自分の望み(希望)は他人に押し付けれないのだ。誰しもが持っていて当たり前のその願いを、口にする事すら自らの我儘(神への冒涜)だと、そう本気で信じているのだ。こいつは、この野郎は、そう信じ(悩み)ながらも僕が進みたかった、俺が欲した道を進んでいるのだ。俺の中から、どす黒い何かが溢れ出す。しかし、今回はそれを止めるつもりもないし、止める人もいない。タールの様に粘つくそれが競り上がって来る感触を感じながら、俺はそれを吐き出すように口を開く。

「神に祈るまでもなく、俺が許す」

「え?」

「徒歩でやって来たのだから、王子というにはいささか恰好が付かないけどな」

 呆けたような彼女を、俺は抱き寄せるようにして地面から立ち上がった。そして土煙を切り裂き迫る《黒翼》の脅威を、彼女を抱きかかえながら俺はそれを避けていく。月明かりに照らされた黒い翼が、闇を切り裂き唸りを上げた。傷つき、自らの罪を告白した天使を《黒翼》が狙い撃つ。だが闇より出でしその攻撃は、彼女の元には届かない。彼女の元に、俺が届かせない。何故なら彼女は、懺悔をするポイントを間違えているのだから。

「確かに、お前は神を謀った」

「そうです。わたくしは罪を――」

「そうじゃない。お前の罪は、神を、内なる神(自分)を謀った事だ。本当の願いがある癖に、その望みを求める事を拒んだ。それがお前の本当の罪だ」

「いいえ、これはわたくしの! わたくしの過ぎた願いなんです! 自分の生まれも知らない不確かなわたくしが望み過ぎたから、主はわたくしの事をきっとお許しにならなかったっ!」

「何を謝る必要がある?」

 そう、謝る必要なんてあるわけがない。罪なき天使が断罪されるいわれなど、あっていいはずがないのだから。

「それが、お前が幸せになるための望みなのだろう?」

「鹿山さん……。ですがわたくしは、今のわたくしは、内なる神に顔向けできません。こんな、わたくしは、望み過ぎている……」

 踊り狂う《黒翼》を躱しながら、俺は彼女の涙を拭ってやった。

「神に拭えなくとも、俺ならお前の涙を拭ってやれる。お前の罪(絶望)も、拭ってやれる」

 俺の言わんとしている事が伝わったのか、天使はハッと顔を上げる。

「! いけません! これ以上わたくしたちの悩み(絶望)をその身に受ければ、鹿山さんは《悪魔堕ち》になって――」

「構わない。こうすることが、俺がこの世で一番幸せに生きる道を歩めると信じているからな。それでもまだ、お前は神に顔向けできないと思うか?」

「で、でもわたくしは……」

「わからないのなら、何度でも言ってやる。お前はお前だ。お前でいいんだ。お前のものでいいんだ。お前の考え方も、お前の悩みも、お前の生き方もな。だが、今その悩みを一人で抱えきれないのなら、絶望に押しつぶされそうになっているというのなら――」

 そう言って俺は、組んだ彼女の両手の隙間に自分の指を滑り込ませ、自分の胸に当てる。

「だったらお前のその悩み、全部俺が引き受けてやる」

 彼女が、これからも戦えるように。

「お前の全てを、俺が肯定してやる」

 自分の悩みに、向き合えるように。

 だから――

「お前の絶望、全部俺によこせ。レギーネ」

「……主よ。この行いを、今から起こすわたくしの行いは、決して許さないでください。この罪だけは、決して御身に肩代わり頂くことなく、わたくしが! わたくし自身が背負うものですからっ!」

 叫びながら、喚き散らしながら、それでも彼女の涙は止まっていた。レギーネは自分の意志で拳に力を込め、彼女の抱えている悩みを俺に注入する。瞬間、レギーネの背中から目が眩むような眩い光と、それに照らされた美しい翼が羽ばたいた。彼女の手足には力が蘇り、日輪の如き輝きが満ち溢れている。きっと、この世で最初に生まれた聖人が浴びた祝福の光も、レギーネから溢れ出るような美しく、そして眩い光だったのだろう。

 それとは反対に、俺の体はどす黒く染まっていく。光を捕らえて決して返すことのない漆黒のそれは俺の胸に溢れ、体を覆った。そして感じる、友音の時に感じた以上の、成美の時に感じた以上の倦怠感。体から全身の血と熱が奪われたと錯覚するようなそれは、その喪失感と同時に何故だか仄暗い力が湧き上がってくる。寝込んでいる時に火照る、熱に浮かされた体のようだ。

 腕の中の少女は先程とは打って変わり、憑き物が落ちたような顔をしている。しかし、俺の体を見た瞬間、その顔が驚きに染まった。 

「鹿山さん、その体は……」

「やれるな? レギーネ」

 自分の体の事は、自分が一番良く分かっている。体の全てが闇色に染まった《悪魔堕ち》になったのだろう。それでも、今はやる事がある。

「俺が患者の足を止める。最後はお前が決めろよ!」

 背中の中に、異物が混じっている感覚がある。肩甲骨が増えたような、不思議な感覚だ。抱えていたレギーネを下ろし、その違和感を動かすイメージをしてみる。すると俺の背中から、何かが飛び出す感触があった。それを見て警戒したのか、《悪魔堕ち》は俺たちから距離を取る。しかし、違和感があったのは背中だけではない。俺の心からも、何かが突き抜けたような感覚が――

「ごめんなさい。ごめんなさい、鹿山さん……」

 見ればレギーネは俺の背中の何かを見て、顔色を悪くしていた。

「こうなる事は、鹿山さんが《悪魔堕ち》になってしまう事はわかっていたのに。それでも鹿山さんの申し出が嬉しかったのです! あなたがそうなってしまった事を、わたくしの悩み(絶望)を受け入れて下さった事を、わたくしは嬉しいと思ってしまっています」

「気にするな。それすらも、神の御心に従った結果、ってやつなんだろうさ。お前が気に病む必要なんてないよ」

「ですが――」

「それに、俺がこうなったのは、お前が原因じゃないさ」

 友音と成美、そして今回レギーネの分の絶望を、俺は受け入れた。だからレギーネが、俺が《悪魔堕ち》になった原因だと悩む必要もない。

「それに、俺が《悪魔堕ち》になったのは自業自得ってやつだ。俺が幸せになるために、俺のために俺が欲していることをして何が悪い! 例え神であったとしても、俺が、俺自身があいつらの悩みを引き受けようと思ったことを、あいつらが必死になって幸せになろうと足掻いたことを、否定させたりなんかしないっ!」

 俺の、何処にいるのかわからない何かに対しての啖呵に反応し、《悪魔堕ち》も絶叫した。俺の《黒翼》と相手の《黒翼》が激しくぶつかり合い、肉同士をぶつけ合ったというよりも、剣戟に近い音が鳴り響く。金属がねじ切れた時に上げる断末魔の様な声が、けたたましく闇夜に撒き散らされた。俺の《黒翼》の使い方はまだ甘く、相手の《悪魔堕ち》にじりじりと押されていく。だが、同じ《悪魔堕ち》同士なら、そう簡単に負けるようなことはない。だから俺が《悪魔堕ち》になったことを悔いるよりも、彼女は今はこの事態を解決することに集中すべきだ。

「そこだ! レギーネっ!」

「主よ。罪深きわたくしの行く末を照らしてくださいっ!」

 金色に彩られた慈愛の天使が、夜空に舞った。月光に負けじと黄金の輝きがメイスに溢れ、光輪が夜を昼へと転換する。そして、天使の翼が羽ばたいた。羽ばたく翼に導かれるように光の環が分解し、無数の十字へと姿を転じさせる。

「全ては神の御心のままにっ!」

 そして光の十字は、俺に気を取られていた悪魔を貫いた。《悪魔堕ち》は光の奔流に巻き込まれ、その姿が掻き消える。やがて光が収束し、辺りに闇が戻ってきたころ現れた患者の表情は、何処か安らいだ表情を浮かべていた。レギーネの光に照らされたからか、僕にまとわりついていた闇色が引いていく。

「あの人は、もう大丈夫そうだね。オルセンさん」

「ええ。そうですわね」

「そっか、良かった」

 たまらずその場に腰を下ろし、安堵の溜息を付いていると、オルセンさんが何故か熱に浮かされたような表情で僕の方を上目遣いで見つめている。

「あの、王子様? 呼び方なのですが――」

「煌!」

「……大丈夫っ!」

 全て終わったタイミングで、友音と成美が到着した。二人とも無事でよかったけど、今オルセンさんが僕の事を変な名称で呼んだような気がしたけど、気のせいかな? いや、でも流石に気のせいだよね? いくらオルセンさんだって、僕の事を王子様だなんて――

「大丈夫ですか? 王子様。お怪我はありませんか?」

 心配そうに僕たちへと駆けよって来た友音と成美が到着するよりも早く、何故だかオルセンさんが僕を抱きしめる。あれ? オルセンさんの怪我はいいの? それより、どうして友音と成美は僕をそんな鬼気迫る表情で見つめているの? 生命の危機を感じた僕は何故だか話題を変えなければならないという使命感に取りつかれ、オルセンさんへと質問をすることにした。

「ど、どうしたのさオルセンさん! 急に僕の事を王子様だなんて呼――」

『徒歩でやって来たのだから、王子というにはいささか恰好が付かないけどな』

「あらあら、嫌ですわ煌様ったら。ご自分でおっしゃったんじゃありませんか。煌様は、わたくしだけの、お・う・じ・さ・ま・だって」

「ちょっと待って友音も成美も! そんなに本気で捻らないで腕! そして何で二人とも《湧き上がる希望》がかつてない程輝いてるのっ!」

『! いけません! これ以上わたくし―――――をその身に受ければ、鹿山さんは――――――――――――』

『構わない。こうすることが、俺がこの世で一番幸せに生きる道を歩めると信じているからな。―――――――――――――――――――』

「ちょ、ちょっとその編集はずるすぎぁぁぁあああ! 腕が! 腕もげもげるもげるもげちゃいますからぁぁぁあああっ!」

「うふふっ。一緒に幸せになりましょうね? わたくしの王子様っ」

 

 それから数日後、僕らの街に新しい都市伝説が生まれた。

 月明かりの眩しい夜は、生まれたての悪魔が一匹、三人の天使から甚振られる呻き声が、聞こえるとか、聞こえないとか。

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