第二話 古き友と熱き敵
カンナの朝は早い。五時半にセットした目覚ましより若干早く起きてしまう事に僅かに損した気分を覚えながらも起きると、物音を立てないように部屋を出る。
勇は恐らく今ぐらいの時間に寝るだろうが、ミラの場合は昨日の内に本日の仕事は休みだと聞いているので、疲れているだろうから起こさないように静かに行動する。
二人とも最低でも昼まで起きてこないだろう。
キッチンに立ち、すぐさまカンナは、少し伸びている後ろ髪をゴムでまとめ、エプロンを着用した。
トントントン、と軽快なリズムの包丁で野菜を切り、IHコンロの上では味噌汁を温めている鍋から鰹節と昆布の芳醇な香りが漂う。
切った野菜をフライパンに入れ、肉と一緒に炒めて二人分の皿に移してラップで包む。それを冷蔵庫に入れ、扉には『中に野菜炒めが入ってるので昼にチンして食べてください』と書いたメモを貼り、平行して作った卵焼きと味噌汁をおかずに朝食を済ます。
食器を手早く洗い、夜の内に洗っておいた洗濯物を室内からベランダに移す。まだ湿っているが、今日は天気が良いので、日中に乾くだろう。
この時点で時間は午前七時半。再び兄夫婦を起こさないように自室に移動し、壁にかけている制服に着替え、玄関に向かう。そこには昨日の間にまとめておいたゴミ袋があり、それを手に部屋を出る。
生ゴミは、キッチンに設置されているディスポーザー(生ゴミ粉砕機)で処理し、それ以外の分別したゴミは、各階の供用ゴミ捨て場に捨てる。
それらを終えて、エレベーターで一階まで降りる。二十階も下まで降りるのは、若干、時間がかかるので面倒臭いと思いつつ、マンションを出る。
近くのバス停に行くと、見知った顔があった。
「おはよう、カンナ」
「ああ、おはよ」
首筋で切り揃えられた絹の様な細い黒髪、スラリとした体型にカンナと同じような意匠の制服を着た少女だ。キリっとした表情がかなり印象的だ。
少女の名は、伊澄 紗那(いすみ さな)。カンナとは、幼稚園からの付き合いで、所謂、幼馴染の間柄である。
時間通り来たバスに乗り、空いてる席に二人並んで座る。
「昨日、ミラさん帰って来たのね。連絡来たわ」
「ああ」
「久し振りに手合わせしたいから、道場に顔出してってお願いしたら、近い内に来てくれるって」
「そうか、良かったな」
「ええ。今度こそ念願の一発をお見舞いしてみせるわ」
拳を握り、意気込む幼馴染の姿にカンナは苦笑する。
紗那の家は、武術の道場をしている。
戦前までは、何でもアリの超実戦的な技術を教えていたらしいが、現代では、時代に合わせて護身術を教えている。
カンナも勇に薦められ、近所であった事もあり、幼稚園の頃から通っていた。ちなみに、紗那との出会いもそこからだ。
「カンナもたまには来なさい。お父さんが腕鈍ってないか気にしてたわよ」
「そうだな……」
中学時代までは通っていたが、受験勉強もあって高校に入ってからは、全く行けてない。それと言うのも、兄のダメ人間化に拍車がかかっているので、家事が忙しくて、余り暇がないというのもある。
「今度、義姉さんと一緒に行ってみるか」
「やった♪久し振りに手合わせよ」
「もう勝てないよ」
嬉しそうな紗那に、苦笑するカンナ。
この幼馴染は、ミラに強い憧れを抱いているので、何かと強い人と手合わせを望む、女子高生というより武道家としての側面がかなり強い。
中学の時、進路希望で彼女の学力からすれば、かなり低い遠い高校を希望した時の理由が『私より強い奴に会いに行く』とかいうものだった。後に分かったが、その高校は、運動系――特に柔道や剣道などの武術系――のレベルが全国でも高い所だった。
流石に理由がアレ過ぎる――その時、一瞬、彼女の学力を疑ったのだが――ので、当時は親や教師が必死に説得した。ミラやカンナも加わり、最終的に今の高校に落ち着いたのである。
(そういえば、こいつが義姉さんに憧れるようになったのも、こんな風にバスに乗ってたっけ)
ふとカンナは思い出す。
それは、カンナと紗那が幼稚園の送迎バスに乗っていた時の事だった。そのバスが、銃を持った男にジャックされたのだ。
カンナも紗那も、他の園児は勿論、担当だった先生や運転手の人の誰もが恐怖した。血走った目、撒き散らされる唾、男の手にある重量感と油と煙のニオイを紛れさせた銃、そして、その口から巻き上がる煙。
たった一発の脅しで放たれた銃声に、そこにいる誰もが恐怖で動けなくなった。
紗那など、涙を浮かべてカンナに縋り付いていた。
「あ……フフ」
不意に窓の外にあるものを見た紗那が笑った。
何かと思えば、自転車に乗る主婦をバスが追い越しただけだった。
「思い出すなぁ……あの時のミラさん」
紗那が呟き、カンナも理解する。
奇しくも彼女もまた思い出していたのだ。カンナと同じ、あの日の体験を。
バスジャックした男の要求は至極単純、金である。
無論、警察を通じ、保護者に知らされた。
それからすぐの事である。
「まさか、ママチャリでバス追いかけて来るとはなぁ……」
カンナが遠い目をすると、紗那も同じように「ええ……」と頷いた。
そう。バスジャックの件が伝わるや否や、ミラは、仕事行きのスーツ姿で、ママチャリで追いかけて来てバスに追いつき、しかもそのままバスの窓を蹴破って中に入り、バスジャック犯をあっという間に叩きのめしたのである。それこそ、銃を撃つ暇すら与えず、瞬殺である。
そして、バスジャック犯を抱えてバスから出て行き、警察に引き渡すと、すぐに仕事へ行ったという、とんでもない事をやらかした。
結構なニュースになったのだが、ミラの事は一切、どのメディアも触れなかった。一体、何があったのだろうか、今でも謎である。
「私、今ならバスジャックされて、犯人が銃持ってても鎮圧できる自信あるけど、まだまだミラさんには敵わないでしょうね」
「あの人は多分、人の皮を被った化け物じゃないかな。我が義姉ながら……」
「じゃあ、そんなミラさんに普段から痛い目に遭って平気な勇さんって何なのかしらね?」
「さあ?」
「…………夫婦の愛情表現なのかしら?」
「やめてくんない」
兄夫婦のアブノーマルな性癖など知りたくないので、カンナはこれ以上のこの話を打ち切った。
「おはよう」
「おはよ、紗那」
「相変わらず仲良く登校ねー」
教室に入ると紗那の挨拶に答えるように先に着いていた女子生徒達が寄ってくる。二人で登校するは、ずっと続けているので、こういうからかう反応は慣れたものだった。
カンナも窓際の自分の席に着くとカバンから教科書を取り出して引き出しに入れてると、男子生徒達が話しかけて来た。
「おい、聞いてくれ。俺、小暮先輩に告ろうと思うんだ」
「玉砕おめでとう」
「玉砕って決めつけんな!」
「いやいや玉砕するだろ。あの先輩、別の学校に彼氏いるって噂だぞ?」
「あ、それ俺も聞いた。天野は?」
「知らん」
「ホラ見ろ! そんなのは事実無根……」
「ただこの前、ショッピングモールで男と腕を組んで楽しそうに歩く小暮先輩を見た」
「「玉砕おめでとう」」
「うああああああああああ!」
朝からノリのいいコントを繰り広げる愉快なクラスメイト達に、呆れた視線を向けつつも追い払おうとせず、カンナは友人達と話す紗那を見る。ふと視線が合い、手を振ってくる彼女に対し、カンナは顔を逸らし、窓の外を見る。
恐らく彼女は苦笑しているだろうが、余り仲の良い姿を見せると本当に付き合ってるのではないかと在らぬ誤解を与えてしまう。
自分はどうでもいいが、紗那に迷惑をかけるのは好ましくない。そう思っての行動であった。
「カンナの意地悪」
帰り道。当たり前のように一緒に帰宅する紗那の第一声がソレだった。
何が意地悪とか聞かなくても分かる。朝に手を振ったのに無視したことだろう。
「…………振り返したら誤解されるだろ」
「今更付き合ってるとか思われたっていいと思うけど?」
「そんな事実はない」
政治家みたいな口上を述べるカンナ。それに苦笑いを浮かべる紗那と歩いていると彼らの前に仁王立ちする男が現れた。
「待っていたぞ天野ぉ!」
周りの民家にまで響くような大声を放ったのは二メートル近い大柄な体躯をした男だった。今時、探すのも珍しい長い改造学ラン姿で、これまた珍しいガチガチに固めたリーゼントヘアという一周回って古き良き不良スタイルである。更に周囲には取り巻きと思しき同じ学ランを着た男達がいる。
時代錯誤も甚だしい番長の登場にカンナは呆れ顔になり、紗那も乾いた笑顔を浮かべている。
「今日こそ決着を付けるぞ、天野ぉ!」
「轟……いい加減にしてくれないか?」
男の名は轟 大悟。神薙、紗那とは同じ中学出身で、今は別の高校に通っている見ての通りの不良である。しかも珍しい昭和チックな。
「黙れい! お前にやられた古傷が疼くんだよ!」
そう言って大吾は、かつてカンナと喧嘩した際に彼のアッパーをモロに食らった顎を指す。
「カンナも罪深いわね」
「うるさい」
別にカンナは不良だった訳ではない。
少しとっつきくい雰囲気はあるが、基本的に面倒見が良く、それなりに友人もいる。だから、彼をこんな風に嫌う人間はいないのだが……。
「それにしたって轟。貴方ももう高校生なんだし、大人になりなさいよ。いくら、自分が惚れてた子が、カンナにフラれて泣いたからってねぇ……」
紗那の言葉に轟が胸を押さえる。
彼の脳裏に浮かぶのは、夏の日の校舎裏、密かに惚れていたC組の西村さんが、勇気を振り絞ってカンナに告白する姿を目撃してしまった事。そんなカンナの返答は「ゴメン」の一言。
あの時、西村さんの去り際に見せた涙は今でも忘れられない。
そして轟は、思わずその場で怒りに身を任せ、カンナに襲い掛かった。それはもう、何事かと思うカンナの事など問答無用にだ。
結果、轟は返り討ちに遭い、それ以後、彼は事あるごとにカンナにこうして挑む事となった。それは、中学を卒業し、別の高校になってもだ。
「私、この前、中学の時の同級生に聞いたんだけど、西村さん、今学校の先輩と付き合ってるそうよ」
「黙れ伊澄! そんな事は、もはやどうでもいい!」
「あ、どうでもいいんだ」
「最初は確かに惚れた女の為に戦った」
「そんな大袈裟な……」
「だが今は! 一人の男として天野! 腕っ節でお前に負けたままとあっちゃ俺の気が済まんのだ!!」
「俺、お前のそういう性格嫌いじゃないぞ」
「私も」
今時珍しい漢気に溢れてるかと思いきや、怨念にも似た執念を感じさせるが、その根底にあるのは不屈のド根性という、本当に昭和の番長を地で生きている男――轟 大悟。カンナと紗那は、そんな轟を鬱陶しいやしつこいとは思いつつも、決して嫌ってはおらず、寧ろ、ちょっとした好感すら持っている。
雄叫びにも似た言葉に、彼に感化された取り巻き達は涙すら浮かべている。
「さぁ、天野! 今日こそ貴様に勝って、俺は最強の座を手にしてやる」
「一体、いつ俺が最強の座に就いたのか疑問だが……そもそも俺より強い奴なんていくらでもいるぞ」
「お義姉さんとか、兄の嫁とか、ミラさんとかよね?」
「それ全部同一人物だから」
「ゴチャゴチャうるせえええええええええ!!!!!!!」
良く鍛え上げられた太い腕を上げ、轟が迫って来た。
「紗那、カバン頼む」
「はい」
一方のカンナは、紗那に自分のカバンを渡し、目前に迫って来た轟の腕を横にスライドして回避し、その腕の肘に掌底を打ち込んだ。
「ぬうん!」
痛みが一瞬、体を駆け巡ったが、轟はそれに耐えて腕を振った。
「遅い」
「ぐお!?」
しかし、カンナが膝裏に蹴りを軽く入れると、姿勢を崩した轟の腕を掴み、そのまま捻って彼の巨体を抑えつけた。
「ぬうううううう!」
「もう止めとけって」
「ふ、ふざけるな……! 俺はの日の為、ジムでベンチプレスの重量を増やし、ランニングマシーンの距離を増やし、プロテイン(ストロベリー味)も栄養価の高い高級モノを摂取して来たのだぞ!」
「そこは偉い現代的だな、おい」
ある意味、昭和と令和を同時に生きているような男だと、関節技を極めつつ感心するカンナ。
「ふんぬおおおおおおおおおおおお!!!!! 燃え上がれ、俺の上腕二頭筋んんんんんんんん!!!!!!!!!」
「やかましい」
「あふっ」
片腕を轟の首へ回す。そのまま力を入れると、可愛らしい悲鳴が口から洩れた。
「「「「番長おおおおおおお!!!!」」」」」
白目を剥いてる轟に、取り巻き達が駆け寄る。人望はかなり高い男だ。
制服に付いた埃を払い、紗那からカバンを受け取る。
「ちょっと気持ち良さそうなんだけど……落ちグセついてない?」
「アイツ、凄いタフだから打撃より、こういう方が楽なんだよ」
「う~ん……」と朦朧としながらも意識を取り戻しつつある轟を確認し、カンナと紗那はその場を離れた。
「この後、いつものスーパー行くんだっけ?」
「ああ。特売でタマゴが安い。お一人様一パックなんだが、ついて来てくれるか?」
「いいわよ。明日お弁当作って来てくれたらね。勿論、タマゴ焼き入れてね」
「了解……」
そんな会話をして家路につく。
変わらぬ日常、変わらぬ風景。何か特異なことがあるわけでもなく、ただ平凡な毎日を過ごす。刺激はない。必要もない。
そんな日々を送るのが当たり前だった。
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