第一話 虚像と対峙する者

 闇と静寂に包まれた虚無の世界。足を踏み入れるものは何人であろうと許さず。

 そこの支配者は途方に暮れていた。支配者の頬を伝う涙が暗闇の中に淡く光る。

 これ程心を震わせたのはいつぶりだろうか?

 眼前に広がる光景に支配者の胸はかつてなく高揚している。

 嗚呼、これが希望なのか――。

 支配者は、もしかして初めて得たであろう充実感を噛み締めながら近くて遠い、決して自分が行くことのできない世界へと手を伸ばす。

 そここそが己の居るべき場所と信じて――。


「今行くぞ、沙織たん」

「逝くな!」


 引き篭もり部屋という名の虚無の世界に廊下の光が差し込み、怒声が鳴り響いた。




 天野 勇(いさみ)三十一歳。職業:無職。趣味:アダルトゲーム。

 あちこちにフィギュアやプラモデル、漫画にゲーム(一般・成人問わず)が散らばって足の踏み場もない兄の部屋を天野 カンナがお玉片手に入ると同時に怒鳴りつけた。

 男臭さと丸められたティッシュからほのかに香るイカ臭さが充満する部屋の中央に置かれた万年炬燵に、もう何日も風呂に入ってない為、ボサボサ頭の勇を、カンナは汚物を見るような目で見る。いや、実際に汚物である。


「飯出来たってメールしただろが! ちゃんと携帯見たのか!?」


 愛らしいピンクのハート模様のエプロンを年齢の割に見事に着こなし、カンナはお玉を勇に突きつける。しかし、勇の耳には高級ハイレゾヘッドホンが装着され、メールの着信音は聞こえなかった様子で、パソコンの横にはチカチカ点滅している携帯が放置されている。

 自らの楽しみを邪魔された勇は、弟へ冷たく言った。


「邪魔をするなカンナ。私はこれから沙織たんと愛を育む(ベッドシーン突入)ところなのだ」


 そう言ってパソコンへ向き直り、視線をモニターから外さず、マウスをクリックしながら勇は語り出す。


「この『めしどきメモリアル』は正に神ゲーだ。何が素晴らしいかって、七つの大罪の暴食を司る主人公が、腹が減ると女を食うという、それって色欲じゃね? とかいうツッコミすら消え失せる程の傍若無人なプレイで女を堕とすという最初は陵辱モノと思いきや、ヒロイン達の様々な性癖を開花させ、色々とすったもんだあって最終的に純愛になるという正に地獄から天国へ連れて行ってくれるゲームなのだ」

「知らねぇよ」


 別に聞いてもいないのに語る兄を、カンナはバッサリ切り捨てる。このまま放っておくと、また部屋の前に食事を置く生活を何日も続ける事になる。

 養って貰っている身である以上、余り強く言いたくないが、流石に数日もこの状態が続くのは好ましくない。何よりも、いちいち食器を持って来たり回収したりするのが面倒なのだ。


「兄貴、こんな生活続けてたら義姉さんが帰って来たら何て言うか……っ!?」


 カンナは、ふと背後に人の気配を感じてハッとなる。

 恐る恐る振り返るとそこには、黒いスーツを着た長身の金髪の女性が笑顔で立っていた。モデル顔負けの体型と、知性と品性を感じさせる微笑みと佇まいは、誰もが見惚れるだろう。しかし、カンナだけは、その背後から感じるプレッシャーをひしひしと感じていた。


 女性は、微笑みを浮かべたままカンナの肩に優しく手を置く。

 女性から放たれる無言の重圧を受け、カンナはコクコクと顔を青ざめさせたまま部屋から出て行った。

 しかし、既に弟はいないということに気付かないまま勇は熱弁を続ける。


「やはり私一番のオススメのヒロインはメインヒロインの沙織たんだ。主人公とは幼馴染だが、成績優秀、スポーツ万能、人望も厚い完璧超人なのだが、実は真性のドMでそこを突かれた主人公に調教され、快楽のドツボにハマった彼女のEDでは、伝説の樹の下で『もう、ただの幼馴染じゃ嫌なの。ご主人様とメス豚としていたいから……』と告られた日にゃもう……もう……エクスタシイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイイ!」


 果たしてどの辺がエクスタシーなのか今ひとつ不明だが、人差し指を高々と天井へ掲げ、絶叫する勇。そんな彼を女性は微笑みを全く崩さずに口を開いた。


「そう。そんなにその娘がいいの?」

「勿論だ! だが何故だ……何故、私にはドMの幼馴染な女の子がいなかったんだ!?」

「ごめんなさいね。妻が幼馴染でもドMでもなくて」

「そうだな……実に残念……」


 そこまで言って勇は漸く、今自分が話しているのが弟ではないという事に気付いたのだ。そうして恐る恐る先程のカンナみたいに振り返り、笑顔で腕を組む女性の姿を見てサーっと顔から血の気が引いていった。


「ミ、ミラ……」

「ただいま……あ・な・た」

「ぁ……」


 何か言おうと勇の言葉は最後まで分からなかった。女性が彼に歩み寄ると共に彼の部屋の扉がゆっくりと閉じられたからだ。直後、部屋から何かが砕けるような音がしたが、カンナは怖くて耳を塞ぎ、聞こえない事にするのだった。



 東京の都心にある高級マンションの最上階。そこが、天野家の家である。

 家長である天野 勇と、その妻であるミラ。そして弟のカンナの三人で暮らしている。

 三人で暮らすには、かなり広い部屋で、家賃だけでも何十万もする、とても無職の男が買えるような物件ではない。

 ミラは外資系の会社に勤めているらしく、バリバリのキャリアウーマンで、今まで外国を飛び回っていたが今日、二週間ぶりに日本に帰国した。

 しかし、この部屋を購入したのは、ミラではなく勇である。現金一括払い。しかも、十年前という二十代そこそこの若造が、である。

 勇曰く……。


『死んだ両親の遺産を株とか為替とか競馬で増やした。0が一杯増えて楽しかった』


 らしい。

 カンナ自身、物心ついた時には両親が事故で死んでいたので、覚えているのは、既にミラと結婚していた勇と三人で暮らしている記憶からである。

 ただ、勇は、一生遊んで暮らせるだけの金が手に入ったのをいいことに、部屋に引き篭もってゲーム三昧の毎日である。

 

 引き篭もりの兄と、仕事で家を良く開ける義姉。それ故、天野家の家事を担うのはカンナの役割だった。最初の頃は、ミラがやると言ったのだが、彼女の作った真っ黒い何かを食べた後、打ち上げられた魚みたいな痙攣をしている兄の姿を見て、自分がやらねばならないと幼いながら決意した時の事は今でも覚えている。

 今では、家事が趣味を超えてライフワークとなっている。


「ん~、美味しい。ホテルの料理もそれなりだったけど、やっぱりカンナくんの料理が一番ネ。カンナくん、私が出張の間に腕上げたんじゃない?」


 小芋の煮物を食べて満足気なミラと向かい合って食卓を囲むカンナが苦笑する。


「そんな事ないですよ」

「謙遜しちゃって」


 義弟の料理に打つミラを尻目に、カンナは部屋の隅へと目をやる。

 二十五畳という、広過ぎるリビングの壁際には七十インチの8Kテレビが設置され、その周りをミラの趣味で沢山の動物のヌイグルミが固めている。そして、その中に埋もれて、ボロ雑巾みたいな状態の勇の姿があった。


「う……わ、私にも……ご、ご飯……」

「ふ~。この天ぷらも衣はサクッと、中は素材の旨味が広がって絶品ね♪」

「どうも……」


 震える手を伸ばす旦那を華麗にスルーするミラにカンナも普通に答える。大体、天野家の日常はこんなものだ。ミラが仕事から帰れば大概、勇が酷い目に遭う。カンナは、それを傍観するというものだ。


(この二人、何で結婚したんだろ……)


 その疑問はカンナが幼い頃からずっと思っているものだった。

 勇曰く、『ミラが私にぞっこんLOVEだったのだ』と言い、ミラ曰く、『気付いたら彼が好きになっていた』らしい。どうやらミラが勇に惚れたようなのだが、今の夫婦関係を見ていると、とてもそうは思えない。それでも離婚しないのは二人が自分には知らない何か深い絆があるのだろうとカンナは思った。


「カンナくんはいいお嫁さんになるわねー」

「嬉しくないです」

「はぁ……私、アレよりカンナくんと早く出会ってたら、絶対に結婚してたわ」

「いや、義姉さんぐらいの歳の差だと流石に……」

「ん?」

「すいません、何でもないです、洗い物します」


 とても美しい――知らない人が見れば間違いなく見惚れる――微笑みに底知れない恐怖を感じたカンナは、二人分の食器をまとめてキッチンへ逃げた。


 慣れた手つきで食器を洗うカンナ――食器洗い機もあるが、手で洗う方がきっちり汚れも取れるカンナの主張で使用しない――の後ろ姿をミラは優しい微笑みを浮かべて見つめる。


「大きくなったわね……」

 

 彼女の呟きに対し、ヌイグルミに埋もれたままの勇が答える。


「随分老けた台詞だな」

「あの子を見てるとそう思うわ」


 ふと壁にかけられたボードに貼られている沢山の写真を見る。

 それは、小学校と中学校の入学式や卒業式の時のもの、運動会の短距離走で一位になったカンナをミラが嬉しそうに抱きついた時のもの、両親の葬儀や諸々の事情で出来なかった勇とミラの遅い結婚式の時のもの、家族三人で旅行に行った時のもの等々……様々な写真があるが、その中でカンナが笑っている写真は一枚もない。どれも写っているカンナの顔は無愛想で迷惑そうにしている。

 しかし、そういう時にカンナが嫌がったことは一度もない。写真では笑っていないが、彼は自分達の愛情をちゃんと理解してくれている優しい人間に育ってくれていると、ミラは確信していた。


「…………そろそろ向こうも限界みたい」


 微笑みから一転し、ミラは暗い表情になり言った。それを聞いた勇も眉根を寄せる。


「そうか」

「あの子……ちゃんとやっていけるかしら」

「さてなぁ……こればっかりは分からん」

「そうね……なるようにしかならないわね」


 深刻な顔付きで話す勇とミラ。


(あ……そういや明日スーパーの特売日だっけ)


 そんな二人を他所に、カンナは洗い物をしながら主夫じみたことを考えるのであった。

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