第2話 名前
「いいか、レイ。笑顔を忘れるな。にこやかに、優しい好青年さをアピールするんだ!」
「一度殺そうとした相手に取り繕う意味があるとは思えんが」
アイザックの説明を呆れ顔で聞きながら、レイモンドは長い廊下を歩く。
広い屋敷ではあるが、メイドなどはいない。
レイモンドは、他人が自分の空間に入るのが嫌いなのだ。
唯一の例外は、古い付き合いで腐れ縁のアイザックくらいだ。
「だってさ、あの少年、今朝目を覚ましたはいいけど、警戒オーラ出まくりだぞ。俺も、何回も敵じゃないよーって物を投げられながらもニコニコして、ようやく分かってもらえたんだから」
見ろよ、このタンコブ、とアイザックは額を出す。そこには丸々と膨らんだたんこぶが広がっていた。
「俺はまだ敵意はないって分かってもらえたけどよ、お前さんは児童暴行犯だろ?いやぁ、不安だなぁ……。言葉が通じないって不便だよなぁ」
人をサラッと犯罪者扱いしながら、ガシガシと頭をかきながらアイザックはある扉をノックした。
「少年、入るぞー」
扉を開けた瞬間、時計が飛んできて、アイザックの額に直撃した。丁度たんこぶの所に当たったらしく、「ふぉぉぉお…」と額を押さえて悶えている。
何が分かってもらえただ、とレイモンドはアイザックを蔑んだ目で見つめながら、彼を通り過ぎて部屋に入る。
「身体は回復したようだな」
ベッドを盾にするようにして、その陰から顔を出している少年に声を掛ける。
少年はレイモンドの姿を見つけると目を見開いたが、逆に実力は分かっているのか、物は投げてこなかった。
いや、単に投げるものが無くなっただけかもしれないな、と床に散らばった調度品の数々を見てレイモンドは思う。
(さて、ここからどうするか……)
椅子を引き寄せて、座る。
「あー、とりあえず、そこから出てきたらどうだ?」
ベッドの陰から頭だけだしてこちらを見つめる少年に、ちょいちょいと手招きし、目の前の椅子を指し示す。
少年は出てこない。
まるで野良猫のようだ。
「おい、アイザック。紅茶と菓子を持ってこい」
「えぇ、俺ぇ!?メイド雇えよー」
ぶつくさと文句を言いながらも、アイザックは準備をしに行く。
遠ざかる足音を聞きながら、レイモンドは再び少年に視線を向けた。
「お前は、私が敵だということは認識してるのかな」
レイモンドは首をかしげる少年をまじまじと見た。
短い灰色の髪に、琥珀色の鋭い瞳をしている少年。意志の強そうな瞳は、まるで野生に生きる狼のようだったが、半分は包帯で覆われている。
こうしてみると、本当にただの子どもにしか見えないな、とレイモンドは口角を緩めた。
「へぃ、紅茶ァ!」
紅茶を左、菓子を右のトレイに乗せ、勢いよく部屋に入ってくるアイザック。スピードの割に、落としたり溢したりしないあたり器用な男なのだ。
カカカカッ!と執事顔負けの速度でテーブルセッティングをしていくアイザックに、少年は目を丸くしている。
「フッ、完璧だぜ」
アイザックは紅茶とお菓子が並べられたテーブルを見て惚れ惚れした表情を浮かべる。
レイモンドはそれを無視してクッキーをひとつ掴むと、それを少年の方に差し出した。
「ほーら、美味しいぞ」
「かぁぁーっ!それ犬猫にするやつだから!人間にするやつじゃないから!!」
「あのくらいの子どもなんて、動物みたいなものだろう」
「偏見ーっ!」
ほれほれとクッキーを揺らせば、少年の視線も揺れる。部屋にはこのクッキーの甘い匂いが充満している。そして、この少年は丸一日何も食べていない。この空気の中、空腹を我慢するのはさぞかし辛かろう。
少年もやはり我慢が出来なくなってきたのか、おずおずとベッドの陰から出てくると、レイモンドの手からクッキーを奪い取り、スンスンと匂いを嗅いだ後、勢いよく口に入れた。
「………っ!!」
余程美味しかったのだろう。
少年はクッキーを口に入れた瞬間、パァァア!と目を輝かせ、驚きの表情を浮かべる。
「お、何だ、お前。クッキーを食べるの初めてか?」
アイザックがまだまだあるぞー、とチョコクッキーなども手渡してやれば、少年はキラキラとした目で幾つかを口に入れる。
あっという間に手の中のクッキーを食べ尽くした少年は、期待した目でレイモンドとアイザックを見る。
「幾らでも食べていいから、席に座って食べなさい」
レイモンドがイスを指差せば、その意思が伝わったらしく、少年はイスによじ登り席についた。
それから夢中でクッキーを食べ、紅茶を飲んでいた少年だが、ふとクッキーを手に取ったところで、奥にあるベッドを見た。
「あの少女のことが心配か。まだ何日間は目を覚まさないだろうが、命の危険はないと医者が言っていたぞ」
「いや、通じないだろ」
アイザックの突っ込みに、ふむ、とレイモンドは考え込むと、小皿にクッキーを取り分けた。
そして、それを少年に手渡すと、奥のベッドを指差す。
「目が覚めたら食べられるように、置いてきてあげなさい」
どこまで伝わったのか分からないが、ぼんやりとは理解できたようだ。
少年はイスから降りると、少女のベッドの棚に小皿を置いて、戻ってきた。
「さて、と。本題に移ろうか」
レイモンドはカップをソーサーに置き、アイザックを指差した。
「アイザック」
少年はまたキョトンとした表情だ。だが、レイモンドは気にせず、今度は自分を指差した。
「レイモンド」
少年はまだ首を傾げたままだ。
レイモンドは少し沈黙した後、アイザックに向かって「返事をしてくれ」と言った。
「アイザック」
「はいはーい」
勢いよく手を挙げて返事をするアイザックに、ようやく少年はレイモンドが何を伝えたいかが分かったらしい。
レイモンドとアイザックを指差して、
「レイモンド、アイザック」
と復唱した。
「お、おお!そうだ。それが俺たちの名前だぞー!」
ヨシヨシと頭を撫でるアイザックだが、少年に乱暴に振り払われて、拗ねて壁際でのの字を書き始める。
もう、アイツは放っておこうとレイモンドが紅茶を口に含んだ時だった。
少年は自分自身を指差して、言った。
「イラ」
そして、次にベッドで眠る少女を指差す。
「シウ」
それを聞いたレイモンドは、薄く笑った。
「イラとシウか。いい名前だな」
イラは伝わったことが分かったらしい。コクコクと頷くと嬉しそうに笑った。
「では、イラ。シウが目を覚ますまで一緒に居てあげなさい」
シウを指差せば、やはり言いたいことは伝わったらしい。イラはシウの方へと駆けて行き、そのベッドに腰をかける。
指差しと名前で簡単な指示は出来そうだな、とレイモンドが考えていると、アイザックがこっそりと耳打ちをしてきた。
「やはり、俺たちが自分の敵だということは分かっていないみたいだな。自分が勇者だってことも分かっていないんじゃないか?」
レイモンドは席を立ちながら、イラとシウに視線を送る。
「それならそれでいい。使命なんて知らない方がいい」
確かにな、とアイザックは笑った。
使命というものに縛られたレイモンドだからこその言葉。
そして、それを敵である他者に思いやれるくらいにこの男は優しいのだ。
「アイザック。お前は何日か分の食料調達をしてきてくれ。私は事務仕事をいくつか片付けてくる。それと、部屋の片付けをしろ」
えぇー!というアイザックの非難の声を無視して、レイモンドは部屋を出る。
そして、一息ついた。
(今は、あの子に勇者という自覚はない……なら、今後は?)
分からない。
教えなければ、偽りの生活が成り立つのか。
それとも、いつか自分の役割を知って牙を剥く日が来るのか。
ずっと続いてきた勇者との戦い。
神の名の元に繰り広げられてきた聖戦。
まるで予定調和のように繰り返されてきたそれが、何か変わろうとしているのなら。
私は。
私は────
(ふ、意味のない想像か)
きっと、自分の使命は変わらない。
この世界が、こうである限り。
自分が止まることは許されない。
変われるとしたら、あの少年。
本来、まだ出会わない筈だったレイモンドとの邂逅を成し遂げたあの少年ならば、神の敷いたレールなんて蹴飛ばして進んでいけるのかもな、とレイモンドは笑いながら、陽光の降り注ぐ長い廊下を歩いて行った。
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