第二章③
双柳さんを拘束している水の触手が、それを操っていた本人を突き飛ばしたことでただの水に戻る。双柳さんを抱えてその場から離れながら、僕は自分が吹き飛ばした患者を横目で確認した。気絶しているのか、しばらく起き上がって来る様子はない。《死に至る病》は患者の脳が人体や周りの物質に影響を与えるため、脳にダメージを与えれれば力は阻害されるらしい。
「鹿山? どうして、ここに?」
「丁度聖白百合総合病院で診察中でね。双柳さんが通信を切った後、満石さんに叩き出されたんだよ……」
本当に、すごい剣幕だった。他の看護隊も別の場所で発病した《死に至る病》の患者に対応しているらしく、動けるのが僕しかいなかったのだ。これだけ短時間で駆け付けれるという事は、やっぱり僕も《死に至る病》の影響で体のつくりが変わってしまったという事実を、受け入れざるを得ない。成美ちゃんとオルセンさんは、今呼び出している最中のようで、到着にはもう少しかかりそうだけど。でも、それよりも――
「……何、やってんだよ」
「え?」
「何、悩んでるんだよ」
本当に、一体何をやっているだよ、双柳さん。君は、悩みを克服したんじゃないのか? ポジティブに物事を考えれる人だったんじゃないのか? 一時一刻、全力で生きる事で、幸せに生きるんじゃなかったのか?
「そんなこと言ったって、アタシだって、悩むときぐらいあるわよ……」
「ふざけるな!」
双柳さんの弱々しい声を聞き、僕は思わず声を荒げた。そんな僕を見て、腕の中の彼女は一瞬身震いする。しかし双柳さんは、目尻に涙を浮かべながらも、僕を精一杯睨み付けた。
「鹿山に、アンタに何がわかるって言うのよ……。アタシの悩みが、アタシが何に悩んでいるのか、アンタはわからないでしょう! 無気力そうに生きている、一瞬一瞬を必死になっていないアンタなんかにっ!」
「ああ、わからない! わからないよ、双柳さんっ!」
そう、わからないんだ。何を悩んでいるんだよ、双柳さん。何を悩む必要があるんだよ、双柳さん。君のその生き方は、君のその悩みに対する向き合い方は、幸せに生きたいと願い、絶望した僕が求めてやまない解の一つだったというのに。絶望し切って、《死に至る病》を発病するまで悩みを拗らせた僕が、欲してやまないものだというのに!
「君は、何を悩んでいるんだ! 君は、何故悩んでいるんだ!」
「だから、アンタにはわからないって言っているのよ! 全部振り切って来たの! 女の子らしくなくたっていいって思ってきたの! なのに、何で、今さら……」
しゃくりあげ、彼女は泣きだした。そして、ポツリとつぶやく。
「アタシ、女の子だったよ。弱い、女の子だったよ、かやまぁ……」
ああ、双柳さんが何に悩んでいるのか、僕はわかってしまった。わかったが故に、やはりそんなもの、悩みでも何でもないって、わかってしまった。ああ、こいつは、こんなに悩みながらも僕が欲した、俺が進みたかった道を進んでいくのか。俺の中から、どす黒い何かが溢れ出す。しかし、今回はそれを止めるつもりもないし、止める人もいない。タールの様に粘つくそれが競り上がって来る感触を感じながら、俺はそれを吐き出すように口を開く。
「いいか? 俺はお前に、言っておくことがある」
「え? な、何よ?」
突然雰囲気の変わった俺に、彼女は戸惑いの声を上げた。それを無視して、俺は言いたいことを口にした。
「俺は、お前の悩みや性格には興味がない。俺が興味があるのは、俺が幸せに生きる事。ただ、それだけだ」
「なっ! やっぱりアンタ――」
「だが、だからこそわかることもある」
怒りに頬を朱に染める彼女を制し、俺は更に言葉を続ける。
「お前は、間違っていない。お前の男勝りな考え方も、男女と言われ悩んだことも、お前が必死に取り組んでいた陸上も、全て一つ一つ力いっぱい生きようという、悩みに向き合うお前の考え方に、生き方に、何も反していない」
「でも、アタシは、体は、胸は……」
「だから、それもお前の生き方に沿っている。少女から女へと、その一時一刻全力で成長しているだけだ。今までのお前の生き方に、何も反してはいないじゃないか」
「でも、アタシは……」
「わからないのなら、何度でも言ってやる。お前はお前だ。お前でいいんだ。お前のものでいいんだ。お前の考え方も、お前の悩みも、お前の生き方もな。それでもわからないというのなら――」
そう言って俺は、自らの成長に怯える少女の手を取り、自分の胸に当てる。
「《純白の天使》で、俺を撃て」
「は? な、何を言ってるのよアンタ!」
たぶん、これが正解なはずだ。あのマッドサイエンティストが俺に託した、傲慢な俺にしか出来ない事は、きっとこのことなんだと思う。だから、俺は口にする。
「《湧き上がる希望》は、感情変換装置だ。なら《白妙服》経由ならポジティブな感情だけでなく、ネガティブな感情も注入できるはず」
「まさか、アンタ!」
「ああ、お前の考えている通りだ。ネガティブな感情で発病した、《死に至る病》の患者の俺なら、お前が今抱えている悩みを、ネガティブな感情を引き受けることが出来る」
「ば、ばか! そんなことしたら、アンタの《死に至る病》は更に進行して――」
「そうだ。俺もパワーアップ出来るな」
おどけて言うが、彼女にもわかっているはずだ。《死に至る病》が進行すれば《悪魔堕ち》に至る。俺は更に、人からかけ離れる事になる。しかし、そうしなければ――
「お前は今のまま、戦えるのか?」
「そ、それは……」
その消え入りそうなつぶやきをかき消すように、先ほど俺が蹴り倒した《死に至る病》の患者が立ち上がる。それを見て、まだ彼女は震えていた。だから、俺は言わなくてはならない。
「だったらお前のその悩み、全部俺が引き受けてやる」
彼女が、これからも戦えるように。
「お前の全てを、俺が肯定してやる」
自分の悩みに、向き合えるように。
だから――
「お前の絶望、全部俺によこせ。友音」
「……アンタ、ばかよ。本当に、おおばかよ、アンタ!」
叫びながら、泣き喚きながら、それでも彼女の震えは止まっていた。友音は自分の意志で拳に力を込め、彼女の抱えている悩みを俺に注入する。瞬間、友音の背中から目が眩むような眩い光と、それに照らされた美しい翼が羽ばたいた。彼女の手足には力が蘇り、煌々と炎が光り輝いている。きっと、この世で最初に生まれた炎も、友音が抱えているような美しく、そして温かい炎だったのだろう。
それとは反対に、俺の体はどす黒く染まっていく。光を決して反射することのない漆黒のそれは俺の胸に溢れ、体を覆った。そして感じる、倦怠感。体から全身の血と熱が奪われたと錯覚するようなそれは、その喪失感と同時に何故だか力が湧き上がってくる。寝込んでいる時に火照る、熱に浮かされた体のようだ。
腕の中の少女は先程とは打って変わり、憑き物が落ちたような顔をしている。しかし、俺の体を見た瞬間、その顔が驚きに染まった。
「アンタ、その体……」
「いけるな? 友音」
自分の体の事は、自分が一番良く分かっている。全てとは言わないが、体の大部分が闇色に染まった
「俺が患者の足を止める。最後はお前が決めろよ!」
「ちょっと! もうっ!」
友音の言葉を置き去りに、俺は立ち上がった《死に至る病》の患者へと突き進む。水の触手が伸びてくるが、それを俺は闇色の手で叩き落した。第二、第三の触手が迫りくるが、なおも俺は前進していく。友音ではなく、相手に俺を意識させるために多少のダメージを受ける覚悟で俺は愚直に突き進んだ。《死に至る病》に罹った男性は雄叫びを上げ、触手だけでなく自分自身も突き進んでくる。鞭のような触手が、俺の右足に絡みついた。右足を取られた瞬間、男が俺に躍りかかって来る。取っ組み合いになりながら、俺は叫んだ。
「やれ! 友音っ!」
「言われなくてもぉぉぉおおお!」
ポニーテールの天使が、夜空に舞った。赤々と燃え上がる両の拳が、月明かりを吸収するように更に燃え上がる。そして、天使の翼が羽ばたいた。加速器の役目を果たす翼の推進力で、天使は灼熱の弾丸となる。
「はぁぁぁあああっ!」
そして弾丸は、俺と組み合っていた男性を貫いた。《死に至る病》に罹った患者は派手に吹き飛ばされる。しかし、転がり終わった後見えた彼の顔は、何処か安らいだ表情を浮かべていた。友音の燃える拳に炙られたせいか、僕にまとわりついていた闇色が引いていく。
「あの人は、もう大丈夫なの? 双柳さん」
「ええ、無事完治したわよ」
「そっか、良かった」
地面に腰を下ろし、安堵の溜息を付いていると、双柳さんが何故かもじもじと僕の方を上目遣いで見つめている。
「ねぇ、それよりアンタ、呼び方――」
「……煌!」
「あらあら、皆さん大丈夫ですか?」
全て終わったタイミングで、成美ちゃんとオルセンさんが到着した。でも、二人が急行した時間を考えると、あまり僕が頑張らなくても双柳さんは助かっていたようだ。全く、満石さんも心配性なんだから。
「……煌、怪我。怪我、ない? 大丈夫?」
「だ、大丈夫だよ成美ちゃん」
心配そうに僕の体を触り、本当に僕が怪我をしていないか確認する成美ちゃんに苦笑いを返していると、その向こうに何故だか引きつった笑みを浮かべている双柳さんの姿が見えた。
「ど、どうしたの? 双柳さ――」
「もう、どうしたの? 煌。双柳さんだなんて他人行儀に。いつもみたいに、友音って呼んでよ」
「へ?」
「……煌?」
急に馴れ馴れしくなる双柳さんと、突然僕の顔を瞳孔が開いた状態で凝視し始める成美ちゃんを相手に、僕は冷汗を流す。ひとまず倒れている男性を病院に連れていくのが先だと思い、僕はこの場にいるもう一人の天使に話を向けた。
「お、オルセンさん! 倒れている男性の救護をしようか!」
「あらあら、そうですわね。では現状を確認したいので、どういう治療を行ったのか共有してくださいますか? 友音さん」
「ええ、いいわよ」
そしてウェアラブルデバイス経由で、この場にいる全員に双柳さんが僕と一緒に行った治療中の動画を共有する。そこに映っていたのは――
『いけるな? 友音』
「……煌?」
「痛い! 痛いよ成美ちゃん!」
「あ、間違えたわ。こっちだったかしら?」
『お前の全てを、俺が肯定してやる』
「……あーきーらー」
「だから痛いよ成美ちゃん! 人間の関節は、そっちには曲がらないよっ!」
「あらあら、友音さん。いたずらが過ぎますよ」
「そうね。こっちだったわ」
『お前の――全部俺によこせ。友音』
「……」
「今編集! 明らかな編集が入ってたって成美ちゃん!」
「煌? アタシの名前は?」
「ごめんなさい、友音って呼びます! ごめんなさいごめんなさい! だから成美ちゃ、成美ちゃん? 成美ちゃん! 痛い痛い! 《死に至る病》に罹っててもこれ以上は腕もげるからぁ!」
「あらあら、楽しくなってきましたね。うふふっ」
それから数日後、僕らの街にちょっとした都市伝説が生まれた。
月明かりの眩しい夜は、三人の天使の楽しそうな声と、一匹のなり損ねの悪魔の呻き声が、聞こえるとか、聞こえないとか。
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