執行人
金曜日の深夜一時半。新宿駅周辺には終電を逃した人たちであふれていた。
タクシー運転手の須藤は稼ぎ時だとばかりに張り切っていたが、今日は何故か、一台前を走っている別のタクシーに乗客を奪われっぱなしだった。こんなこと、今までなかったぞと思いつつ、幹線沿いを流していると三十分ほど経ってようやくお客がつかまった。
「どちらまで行かれますか」
はやる気持ちから女が乗り込むや否やすぐに話しかけた須藤だったが女からの返事はなかった。
「お客さん、どちらまでいかれますか? ……お客さま、大丈夫ですか? 申し訳ありませんが体調が宜しくないようでしたらば乗車のお断りをお願いしているのですが……」
時刻は二時を回っていた。丑三つ時。都会では幽霊と思しき乗客を乗せたことはなかったが、勤続二十年の須藤は深夜帯での怪談じみた経験を二度ほどしていた。
「横浜」
聞き取れるギリギリの声で女は言った。
「横浜ですか。いや、でもお客さん、泥酔している様には見えませんが、体調がすぐれないのではありませんか? 新宿から横浜だと一五〇〇〇円は掛かりますし、この時間でもチェックインできるホテルが──」
「横浜まで行ってください」
有無を言わさぬ勢いだった。須藤は訝しがりはしたが、揉める事の方が面倒だと判断し受け入れることにした。
「高速道路の利用は如何なさいますか」
「乗ってください」
なんだ、一応は話せるじゃないか。
「運転手さんは、人を殺したことがありますか」
首都高速にのってほどなくして、女が話し出した。
「すごい質問ですねお客さん。そんな事、ないに決まってるじゃないですか、ハハ」
「そうですよね。すいません」
「あの、なにか流しましょうか、ラジオとか」
「大丈夫です」
やっぱり乗車拒否をしておけば良かったと須藤は思ったが、ここで降ろすわけにもいかない。神奈川県と書かれた看板を通った辺りからポツポツと雨が降り始め、五分もすると大雨になった。バチバチバチバチと車体は激しい音を立てながら、高速道路を走っていた。
わたし、思うんです。と女は壁にむかって呟くように話し始めた。「人を殺すことがいけないことになっているから、そこに甘えた人間が酷い事をするんだって。いじめも、浮気も、不倫も、詐欺も、暴力も、暴言も、DVも、全部、全部全部、自分が殺されないって思ってるからそういう事が出来ると思うんですよね。だって、悪い事をされていても、人を殺したほうが捕まるんですから」
須藤の心にはぞわぞわとした恐怖心が芽生え始めていた。
「運転手さんはどう思いますか」
女は突如として身体を前のめりにし、須藤の頭の横で言った。
「……お客さんは、人殺しも合法化した方が良いと、お考えなんですか」
平静を装い、須藤は前方だけを見つめていた。
「そうなんです。だけど、人殺しを法律でゆるすことになると、どの程度のことなら人殺しがゆるされるか分からないですよね。わたしは、ひどいことをされて、それが私の人生を左右するようなものだったら殺しちゃってもいいと思うんです。だって、被害を受けてしまったら、被害がなかった時とは考えが変わっちゃうじゃないですか。それは、その被害のせいでわたしの未来が殺されたってことになると思うんです。わたしの未来を殺したんだから、悪いことをしたその相手を殺しても何の問題もないと思うんです。ところで、運転手さんは人を殺した時どう思いましたか」
須藤の額から冷たい汗が流れた。
「何を言っているんですかお客さ──」
「隠さなくても良いんです。わたしはただそう訊いてくれと頼まれているだけなので」
「は?」
「十八年前、あなたは富永弥生さんを殺し、横須賀の海に捨てました。殺された富永さんが言うには、須藤健一さん、あなたに殺されるほど酷いことをした覚えはないと仰っていたんです」
「あの……、お客さま、まず、危ないので席にちゃんと座ってください」
「わかりました」
「ありがとうございます。それと、お代は結構ですので、次の出口で下車して頂いても宜しいでしょうか。申し訳ありませんが、不愉快です」
「ではわたしの質問にはお答え頂けないという事でしょうか。富永弥生さんは殺された理由が訊ければそれで良いと仰っていましたけれども」
事務処理をするような淡々とした口調だった。
「……お客様がどういった意味を持ってそのような発言をされていらっしゃるかはわかりませんが、その、富永弥生さん? という方も存じませんし、大体にして人を殺そうなどど思った事もありません」
「そうですか……。それではその報告をしに行かなければならないので観礼崎灯台までお願いします」
観礼崎灯台と聞いて須藤の首筋がピクリと動いた。
「ですから須藤さん、わたしが話している事は全て本当なんです。観礼崎灯台近くの海岸であなたは富永弥生さんの死体を海に捨てた。もちろん、見つからないように錘をつけて。わたしは死者と対話が出来るんです」
「……お客様、何度も申し訳ありませんが次の出口で降車をお願いします。お代は結構です」
「このまま話さないとあなたは殺されますが、よろしいですか」
「ちょっと待ってくださいお客さん、いきなりそんな事を言われて、……殺されるだとか。申し訳ありませんが次の出口で高速を下りるのですぐに下車してください。お願いします」
「わかりました」
タクシーは高速を下りた。女は須藤に言われたところで下車をしようとも思ったが、人目につくのを懸念して、赤信号で停車している時に持っていた拳銃で須藤の頭を打ち抜いた。
─須藤さんが人殺しだという事はわかっていたのでどっちみち殺すつもりでしたけど、富永弥生さんには悪いことをしちゃったな。殺された理由は聞けなかったけど、それでもまぁ、報告をしたらよろこんで成仏してくれるだろう。
日本の年間行方不明者、約八万人。そのうちの何人が殺害され、何人の殺人者がのうのうと生きているのだろう。
そして、殺された人の何人が成仏できずに現世を彷徨ってしまうのか。
女は、死者の無念を晴らし、悪には罰を与える執行人だった。
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