第10章 makuake
望結は吐息をついた。
研究室はまだ警察や消防の調査が完了していないのか、キープアウトの黄色いテープが貼られ、立ち入ることが出来なかった。
研究室と通路を仕切るパネルが全壊したままの状態で放置されており、当時の惨状が否応無しに彼女の脳裏に浮かぶ。
今日から表の勤務に戻るという凜と共に大学を訪れた彼女だったが、復旧には程遠い悲しい現実を噛みしめる結果となったのだった。
「望結ちゃん! 」
途方に暮れる彼女を、背後から懐かしい声が呼び掛ける。
と同時に、優しい匂いと温もりが彼女を抱き締めた。
セミロングの髪が、望結の視界に映る。
「辛島さん・・・」
同じ研究室に所属する大学院生の辛島藍里だ。
「良かった・・・望結ちゃんだけでも助かってくれて」
望結の前に、長髪で色白の女性が、切れ長の目を潤ませながら佇んでいる。辛島と同じく、大学院生の萱村玲だった。
「おお、君達も来てたのか」
額が頭部のほとんどの領域を閉める小太りの男が、右手の人差し指で時折ずり落ちる黒縁眼鏡を押え乍ら彼女達目掛けて駆け寄って来る。
「舟幡先生・・・」
望結は驚きの声を上げた。彼女が所属する研究室の教授、舟幡功史朗だった。
「みんなには迷惑かけるね。取り敢えず、仮の研究室は本館の第五会議室を確保できた。来週からでも使えるようになるから」
舟幡は頭を搔きながら望結達に頭を下げた。
「先生、お久し振りです」
望結の背後から男声が響いた。
長身で、長髪の男性が沈痛な面持ちで佇んでいた。
「洲永君、君も無事だったのか」
舟幡は嬉しそうに微笑んだ。
「はい、実は当日、インフルエンザにかかっちゃって休んでいたんです」
彼はばつが悪そうに俯く。
「こう言っちゃ不謹慎だけど、インフルさまさまだな」
「まあ、結果そうなっちゃいましたね」
慰める舟幡に、洲永は申し訳なさそうにそう答えた。
「爆発も、まだ原因が分からんらしい。事件なのか、事故なのかもな」
舟幡はそう言うと、元研究室を見つめながら言葉を濁した。
「事件? 事件かもしれないんですか? 」
玲が驚きの声を上げた。
「霜月が見つからない。被害者の中にもいなかったし、自宅にも帰っていない。
彼が何か事情を掴んでいるはずなんだが――おっと、口外はせんでくれ。捜査の関係かなんかで、極秘にするよう警察からお達しが出ているんだ」
舟幡は急に声を潜めると、他に用があるからと足早に彼らのもとを立ち去った。
(霜月が行方不明・・・)
望結は息を呑んだ。
凜が言っていた通りだった。
霜月はあの惨劇のどさくさに紛れ、研究室から消えたのだ。
残りの――再生した封を持って。
彼は何を企んでいるのか。
ひょっとしたら、彼は『隠形』の仲間なのか。
「望結ちゃん、私達、これから舟幡先生のお手伝いに行こうと思うんだけど、一緒に来る? 」
藍里がそう望結に話し掛けた。
「あ、行きます。私でも役に立つことがあれば」
望結は頷くと藍里の誘いに同意した。
何かに取り組んでいた方が気持ちが紛れる――そう思ったのだ。
「じゃあ、先生に連絡してみるよ」
早速、洲永が舟幡に携帯で連絡を取る。電話はすぐ繋がったのだが、彼の顔に浮かぬ表情が浮かぶ。
洲永は伝覇を切ると、困った表情で頭をがりがりと搔いた。
「今日の所はまだ何もやることが無いらしんだ。また後日連絡するってさ」
「そっかあ、残念。じゃあせっかく再開したんだから、お茶でもする? 」
藍里の提案で、四人は近くのファミレスに向かう事にした。
望結も久し振りに会った先輩達と色々話したい事はある。
恐らく、事故でのただ一人の生き残りである望結に対し、彼らあの悲劇の事を色々と聞き出そうとするだろう。
でも。
事実は決して言えない。
彼女はそう、考えていた。
案の定、席に着くなり、彼女達は言葉を選びながらも事故が発生した時のことを望結に問い掛けた。
が、望結は一貫して、記憶が跳んでよく分からないと繰り返し、多くを語ろうとはしなかった。
事実を言えば、不本意に凶変したものやその被害に巻き込まれたものの尊厳を踏みにじることになる。
実際、彼女達に事実を告げた所で、誰も信じてはくれないだろう。この際、Fがお膳立てした状況に乘るしかない。
洲永は望結の困惑振りを少しも疑おうとはせず、話題をさり気なく今後の研究室について議論する方向にすり替え、彼女に助け舟を出す。
事故の悲劇的な現場にいた彼女への、彼なりの気遣いなのだろう。
この間、彼は舟幡に再度電話をいれ、状況を確認するが、研究室再開はまだ未定との事だった。
「仮の場所は決まっているのにね」
藍里が不満気に呟く。
「仕方が無いよ。パソコンだとかプリンターとかはすぐに手配できるだろうけど、実験器具はすぐには無理だろうし」
洲永は苦笑しながら藍里を宥める。
「望結ちゃんはこのまま院に進むの? 」
玲はアイスコーヒーをストローでかき混ぜながら望結を見た。グラスの中の氷がからからと涼し気な音色を奏でる。
「はい、そのつもりです」
望結は静かに頷いた。
「そっかあ。良かった。研究室、人がいなくなっちゃったからね」
玲が寂しそうに呟く。
「それにしても、霜月先生は何処に行っちゃったんでしょうか」
望結は伏目がちに言葉を紡いだ。
あの状況で、常人なら無事でいられるはずがない。
明らかに、常人ではないのは確かだ。
彼も、「封」を食べている。彼の証言が正しければ、研究室に持ち込む前に、彼は既に「封」の肉を口に入れているのだ。
もし、彼が望結同様に適合者だったなら、凶変する事も無く、理性的な思考のままで尚且つ常人以上の力を有しているはずだ。
ならば、「封」を持ち出してそのまま窓から飛び降りた可能性がある。
「実は跡形も無く吹っ飛んじゃって分からなくなったとか」
洲永がぼそっと呟く。
「うわっ! それヤバくない? 」
藍里が顔を顰める。
「もし研究室が元の場所で出来る様になっても、私、行きたくないな」
玲が暗い表情を浮かべながら呟く。
「まあ、気味悪いよね。実質事故物件だもんね。亡くなったみんなには悪いけど」
藍里は目を伏せると、玲に同館の意を示した。
「ああ、そういや先生からちらっと聞いたけど、あの部屋は研究室としては使わないそうだよ」
「えっ? 本当ですか? 」
徐に語った洲永を望結が見つめた。
「何でも慰霊の場にするらしいよ。仏像をお祀りして」
「まじか」
藍里がまじまじと洲永を見た。
「うん、まじ」
洲永は少しの迷いもなく藍里に即答で答える。
「まあ、その方がいいかもよ」
玲が静かに頷く。
その様子を、望結は複雑な気持ちで見つめていた。
望結には思い入れがあった。
入学当初からあこがれていた研究室だっただけに、何だか割り切れない気持ちだった。
大学側の考えも分からないではない。あれだけ多くの学生が亡くなったのだから。
恐らく遺族への配慮でもあるのだろう。
あの日の犠牲者は、望結の研究室だけではない。近隣の研究室も多くの犠牲者を出しており、中には所属する学生だけではなく、指導する立場の教授や准教授も亡くなったところもある。
そう言った理由で存続そのものが危ぶまれている研究室もあり、仮とは言え、継続がはっきりしている分には、まだ救われていると言えた。
洲永達は、ひょっとしたら霜月は某国のスパイで、それがばれたから、事故に見せかけて抹殺しようとしたのではないかとか、実は自分達が知らない極秘の研究を裏でやっていて、それを阻止しようとした何者かが仕掛けたのではとは、突拍子の無い陰謀論を口々に語っていた。
望結は真実を語りたい衝動にかられながらも、必死でそれを押さえつけ、彼らの会話に耳を傾ける事だけに徹した。
不意に、洲永の携帯が鳴る。
彼は面倒臭そうに携帯を取り出す。メールが入ったらしく、内容を確認すると表情を歪めた。
「ごめん,急用が入った」
そう言って、携帯の画面を望結達に見せた。
「急で申し訳ないけど、応援よろしく――塾長って・・・洲永君、バイト? 」
玲は洲永の携帯を一目見るなり、彼に問い掛けた。
「うん、塾の講師のバイトをやってんだけど、誰か急に休んだみたいだ」
洲永は申し訳なさそうに言うと、席を立った。
「じゃあ、悪いけど、お開きと言う事で」
藍里は頷き、望結達に目配せをする。
会計は洲永が奢ってくれるというので、甘える事にし、四人はファミレスを出た。
藍里と玲は家に帰るというので、彼らとはそこで別れ、望結は大学へと戻ることにした。
凜からマンションにはいる暗証番号は聞いている。だが、今戻った所でくつろげるような心境ではなかった。
霜月の痕跡が、何処かに残されているかもしれない。
ふと、そう思い立ち、確かめようと思ったのだ。
望結は大学の敷地に足を踏み入れると、研究室のある校舎の裏手に回った。
校舎を見上げると、研究室の窓は硝子が無く、代わりにビニールシートが貼られていた。
霜月は、本当に研究室の窓から飛び降りて逃走したのだろうか。
それも、四階から。
封の効力に覚醒していれば可能だと凜は言っていた。
(本当なのだろうか)
望結は足元をつぶさに観察した。
アスファルトの路面の表面には、無数の微細なガラス片が散らばっているだけで、当然、足跡は残っていない。
「何も残っちゃいないよ」
望結の背筋に戦慄が走る。
彼女は慌てて振り向くと息を呑んだ。
彼女のすぐ真後ろ――吐息すら聞こえる程の至近距離に、ベージュのスーツに白いワイシャツ姿の男性の姿があった。
霜月だ。
「先生・・・今までどこに? 」
望結は、緊張に強張る唇を無理矢理引き剥がしながら、彼に語り掛けた。
「秘密の隠れ家」
霜月はとぼけた口調で望結に返した。
「どうして・・・逃げたんですか」
望結は思いつめた表情で霜月を見据えた。
「逃げるしかないだろう。まさかあんな騒ぎになるとは思わなかったからな」
霜月は苦悶に表情を歪めながら、強張った笑みを浮かべた。
「無責任過ぎます」
罪の意識が一片も感じられない霜月の態度に、望結は激しい憤りを覚えていた。あの大惨事を招いていながら、真っ先に自分の保身を考え、迷わずに逃避した彼の行動に、今まで抱いていた憧れと尊敬の思いは、彼女の意識から完全に消え失せていた。
「無事だったのは、君だけか」
「そうです」
「君だけが『封』に選ばれたって訳か」
霜月はしみじみと呟いた。
「先生は、『封』の事を知っていたんですか? 」
「ああ。これでも自称生物学者の異端児だからな。非科学的な分野にも造詣は深いつもりだよ」
「じゃあ、知ってて私達に食べさせたの? 」
「副作用までは知らなかった。俺が体感した異能を、皆も覚醒するものだと思っていた。勿論、皆には申し訳ないと思っている・・・でも」
「でも? 」
「これは、神が下した最後の審判じゃないかと思っている」
霜月は表情を強張らせると厳かに言葉を紡いだ。
「最後の、審判? 」
望結は眉を顰めた。霜月の突拍子の無い発言が余りにも信じ難く、彼女の理解を遥かに超越していた。
「そう。あれを食べる事によって、人類が、この地球に生存するにふさわしい存在かどうかを試されている、言わば試金石のようなもの。そんな気がするんだ」
困惑する望結にかまう事無く、霜月は酔いしれたように言葉を紡いだ。
「先生、ひょっとして・・・隠形なんですか? 」
望結は霜月の眼をじっと見据えた。
彼の答えが真実かどうかは、眼を見れば分かる。彼が嘘をついている時は目線が中空を彷徨い、定まらないのだ――それを見極める自信が望結にはあった。
霜月は元々嘘が苦手な人だ。悪びれた態度は取るものの、真の姿は偽ることを毛嫌いする一本気な性格だという事は、誰もが周知しており、裏を返せば自分を誤魔化すことが出来ない不器用な人物であるという事だった。
「隠形? 」
霜月は眉間に皺を寄せると、望結の眼をじっと見つめ返した。
「知らないな。なんだそれは? 妖の一種か? 」
「本当に知らないんですか? 」
望結が更に追及した。
「ああ、知らない」
「先生の考えと似た思想の団体――秘密結社です」
「隠形ね・・・そいつらかどうかは知らないが、俺にやたら接触して来る輩はいるな。むさい男ばかりで来るから、俺を出迎えたいならスペシャルな美女だけで来いと言ったら、すごすご引き上げて行ったよ」
霜月はにやにや笑いながら望結にそう答えた。
「君は、其の隠形なのか? 」
「違います」
「奴らが俺の条件を吞んで君を使いに出したのかと思ったよ」
「えっ? 」
望結は戸惑った。霜月の台詞、それってある意味誉め言葉なのか。
「君が、其の隠形じゃないとすると、そこに敵対している組織にでも属しているのか? 同じような秘密結社か、それとも公的に反社会組織を取り締まる方か? 」
霜月の眼が、望結を射貫く。
彼は狡猾かつ優れた洞察力に加え、巧みな話術で相手の答えを引き出す事に長けていた。
それ故に、学生達から様々な相談を持ち込まれることが多く。学生との事実上の信頼関係は同じ研究室は言うまでも無く、他の研究室の学生や同僚達も含めて圧倒的に教授陣を凌いでいた。
中には将来学部長の席を得るがための種蒔きだと揶揄する者もいる事はいるが、支持者の数で圧倒されており、そう言った負の噂は表面に上がる事は皆無に近かった。
「どちらでもありません」
望結は彼から目を逸らす事無く、きっぱりと答えた。
「じゃあ、どこで知ったんだ? 隠形とやらを」
霜月は更に追及の刃を望結に突き立てた。
「都市伝説に詳しい人からです」
苦し紛れの答えだった。凜の事や『F』の存在を彼に明かしてはいけない――彼女の本能がそう警鐘を打ち鳴らしていたのだ。
「久内、俺と一緒の来ないか? 」
「え? 」
思いも寄らぬ霜月の言葉に、望結は言葉を呑み込んだ。
彼の言葉の意味が分からなかった。
明らかにそれは望結に対して好意的な感情から発せられた言葉ではなかった。
流石の望結も、それは察していた。 真っ直ぐ彼女を射貫く霜月の目線には、愛情とは異なった鋭利な刃に似た感情が宿っていた。
霜月が抱く信念そのものだった。
「俺達で神々に選ばれた者だけの世界を創るんだ。欲望に憑りつかれて弱者を殺戮し、己の利益を満たそうとする輩だらけの世界を一掃しないと、人類はいずれ滅亡する。『封』は神々が――と言うより、地球が人類に課せた最後のチャンスなのだろう」
「地球が? 」
「そう。地球そのものが巨大な生命体として考える学説がある。それによると、地球上に不快な要因が蓄積し始めると、自らそれを排除しようとするんだ。これを、地球の自浄作用と呼ばれている。自然災害がそれに当たると言われている」
「自浄作用・・・」
「そうだ。でも残念ながら、我々から見て消去されるべきものが残っている状況を見ると、何とも言えないけどね。恐らく地球自身はその判別が出来ない。人類が地球にとって排除すべき存在ならば、人の目線での善悪の区分はどうでも良い事なのだろう」
「じゃあ、『封』は地球から遣わされた『最後の晩餐』と言う事ですか? 」
「旨い事言うな。まさにその通りさ。俺はこれから無作為に『封』をばら撒く。ただ、再生して増えるのは本体だけで、スライスした部分が独立して細胞分裂し、別の個体を作る訳ではないから、一度に出来る数は限られている」
「先生は、私にそれを手伝えと? 」
「そうだ」
「お断りします」
望結は霜月に向かってそう吐き捨てると、渾身の嫌悪と怒りを孕んだ眼で彼をねめつけた。
「そう言うと思ったよ。ならば、力ずくでも連れて行く」
霜月の右手が望結の手を掴もうと――刹那。
彼の手首を別の手が捩じ上げる。
「あなたの方こそ、私と一緒に来て欲しいのだけど」
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