波打ち際で未練にしがみつく男

「たった今、僕は絶望の淵に立っている」


 ――――――――――――――――




 風がうねり、砂が巻き上げられ、全身を叩き付けられる感覚。口に入り込んだそれを唾と共に吐き出せば、相も変わらずその場に座り続けた。


 僕は、この場所が嫌いだ。冷たい風と熱い日差しが共存するこの場所が。轟轟ごうのうと存在を放つ音が。キャッキャと楽しむ子どもたちの笑顔が。僕に一層、壁を突き立てる。それでもこの場所に訪れてしまうのは、他に居場所なんてないからで。決してここに居場所を求めている訳では無い。そんな訳は無い。

 傍らに沈んでいた貝殻をつまみ上げた。住民はすでにいない。空っぽになったそれの中は、温かいだろうか。寂しいだろうか。覗き込んでも、黒しか見えなかった。


 今日、本来ならば僕にとっては祝いの日になるはずだった。僕がこの世に生を受けた日。両親に感謝を述べ、出会ってくれた仲間たちに感謝を告げる日。しかし、そんな日が来ることはないと、前もってわかっていたことだった。

 何故か。

 感謝を告げる両親など、もうここには存在しない。感謝を告げる仲間など、もうとうの昔に存在しない。何年も前に、もう何十年も前に、僕に関わる全ての人はいなくなったのだ。両親と最後に交わした言葉は何だったか、それすらもう記憶が曖昧だ。それほどの時間、僕はここでこうして眺めている。


 立ち上がり、尻についた砂を叩き落とせば、家族たちに連れられてきた犬が僕に向かって激しく騒ぎ立てた。

「こら!ジョン!迷惑でしょう!」

 飼い主の女性がその茶色い犬に叱り立てるが、犬にとってそんなことは構わない。牙を向けられる感覚が久しくて、軽く手を振ってやれば更にわめき散らされた。

「ジョン!」

 とうとう飼い主がリードを引いて、犬の口を塞ぐ。昔、僕も犬を飼っていた事がある。丸っこい柴犬で、名前はゴン。ジョン、お前に似ていたよ、と言ってやりたいが、僕の言葉など届きはしないだろう。ゴンも、それこそ仲間や両親よりも早く、この世からいなくなってしまった。僕が泣いている時、喜んでいる時、どんな時でもいつも一緒に遊んでいたのにな。会えるといいな、と思っていたのにな。


 激しく揺れる水面に沿って歩く。ザワザワと潮騒に誘われるが、僕はそちらには行けない。ただじっと見詰めているだけ。昔、本当に僕が小さかった頃、泳げない僕をからかった父さんが、サーフボードに僕を乗せて、随分と遠くまで運んでいった。僕は怖くて、恐ろしくて、父さんにやめてと何度も泣き叫んだ。あまりに震えるものだから、父さんも情けない顔で、母さんは父さんを叱っていたっけな。父と母は、僕ができないことを、なんでもやってのけたんだ。僕も大人になればできる、そう思い込んでいたが、今となってはもう、それも叶いやしない。


 ふとよそ見をしていたら、水面から上がってきたサーファーとぶつかった。相手は何も気にしてやしなかったが、僕は咄嗟にその男を睨み付ける。水が、熱い。

 何度もこちらに舞ってきた水滴を拭おうとしても、腕に、髪に、服に付着したそれは乾くことも知らないようで。そいつが染み込んでくる感覚に、肌が焼けそうだった。痛い、熱い、苦しい。

 もしかしたら、これを耐えれば僕は元の場所に戻れるかもしれない。いや、そうに違いない。僕がこの水に入らないのは、ここに居場所を求めている訳では無い。そういう訳では無い。こんなに熱いことを知っているから、痛いのが嫌だから、苦しいのは辛いから。


 母の葬儀を見ていたとき、最後に母の身体は焼却炉に消えていった。母さんは、これより熱かったのだろうか。それを想像するのも苦しくて、父の葬儀には行かなかった。だって、葬儀を見届けても、母さんには会えなかったから。きっと、父さんにも会えないと、僕にはわかっていた。


 肌が溶けるような感覚、全身をここに委ねてしまおうかと足を差し出す。勇気が沸かない。こんな水滴で、ここまで痛いというのに、全身だとどうなる。


 一番の親友は、病気で亡くなった。末期のガン。全身に転移していて、もう手遅れという状態で見つかったらしい。あいつは学生の頃から人一倍の努力家で、自分のことよりも他者を優先する、いいようで悪い癖があった。ガンのこともそう。僕なんかのために、あいつは無理をしてでも僕との予定を組み込んでいた。僕のためにもと、あいつは。


 あいつが全身の痛みを堪えていたというのに、やはり僕は堪えられないのか。ここに来るまでに負った傷よりも、これからの傷に勇気を振り絞れないでいる。あの時のほうが、あの時のほうが痛かったはずだというのに。


 あの日、僕は大学で親友と夢を語り合っていた。僕の夢はちっぽけなものだ。親友は起業して、人々の夢をサポートする環境を作るという夢を抱いていた。その一つが、僕だ。

 僕は脚本を描くのが好きで、何編も書き起こしては、制作会社に持ち込み、何度も追い返されていた。そうして落ち込む僕を見ていたあいつは、人々の夢の交差点を僕のシナリオで描きたいと言ったんだ。例えば役者になりたい人がいたら、僕の脚本の主演に抜擢ばってきし、例えば政治家になりたい人がいたら、僕の脚本の一部がその人になる。全ての夢を総称したものを僕が描き、あいつはそれを形にすると。そんな大それた夢に、照れ臭くて、僕は考えると言ってあいつの前から駆け出した。嬉しかった、恥ずかしかった、僕はあいつに助けられている。父と母が背中を押してくれたこの大学で知り合った、最高の友人に、涙が零れそうだった。視界が霞んだ。あまりに浮かれていて、気付かなかった。


 人々の夢の交差点を描く前に、僕は往来する交差点の真ん中で、朽ち果てたんだ。


 痛かった。けれど、一瞬だったから、あまり覚えていない。気が付いたらここにいた。


 人間は、海を母と呼ぶ。おそらく神様は、僕に、海へ還れと呼んだのかもしれない。


 それでも僕は、あいつに答えを言い渡せていなくて、両親に夢が叶うかもしれないと告げられていなくて、やりたいことも果たせていなくて。


 下宿先の机に寝かせていた脚本の束は、親友が預かってくれたらしい。その脚本の一つ一つを完成させるために、あいつは身を粉にして戦ってくれたらしい。僕の生涯を、両親は語ってくれたらしい。


 愛されている。愛されていた。


 そうだというのに、僕は何も出来ていない。この先に進むことすら出来ていない。


 波の音が僕の身体を蝕む。僕はいつ、この先へ身を投げることが出来るだろう。何も成せていない自分を、許せることが出来るだろう。


 しがらみは、いつの間にか黒く塗り潰され耐え難い心に変わる。微睡まどろむ陽が乾き、また僕は淵に沿って歩き出す。


 嗚呼、僕も、早くあなたたちと同じ場所を、居場所としたい。

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高城短編集 高城 真言 @kR_at

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