第7章 kaigan

「行きましょうか」

 凜は望結に声を掛けると、落ち着いた物腰で車から降りた。

 望結は黙って頷くと凜に続いて車を降りる。

(気のせいだといいのだけど)

 望結は不安げに自分の部屋を見上げた。

 だが、凜が一緒なのは頼もしかった。

 望結と同様に、彼女も何かを感じ取っているのだろう。それ故に、望結が頼むのでもなく、彼女の方から同行を申し出たのだ。

 階段を上がり、自室の前に立つ。

 望結はスカートのポケットから部屋の鍵を取り出し、鍵穴に差し込んだ。

 ロックの解除される軽い金属音が、静寂に沈むアパートの廊下に響く。

(施錠はされている。侵入者はいないのか)

(じゃあ、さっき感じた視線は気のせい? )

 彼女は生唾を呑み込むと、ドアノブにそっと手を添えた。

 いつもなら、一日の疲れと緊張から解放される安堵の瞬間だった。

 だが、今日は違う。

 ぞわぞわと胸中に蠢く妙な感覚が、彼女を得体の知れぬ戦慄の渦中に引きずり込んでいた。

 ドアを開け、そっと中に足を踏み入れる。

 玄関に靴は無い。

 だが、わざわざ靴を脱いで部屋に上がり込む侵入者などいるのだろうか。

 玄関を抜けるとすぐそばにキッチンがあり、その奥に八畳の部屋がある。

 望結は歩みを止めた。

 慣れ親しんだはずの部屋の空気とは異質な何かが、息を潜めている――彼女の今までになく研ぎ澄まされた意識が、その微かな片鱗を感じ取っていた。

 望結は耳を澄ませた。

 誰かが潜んでいるとするなら、息遣いを感じ取れるかもしれない。

 彼女自身の心臓の拍動が邪魔をして、空間に潜む音そのものを相殺していた。

 望結は意を決し、靴を脱ぐとキッチンに向かった。

 刹那、無機質衣擦れが側方から彼女を襲う。

 反社的に音源を追った彼女の眼に、グレイんスーツを身に纏った筋肉質な男の姿が映る。

 男の手が、望結の首に伸びる。

 だが、奴の太い指が望結を捉える事は無かった。

 望結の傍らから伸びた手が、男の手首を捉えていた。

 男は驚愕の表情で手の主を見た。

 凜だ。

 奴は顔を真っ赤にしながら凜を凝視した。太い二の腕の筋肉が膨れ上がり、小刻みに震える。

 彼女は細い指で軽く掴んでいるだけなのだが、男の腕はびくともしないのだ。

 凜は無表情のまま、その腕を大きく捻り上げた。

 男の身体は宙を舞い、フローリングの床に無様に叩きつけられた。

「どうしたっ!? 」

 奥のリビングから男の野太い声が響き、ドアが開いた。

 ダークスーツ姿のスキンヘッドの男が、床に沈んで呻く男を驚きの表情で見下ろした。

「逃げてっ! 」

 凜はそう望結に囁くと、一気に前に出た。

 一瞬戸惑いを覚えた男だったが、即座に対戦モードへと切り替わる。

 男は凜の動線から体をずらすと、カウンター狙いで前に踏み出した。

 男の拳が、迫り来る凜の顔を容赦無く狙う。 

 空を撃つ拳。

 男の視界から、凜の姿が消えた。

 同時に、男の右膝が悲鳴を上げる。

 瞬時に身を低く沈めた凜の右脚の蹴りが、男の膝を破壊していた。

 男は苦悶の唸り声を上げて膝まづく。

 勝負は一瞬のうちについていた。

「凜さん、凄い――!? 」

 望結が凜に駆け寄ろうとした刹那、彼女の首に太い腕が巻き付く。

「逃げようってったって、そうはいかねえ」

 彼女の耳元で、煙草臭い息が降りかかる。

 望結よりも二回り以上でかい巨漢の男が、彼女を背後から抱き停めていた。

 男の股間が否応無しに望結の臀部の谷間に食い込んで来る。

「やめてっ! 」

 衣類に生地越しとは言え、不快な感覚に望結は身悶えして抵抗した。

「動くんじゃねえ。おい、そこの姉ちゃんもだ。逆らうとこいつの首をへし折るぜ」

 巨漢は臭い息を吐きながら、勝ち誇った声で得意気に言い放つ。

「なめた真似しやがって」

 最初に凜の攻撃に屈した男が、よろよろと立ち上がる。

 男は腰に手を伸ばすと、刃渡り30センチ程の肉厚なナイフを取り出した。

 サバイバルナイフだ。

「生け捕りにしろと言われたのは、そっちの女だけだ。てめえは殺す」

 男の眼が、冷酷な圧を孕む。

「じゃあ、私が抵抗しても彼女の命は保証されているって事よね? 」

 凜が、にやりと笑みを浮かべた。

「何、だと? 」

 男が自分の気付いた時には、もう時はすでに遅し。

 瞬時に男の懐に滑り込んだ凜は、奴の手からサバイバルナイフを叩き落すと、掌を無防備な胸に叩き込む。

 男の身体が空を舞い、頭から壁に激突する。

「この野郎! 」

 凜を拘束している巨漢が驚愕の叫びを上げた。

 煙草と大蒜の匂いが入り混じったような異臭が、男の口から罵声と共に拡散する。

 凜は顔を背けた。

 不快だった。

 口臭に加え、役得とばかりに股間を擦りつけて来る巨漢の行為に、望結は底知れぬ嫌悪と憎悪を抱き、苦悶していた。

 この男から離れたい――拒絶の意志を孕んだ怒りの感情が、彼女の意識から急速に恐怖を奪い去っていく。

 徐に、望結は男の脚を奴の靴の上から全体重をかけて踏み抜いた。

 奴の脚の甲が、軽い粉砕音と共に砕け散る・

 男が情けない悲鳴を上げた

 同時に、望結の首を拘束していた男の腕が緩む。

 望結はすかさず肘打ちを男に喰らわせた。

 彼女の肘は見事に男の鳩尾に食い込む。

 男の身体が後方に吹っ飛ぶ。

 通路の手摺が男の巨漢をかろうじて受け止める。が、勢い余ってか、巨漢は手摺を乗り越え、階下へと消えた。

 遠くから、サイレンの音が近付いて来る。

 住民の誰かが異変に気付き、警察に通報したのだろうか。

「くそうっ! 」

 二人の男は忌々し気に凜達を睨みつけると、窓を開け、身を翻した。

 二人は二階から離脱する暴挙に出たのだ。しかも一人は凜に膝を潰されている。

 凜と望結は窓に駆け寄った。眼下を見ると、すぐそばに停車している白いセダンに乗り込む二人の姿があった。少し遅れて、アパートの裏手からよたよたした足取りで現れた巨漢が車に乗り込むと、急発進で駐車場から飛び出して行った。

「ナンバープレートが見えない。何か細工してあるね・・・これじゃ追えないな」

 凜が口惜し気に奴らのセダンを見送った。

 

 

 













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