第二章①
授業の終わりを告げるチャイムが鳴る前に、アタシはウェアラブルデバイスを操作し、眼前に映し出されていた教科書情報を削除。そしてそのまま乱暴に席から立ち上がると、教室の外へと飛び出した。
全く、どういうつもりなのよ! 美郷先生はっ!
アタシは苛立たしさに束ねたポニーテールを揺らし、大股で学校の廊下を歩いていく。苛立ちの原因は、昨日無理やり第十六看護隊に入隊した、鹿山という一年生だ。編入試験は確かに不正もなく、間違いなく彼の実力でクリアしていた。それはアタシが何度も何度も、自分のウェアラブルデバイスを使って調査したから間違いない。美郷先生が試験の解答を拡張現実として付与(横流し)してない事も確認した。だからそう、鹿山が衛生看護科へ編入したことについては何も問題ないのだ。正規のルートを正しい手順でクリアした。だから彼に落ち度はない。そう、落ち度はない。部隊を指揮する美郷先生の決定なので、彼が第十六看護隊に入るのも百歩譲って良しとしよう。でも、《死に至る病》の患者って! それにあの無気力さといったら――
そこまで考えて、アタシは思いっきり頭を振る。自分の髪が左右に線を描くように揺れた。ダメだ。あの鹿山という奴が、アタシから見たらいかにあの無気力さ故無作為に時間を消費しているように見えたとしても、それでアタシの心をささくれ立たせてはいけない。苛立ってはいけない。ネガティブな感情に、自分を支配されてはいけない。何故ならアタシは、ポジティブな感情で戦う《純白の天使》なのだから。鹿山に怒るぐらいなら、もっと別の、プラス方面にパワーを使わないと――
「あ、双柳さん。丁度良かった」
「かーやーまぁぁぁあああっ!」
「えええ! 何でいきなり怒ってるの?」
ああ、いけないいけない。気持ちをポジティブな方面に切り替えようとしたタイミングで自分の苛立ちの元凶がやって来たので、思わず口から怒りが漏れてしまった。アタシは咳ばらいをすると、鹿山に向かってにこやかに微笑む。
「死ねばいいのに」
「酷過ぎない!」
「ああ、ごめんなさい。まだ心がリセット出来てなかったわ。ちょっと待ってて、今締め出すから」
そう言ってアタシは目を閉じ、浅めの深呼吸を一つ。よし、これで一区切り。
「ごめんごめん。もう大丈夫よ。それで、どうしたの? 鹿山」
「あ、ああ。その、今双柳さんがしたことに、興味があるんだ」
「アタシが、したこと?」
「うん。双柳さん、今、ネガティブな感情からポジティブな感情に切り替えを行ったでしょ? その頭の切り替え方、どうしてるのかな? って思ってさ」
小首を傾げるアタシに向かい、鹿山は少し前のめりになりながら質問した。アタシは、少し驚いた。へぇ、こいつ、案外人のこと良く見ているのね。だから、アタシは質問する。
「それ、例のやつ?」
「うん。そう、例のやつ」
僕は幸せに生きたい。
鹿山が《死に至る病》に罹る原因となった願いであり、美郷先生から一人で叶えるのは傲慢と言い切られた彼の絶望。
その辺、《死に至る病》を含めて浮かつに口に出さないように気を付けながら、アタシたちは会話を紡いでいく。
「少なくとも、ネガティブよりポジティブに物事を考えていた方が、僕の願いに近づけると思うんだ。だから、双柳さんがどうやってそれを保っているのか、教えてよ」
「……なんでアタシがアンタにそんな事教えないといけないのよ」
「だって、それをすることで、僕の病気が治るかもしれないんだよ?」
「!」
そのまま鹿山を置き去りにしようと歩き始めたところで、彼がかなりきわどい発言をした。思わず振り向いて睨み付けるが、鹿山は素知らぬ顔でアタシの隣に並び、そのまま歩くように促す。無視しても良かったけど、アタシが拒否したところでこいつはきっと、成美やレギーネに同じような話を聞きに行くだろう。学校内で迂闊に《死に至る病》の話をされるのはたまったもんじゃない。今は丁度昼食時で、次の授業まで時間がある。
「聞いたって、楽しい話じゃないわよ?」
「いいよ。双柳さんの話が聞きたいんだ」
「何よ、それ……」
アタシの足は、自然と人気の少ない場所を目指していた。足を動かしながら、口も動かす。
「アタシ、男っぽいというか、可愛くない、勝気な性格してるでしょ?」
「そうかな?」
「下手なフォローはいらないから。自分でもわかってるし。ちっちゃい頃は、男女って呼ばれて、まぁそれなりに気にしてたんだから」
そう言ってアタシは、今は長く伸ばした髪を触る。昔は本当に、ガキ大将みたいな髪型だったからなぁ。
「男みたいな外見でも、アタシも中身は年相応の女の子だったのよ。可愛い服なんて似合わないのはわかっていたけど、やっぱり凹んだわ。そんな時、盛大にこけて、擦りむいて、泣いて、そして、出会ったの」
「何に?」
「陸上競技によ」
そう言って、アタシは鹿山に振り向いた。
「あの時悩みはしたけれど、アタシは出会った。陸上という、コンマ数秒を競う競技にね。過去と未来を自分の心から締め出し、今というこの時を全力で生きる。それが、アタシには尊いものに思えたの」
「悩みを、心から締め出す?」
「うーん、どういえばいいのかなぁ?」
腕を組んで唸ってみるが、思い出すのは、アタシに陸上を教えてくれた、あの人の言葉だった。
「砂時計って、あるでしょう? 一粒一粒の砂が、少しずつ零れ落ちる、あれ」
「うん。それなら、わかる」
鹿山の頷きに満足し、私は話を続けた。
「あの砂が零れ落ちる時間はね、皆、平等なのよ。だったら、その一粒一粒、一秒一秒、嫌な事考えているより、楽しい事考えている方がいいでしょう?」
「楽しい、ポジティブな事……」
「そ! だからアタシは、陸上が好き! 走るのが好き! その一時を全力で駆け抜ける陸上競技が、アタシの生き方に、生き様になってるのよ! そう、それはまるで――」
「なるほど。双柳さんは、一時一刻を全力で生きてるんだね」
「なっ!」
今アタシが言おうとした、子供の頃怪我をしたアタシに陸上という競技を教えてくれたあの人と同じことを、目の前の男がつぶやいた。当時、あの人はアタシを治療してくれた看護師で、《純白の天使》だった。その人がアタシに陸上を教えてくれて、今のアタシがある。あの人の様に自分も他の誰かの役に立ちたいと思ったし、あの人と同じ《純白の天使》に憧れて衛生看護科にも進学した。髪型だって、あの人の真似をしてポニーテールにしているのだ。
そんなアタシの生き方に影響を与えたあの人と同じ言葉を、鹿山は――
急に高鳴り始めた心臓が苦しくて、思わずアタシは自分の胸に手を当てた。そして手を胸に当てた感触に、最近起きている自分ではどうしようもない悩みを思い出してしまい、表情を曇らせる。これがあるから、最近短距離走のタイムが芳しくないのだ。なんでこんな、アタシが悩んでいた時にはなかったそれが、今になって……。
そんなアタシを見て、鹿山は何故か全てを理解したと言わんばかりに頷いた。
「そうか。双柳さんの機嫌があまり良くないのは、陸上競技の成績があまり伸びていないからなんだね。そういえば双柳さん、最近胸が成長したって――」
「やっぱり死ねぇぇぇえええっ!」
アタシは渾身の右ストレートを、鹿山の顔面に叩き込んだ。不意の一撃だったのか、《死に至る病》に感染しているとはいえいい角度で鹿山の顎に拳が入り、彼はカエルがひっくり返ったように廊下に倒れた。人気のない場所へ移動していたため、目撃者はいない。アタシは無事、完全犯罪を成し遂げたことに安堵した。
やっぱりこんなやつ、第十六看護隊に必要ない! そもそも、どうして美郷先生はこいつを無理に入隊させたんだろう? アタシの実力じゃ、戦力として足りないと思われているのだろうか? 冗談じゃない! あの人の様になるために、アタシは《白妙服》に身を包んで戦っているのだ。アタシは、一人でもやっていけるんだ! アタシ一人で《死に至る病》の患者を治療出来れば、きっと美郷先生だって考え方を変えてくれるはずっ!
倒れた鹿山を放置して、昼食時間の終了を告げるチャイムの音を聞きながら、アタシはその場を後にした。
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