第三章④

 獣の罵声が、容赦なく私を責め立てる。私が彼に言い放った暴言と、その後の行動を咎めるように。

『……きもちわるい』

 自分があの男の子に言った言葉の意味と、その言葉を自分の口から発してしまった事にショックを受けた私は、あろうことかその事実から逃れるように彼の前から逃げ出したのだ。そしてわけも分からず走り回った末、私は無様にも路地裏で野良犬に追い詰められている。

 なんで、こんな事になってしまったんだろう? 自問自答してみるが、答えは既に決まっていた。

 私のせいだ。私がいけないのだ。

 彼の両親が今際の際、あの男の子と交わした約束の事も知らず、知ろうともしなかった、私が悪いのだ。もはや強迫観念にも近い彼の幸せに生きたいという気持ちを、少しも理解しようとしていなかった。だから私は、逃げ出したのだ。

 野良犬が、また姦しく吠える。吠える度に、当時今よりもずっと小さかった私の体は震え続けた。目には薄っすらと、涙すら浮かべている。でも瞼から涙はこぼさなかったし、助けて、とも、言わなかった。いや、言えなかった。家に置き去りにしてきた、ショックを受けた彼の顔が、私の脳裏をちらついている。決して泣かなかったのは彼の心の強さだとは思わなかったし、それがいい事だとは今でも思わないけれど、それでも、どんな歪な形であれ両親と交わした約束を守ろうとしている彼を置き去りにした私が、私だけが助けを求めるだなんて、助かろうだなんて、虫が良すぎる話だと思ったのだ。

 でも、怖い。少しずつ、一歩一歩と野良犬がこちらに近づいてくる。痩せた体をしていてもギラついたその瞳が、私を射抜き、視線を逸らさない。荒い呼吸音と涎が口から零れ落ち、唸り声がこちらを威嚇する。距離を取ろうにも、私の背はもう壁と密着している。横に動こうとも思うが、恐怖で足が思うように動かない。下手に動くと、その拍子に犬が襲い掛かってくるのでは? という不安で、更に足が震える。

 じわり、じわりと距離だけが縮み、やがて野良犬が私に飛びかかろうと足に力を込めた、その時――

 突如飛来した二つの小石が、野良犬の顔面に叩き付けられた。一つは目、もう一つは眉間に小石をぶつけられた犬は、痛そうにその場を転げ回る。それを呆然と見つめている私の手を、誰かが強引に引っ張った。

『はやく! こっちっ!』

 家に置き去りにしたはずの男の子は、私の手を取ってその場から走り出す。手を取られている私は彼に従い、彼の後を追うしかない。やがて大通りまでたどり着くと、息も絶え絶えに、私は彼に問いかけた。

『……どう、して?』

『え?』

 私と同じように荒い息を吐いていた男の子は、始め私が何を聞いているのかわからなかったように首を傾げた後、納得したように頷いた。

『ああ、ほんとうはあのこいし、のらいぬのみぎめとひだりめにあてたかったんだけどね。しっぱいしちゃったから』

『……そうじゃ、なくて』

『あれ? いぬからにげだしたりゆうを、ききたかったんじゃないの?』

 キョトンとする彼があまりにもいつも通りだったので、私は一瞬微笑んで、そして唇を噛んで俯いた。何をやっているんだ、私は。私は彼に何を言って、その後私がどういう行動をしたのか、もう忘れてしまったのか。でも、だからこそ、彼がいつも通りで居てくれるからこそ、私はまず彼に謝らないといけない。だから私は、口を開いた。

『……あの、さっきは、ご――』

『あ、さっきはありがとうね!』

 謝ろうとした私の言葉をかき消して、彼は朗らかにそう言った。私には、意味がわからなかった。

『……え?』

『だから、ありがとう! さっき、おこってくれて』

『……なにを、いってるの?』

『え? だって、なるみちゃん、さっきぼくのことをおもっておこってくれたんでしょ?』

『……あきら、くん?』

『あきらでいいよ!』

 なんで、そんなことが言えるのか、私にはわからなかった。彼に暴言を吐き捨て、あまつさえ逃げ出した私に、何故そんな顔で、そんな笑顔でありがとうといえるのだろう?

 わからない。だから聞いた。

『なん、で? なんで、そんなこと、わたしにいえるの?』

 彼は、小首を傾げた。

『うーんと、まだ、なんでおこられたのかは、よくわからないけど……。でも、なるみちゃんがぼくのためにしてくれたことだとおもうから。ぼくのためをおもっていってくれたことだとおもうから。そうおもってくれるひとがいるなら、きっとぼくはしあわせにいきられる。なるみちゃんは、ぼくにそれをしんじさせてくれたんだ! だから――』

 だから、ありがとうと。だから、これからも僕と一緒に居てほしいと。彼は、煌はそう言って、私の両手を握りしめて、笑った。それを見た途端、私の両頬を、熱い何かが流れ落ちた。涙だ。それを認識した途端、私は大声を上げて泣き始めた。突然泣きだした私を見て、煌が酷く狼狽する。もっと早く助けに行けなくてごめんねと、見当違いなことで謝る彼に、私は更に泣きじゃくりながら縋り付いた。

 私が泣いているのは、嬉しくて、悲しかったからだ。煌は、私の暴言であっても、好意的に受け止めてくれた。だから、嬉しかった。でも煌は、考え方の尺度が常に自分が幸せに生きられるのか否かしかない。それが是なら、自分が理解しきれていなくても肯定的に受け入れてしまえる。だから、悲しかった。私は確かに彼を傷つけたはずなのに、その傷にすら煌は気づいてくれないのだ。彼が気づかないなら、自分が傷ついた事にすら気づけないのなら、そんな間違いは私が煌の代わりにそれを正そうと、そう思った。あの日以来、私にとって太陽のような笑顔とは、煌の笑顔なのだ。煌が幸せに生きられるように私は生きようと、そう、泣きながら誓った。

 私が野良犬に襲われた話は私の両親の耳にも入り、何処に私がいるのか把握できるよう、少なくとも煌には伝わるよう、彼と一緒にウェアラブルデバイスを買いに行った。私が買ったのは、煌が私に似合うと手渡してくれたスマートグラス型ウェアラブルデバイスだ。これがあればどこにいてもすぐに一緒にいられるねと、彼がピンク色をしたフルリム型のそれを私に差し出し、私はそれにこれからもずっと一緒にいようねと頷いて受け取った。煌が選んでくれたそれを、コンタクトレンズ型が主流になり、だいぶ型落ちしてしまった今でも、私は修理をしながら大切に使っている。

 あの一件以来、私は事ある毎に何が問題だったのかを自問した。人は、完璧ではない。何処かで必ず間違えて、何処かで必ず傷つくのだ。だから、その課題(煌が傷つく事)を認めたうえで、その状況を打開するために私は手立てを打つ様になった。

 でもそれなら、私の傷(絶望)は、一体誰が――

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