第三章②
目覚ましの、電子音がうるさい。私は気だるげに体をベッドの上から起こし、緩慢な動きで目覚まし時計を止めた。随分と、懐かしい夢を見た。懐かしくて、あの時の自分の罪を拭い去るように、私は両の頬に引かれた透明の線を手の甲で擦る。その後、ピンク色の、少し色が剥げたスマートグラス型ウェアラブルデバイスを愛おしそうに撫でてから、私はそれをかけた。ウェアラブルデバイスにも目覚まし機能は存在しているが、自分の眼鏡を叩き潰すわけにはいかない。私は今でも目覚まし時計を使っている。
少しだけ伸びをした後、私は自分の部屋を後にした。気怠げに足を引きずって、リビングに向かう。目的地へ近づく度に、私の鼻は朝食の匂い、トーストとスープのいい香りが漂って来るのを感じ取っていた。しかしいつも楽しみにしていたその香りは、今では私の体調を阻害するものでしかない。
「あ、おはよう。成美ちゃん」
リビングに入ると、愛しの幼馴染が出迎えてくれる。少し前ならそれだけで私は全世界を敵に回しても圧勝してみせる自信があったのだが、最近の彼との関係を考えると、その気持ちもほんの少しだけ萎えてしまう。特にあの夢を見た後だと、なおさらだ。あの日以来、彼は幸せに生きるためになら何でも行動するようになったのだと自覚した途端、全世界を敵に回しても、ぎりぎり勝てるぐらいの自信しか私に湧いてこない。幸せに生きるための活動の一環として、煌は料理をするようになっていた。現在、絢家の食料事情は全て煌が握っていると言ってもいい。そんな煌が用意した朝食が並ぶテーブルに、私は渋々腰を下ろす。
「……おはよう」
「叔父さんと叔母さん、もう病院行ったよ」
「……うん。メール、見た」
「成美ちゃん、最近機嫌悪い?」
「……別に」
嘘だ。この所、煌が《死に至る病》に罹ってからというもの、私はずっと機嫌が悪い。その怒りの矛先は煌だけに対して向けられているというわけではなく、煌を全く治療しようとしない美郷に対してもそうだし、最近何かと煌が聖白百合総合病院附属高等学校衛生看護科の女子生徒と一緒にいる事に対してもそう感じるし、双柳がなんとなく煌に対して好意的な事に対してもそうだし、オルセンは相変わらず無防備にあの胸にぶら下がった脂肪を煌の前で振り回す事もその一つだし、この私の心中を察しない煌に対してもそうだし、結論として煌が全部悪いのだ。《死に至る病》に関わった結果あんな思いをしているのに、今も《死に至る病》に関わる必要なんてないのに、煌は相変わらず鼻の下を伸ばして第十六看護隊に入り浸るし――
「な、成美ちゃん、貧乏ゆすりすごいよ?」
「……何でもないわ」
いけない。また煌に対して冷たい態度を取ってしまった。全て煌が悪いとはいえ、私ぐらい彼の味方になってあげなくては。
「あ、今日はサワークリームと苺のジャムを用意してるんだ。成美ちゃん、好きだったよね?」
「……やっぱり、圧勝」
「な、何に?」
「……全世界」
「そ、そう。頑張ってね……」
「……うん。頑張る」
そう言って、サワークリームと苺のジャムをたっぷりと煌が塗ってくれたトーストを口に運ぶ。そうそう、私が食べ始める一口目はサワークリームが少し多めで、徐々に酸味が強い苺のジャムの比率が上がっていくという、この塗り具合が絶妙だ。流石私の幼馴染。やっぱり彼は、私が守らないといけない。《死に至る病》なんかに関わってはいけないのだ。あれに関わると、煌が女性に関わる事になる。もういっそ、幸せに生きるためには家から出ちゃいけないと煌に言ってみる、とか? いける? ぎりぎりいけるかしら? 私の言う事なら、煌はぎりぎり信じてくれるはず。煌可愛いよ。可愛い煌をニート化すれば、流石に他の女も近づいてこないだろう。私の両親は煌の家事スキルにひれ伏すしかないし、私が働きに出れば大丈夫。で、でもでも、ハネムーンは流石に行きたい。海外とかいいわね。でもそうなると、煌を家の外に出さないと行けないし。私は、どうすれば――
「成美ちゃん。それで、相談があるんだけど……」
「……何? 私、今将来の事で、真剣に悩んでるんだけど?」
「そ、そうなの? でも、僕も自分の将来の事について悩んでるんだけど……」
「……ふむ。行くなら、ハワイ?」
「な、何の話? 僕の《死に至る病》について、痛! ちょ、成美ちゃん、やめ、痛いよ! デザートのキウイを刺すために用意した爪楊枝で、つつくのやめてっ!」
全く。せっかく煌で幸せな気分に浸っていたというのに、煌のせいで台無しだ。さて、この責任、どう取ってもらおう? しかし、生半可な方法では、この罪は償い切れない。これはもう、籍を入れる以外に、煌は責任を取る方法はないように思える。
「……煌、もう、《死に至る病》に関わるのはやめなさい」
「でも、満石さんを説得する方法、あるの?」
「……うん。流石に美郷も、籍を入れれば、諦めるはず」
「せ、籍? でも、成美ちゃんはいいの?」
「……うん。望むところ」
「へ? 僕は、満石さんに反抗することになる事について言ってるんだけ、ちょ、やめ、やめて! 僕に得体のしれないもの投げつけない、ってこれひょっとしてキウイの種! 嘘! どうやって? どうやってキウイの種爪楊枝で取ったの? 凄くない! 凄いけどその種僕に投げるのやめて! 後で掃除するの僕なんでしょ? そこで胸張らなくていいから、成美ちゃん! 成美ちゃんだって、《純白の天使》になりたかった理由とか、きっとあるんだよね? 僕がそれを邪魔するのは、本意じゃないというか」
「……それは」
そこを付かれると、流石に私も分が悪い。私が《純白の天使》になったのは、自分の両親が勧めたというのもあるが、煌の存在が大きい。煌は、危うい。ご両親との死別が、未だに彼を縛っている。呪いと言ってもいい程に。彼はご両親の幸せに生きて欲しいという願いを、手段の様に捉えている傾向がある。必死に生きた先に、幸せに生きたという結果があるのに、彼の頭の中は、まず幸せに生きる事が大前提となってしまっているのだ。
だから、私が彼を支えてあげたい。
危うい彼の、アンバランスな彼のバランスを、私が担いたいのだ。彼はどうすれば幸せになれるのか? 私はあの幼き日、彼を傷つけてから、いつもそればかり考えている。
口を噤んだ私を見て、煌が優しく微笑んだ。
「叔父さんと叔母さんが聖白百合総合病院に勤めてるから、やっぱり成美ちゃんも《死に至る病》や、《純白の天使》の事は僕よりも早く知ってたんだよね? だから、《純白の天使》を目指したのも、きっと叔父さんたちの影響なんでしょ?」
「……煌」
流石煌、私の事を良くわかっている。正確には煌のためというのが《純白の天使》を目指した一番の動機なんだけれども、それは些細な誤差よね。やっぱり、私を真に理解してくれるのも、あなたを真に理解できるのも、私しかいない。法律とか、もうどうでもいい。籍は高校一年生だと入れれないから、さっきは冗談だったけど、今は本気よ。結婚しよう、煌。そう、あの日交わした約束を今実現しましょう。そう思いながら、あの日の思い出の品である眼鏡を触っていると――
「そういえば、そのスマートグラス型ウェアラブルデバイス、随分古くなったよね? まだ変えないの?」
「……え?」
……何かしら? 今、聞き間違いだと思うのだけれど、煌が不思議なことを言った気がする。でも、聞き直す勇気もない。うそ。煌、覚えてないの? このスマートグラス型ウェアラブルデバイス、あの日、あなたがくれたのよ? あの日、一緒にいようって、約束したじゃない。
「成美ちゃん?」
煌が、黙り込んだ私を心配そうに覗き込んでいる。
「……大丈夫。なんでも、ない」
ないわけがない。でも、言えない。だって、言って、覚えてなかったら、私――
「そういえば、成美ちゃんはどうやって、どういう考え方でネガティブな感情ではなくポジティブな感情を保っているの?」
煌のその質問に、私は今度こそ凍り付く。だってその質問も、このスマートグラス型ウェアラブルデバイスも、昔のあの日の事が関係していて――
「……覚えて、ないの?」
「ど、どれのこと?」
ああ、やっぱり、煌は忘れてしまっているのか。あの日の事を特別だと感じていたのは、私だけだったのか。でも、それでもいい。私は煌のために、煌が幸せに生きられるように生きていくと、決めたのだ。煌が忘れたあの日に決めたのだ。
「……いいわ、教えてあげる」
私はそう言って、自分のウェアラブルデバイスに触れる。煌が思い出してくれればいいのになんて、都合のいいことを思いながら。
「……ある日、私は人を傷つけた」
「な、成美ちゃんが?」
煌のその反応が、胸のどこかに鋭く刺さる。でも、私は構わず言葉を紡いだ。
「……ええ、そうよ。そして、反省した」
何が悪かったのか、自問した。
「……問題だった所を自分の中で自問し、出てきた課題を認めたわ。今、私にはこういう問題がある、私は今、こういう問題に直面してる、って」
「課題を、認める」
「……うん。そして、その状況を打開するために、何をすればいいのか? どういう手立てがあるのか? それを、分析していったの」
「成美ちゃんは、悩みを分析することで、絶望を打ち破った、ってこと?」
「……そんなに、カッコいいものじゃないわ。私はただ、受け入れただけ。自分が起こした、自分の想像しうる最悪の状況と、そうなった時の結末を」
苦笑いする私に向かって、それでも煌は嬉しそうに笑った。
「でも、その結末を迎えたくないから、絶望しないための打ち手を考えてるんでしょ? やっぱり成美ちゃんは、すごいや!」
「……ありがとう、煌」
でもその称賛が、私には痛い。煌が私との思い出を一つ、覚えていない証明になってしまうから。でも、それでも私は大丈夫。まだ大丈夫。だって、まだ私の想像しうる最悪の状況じゃないから。そこにはまだ至ってないから。だから私はそこにたどり着かないように、打ち手を考えるのだ。でも、私の胸の中に生まれた焦燥感は消えてくれない。この悩みの原因は、やっぱり――
「でもその話って、やっぱりあの日の――」
「……そろそろ出ないと、学校、間に合わなくなるわ」
彼の言葉をこれ以上聞きたくなくて、私は無理に立ち上がる。さぁ、看護隊のシフトでは今夜、私たちが出撃する事になっている。こんなところで絶望している暇なんて、私にはない。
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