第一章①

 春うららか、というには少し温かい日差しを浴びながら、僕はもう通いなれたと言っていい通学路を歩いていく。入学式も終わり、桜は先週末に降った雨で見納めとなった。樹には夏に向けて青葉が芽吹こうとしている。

 僕は試しに視線を動かし、気温を測定する事にした。僕の視線の動きに合わせて、ウェアラブルデバイスが起動。僕の視界に今の気温と湿度が計測、表示される。気温は二十.一度、湿度は六十五パーセントと、やはり四月上旬よりも暖かかった。

 僕は自分の体感温度が正しかったことに満足そうに頷くと、隣を歩いている幼馴染に話しかける。

「今日もいい天気だね、成美ちゃん」

「……そうね、煌」

 僕の問いかけに、絢 成美(あや なるみ)は表情を変えることなく、短く切った髪をわずかに揺らして答えた。彼女はピンク色をしたフルリム型の眼鏡、スマートグラス型ウェアラブルデバイスを細く、白い指でほんの少し、位置を直す。

「……煌、今、ウェアラブルデバイスで拡張現実(Augmented Reality)をコンタクトレンズに表示したでしょう? 止めなさい。視界が塞がって、危ないわ」

 成美ちゃんの最もな指摘に、僕は苦笑いを浮かべて自分の右耳、そこに収まっているイヤホンを右手でつついた。これが、先ほど僕が起動させたウェアラブルデバイスの本体だ。

 かつてウェアラブルデバイスの筆頭と言えば、携帯電話の進化版と言ってもいいスマートフォンや、ヘルスケアなどの目的で多用されていたスマートウォッチだった。身に着けているだけで健康状態の把握や電話、音楽などが聞けたウェアラブルデバイスは好意的に僕らの世界に受け入れられ、そして瞬く間に進化した。

 いつでもどこでもインターネットに接続できるという利点を生かすため、そのネット上の情報を表示するために成美ちゃんが今身に着けているような眼鏡、スマートグラス型のウェアラブルデバイスの研究・開発が盛んになったのだ。

 そしてそれは更に実用化と小型化が進み、ついにコンタクトレンズ型のウェアラブルデバイスが実用化。海外製の《I watch it》や日本製の《スマートアイ》、《コネクトリアリティ》などヒット商品が次々に生まれ続けている一大産業となっている。今では成美ちゃんの様にスマートグラス型ウェアラブルデバイスを使っているのが少数派で、ほとんどの人がコンタクトレンズ型のウェアラブルデバイスを使用していた。

 もちろん、進化したのはハードウェア(ウェアラブルデバイス)だけじゃない。ハードウェア上に乗るソフトウェアだって進化している。

「でも成美ちゃん。今時ウェアラブルデバイスへ拡張現実を視界に表示しながら通学するなんて、誰でもやっていると思うけど」

 僕がそう言ったタイミングで、通学中の女子グループが楽しそうに会話をしながらこちらにやって来た。皆同じ種類のセーラー服を着ているため、同じ学校の同級生なのだろう。彼女たちの会話が、僕らにも聞こえてくる。

「うへぇ。また出てきたよ、この無料広告」

「あ、でもこの服欲しいかも!」

「ちょっと試着してみなよ!」

「うん、そうしてみる!」

 そう言うと、一人の女子学生の姿に変化が起こった。今までセーラー服を着ていたのだが、次の瞬間にはパステルグリーンのワンピース姿になっていたのだ。

 それを見て、女子グループが楽しそうにはしゃぐ。

「へぇ、いいじゃん!」

「私も今度違う色着てみようかなぁ」

 やがて試着期間が終わり、ワンピースが元のセーラー服に戻る。

 これがスマートグラス、コンタクトレンズ型のウェアラブルデバイス(ハードウェア)が普及したことによって出来る様になった、拡張現実(ソフトウェア)だ。

 拡張現実は僕たちが見ている現実にプラスして、情報を追加する技術だ。基本的な使われ方としては、インターネット上に存在する広告などを現実の情報に付加価値として付与したりするのに使われる。

 だから今の様に実際に服を着ていないのに、あたかも服を着ているようにも見せる事が出来るし、ウェアラブルデバイス越しにしか見えない広告や看板を設置することもできるのだ。

 もちろん、大多数に見せる必要がない情報をネット上から検索して眼前に表示することもできる。僕がさっき表示した、気温や湿度の情報がそうだ。

 試着を終えた女子グループが、ウェアラブルデバイスに表示された別の拡張現実を楽しそうに見比べながら通り過ぎていった。

 それを見て、僕は幼馴染の方へ再度振り向く。

「ほら、拡張現実を見ながら通学するなんて――」

「……だめ。事故にあうかもしれないわ」

 僕の幼馴染が言う通り、このウェアラブルデバイスの進化はいいところだけではない。常時にインターネットに接続できるスマートグラス、コンタクトレンズ型のウェアラブルデバイスを使用すると言う事は、常に情報が目の前に表示され続けることを意味するのだ。

 先程の女子グループとは違い、僕の好みに合わせてマンガやゲームの広告が眼前に表示されるのを視線で削除しながら、それでも僕は成美ちゃんに拡張現実の利点を説明しようと、口を開く。

「でも――」

「……危ないから、だめ」

「せめて、言い訳ぐらい聞いてくれないかな?」

「……幸せに、生きたいんでしょ? なら、今だけは少なくともネットは、切って」

 そう言われてしまうと、僕としては幼馴染に従うほかない。苦笑いしながら、僕は視線でインターネットの接続をオフにした。

「でも、成美ちゃん、変わってるよね?」

「……何が?」

「このウェアラブルデバイス全盛期に、拡張現実、好きじゃないんでしょ?」

 そう言うと、彼女は少しだけ複雑そうな表情を浮かべた。そして少し色が剥げているスマートグラス型のウェアラブルデバイスに、そっと触れる。

「……だって、危ないもの」

「どんなものだって、使い方を間違えたら危ないよ。車も包丁も、同じさ」

「……そうじゃ、なくて――」

「あ、もしかして、アレを気にしているの? 成美ちゃん」

「……アレ?」

 小首を傾げる幼馴染に答えようとしたところで、一際声の大きいい二人の男子学生が足早に僕らの傍を通り過ぎる。その会話の内容は、まさしく僕が今話そうとしていた内容だった。

「おい! さっき送った動画、見たか?」

「見た見た! 都市伝説! 今回の動画、出来ヤバくない? やっぱ拡張現実使ってるのかな?」

「そうじゃね? でも《死に至る病(Sickness unto Death)》なんて、よく考えるよな」

「ホントホント! でも、ウェアラブルデバイスが広まって常に情報過多になった今だからこそ盛り上がるネタだよな、アレ!」

《死に至る病》。

 ウェアラブルデバイスが普及したことに伴い、現実の情報に付加価値が付くことで、人間の脳は従来よりも遥かに多くの情報を処理する必要が出てきた。人間の脳は常時情報の海に浸かる事になったため、脳は今まで以上に負荷がかかる。そんな中、感情の起伏が発生した時に起こる脳内の電気信号が人体に悪影響を起こすケースが発生し始めた。昔の鬱病や精神疾患と言われていたものが更に悪化し、絶望のその先に到達すると、ある病を発病する。

 それが、ネット上を賑わす新たな新時代の都市伝説。《死に至る病》の概要だ。

 脳に負荷がかかる事でストレスが溜まりやすくなり、ネガティブな感情になりやすくなる。そして悩みすぎ、悩みが暴走して病に罹るというのは、何となくわからなくはない。実際、ウェアラブルデバイスが普及してからキレやすい人が増えた、なんてニュースも報道されている。

 でも、だからと言って《死に至る病》に罹ると人を片手で持ち上げれるほど怪力を発したり、あまつさえ炎を出すような不思議な力が使える様になるだなんて、流石にそれは盛り過ぎだ。僕も《死に至る病》の患者を撮影した動画を見たことがあるが、鬼気迫る映像ではあったけれど、余りにも映っている物が非現実的過ぎて、ちょっと笑ってしまった。最近暴力事件が増えてきたのでそこに絡める目論見は良かったかもしれないが、この拡張現実が溢れた時代で、そういうネタ動画は作ろうと思えば小学生でも作る事が出来るし、同じような動画はネット上に星の数ほど存在している。

 それでも、《死に至る病》の話を聞いた成美ちゃんは不安げだった。僕はそんな彼女を励ますように、大きく頷く。

「大丈夫だよ、成美ちゃん。《死に至る病》なんて、ただの噂さ。数年もすれば、もう誰も覚えてないようなネット上に数多にあるただの噂の一つになるよ」

「……そうだと、良かったんだけど」

「成美ちゃん?」

 僕の呼びかけに答えず、彼女は歩みを進めていく。僕は仕方がなく、幼馴染の後を追った。

 しばらく歩みを進めていくと、僕たちの通っている学校が見えてくる。しかし校舎が現れるのよりも先に現れたのは、巨大な病院だった。

 その病院の名前は、聖白百合総合病院(せいしらゆりそうごうびょういん)。この地域に住む住民全て収容できる、だなんて冗談が囁かれている程巨大なマンモス病院で、国内でも有数の精神、心療内科をそろえている。メンタルケアに力を入れており、僕らの通っている学校にまで鬱病などのカウンセリングを行うほど、その活動は積極的だ。

 そして、そんな総合病院と同じ敷地内に、僕らが通う学校は建っている。

 学校の名前は、聖白百合総合病院附属高等学校。僕と成美ちゃんは、この学校の一年生だ。

 名前の通り、僕らが通っている学校は聖白百合総合病院を経営母体としている。普通科と衛生看護科に分かれており、衛生看護科へ入学する学生は全て、将来は医療関係の道に進みたいと考えている学生だ、と言い切ってもいいだろう。衛生看護科へ入学するにはかなりの学力が必要で、現在存在する高等学校の中でも最難関の一つと言われている。しかし逆にその狭き門を突破した後は、聖白百合総合病院の潤沢な資金の元、医療への道を手厚くサポートしてくれるため、医療関係に進みたいと考えている学生にとっては、自分の夢を叶えられる素晴らしい場所と言えるだろう。普通科から衛生看護科へ試験を突破すれば編入も可能だが、その壁はかなり分厚い。

「おい、見ろよ! あれ、衛生看護科一年生の、双柳 友音(ふたやなぎ ゆね)じゃないか?」

 僕と同じ普通科の腕章を付けた男子生徒が、学校のグラウンドを指差している。同じ学校に通っていたとしても、普通科の生徒から見れば、衛生看護科の学生は住んでいる世界のレベルが一つも二つも上のような存在だ。そしてそんな存在が、誰の目から見ても美しい女子生徒というのであれば、男子生徒からの視線も集まるというものだろう。

 先程の声につられてグラウンドに視線を向けると、果たしてそこには一人の女性ランナーが走っていた。天真爛漫という言葉をそのまま擬人化したと言わんばかりのその少女は、一つにまとめたポニーテールをなびかせ、百メートルトラックを懸命に走っている。すらりと伸びたカモシカのような両足が大地を踏みしめる度、彼女の体は面白い程加速していく。

 本当に、走るのが好きなのだろう。走り終えた彼女は浅い呼吸を繰り返しながらも満面の笑みを浮かべ、健康的なその肌を流れ落ちる汗は太陽の恵みを受けて、眩く光輝いていた。

「ほら、あそこ! あっちは衛生看護科一年生のレギーネ・Y(ユイ)・オルセンだ!」

 続いて向けられる声と視線の先は、校内に建つ教会だ。そこから出てきたのは、修道服を着た一人のシスターだった。彼女の稲穂のような黄金色の髪が風にたなびき、伏せた瞼の下には澄んだ海のような瞳が見える。

 柔らかく微笑むその姿はまさに聖母のようで、修道服に包まれた体は、遠目から見ても女性らしい輪郭がはっきりとわかった。彼女の背中から後光が差していないのが、逆に不思議に感じるような、そんな生徒だ。

 双柳友音とレギーネ・Y・オルセンは僕と同じ一年生、更に衛生看護科とその美しさ故、入学当初から今まで男女問わず注目の的になっている。衛生看護科の中でもこの二人がずば抜けて可愛いため、双柳派なのかオルセン派なのかで意見が分かれており――

「いやいや、やっぱり双柳さんでしょう! あの素晴らしい太ももが見えないのかお前はっ!」

「何を言っているんだ! オルセンさんのあの豊満な双丘が見えねぇのかよ!」

「ばっかお前、胸は成長率で語れよ! 双柳さんは最近、成長が著しくて悩んでるんだよ! そこがまた可愛いんだっつーの!」

「はんっ! それならオルセンさんは、先週カップを更にワンランク上に更新しましたー!」

 という会話が、至る所で繰り広げられていた。ちなみに後半は女子生徒のものなのだが、同性すら狂わせるとは、もはやあの二人は傾国の美女と言ってもいいのかもしれない。衛生看護科の学生は美男美女が多いのだが、あの二人は別格だ。

 かく言う僕自身も、双柳さんとオルセンさんには同級生、しかも衛生看護科に所属しているというだけで、自然と目で追ってしまっていた。

 聖白百合総合病院附属高等学校の衛生看護科に通うという事はつまり、早くから自分の生き方を定め、その夢に邁進していくという決意をしているということだ。それは誰でも簡単に出来る事ではないし、そういう選択も僕が幸せに生きるためには必要なのかもしれない。

「双柳さんとオルセンさん、か……」

 思わず、僕はぽつりとつぶやいた。

 既に進むべき道を定めたあの二人と会話することが出来れば、僕が幸せに生きるためのヒントを見つける事が出来るのだろうか?

 そう思っていると――

「……気に、なるの?」

「え?」

「……あの、二人」

 成美ちゃんが、どことなくそわそわしているような、不安をその瞳にほんの少し混ぜたような、そんな表情で僕を見上げていた。

 何故そんな表情を幼馴染がしているのか不思議に思いながらも、僕は彼女の腕章、衛生看護科の腕章を一瞥してから口を開く。

「そうだね。興味があると言えば、僕も興味はあるかな」

 衛生看護科の学生とは、出来れば会話する機会を多く持ちたかった。そこに、僕が幸せに生きるためのヒントがあるような気がするからだ。

 もちろん、僕も男だ。可愛らしい女の子と話したいという欲求はある。だから、衛生看護科の女子生徒と会話することで、幸せに生きるヒントが見つかるのなら万々歳だし、スレンダーながらどうにも目を引く泣きぼくろと、桜の蕾を思わせる艶やかな唇を持つ幼馴染とは、なるべく長い間会話をしていたいのだが――

「……そう」

「え?」

「……私、もう行くから」

「ちょっと、成美ちゃん?」

「……ばか」

「何で罵声!」

 不安気な表情から一点、急に不機嫌になった幼馴染は、眼鏡の位置を直すと僕の声を無視してそのまま衛生看護科の校舎へと向かっていく。

「また後でね!」

 つれないその背中に声を投げかけるも、その言葉は彼女の心には響かなかったようだ。なおも僕は口を開きかけたが、そこで予鈴が鳴る。今度は僕が慌てて普通科の校舎へと駆け込んでいった。

 しかし、何で成美ちゃんは急に不機嫌になったのだろう? 放課後までには、機嫌が直ってくれているといいんだけど。

 夕食の時間まであの態度を取られると、流石に叔父さんと叔母さんに心配をかけてしまう。

 僕が幸せに生きるために踏破しなければならない道のりは、まだまだ険しいらしい。

 そう思いながら、僕は予鈴が鳴り響く廊下を駆けて行った。

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