第10話 地獄の執事

 その日が特に寒かったのを覚えている。吐く息は瞬間で白く表現され、その代わりに手先は赤く染まる。隣を歩く柚子ちゃんも鼻を真っ赤にして笑っていた。

 いつも通り教室に最後に入ってきた湊は、厚手のパーカーを着ている。顔をマフラーにうずめて誰とも視線を合わせず席についた。

 湊とはここの所、あまり話していない。話したいが、朝はギリギリに来るし、昼はどこかに行ってしまう彼を私は追いかけはしなかった。

 ガラガラと音を立てて先生が入ってくる。

 「朝の会を始めます」

 その言葉でその日は、始まってしまった。


 授業中、外に目をやるとどんよりとした雲が動いていた。それはだるそうに私たちの校庭の頭上を過ぎていく。それを見るだけで、気分が重くなった。チャイムがなって四時間目が終わりを告げた。給食を食べて、少しだけ長い昼休みが始まる。

 「愛菜ちゃん、この前貸した本どうだった?」

 柚子ちゃんが私の鼻辺りを見ながら言った。彼女にはこの癖がある。人の目を直線で見るのは、苦手らしい。それは私もなんとなくわかる。相手の考えていることが、ストレートにぶつかってきそうで少し怖い。

 「あれね! すごく」

 そう言いかけた時、視線は教室の外を歩く湊を捉えていた。彼は数人の男子と一緒に、どこかへ歩いて行ってしまう。

 仲直りしたのかな? 湊が誰かといる場面を久しぶり見た私はそんなことを思った。

 「愛菜ちゃん?」

 柚子ちゃんが不思議そうにこちらを見ている。

 「あ、えっと、あれはね」

 言葉が出てこなかった。私の頭の中は湊のことでいっぱいだった。さっき考えた考察は自然と否定され、違う! と何かが叫んだ。湊は友達といる時いつも笑っていた。それこそ太陽のように、周りを明るくするくらに。なのに、さっきの彼は誰かを、何かを、壊す目だった。

 身体が「行け」と叫んだ気がした。

 柚子ちゃんにごめんと言って、私は教室を飛び出した。学校中をこんなに走り回ったのは初めてだ。息が切れる。その息も白く、白く形になる。

一階にも、二階にもどこにも湊の姿は見当たらない。

 なんとなく人気のない場所を探したけど、それでも見つからない。私の息はもう耐え耐えで、方で大きく空気を吸わなきゃ倒れそうだった。やっとの思いで、三階の一番奥の部屋、理科室にたどり着いた。ここは理科の実験がある時しかこない。ただでさえ三階は暗くて、じめっとしているのにここはそれの集大成みたいな感じがする。物音は一つもせず、理科室の人体模型が扉越しに私を見ている。唾を一つぐいっと飲み込んで、理科室の扉を開けた。

 「湊?」

 私の小さな声もこの場所では、大きく反響する。扉から中に入り、ゆっくりと辺りを見渡したが湊はおろか周りにいた男子も見当たらない。

 「どこ行ったの……」

 そう呟いたとき、窓に何か違和感を覚えた。

 「あ」

 理科室が入っているこの校舎、その裏側に正に今、湊と男子が入っていくのが見えた。

 私はすぐに理科室を飛び出して、階段を下りた。人生で数回しかやったことのない二段飛ばしで階段を下る。二階から一階に降りた時、足をひねって私はそのままそこに転んでしまった。なんとか顔からは防げたけど、どうやら足を擦りむいたようで血が滲んでいる。踏ん張れなかった。

 下駄箱にもいかず、上履きのまま外にでた。校舎の裏は、すぐそこで私は最後の全力疾走をした。息は完全にあがりきり、歩くのですらやっとだ。壁に手をつけながら、校舎裏へとたどり着いた。

 そこには湊と男子が数名いた。彼らは湊を取り囲むように立っており、中心には地面に座った湊がいた。

 「なんだ、お前」

 私に気付いた男子が言った。

 「な、な、なにしてるの」

 私の声は震えていて、それを聞いた彼らは少し笑っていた。

 別になにも、と答えた男子の手にはバットが握られていた。

 座っている湊の顔をよく見ると、口の周りに青痣ができている。

 それを見た瞬間、吐き気を催した。どっろっとしたものは私を包む。その場の雰囲気は気温をさらに下げているようで、身体も震えだした。

 「湊を、殴ったの?」

 「なに、お前。うるさいんだけど」

 「湊の顔に、アザが、できてる」

「だから?」

おかしかった。今話してる男子も周りで笑ってる奴らも全員名前を知っていた。当たり前だ。同じクラスなんだもん。喋らなくても、名前くらい知っている。なのにその時だけ、彼らを忘れてしまった。彼らをただ物体として、悪として、気持ちの悪い何かとして私は捉えていた。目の前の男子と話しながらも、私の視線は湊だけを捉えていた。

 「もういいから、あっち行けよ」

 男子が私の肩を押した。三歩程湊から遠ざかる。だから一歩近づいた。もう一歩近づこうと思って、右足に力を入れた時、男子が持っていたバットを振り上げた。

 「うざいってお前」

 躊躇なく振り下ろされたバットは、ガンと音を立てた。それが人を殴った時に鳴る音ということをその時知った。

 私に痛みはなかった。バットが振り下ろされた時、私は目を瞑った。だからなにが起こったかわからなかった。違和感を覚えて、ゆっくりと瞼を開けると目の前に金色が広がっていた。遅れて湊の匂いが鼻に届いた。彼は私を庇って、細い腕で、バットを受け止めていた。

 「湊・・・」

周りの男子がヒューと言って、騒いでいる。

 「かっこいいな〜じゃあもう一回!」

再び振り下ろされたバットが、湊を腕を打つ。

 私は湊の後ろに立ったまま、何も出来ずにいた。目の前で繰り広げられている光景に、言葉を失っていた。わからなかった。何故人をこうも簡単に、傷つけられるのか。何故湊はやり返さないのか、何故私は彼を救おうとしないのか。全部がわからなくて、怖かった。

 男子が三回目のバットを振り上げた時、少し離れたところから私の名前を呼ぶ声がした。

 「愛奈ちゃん!!」

「柚子ちゃん・・・」

彼女は壁に手を添えて、泣きそうな目で私を見ていた。声も若干震えている。その場の視線が彼女に向けられる。私も男子も彼女を見た。湊だけを除いて。彼は男子の右手を掴み、自身の体に引き寄せた。そのまま状態を捻ると、右手を痛めた男子はバットを落とした。

 「行け!!!」

湊が私を見て叫んだ。一瞬たじろいだ後、私は柚子ちゃんの方は走り出した。怖かった、何もかもが。最初は湊を助けようと思ってここにきた。でもダメだった。また私は、また私は、また私は、彼に助けられてしまった。私は一回も振り返らずに、その場を後にした。

 

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