第三章⑥

「……くっ!」

 迫りくる斬撃を、どうにか私はランスで弾いた。しかしその威力を完全に逃し切る事が出来ず、私はたまらず後退。それを追って、月光に照らされた鋭い爪が振り下ろされる。犬のように四つん這いになりながら迫る《死に至る病》の患者による連撃に、私は只々圧倒されていた。

 本来の私であればここまでの苦戦は強いられることはない。でも、今の私は怪我人だ。怪我だけでなく、怪我を負った原因そのものが解決していないため、《湧き上がる希望》の出力が上がらないのだ。

 私は今、煌にどう向き合えばいいのかわからない。わからないから悩んで怪我をして、双柳たちに迷惑をかけた。私が怪我をしなければ今目の前にいるこの患者も既に治療できたはずで、そのためには私はやはり怪我をしてはいけなかったのだ。つまりは全て私が悪いと、悩めば悩むほど自責の念に駆られ、自己嫌悪の渦が巻く。ネガティブな感情は私の中で更に大きく膨れ上がり、いつも頼りになるランスは水を生み出すどころか、今では鉛のように重く感じてしまう。

《死に至る病》の患者は野良犬のように猛り狂い、吼える怒号が私をあの日に、煌の前から逃げ出した幼い私へと引き戻そうとする。

 弱気になった時、ここで私が負けたら一体誰が煌の傍に寄り添うのかと自分を叱咤する所だが、脳裏には煌の傍にオルセンや美郷、そして双柳が傍らに立っている映像が浮かび、纏う《白妙服》が鎖のように私の動きを縛り付けた。動きを止めた私に向かい、《死に至る病》に罹った患者が躍りかかる。

 私にとって最悪な状況とは、煌が幸せに生きられなくなることだ。煌が幸せに生きることに固執した原因である《死に至る病》を少しでも理解できれば、僅かながらでも彼の力になれるかもと《純白の天使》を目指したのだ。けれど、今の彼には私以外にも――

「……そうね。私がいなくても、煌は他の人が助けてくれるわ」

「何勝手にいなくなろうとしてるんだよぉ!」

 そう言って私の愛しの幼馴染(私の悩みの元凶)は、私へ飛びかかってきた《死に至る病》の患者に、幼いあの日と同じように投擲した石を、惚れ惚れするぐらい綺麗に食らわせた。

 

 成美ちゃんに襲い掛かろうとしていた《死に至る病》の患者が、僕の投げつけた石に一瞬怯む。《死に至る病》に罹っているとは言え、頬にあれだけ強かに石をぶつけられた患者は警戒して成美ちゃんの傍から大きく飛び退いた。手負いの犬のように下がる《死に至る病》に罹った患者を横目に、僕はランスに体を預けることでようやく立っていられると言った状態の成美ちゃんを抱え、その場から全力で離れることにした。

「……煌? どうして、ここに?」

「満石さんから連絡を受けて、慌てて飛び出してきたんだよ。でも何だか似たようなシチュエーションが、前にあったような気が……」

 成美ちゃんが病院を抜け出して単身死に至る病に罹った患者の元へ向かったからどうにかしろ、と満石さんから連絡を受けた時は、本当に驚いた。それは僕が、成美ちゃんの叔父さんと叔母さんから、成美ちゃんがいたら逆に彼女が気を使って話せないからと、僕の両親が死んだ時の話を聞いていた時のことだ。

 でも、それよりも――

「……何、やってんだよ」

「え?」

「何、悩んでるんだよ」

 本当に、一体何をやっているだよ、成美ちゃん。君は、悩みを克服したんじゃないのか? 何が問題だったのかを自問し、その課題を認めたうえで、その状況を打開するために手立てを打つ。悩みを分析してその原因(絶望)を打ち破る事で、幸せに生きるんじゃなかったのか?

「今、友音もオルセンさんも別の場所で成美ちゃんの分まで戦っている。満石さんにも心配してるよ。それなのにこんなボロボロになって、無理してまで、一体何に悩んでるんだよ、成美ちゃん!」

 成美ちゃんを抱えて走る僕の言葉に、彼女の両目が見開かれた。そして僕の幼馴染は、直ぐに顔を伏せて僕から目を逸らす。

「……煌には、わからないわ」

「何が――」

「……煌には、わからないわよ! 私がいなくても生きていける、あの日のことを忘れてしまった煌には、私の悩みはわからないっ!」

 問いかけた僕の言葉を遮り、飼い主に見捨てられた子犬の様な表情を浮かべた成美ちゃんが、こちらの腕に縋り付く。彼女のその手が、震えていた。この手を放してしまうと寒さで凍え死んでしまいそうな程震える幼馴染に、思わず僕の足が止まる。その代わりに口を開こうとした僕の元へ、四肢を躍動させた《死に至る病》の患者が猛犬の様に襲い掛かってきた。

 それに気づいた成美ちゃんが、僕の腕の中で小さな悲鳴を上げる。わからない。何故彼女がこれ程までに怯えているのかわからない。こいつは、僕が進みたかった、俺が欲した道を進んでいるはずだ。悩む必要はないはずだ。俺のことを想ってくれた、俺のために怒ってくれたこいつが、これ程恐れ、悩む必要なんてあるはずない。俺の中から、どす黒い何かが溢れ出す。しかし、今回はそれを止めるつもりもないし、止める人もいない。タールの様に粘つくそれが競り上がって来る感触を感じながら、俺はそれを吐き出すように口を開く。

「俺が幸せになれると初めて信じさせてくれたこいつとの会話を、邪魔するな!」

 俺は闇色に染まる右腕を文字通り伸ばして、猛る《死に至る病》に罹った患者を迎え討つ。闇夜に同化するように伸びた腕は患者の喉に突き刺さり、その威力そのままに相手を後方へと吹き飛ばした。

 変質した俺の右腕を見て、成美ちゃんが驚愕する。

「……煌、それ」

「ま、俺も《死に至る病》に罹っているわけだからな。こういう事が出来るぐらい、進行してるってことだろ? 俺の病も」

 既に元の大きさへと戻った自分の右腕を見て、俺は思わず苦笑いをした。病気の進行速度が目に見えてわかるというのは医者から見たら便利かも知れないが、その分異形へと近づいていく患者の俺からすると気持ちとしては複雑だ。

 少しの間右手を開いたり握ったりしながら、自分の罹患した《死に至る病》の進行具合に思いを馳せていたのだが、俺の幼馴染は全く別のことを気にかけていたらしい。

「……さっきの台詞。煌、覚えてたの?」

「? 何が?」

「……今朝、眼鏡変えたら、って。私と一緒にいた昔の事、野良犬から助けてくれたこと、一緒にいようねって約束したこと、全部、忘れちゃったんじゃないの? 覚えてないんじゃ――」

「何言ってんだよ」

 よくわからないが、信じられない物を見るような目で、でもとても大切なことを一つ一つ丁寧に確認するように俺に問いかける彼女に向かい、俺は鼻を鳴らしながら笑って答えた。

「俺が、お前と過ごしてきた時間を忘れるかよ。思い当たることが多すぎてわからなかったのさ。だから今朝、聞いたんだろ?」

 そう、俺はこう言ったはずだ。

『ど、どれのこと?』

「……じゃ、じゃあ、なんで眼鏡変えろだなんて言ったの?」

「? 単純に古くなったから買い替えたら? と言っただけだ。重要なのは物ではなく、あの日交わした言葉と想いだろ。聞いたよ、お前の両親に。俺の親の事。あの事故に《死に至る病》が関わってたんだな」

「……! どうして?」

 その問は俺が両親の事故の真相を探った事に対してか、はたまたこいつの両親が俺にそれを話してしまった事に対してか。その答えは俺にはわからない。わからないが、わからないが故に、俺はこいつには言わなければならない事がある。

「俺を《死に至る病》から遠ざけようとしていたのは、俺の両親の事があったからだろ? その事を知れば、俺が傷つくと思っていたんだろ? その気遣いについては、感謝する。だがな、今更そんな事で俺が傷つくだなんて、俺が幸せに生きることが出来ないと思うだなんて、そんな事はねぇんだよ」

「……何故、そんな事がいい切れるの?」

「決まってるだろ? お前がそう信じさせてくれたんだぜ? お前があの時俺を想って怒ってくれた。だから俺は自分が幸せに生きられると信じることが出来た。まだどうすれば幸せに生きられるのか、その方法はわからなが、それでもお前が信じさせてくれたんだ!」

 そう言って俺は、俺の幼馴染の両目を見つめる。俺が欲して止まないその方法を知っているこいつの瞳を、食い入るように見つめて言う。

「正直、お前が何に悩んでいるのか、俺は検討も付かない。だが、お前は見つけたんだろう? 悩み(絶望)と向き合う方法を。最悪の事態を自問し、それを受け入れる覚悟をして、それを好転させようとする。お前が幸せに生きるための道を、お前はそのまま歩んで行けばいいんだよ!」

「……でも、私は煌を信じられなくて、皆に迷惑をかけて、今だって私、煌と何話せばいいのか、どうやって話せばいいのかわからなくって。煌、あきらぁ」

 俺の腕の中で少女は、考えがまとまらないのか俺の名前をしきりにつぶやく。月明かりに照らされた雫が二筋、綺麗な彼女の瞳から流れ落ちた。だから俺は、言葉を紡ぐ。

「お前がいないと、俺は幸せに生きていけない」

「……え?」

「俺が幸せに生きる事が出来ると、そう信じさせてくれたお前が、そのお前が出した幸せに生きるための道が、間違いな訳がない。だからきっとお前の抱えている悩みはお前が幸せになるために必要で、その悩みを乗り越えていくことで、お前は必ず幸せに生きることが出来る。俺が信じたお前が幸せに生きてくれないと、俺も幸せに生きることが出来ねぇだろ?」

「……で、でも、私」

「わからないのなら、何度でも言ってやる。お前はお前だ。お前でいいんだ。お前のものでいいんだ。お前の考え方も、お前の悩みも、お前の生き方もな。だが、今その悩みを一人で抱えきれないのなら、絶望に押しつぶされそうになっているというのなら――」

 そう言って俺は、泣きじゃくる幼馴染の手を取り、自分の胸に当てる。

「だったらお前のその悩み、全部俺が引き受けてやる」

 彼女が、これからも戦えるように。

「お前の全てを、俺が肯定してやる」

 自分の悩みに、向き合えるように。

 だから――

「お前の絶望、全部俺によこせ。成美」

「……煌。煌! 煌っ! あきらぁっ!」

 叫びながら、喚き散らしながら、それでも彼女の涙は止まっていた。成美は自分の意志で拳に力を込め、彼女の抱えている悩みを俺に注入する。瞬間、成美の背中から目が眩むような眩い光と、それに照らされた美しい翼が羽ばたいた。彼女の手足には力が蘇り、清流の如き水が龍の如く渦を巻いている。触れる全てを薙ぎ払わんばかりのそれは、しかし一方でこれ以上ない程澄んでいた。きっと、この世で最初に生まれた水も、成美の操るような美しく、そして生命力に溢れた水だったのだろう。

 それとは反対に、俺の体はどす黒く染まっていく。光を捕らえて決して返すことのない漆黒のそれは俺の胸に溢れ、体を覆った。そして感じる、友音の時に感じた以上の倦怠感。体から全身の血と熱が奪われたと錯覚するようなそれは、その喪失感と同時に何故だか仄暗い力が湧き上がってくる。寝込んでいる時に火照る、熱に浮かされた体のようだ。

 腕の中の少女は先程とは打って変わり、憑き物が落ちたような顔をしている。しかし、俺の体を見た瞬間、その顔が驚きに染まった。

「……煌、それ」

「やれるな? 成美」

 自分の体の事は、自分が一番良く分かっている。体の大半が闇色に染まった《悪魔堕ち》の半歩手前のような状態なのだろう。それでも、今はやる事がある。

「俺が患者を追い込む。最後はお前が決めろよ!」

「……うん!」

 成美が頷くのと同時に、《死に至る病》の患者が立ち上がる。患者がこちらに飛びかかってくる前に、俺は右腕を槍のように伸ばした。《死に至る病》に罹った患者はそれを掻い潜るように躱し、俺の方に躍りかかる。俺は左腕に意識を集中。左腕の感覚が無くなる代わりに、左腕に纏わり付く闇色が更に黒という色を濃くしていく。夜に墨を溶かしたような色の左腕で患者の突撃を受け止めると、その間に伸ばした右腕を引き戻す。暴れる《死に至る病》の患者を左腕で押し込めながら、俺は返す力で右腕を患者へと叩き付けた。相手は後方へと吹き飛んでいく。右手から伝わってくる鈍い感触を得ながら、俺は叫ぶ。

「行け! 成美っ!」

「……わかってるっ!」

 瑠璃色に彩られたショートカットの天使が、夜空に舞った。月下に掲げたランスは藍色に照らされて、天に昇らんばかりの清流が溢れ出す。そして、天使の翼が羽ばたいた。滑空する役目を果たす翼で空中を泳ぐようにして体の向きを制御すると、天使は群青色の奔流を発する砲台と化した。

「……いっけぇぇぇえええっ!」

 そして砲台は、俺が吹き飛ばした患者を貫いた。《死に至る病》に罹った患者は派手に洗い流される。《死に至る病》の患者はそのまま流され壁にぶつかるが、相手の顔は何処か安らいだ表情を浮かべていた。成美の清流に洗浄されたのか、僕にまとわりついていた闇色が引いていく。

「あの人は、もう大丈夫だね。成美ちゃん」

「……ええ、そうね」

「そっか、良かった」

 湿った地面に腰を下ろし、安堵の溜息を付いていると、成美ちゃんが何故かもじもじと僕の方を上目遣いで見つめている。

「……煌、あの、呼び方――」

「煌!」

「あらあら、大丈夫ですか? 皆さん」

 全て終わったタイミングで、友音とオルセンさんが到着した。二人が到着した時間を考えると、今日は僕が成美ちゃんの助けに一役買えたようだ。今回ばかりは、満石さんの連絡に感謝しないとね。

「煌、大丈夫? 成美も怪我――」

「……大丈夫。ありがとう、双柳」

 心配そうに僕たちへと駆け出した友音を押しとどめるように、成美ちゃんが僕の方へとしなだれかかってくる。

「……煌。私、ちょっと傷が痛む。かも?」

「え? 大丈夫! 成美ちゃんっ!」

「今かも! って言ったでしょ! かもってっ!」

「……煌。ちゃんと私を支えて。そう、もっと強く。ぎゅっと。ぎゅっとね?」

「そ、それだと傷口広がらないかな? 成美ちゃん!」

 僕に頬ずりまで始めた成美ちゃんへ苦笑いを返していると、その向こうで鬼の形相をした友音の姿が見えた。

「ど、どうしたの? 友――」

『お前がいないと、俺は幸せに生きていけない』

「なんで急に治療時の映像皆に共有したの? 成美ちゃん!」

「……そんな、他人行儀に言わないで。成美って呼んで? そう、あの夜みたいに」

「今日だよね? その夜って今夜の事だよね! 成美ちゃんっ!」

「……」

 突然アームレッグを使った高速のシャドーボクシングを友音がし始めたのを見て、僕は今、命の危機に立たされている事を直感した。尋常じゃない風切り音を強引に無視しながら、僕はこの場にいるもう一人の天使に話を向けた。

「お、オルセンさん! 倒れている男性の救護をしよ、痛い痛い成美ちゃん! なんで腕を捻り上げるのっ!」

「……成美、でしょ? 煌?」

「隙あらば、他の、女に! 一瞬一瞬を、全力でっ!」

「成美、成美って呼ばせて頂きます成美ちゃ、痛っ! 成美成美成美! ちょ、怖! 友音もその全力の一撃は流石にまずいって! せめて《湧き上がる希望》を稼働させてよ! そうすれば僕の《死に至る病》が治るんだからっ!」

「絶対ヤダ!」

「……絶対ダメ」

「あらあら、楽しそうですね。わたくしも混ぜて頂けますか?」

「本気で止めて下さい、オルセンさん!」

「うふふっ」

 成美を抱えて、僕は友音と悪ノリし始めたオルセンさんたちから逃げ出した。

「何なんだよ、この最悪な状況は!」

「……大丈夫よ、煌。私にとって最悪な状況は、あなたがいなくなることだもの。あなたが幸せに生きることが出来ないことだもの。だから、こんなもの全然大丈夫よ、煌。あなたは私が幸せにしてあげる。命に変えても、ね」

「何? 成美! 今ちょっと本気で逃げないと、うわ! 空飛ぶのずるいよっ!」

「……大丈夫よ、煌。私も一緒に、幸せに生きるの。煌と、一緒にね」

 

 それから数日後、僕らの街に新しい都市伝説が生まれた。

 月明かりの眩しい夜は、一人の天使を抱えた一匹のなり損ねの悪魔が、二人の天使から追い回されて逃げ回っている呻き声が聞こえるとか、聞こえないとか。

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