第一章②

「あれ、もう飲み物なくなってたのか」

 冷蔵庫の前で、思わず僕はそうつぶやいた。風呂上りの乾いた喉を潤すため、バスタオルを肩にかけて冷蔵庫の前までやって来たのだが、残念ながら目的の物を見つける事は出来なかった。

 仕方がない、コンビニに買いに行こうと思い、冷蔵庫の扉を閉めてリビングへ視線を送る。すると、ソファーに座ってテレビを見ていた成美ちゃんと目が合った。ウェアラブルデバイスが普及しても、まだ地上波放送は残っている。その辺の利権争いは、タブレット端末が普及し始めた昔も今も変わらない。

 僕よりも先にお風呂から出ていたパジャマ姿の成美ちゃんの髪は既に丁寧に乾かされており、その手に僕の探し求めていた炭酸飲料のペットボトルを持ち、彼女の可愛らしい眉をばつが悪そうに歪めている。

「……ごめん、煌。これ、最後だった」

「いいって、成美ちゃん。居候の僕の事は気にしないで。コンビニもそう遠くないし、ちょっと散歩がてらに買ってくるよ」

 そう言って僕は、お風呂に入る前に外していたコンタクトレンズ型のウェアラブルデバイスを目と耳に装着する。このウェアラブルデバイスには決済機能も付いており、ちょっとした買い物ぐらいなら手ぶらで出来るようになっていた。もちろん、ネット通販もこれ一つで注文出来てしまうのだが、飲み物一つだけなら自分で直接買いに行った方が早い。

 耳にはめた本体のイヤホンの位置を調整していると、ジト目をした幼馴染と目が合う。せっかく学校で傾いていた機嫌が家に帰って来てからは直っていたのに、今はそれ以上に不機嫌になってしまったようだ。

「……そんな言い方、やめて、煌。居候だなんて、関係ない。煌はもう、私たちの、家族なんだから」

 成美ちゃんの言葉に、僕は苦笑いをしながら生乾きの髪をいじった。自分でも言った通り、僕は成美ちゃんの家、絢家に居候させてもらっている。成美ちゃんのご両親、叔父さんと叔母さんは聖白百合総合病院の医師と看護師をしており、今晩は急遽、二人とも夜勤のため家を空ける事になっていた。そんな二人に僕が何故御厄介になっているのかというと、それは一言で言うとするなら、こういうしかない。

 叔父さんと叔母さんが、僕の両親を看取ったからだ。

「ありがとう、成美ちゃん。身寄りのない僕を引き取ってくれたのが、叔父さんと叔母さんで良かったと思ってる。本当に、心の底からそう思っているよ」

 僕は、僕自身の事を特別な奴だとは少しも思っていない。特別な人っていうのは、なんかこう、もっとすごい人の事を言うための言葉なんだと思う。例えば、そう、《死に至る病》に罹ったとすれば、それはある意味特別と言ってもいいのかもしれない。いいか悪いかは別としても、都市伝説の一つになれたのなら、それはもう十分すごい人だと言ってもいいと思う。

 そりゃこの年齢で両親と死別しているというのは少数派なのかもしれないけれど、でも、だからと言ってそれが特別なんだとは思わない。両親が交通事故にあったのは僕が小学校に上がる前だったけれど、そこから一人だけで生きてきたわけではない。少なくとも、成美ちゃん、そして彼女の叔父さんと叔母さんが一緒にいてくれた。だから僕は、特別なんかじゃない。せいぜい少し変わっているぐらいが関の山の、平々凡々の高校生だ。そう、僕は普通なんだ。普通じゃなければならないんだ。

 だってそうじゃないと、普通に幸せに生きることが出来ない。

 今わの際、僕の父さんが願ったように、母さんが願ったように、普通に、当たり前に、幸せに生きる事が出来ない。

 当たり前に当たり前の、平々凡々の普通の幸せを、十二分に噛みしめ、歯を噛みしめながら精一杯生きて、噛み過ぎて味のしなくなったガムを更に十全に噛み切るように、僕は幸せに生きるんだ。

 だから僕は、特別なんかじゃない。特別だなんて、きっと僕の両親は望んでいない。特別って言うのは、きっともっとすごい人の事を指す言葉で、ある意味あの夜空に浮かんでいるたった一つの月みたいな特異点の事を指していて、それがきっと、特別の限界値なんだ。特別は『特別』という枠にはめられてしまう。特別は、『特別』という事から逃げられない。だから特別は、『特別』という制限があるんだ。だから僕は、特別なんかじゃない。普通でいい。普通がいい。何処にでもある、何処にでも溢れる、無限に広がる普通がいい。僕は、普通に幸せに生きたいんだ。特別じゃないから、僕はもっと、もっと幸せになれる。もっと溢れれる。もっと広がれる。僕は普通だから、もっと、もっともっと、幸せに生きていくことが出来るんだ。

 でも、そうするには、どうすればいい? どうやって、僕は幸せに生きればいい?

「もちろん、成美ちゃんと出会えたのも、僕にとっては幸運だったよ。僕が幸せに生きていくためには、きっと僕は成美ちゃんと出会わないといけなかったはずだから」

「……ばか」

 少しだけ頬を赤くした幼馴染は、ソファーのクッションに顔をうずめる。その姿と自分の内に浮かんだ疑問を振り払うように、僕はリビングの外へと足を向けた。

「……やめたら? コンビニ行くの。最近、物騒だし」

「大丈夫だって。《死に至る病》なんて、ただの噂話だよ」

 通学時の話を心配しているのかと思い、成美ちゃんに振り返りながら僕は答える。

「それに、成美ちゃんも最近学校から帰ってきて、すぐ出かけることが多くなっているじゃないか。これでも一応僕は男だし、成美ちゃんが出かけるより危険は少ないはずだよ」

「……男の方が、危ない事も、ある」

 わずかに視線をずらす幼馴染に、思わず僕は吹き出した。

「何? それ。それより、成美ちゃんは何か欲しいものはある? ついでにコンビニで買ってくるけど」

「……じゃあ、アイス」

「ミント味だよね? わかった」

 そう言って、まだ心配そうな視線を送って来る幼馴染を残して家を後にした。玄関を出てから、ウェアラブルデバイスのネット接続をオンにする。成美ちゃんには怒られるかもしれないけど、コンビニまで歩く道のりぐらい許されるだろう。昔の、スマートフォンを操作しながら歩いているようなものだ。あれに比べたら、きちんと前を見ている分安全というものだろう。視界にインターネットへ無事接続出来たアイコンが浮かび上がった瞬間、すぐさま視界に拡張現実の無料広告が溢れ出す。それらを一斉に削除して、ネットニュースを流し読みしていると、この付近の道路で交通事故があったことがわかった。その事故は今向かっているコンビニへ行くのによく使っている経路で起こっており、このまま進むとかなり迂回する必要がある。この事故を考慮に入れたコンビニへの最短経路を視線で検索すると、すぐさまその結果が視界に返って来た。ウェアラブルデバイスを通してのみ出現するコンビニへ誘導してくれる矢印が、僕の目の前に現れる。

 うん。やっぱり使い方さえ間違えなければ、拡張現実は便利なものだ。成美ちゃんは、どうしてそこまで拡張現実を毛嫌いするのだろう?

 幼馴染に対して疑問を感じながら、僕は拡張現実のナビゲートに従って普段使わない裏道に入っていく。すると、一人の男性が道脇でうずくまっているのに気が付いた。背広を着た、恐らくサラリーマンだと思われる男性は、苦しそうな呻き声を上げている。

「だ、大丈夫ですか!」

 僕は慌てて男性に声をかけた。小走りで近づきながら、僕は視線でウェアラブルデバイスを操作し、救急車を要請。この場所の位置情報も同時に送信したので、五分もしないうちに救急車がここに到着するはずだ。

「大丈夫ですか? しっかりしてください!」

 もし嘔吐していたら、大変だ。呼吸を行うために気道を確保しないと、最悪窒息死してしまうケースもある。病院に勤めている叔父さんの教えを思い出しながら、男性の体に触れようとした瞬間――

「……え?」

 視界が、一瞬で真っ白に染まった。

 僕のウェアラブルデバイスが故障したのとも、拡張現実の広告が視界を覆ったのとも違う、僕自身の、僕の生身の体の作用によって、視界が白に染まっていた。その原因は僕が強烈な力で吹き飛ばされ、背中から壁にぶつかった衝撃と痛みだったのだが、それを僕が認識して苦痛に呻くよりも先に、先ほどまでうずくまっていた男性が僕に向かって踊りかかって来ている。

 何が起きているのか、さっぱりわからない。でも僕は、この映像をどこかで見たことがあった。その虚ろな表情。絶望色に濁った瞳。濃密な黒い影。そして何より尋常ではないその怪力は、まさしく僕がただの噂だと笑った、ネット上に出回っている《死に至る病》に罹った患者の動画そのものだった。

「まさか、本物?」

 そうつぶやく前に、僕は《死に至る病》を患った人に首を絞められ、持ち上げられる。噂通り片手で持ち上げられている僕の脳が今の現実を受け入れ切れていない状況だが、僕の体は自分自身の危機に敏感に反応していた。それはつまり、体の異常という形でだ。

 酸素不足により、僕の視界が回転しながら暗転する。呼吸がままならない。僕は酸素を求めて陸に打ち上げられた魚の様に両足をばたつかせ、両腕は男の手を解こうともがくが、まるでびくともしない。口からだらしなく涎を流しながら、僕の脳はまだ現実を受け入れ切れていなかった。

 何で? どうして? 《死に至る病》はネット上の噂だったんじゃないの? それより何で僕がこんな目に合わないといけないの? 何で? 死ぬ? 何で? このままじゃ、死ぬ? 何で? 何で、僕が? 僕が、死ぬ? 何で? 何で、死ぬの? まだ、幸せに生きていないのに? 生き切っていないのに? 生き切る前に、死ぬ? どうすれば幸せに生きれるのか、まだそれすらわかっていないのに? わからないのに、死ぬの? 幸せじゃないのに? 幸せに生きる方法すらわからないのに? 生きてないのに? 幸せに生きていないのに? 何で? 何で、幸せに生きていないのに死ななきゃならないの? 僕が? 何で? そんなの、何で? 何で? ねぇ、何で? そんなの、嫌だよ。死にたくない。死ねない。幸せに生きるまでは。幸せに生きる方法を知るまでは。どうやって生きれば幸せになれるのかわかるまでは。幸せに生き切るまでは。

 そうじゃないと、僕は――

 僕は、普通に――

 世界で一番――

 死んで、たまるか。死ぬくらいなら、殺されるくらいなら、いっそ、俺が――

「てやぁぁぁあああっ!」

 俺の、いや、僕の中から黒く粘ついた何かが溢れ出す前に、謎の掛け声が聞こえるのと同時に僕の体は解放、いや、僕を掴んでいた男性ごと吹き飛ばされた。僕は道路脇に、《死に至る病》に罹った男性は道路の真ん中へと転がっていく。もう、何が何だかわからない。《死に至る病》が現実のものだったというのも、その患者に実際に襲われたというのも現実味がなく、全く持って理解できない状況だ。でも、それよりも僕が理解できないのは、僕を助けてくれたであろうその人物が、余りにも浮世離れしていることだ。

 そこにいたのは、天使だった。しかも、三人。いや、天使の数える単位は人であっていたんだっけ?

「さぁ、とっとと片づけるわよ、二人とも!」

 僕のどうでもいい思考を置き去りに、緋色のポニーテールを揺らした天使が一歩、前に歩み出した。背中から美しい翼を左右一枚ずつ、雄々しく羽ばたかせた彼女が着ているのは、よく壁画で描かれている天使がまとっているような布ではなく、何故だかナース服を模したような服だった。ナース服のような、と表現したのには理由がある。ナース服のような色合いをしているが、どちらかというとその表面は鎧のような質感をしており、何よりその天使は両手両足に巨大な装甲板、アームギアとレッグギアを装備しているのだ。戦乙女(ワルキューレ)がナース服のような鎧をまとって武装している、と表現した方が彼女の今の格好を正しく説明出来ているのかもしれない。

 灼熱色の髪を駿馬の尾の様になびかせ、天使は掛け声とともに前に出る。

「はぁぁぁあああっ!」

 天使の翼が羽ばたき、彼女は一気に加速した。天使の掛け声と加速した際発生する熱に導かれるように、アームギアとレッグギアから炎が溢れ出す。そして朱に染まった拳が、僕を掴んでいた男性に叩き込まれた。熱に浮かされた様に、再度吹き飛ばされた《死に至る病》の患者が呻く。だが、ガードが間に合ったのか、患者はすぐに立ち上がった。しかし、天使の一撃は男性の両腕に焦げ跡として、はっきりと残っている。それでもかまわず《死に至る病》に罹った男性が前のめりになった、その瞬間――

「……前に出過ぎ」

 今度は、別の天使が前に出た。ショートカットの瑠璃色の髪が、二枚一対の翼と、そして彼女が振るう巨大なランスの動きで揺れる。ポニーテールの天使と同じくナース服のような鎧を身に着けた天使は、手にした得物の切っ先を迫りくる男性に向けた。

「……少し、眠って」

 ショートカットの天使がつぶやくやいなや、ランスの先端から大量の水が溢れ出す。その水は月下に煌めいて、湧き出す清流の様に美しかった。だが、美しいのは見た目だけでその威力は凄まじい。大洪水に翻弄されるノアの方舟の様に、《死に至る病》を発病した男性が流される。

「あらあら。少し、やり過ぎではないでしょうか?」

 おっとりとした声を発したのは、残る最後の天使だった。彼女は他の天使たちとは違い、ナース服にプラスして、修道服のアクセントが加わった鎧を着用している。ウェーブのかかる金髪の髪を振るうように、彼女は十字を模したメイスと自分の両の翼を掲げた。

「病める人々に、神のご加護がありますように」

 天使の祈りに神が応えたのか、彼女の手にしたメイスが光だす。天使から放たれた後光が彼女の髪を照らし、朝日に映える稲穂のように輝いた。

 後光はそのまま密度を持った光線となって一気に伸びていき、洗い流された男性を地面に縫い付ける光の十字となる。

「これで、おしまいよっ!」

 身動きの取れない《死に至る病》に罹った患者に向かって、叫び声と共にポニーテールの天使が飛び蹴りを放った。今度こそ天使の灼熱を伴った一撃が男性に決まり、患者のまとっていた異様な気配が霧散。どことなく安らいだ表情で、男性は地面に倒れ伏している。

 その一連の戦闘を、僕は道路の隅で呆けた顔をしてただただ眺めている事しか出来なかった。いや、だってそうでしょう? 単なる一つの都市伝説だと思っていた《死に至る病》が実在していて、更にそれに罹った患者から襲われたんだよ? しかもそれだけじゃなく、《死に至る病》に罹った患者から助けてくれたのはナースを思わせる天使たちで――

 しかもその天使たちは、恰好や髪の色が異質過ぎることを除けば、三人とも僕が知っている人たちで――

「さ、今回の治療も無事完了したわね! 怪我はない? 成美、レギーネ?」

「……問題ない。双柳が突出し過ぎた事以外は」

「なんですってぇっ!」

「あらあら、お二人とも。まだ《死に至る病》の反応が残っていますよ?」

 そして、天使たちの視線が僕へと一斉に向けられる。三人の反応は、三者三様だった。

「あ、本当だ!」

「……え? うそ」

「あらあら。随分と、大人しい患者さんですね」

 そんな反応を向けられても、僕はまだどこか他人事のように彼女たちの反応を見つめていた。いや、正直、何が何なのか全く持ってさっぱりだ。

「ま、大人しく治療を受けてくれるのなら、それに越したことはないわ! アタシたちの手間がかからなくて助かるもんっ!」

 そう言ってポニーテールを揺らしながら、天使が僕の後ろに回り込んだ。直後、僕の腕は捻り上げられ、地面に組み伏せられる。今まで呆けていた僕も、流石に痛みで現実に戻ってくることが出来た。混乱しながらも、僕は不平を口にする。

「……ちょっと、痛いんだけど」

「なっ! あなた、会話が出来るの?」

「あらあら、どうしましょう? まさか《死に至る病》に罹って、まともに会話出来る患者さん、だったりするのでしょうか? 初めてのケースですわね」

「……うそ。何で? 何で、煌が《死に至る病》に?」

 本当に、一体どうしてこんなことになってしまったんだろう?

 僕は聖白百合総合病院附属高等学校衛生看護科の人気を独占する一年生二人組、双柳友音、レギーネ・Y・オルセン、そして僕の幼馴染、絢成美の、その風変わりな恰好を組み伏せられながら見上げ、自問し、捻られた腕の痛みと共に嘆息する。

 僕が幸せに生きていくための道のりは、まだまだ険しいらしい。

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