第四章③

 怒号とともに、その豪腕が振るわれた。《死に至る病》に感染した患者が繰り出した右腕が、大気を切り裂き友音さんへと迫りくる。友音さんは気合の掛け声と共にその腕を退けた。その拍子に、患者のバランスが崩れ、隙が生まれる。その好機を逃すこと無く、成美さんが生み出した水流が《死に至る病》に罹った患者へと放たれた。患者へと大質量の水が殺到。押し流されると思いきや、《死に至る病》を発病した患者は転げ落ちるかのように地面と水流の間に滑り込み、間一髪で危機を脱出する。わたくしもメイスを振るい、光の十字で患者を狙い撃つも、その尽くが躱されてしまう。月宙の下、《死に至る病》に罹った患者はその身を闇に溶かすかの如く動き回り、わくしたちの攻撃を避け続けていた。

『これはちーっとまずいかもしれんなー』

 わたくしのウェアラブルデバイスから、美郷さんの声が届いた。すると眼前には拡張現実により、今わたくしたちが戦っている患者のプロフィールと《死に至る病》の感染状況がリアルタイムで表示される。患者の名前は松浪 信三郎(まつなみ しんざぶろう)。妻の不倫が最後のトリガーとなり《死に至る病》に罹ったと記載されているが、問題なのは《死に至る病》の感染状況だ。

「これ、もう《悪魔堕ち》寸前じゃないの!」

「……早く手を打たないと」

 友音さんと成美さんの言うとおり、《死に至る病》の進行具合は危険な状態。もういつ《悪魔堕ち》しても不思議ではないという状況だった。悲哀の籠った唸り声をあげ、患者はその身を宙へと躍らせる。不貞に怒り狂う鋭利な爪が、月明かりに照らされ鈍く輝いた。

「させませんっ!」

 友音さんに迫る《死に至る病》に罹った患者へと、わたくしはメイスを向ける。宙に浮いた今の患者は、光の十字を避けれる道理はない。後は射抜いた《死に至る病》の患者を治療するだけだ。と、誰もが思った。その時――

「嘘でしょ!」

「……そんな」

 友音さんと成美さんが、戦慄して呻き声を漏らす。誰もが必中と思ったわたくしの一撃は、しかし手で光を受け止めきれないのが道理であるように、するりと宙で避けられてしまった。

『おそかったかー!』

 わたくしの攻撃が躱された理由を、美郷さんのその言葉が一番的確に表していた。つまりはあの患者はこの土壇場で、光の十字から逃れる手段を手に入れたのだ。

 それは患者の背中から生え出ていた。今までなかったその場所に、《死に至る病》の患者の背中から、闇よりも暗い、暗闇よりも黒い、禍々しい一枚の翼が生えていたのだ。その翼の名前なら、《純白の天使》であれば誰でも知っている。

《黒翼》。すなわち、患者は今この瞬間、《悪魔堕ち》となったのだ。

「レギーネ、避けて!」

 友音さんの叫び声を聞くのと同時に、わたくしは咄嗟にその場から飛び退る。その場所を、黒い暴風が通り過ぎていった。その余波を受けながら、わたくしは何とか転がるように後退する。顔を上げれば、一瞬前までわたくしが居た場所は、買ってきたばかりのカップアイスを子供が無邪気にスプーンでくり抜いたかのように、無残にも抉り果てていた。それが《悪魔堕ち》が振るった《黒翼》の力だと気付いた瞬間、今まで感じたことのない恐怖がわたくしの全身に広がる。

「でりやぁぁぁあああっ!」

 その恐怖を吹き飛ばしてくれたのは、果敢にも《悪魔堕ち》へと躍りかかる友音さんの叫び声だった。友音さんの燃える拳が、《黒翼》と激しくぶつかり合う。散った火の粉が夜空の花となり、咲いた花を散らすのは、清流で生み出された龍だった。

「……行って!」

 成美さんの声に応えるように、龍は唸り声を上げて《悪魔堕ち》へと襲い掛かる。わたくしも負けじと立ち上がり、メイスを振るった。

「主よ。わたくしをお導き下さい」

 三つの光の十字が現れ、その輝きを増す。わたくしは成美さんが抑え込んでくれている《悪魔堕ち》へと、光の十字を撃ち出した。それに気づいた《悪魔堕ち》は《黒翼》を振るい、払い落とそうとする。一つ目の十字が投げ掃われ、二つ目の十字も叩き折られて闇夜へ溶けた。しかし、三つめの十字は――

「はぁぁぁあああっ!」

「……させない!」

 友音さんの拳が、成美さんの龍が、《悪魔堕ち》の動きを封じ、《黒翼》の動きを阻害する。そしてついに、光の十字が患者へと突き刺さった。

「今です! お二人とも!」

 わたくしの言葉を待たずに、既に友音さんは拳を、成美さんはランスを掲げていた。二人の天使が夜空を駆け、一匹の哀れな悪魔に誅を下す。闇に落ちた獣は慟哭を上げ、やがて月下に人の形に戻った一人の男性が地面へと横たわっていた。

「何とか、勝てたわね」

「……治療、完了」

「うふふっ。皆さん、お疲れさまでした」

 友音さんはその場に腰を下ろし、成美さんもランスを杖代わりにして、息も絶え絶えにそうつぶやいた。わたくしも似たようなものだろう。

『やーれやれ。どーやら無事に、ちりょーできたよーだな。一時はどーなるかと思ったぞ』

 美郷さんの言葉でわたくしたちが安堵の溜息を付いた、その時――

『お前らー、その場から離れろーっ!』

 わたくしたちの頭上を、一枚の羽根を生やした何かが通過した。それを認識した瞬間、わたくしたちを暴風が襲う。友音さんが、成美さんが、そしてわたくしも例外なくその風に蹂躙された。

「まさか……」

「……新しい、《悪魔堕ち》」

 わたくしたちを襲ったのは、先ほどとは別の《悪魔堕ち》だった。一晩で《死に至る病》に罹った患者を複数相手にするのも大変なのに、それが《悪魔堕ち》だなんて、とてもわたくしたちだけでは対処しきれない。

『お前ら、よけーなことは考えずに、その場から逃げろー!』

 美郷さんの言葉がウェアラブルデバイスから響くが、疲労と先程負ったダメージで、友音さんも成美さんもまだ立ち上がる事も出来ない。たまたま負傷の度合いが二人よりも低く、唯一どうにか立ち上がる事の出来たわたくしが、この場をどうにかするしかない状況だ。

「うふふっ。これも、神のお導きなんでしょうかね」

『れぎーねー?』

「わたくしが《悪魔堕ち》を引き受けます。その間に美郷さんは、友音さんと成美さんの救助を!」

『おい、れぎーねっ!』

 美郷さんの声には応えず、わたくしは光の十字による三連射を《悪魔堕ち》へ放つ。しかし、友音さんと成美さんがいてようやく一発当てる事が出来たその攻撃を、二人のサポートがなくて当てれるわけがない。予想通り、《黒翼》によって光の十字は瞬く間に粉々に破砕された。それでも、わたくしの目的は達せられている。《悪魔堕ち》の目がわたくしを捉えていた。今の攻撃はあくまで《悪魔堕ち》の注意をわたくしに引き付けるため。いわば、囮になるためのものだった。

「さぁ、わたくしが相手になりますわ!」

《悪魔堕ち》が咆哮を上げ、大気を震わせる。《黒翼》が振るわれるのを確認せずに、わたくしはその場から離れるために両の羽根を広げて跳躍。そしてそのまま後ろを振り返らずに走り出す。破壊と破砕による激震が、背後から《悪魔堕ち》が近づいてくるのを教えてくれている。怖い。しかし、今振り返るわけにはいかなかった。自分自身、疲労が蓄積している。逃げるだけで精一杯なのだ。怒号が発せられる度足が竦み、《黒翼》が振るわれる度自分の羽根が少しずつ千切れていく。まるで、狩人が獲物を一方的に甚振っているような構図となった。片方がもう片方を一方的に責め苛むそのやり取りがいつまでも続くわけはなく、ついにそれは終わりを迎える事になる。それはわたくしが望んでいた救助という形ではなく、わたくし自身の体力が底をつくという、考えられる限り最悪の形だった。《白妙服》はもはや当初の輝きはなく、《湧き上がる希望》も僅かに稼働しているだけだ。

「これも、神の御心なのでしょうね」

 そうつぶやいた声は、《悪魔堕ち》の怒号にかき消される。恐らく、ここで自分は死ぬのだろう。十字を切りながら、わたくしはそう思った。目の前の患者がどの様な経緯で《死に至る病》に罹り、《悪魔堕ち》になったのかはわからない。しかし、あの《黒翼》が振るわれれば、今の自分はなす術もない事は容易に想像出来ていた。ならばせめて、最後は安らかに逝きたいと十字を切ったのだが、その手が震えて仕方がない。どうにも上手く十字が切れず、それを鎮めるため祈るように両手を握るが、震えは益々強くなる。

 死にたくなかった。そう、安らかに死のうなどと、自分は少しも考えていなかった。生きたい。生きていたい。生きるのを、諦めることなど出来ない。

「主よ。我儘をいうわたくしを、どうかお許しください」

 一度溢れたてしまえば、後はもう想いはとめどなく溢れ出す。わたくしは懺悔する罪人の様に、自分の欲望を口にした。自らその罪(悩み)を告白したためか、《白妙服》は完全に輝きを失い、《湧き上がる希望》も鳴りを潜める。

「主よ。わたくし、本当に羨ましかったのです。両親と一緒に暮らせる子供たちが。それが叶わないのなら、せめてわたくし自身がそのような幸せを築きたかったのです。自分の子にはそんな寂しい思いはさせないと、そう誓ったのです」

 しかし、その言葉は虚しく宙に漂うだけだ。それをかつて話した人はここにはおらず、唯一聞いている悪魔はその暗黒の翼を天高くそびえる月へと突き立てるように広げる。

「こんな少女趣味のわたくしを優しく、抱きしめるように守ってくれる人と一緒に、幸せな家庭を築きたかった」

 ああ、主よ。神よ。

「最後の最後まで我儘を言うわたくしを、生きていたいと願ってしまうわたくしを、お許しください」

 かくして審判は下される。《黒翼》はわたくしの頭蓋めがけて一直線で振り下ろされる。そして――

「そんなの、祈る必要もないよ」

 そう言って傲慢となじられ続ける人(わたくしの願いを知っている人)は、悪魔の猛威から守るように、惚れ惚れするぐらい力強くわたくしを抱きしめた。

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