第2章 kurau
「これが何だか分かるか? 」
研究室に集まった学生に、霜月は得意げにそれを見せた。
実験用のテーブルの上には何故か樹脂製の白いまな板が置かれており、その上には黒い毛で覆われた円筒形に近い形状の、奇妙な物体が鎮座していた。また、その横には何故かホットプレートまで置いてある。
「分かりません・・・何ですかこれ? 」
隣にいた白衣姿の学生――倉野登也が首を傾げる。中肉中背で、まあまあイケてる系の整った容姿の彼だが、霜月の前ではそれも凡人級にまで削ぎ取られてしまっているのが現状だった。
彼は日に焼けた顔に訝し気な表情を浮かべながら、躊躇なく指先でそれに触れた。
「よく触れるよね」
澄田那由が眉を顰めて苦言を漏らす。長い黒髪に色白の肌、整った容姿、そして白衣を突き破らんばかりの双丘に誰もが眼を奪われる、魅惑的な女性だった。
だが本人は、人目を引くのが嫌なのか、あえて自分の魅力を押えようとしているかのようで、いつも極めて地味な服装で化粧っ気が無く、今日も白衣の下はベージュのカットソーにデニムのパンツと言った装いだった。
「倉野は怖いものなしだからな」
二人の会話を瀬田優弥が笑みを浮かべる。
大柄な体格で優し気な目をしている。その風貌からかもしだされる優しい性格は、バイト先のスーパーに務めるパートのおばさま達の人気の的らしく、アパートで自炊をしていると話してからはおかずの差し入れが半端ないそうだ。おかげで現在も日々横に成長し続けているらしい。
彼ら三人は大学院生で、他に四人いるのだが、流行性の感冒に倒れて療養中だった。
「おはようございます」
研究室のドアが開き、数名の学生が入って来る。海洋生物学を専攻している大学生達だ。
「おはよう。君達の中で、これが何か分かる者はいるか? ヒントは海に関係がある」
霜月の問い掛けに、彼らは互いに顔を見合わせた。
「菅原ん家、熱帯魚屋だったよね。あんなの見た事ある? 」
久内望結は隣の長身痩躯の学生に囁いた。
彼女とは頭二つ分の身長差故に、囁くと言っても彼を見上げなければならず、それ故にセミロングの髪が大きく揺れる。
「ねえな。なんだありゃ? 」
銀縁眼鏡の奥の眼を細めながら、菅原巧は首を傾げた。彼の家は大手の鑑賞魚販売業を営んでおり、魚だけでなく、爬虫類や両生類、その他水棲の生物と幅広く手掛けている。幼い頃からその手の生き物は数えきれない程見てきており、その知識は霜月すら舌を巻く程だった。
「望結ちん、あれ、何でまな板の上に載っているの? 私、悪い予感しかしないんだけど」
望結の隣でそれをガン見する村上清美の口から不安気な台詞が零れた。何かを察しているのか、ポニーテールの黒髪が小刻みに震えている。
「誰も分かる者はいないのか? 」
霜月はにやにやしながら学生達を見回した。
「実は、俺も分からん」
霜月は真顔になると、そう発言した。
沈黙が、研究室を呑み込む。
それは驚愕と言うより、しらけムードが半端ない重い空気を部屋中に漂わせていた。
「お、おい。みんな、何だそのリアクションは? 気の利いた突っ込み一つ出来んのか! 」
霜月は憂いの目線を学生たちに向ける。
「先生、残念ですけど、ここ、芸人さんの養成所じゃないんで」
倉野は呆れた表情を隠そうともせず、霜月にそう進言した。
「まあ仕方が無いか・・・俺の生徒は皆、真面目な連中ばかりだからな」
彼は豪快に笑うと、徐に包丁を握りしめた。
「これは、昨日の朝、浜辺を歩いていて拾ったんだ。最初は小動物の死骸かと思ったんだが、そうじゃなかった。死骸どころか、これは生きているんだ」
「生きているって、これって生物なんですか? 」
那由が驚きの声を上げる。
「ああ、間違いない。調べてみると生体反応はある。ただ妙な事に、これは筋肉の塊でしかないんだ」
霜月の言葉に学生達の間でどよめきが起きる。
「見てろ」
戸惑う学生達を尻目に、霜月はそれに包丁を入れた。
学生達の中から悲鳴が漏れる。
だが彼はやめなかった。ただ淡々と、それを十ミリ厚程度のサイズで切り分けて行った。
「断面に注目。どうだ? 」
切れ分けたそれを、霜月は横にずらし、広げた。
途端に、学生達は息を呑んでそれを凝視した。
断面は赤身の肉色がほとんどを占め、所々白い脂肪が網目状に点在している。
内臓らしきものは無く、スライスされても血液や体液の流出すらない。
まさに、筋肉の塊だった。
「見た感じ、何に見える? 」
霜月に問い掛けられた男子学生が困惑した表情を浮かべた。
「ステーキ肉、ですか」
彼はトラウマを生みそうな予感に纏わり付かれながらも、眼で見て感じた答えをストレートに霜月に返した。
「その通り。となると、次はこうするしかないよな」
霜月はホットプレートにやや黄色味帯びた塊を落した。
やがてそれはプレートの上で溶け広がると、濃厚な芳香を奏で始める。
バターだ。
ここまで来ると、彼がやろうとしている事は、誰もが想像出来た。
スライスした得体の知れぬ肉片を焼こうというのだ。それも、信じられない様な体の組織を持つ新種の生命体であるかもしれない、希少な検体を。
但し、何人の学生は、これは霜月が仕組んだフェイクと思たのか、苦笑を浮かべながらそれを静観している。
「みんなの期待通り、これからこれを焼いてみる」
霜月は意気揚々とそう宣言した。実際には誰もそんなこと期待などしてはいないのだが。
霜月は末端の三センチ位だけ残して、残りのスライスした肉片をホットプレート上に並べた。
既に温まったプレートの表面触れた肉が、じゅっと子気味良い音を立てる。
霜月は、頃合いを見ながら手際よく粗挽き胡椒と塩を肉片に振りかけた。
側面の黒毛は加熱され、ちりぢりになって炭化し、香ばしい匂いで研究室中を満たしていく。
「そろそろいいぞ」
霜月は割りばしを手に取ると、肉片をつまみ上げた。
肉片から滴り落ちる肉汁が、ホットプレートの表面で弾ける。
彼は躊躇する事無くそれを口に放り込むと、ゆっくりと咀嚼した。
満足な笑みを浮かべながら鼻から息を抜くと、彼はそれを嚥下した。
「旨い・・・最高の牛肉みたいな味だ。食べたい奴は食べてもいいぞ」
霜月は学生達を見渡した。
「じゃあ俺、頂きます」
倉野が割りばしに手を伸ばす。
「じゃあ、俺も」
瀬田も割りばしを取ると、肉片を一切れつまみ上げた。
二人は恐る恐るそれを口に入れる。
「旨っ‼」
「うん。馬鹿旨い」
倉野と瀬田が眼を見開いて頷く。
「え、本当? マジで? 」
那由は二人の反応を見ながら割りばしでそれを取ると、口に入れた。
「美味しい・・・」
那由が驚いた表情で頷く。
「俺も食べます」
「私も」
倉野達がの表情を見た他の学生達も一斉に肉片に手を伸ばした。。
もはやそれの得体の知れぬ原型の存在など、彼らの思考からは消えていた。
部屋中に充満した香ばしい匂いが、彼らの食欲を激しく掻き立て、冷静な思考を根本から奪い去っていた。
望結もその一人だ。肉の焼ける匂いを鼻に吸い込んだ瞬間、食べたいという衝動を抑えきれず、無意識のうちにホットプレートに駆け寄っていた。
「頂きます」
望結は割りばしで肉片をつまみ上げた。程良く焼けた肉片から、肉汁が滴り落ちる。
望結の喉が、ごくりとなる。
口内に湧き出る生唾が半端ない。
もはやそれの原型など、望結の頭から消えていた。どう見ても、彼女にはそれが牛肉にしか見えなかった。
望結はそれを口に運んだ。途端に、濃厚な肉の旨味と脂肪分の甘味が口内に広がり、其の香ばしい風味が鼻孔を愛撫しながら鼻から抜けた。
「うそっ! マジ旨・・・」
望結の頬が緩む。彼女が今まで食べた料理の中でもダントツの旨さだった。
「何これ・・・凄過ぎる」
彼女の隣で清美が嘆息をついた。
清美の実家は精肉店兼焼き肉屋を営んでおり、彼女自身、牛、豚、鶏を問わず、あらゆる美味しい肉を幼少時から口にしてきている。その彼女が感銘を受ける程の味なのだから、この肉の旨さは明らかに超絶的であるといえた。
「どうだ、旨いだろ。それに、これを食ったら何だか体が熱くなってこないか? 」
霜月は満面に笑みを浮かべながら、学生達を見渡した。
確かに、と、望結は頷く。
霜月の言った通り、お腹がぽかぽかと温かい。
「この肉は、生命力の塊なんだ。みんな、まな板の上を見てみろ」
霜月にうながされ、学生達はまな板に目線を受けた。
「えっ! 」
倉野が眼を見開きながら呻いた。
僅か三センチ程、まな板の上に残っていたそれは、十センチ程に伸長していたのだ。それも、ただ細長くのびたのではなく、元の径を維持したまま、凄まじい速さで再生しているのだ。さっきまで肉色を晒していたスライス面は、既に黒い毛で覆われ、その断片すら痕跡を残していない。
「実はな、昨夜、同じように焼いて食べたんだがな、食べ終わる頃には元のサイズ再生していたんだ。まだ試していないが、細かく切り分ければ、それぞれが独立した個体になるかもしれない。まるでプラナリア並みの生命力だよ」
霜月は鼻を膨らませながら、熱く語り続けた。
「これの繁殖に成功したら、私ん家は商売あがったりだな」
清美は複雑な表情で肉塊を見つめた。
不意に、清美の顔が苦悶に歪む。
うげえええええつ
清美は両手で喉をかきむしりながら、土色の泡を嘔吐した。
「清美、大丈夫? 」
友人の突然の変貌に、望結は慌てて彼女の背中を摩った。
「どうした? 」
「大丈夫かっ! 」
倉野と瀬田が慌てて清美に掛け寄る。
清美は吐瀉物を床にまき散らしながら、床面に崩れ落ちた。
同時に、駆け寄った倉野達も呻き声を上げながら床に倒れた。
彼らだけではなかった。異常事態にどよめく学生達は次から次へと口から泡を吹きながら床面に倒れていく。
(食中毒? あの肉に、何か毒性の者が含まれていた? とにかく、早く助けを呼ばないと)
緊急事態に騒然とする中、望結は、自分の身にも発現するかもしれない恐怖に戦慄を覚えながらも、慌てて部屋を飛び出した。
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