いうきもゆうきも
柿尊慈
いうきもゆうきも
親戚の
俺よりも5つ年上の彼女は、3年ほど前に結婚式を挙げた。彼女に片想いをしていた俺は悔しさから出席せず、あとで母親から怒られた記憶がある。
「一生に一度の晴れ舞台だってのに!」
その晴れ舞台を見なければ、俺の中で真彩は、一生晴れることのない曇り空の下を坦々と歩くことになると考えていたのだ。
実際真彩は、涙こそ流していないけれど、昔のように明るくはつらつとした笑顔を見せずに、この夏、実家に帰ってきた。正確には、笑顔を見せようという努力だけが見えて、痛々しかったというべきか。
似合わないのは百も承知だが、麦わら帽子でも被ってきた方がよかったかもしれない。真彩んとこの畑で収穫した野菜を、俺は真彩の家まで運びにきた。真彩の両親は、自分の腰を心配したのである。ちょうど若いのがいるからと、同じく実家に帰ってきていた俺が呼び出された。彼らは、俺が熱中症になる心配など微塵もしていない。そこまで俺がヤワじゃないと考えているのと、くたびれた真彩に対する心配でそれどころじゃないというのもあるだろう。
「……少し、痩せたんじゃねぇの?」
ラムネバーをくわえてぼうっとしている真彩が、うっとおしいセミでも見るような目で俺を見た。彼女は口からアイスを引き抜く。小さな水滴が飛んだ。彼女の唾液か、アイスが溶けたものか。
「そりゃ、痩せるわよ」
「何かあったのかよ」
「知ってるくせに」
嫌味を込めた俺の言葉に彼女は笑うと、日差しで汗をかき続けるラムネバーを見つめる。ぽたぽたと、水滴が落ちた。畳が傷むだろうが。
古きよき、解放的な家屋。門は開けっ放しだし、障子だって開きっ放し。おかげで、ちゃぶ台に座ってアイスを舐めるこいつと目が合った。色気のないジャージを履いて、厚めのTシャツの裾を扇いだ。
縁側に、収穫された野菜の入った籠を下ろす。どっかりと腰を下ろして、ひと息つく。振り返ると、1メートルほど離れた位置に真彩が座っていた。ちょうど頭の高さに膝がある。恨めしそうに、ラムネバーを睨む。
「俺にもくれよ、暑くて死にそうなんだ」
梅雨らしい梅雨もないまま、7月を終えて大学も休みになった。梅雨を取り返すかのように、しばらく豪雨が続いていたが、今日は燦燦と太陽が降り注いでいる。激しい雨のわりに、野菜も無事だった。
「じゃあ、食べかけをどうぞ」
以前より青白くなった真彩の右腕が伸びてくる。シャツの袖から肌色が覗く。
「新しいのくれよ」
「これが最後の1本なの」
「じゃあ、買ってこいよ」
「買ってきて」
わざとらしくため息をついた。真彩は鼻で小さく笑う。
10年前くらいは俺も悪ガキで――今もだろと、実家に帰るとよく言われるが――親戚の子どもたちに横柄な態度を取っていた。未成年に限定すれば、自分より年上が真彩しかいなかったからか、ゲームのコントローラーは譲らない、スイカは人の分も食べる、小遣いを奪うなど、ガキ大将さながらの振る舞い。
その度に、真彩は俺の頭にチョップを落とした。痛みから俺の手を離れたコントローラーを拾って、別の子どもに手渡す。
「ゲームは1時間やったら15分、休憩しなきゃいけないの」
「こいつらは今、休憩中だったんだよ!」
「あんたは3時間ぶっ続けでしょうが!」
さらにチョップを喰らうと、他の子どもが笑い出した。キッと睨むと、びくりとしてテレビ画面に向き直る。腕を組んでそっぽを向くと、後ろから手が伸びて頬をつねられた。
「ごめんなさいは?」
「なんで俺が謝んなきゃいけねぇんだよ!」
体が特別デカかったわけじゃない。しかし、俺に逆らう同級生はいなかった。年下となれば尚更だ。だが、高校生になったばかりの真彩は俺に怯むことなく、平気で叱りつけた。
俺の前に正座して、諭すように真彩が言う。
「みんなで少しずつ我慢する。そうすれば、誰も悲しい想いをしなくて済むの」
変に大人びたところのあった真彩は、よく俺にそう言い聞かせた。
「だから
顔を背けると、合わせて真彩も動いてくる。それを何度か繰り返した。他のやつらは、もうゲームに夢中だ。ゴリラが樽から発射される音がする。
「怖いんでしょ」
いきなり、真彩が言った。ムキになって、目を合わせる。
「何がだよ」
「謝っても、許してもらえなかったらどうしよう。だから、謝らない。ごめんなさいと言う勇気がないの」
「決めつけんじゃねぇよ」
思えば、真彩の言葉は正しかったのかもしれない。近所の子どもがよく、悪さをして家を締め出されていたが、謝っても謝っても、なかなか家に入れてもらえないでいた。謝っても許されないなら、謝り損じゃねぇか。当時の俺は、そう考えていた節はある。
「結婚する前は、ひとりだったんだ。元に戻っただけじゃねぇか」
振り返らず、蚊を払いながら俺は言った。こいつらは夏バテしねぇのか。元気に飛び回って人の血を吸い取りやがって。
「それもそうねぇ」
緩く肯定する真彩の声には、気持ちがこもっていなかった。ほんとにわかってんのかと、怒る気にはなれない。気を遣うつもりはない。なんで、こいつのために我慢しなきゃなんねぇんだよ。
俺だって、ずっと我慢してたんだ。これ以上、気なんて遣えるかよ。
「みんなで少しずつ我慢してれば、誰も悲しまないんじゃなかったのか」
足元で焼ける小石に向かって言い捨てる。
頭をかく。爪の間に、汗が入り込む。じめっとする指先をズボンで拭った。縁側に手を置くと、少しだけ熱が逃げた気がする。
真彩が笑った。寂しそうに笑いやがる。聞きたくない声。きっと、見たくない顔をしている。何しに来たんだ、お前は。せっかく来たなら、もっと楽しそうにしろってんだ。
「あんまり、我慢してもらえなかったなぁ。たぶん、気を遣ってたのは私だけ」
「結婚して、3年くらい経ってたじゃねぇか。今更かよ」
「たぶん、私以外の人たちもみんな、今更気づいて離婚したんじゃないかな」
「その間、いったいそいつらは何を見てきたんだよ」
結婚したこともなければ、恋人がいた期間すらない俺が言う。
ばきりと音がする。振り返ると、真彩がアイスの棒を折っていた。
「……甘い部分」
ぽつりと呟いたため、それが俺への返答だと気づくのに時間がかかる。
「全部溶ければ、木の味しかしないただの棒なのに、まだ甘い思いができるんじゃないかって舐め続けてる感じ。もうとっくに、アイスの部分は溶けてしまっているのに」
「マンネリってやつか」
「マンネリ自体は、問題ないと思うの。私の友達も、子どもができたからマンネリとか気にしていられなくなったって言ってたし」
真彩のところには、子どもがいなかった。つくる気がなかったのか、事情があってできなかったのかはわからない。だが、子どもがいなくてよかったと俺は思う。ふたりの愛の結晶なんか見たら、俺はきっと粉々にしたくなる。
「苦い思いしかしないってわかってるのに、期待して木の棒を舐め続けた。いつか、ラムネ味になると信じて」
「なるわけねぇのに」
「そうそう」
「運んでくれてありがとうね、悠樹くん。ゆっくりしていって」
何も持ってないのに、俺よりも遥かに時間をかけて戻ってきた真彩の母親が俺に言った。適当な挨拶をして、縁側に寝転がる。
「自分の家みたいに振る舞うわね」
頭上から真彩の嫌味が聞こえた。
「曇ったら帰ろうと思ってたんだよ」
投げやりに答える。本当のことだった。実際は、どんどん太陽は眩しくなってきて、立ち上がろうという俺の意志を削ぐ。いっそ昼寝でもしていこうかと考えているところだ。人の家だが、赤の他人じゃない。なぜか付き合いがあるというだけで実際血縁関係としてはかなり遠いらしいが。むしろ、近しい人たちほど地元を離れてしまっているのが現状だ。親戚に大学生や専門学校生も何人かいるが、長期の休みでも帰ってこない。3年生になっても律儀に帰ってくるのは、俺くらいじゃなかろうか。真彩でさえ、学生時代はほとんど帰ってこなかった。
「――少しずつ我慢すれば、幸せになれるんだよな」
無意識に、言葉がこぼれる。急いで口を塞いだくらいだ。だが、もう遅い。俺の言葉に続きがあるのだろうと睨んだ真彩が、少し離れて俺の隣に座る。素足が視界の端で揺れた。目を逸らすと、門の向こうの道路が揺らめくのが見える。野菜めがけて飛んでくる虫を追い払った。
今更黙りこくることもできないので、俺は思い浮かんだフレーズを、できるだけ心がこもらないよう淡白に再生する。
「逆を言えば、我慢し合えるやつら同士で一緒になるべきってことだ。妻の奉仕に感謝もせずふんぞり返ってるんじゃなくて、ちゃんと痛みをわかり合える相手っていうか……」
「例えば?」
スイカの種みたいに真っ黒い瞳が俺に突き刺さった。
「例えばっていわれても、わかんねぇけど……」
右に座る真彩から体を逸らす。うなじのあたりが、がちりちりと焼けるようだった。日差しのせいか、こいつの視線のせいか。
「同じように、我慢してたやつの方がいいんじゃねぇかな。そうすれば、バランスが取れるだろ」
何を言ってるんだ、俺は。
「それで?」
甘い息がかかった、ような気がした。だが、後ろを振り返れない。
甘い匂いの正体は、ラムネじゃなさそうだ。さっきまで、ラムネ味を食ってたはずだろ。なんなんだよ、これは。
「だから……真彩は、結婚生活ずっと我慢してきて、俺は、幸せそうなのを邪魔するわけにもいかねぇから、言うのを我慢してて――」
「なにを?」
「だぁ! もう!」
迫り来る気配を感じて、俺は飛び込むように真彩から離れる。勢い余って、野菜の籠にぶち当たった。潰れて汁が出てないかと心配になるが、トウモロコシは無事のようだ。
俺の心臓は無事じゃない。きっと、トマトのように赤くなっていることだろう。
結婚式に行かなかったとき、怒る母とは対照的に、父親は何も言わなかった。もしかしたら、俺の胸のうちを察してくれていたのかもしれない。何が悲しくて、好きな女の結婚式に行かなければならないのか、と。
だが、洞察力の鋭い母が俺の想いに気づいていなかったとも思えない。知っていた上で、告白する勇気もなければ、結婚式に行って踏ん切りをつける勇気すらなかった俺を、情けなく思ったのだろう。
10歳の頃から真彩のことを気にかけながら何も言えなかったのは、俺が幼かったからだ。いったいどうして、小学生が高校生に気にかけてもらえるだろうか。高校に入学してからの真彩は、それこそ痩せこけるような失恋をしてはいなかったけれど、常に誰かしらの彼氏がいるほどに、よくモテた。大学進学のために地元を離れて、たまの年末年始に帰ってきたときだって、帰省が終わったら初詣に行こうと、夜に当時の彼氏と電話しているのが聴こえたものだ。
いつ、どのタイミングで言えっていうんだよ。
「ごめん」
謝られた気がした。そうか、フラれたのか。告白すらしてないのに。真彩の顔を見る。何かを待っている顔。きょとんとしている。
俺だ。謝ったのは、俺だった。知らないうちに、謝っていたのだ。
「なんで謝るの?」
真彩が笑う。腕をついて、猫のように寄ってくる。反対に、俺は腕を後ろについて退く。縁側と手の平が、ぺたぺたと音を立てる。真彩はにやにやと笑っていた。
なんで、謝ったんだろうな。
結婚式に、行かなかったから?
ここまで、自分の気持ちを伝えなかったから?
違う。今謝った理由は、きっとそうじゃねぇ。
「……自分の気持ちを言う勇気が出ねぇから、ごめんって言ったんだよ」
この状況でも――何となく真彩も、俺の様子からなんとなく察してるだろう状況でも、俺は想いを口にできそうにない。
我慢してきた俺と、我慢してきたお前。一緒になれば、ちょうどいいな。散々待たせやがって。
そんなことも言えない。まだ子どもなんだ、俺は。求愛のため叫ぶセミのがよっぽど大人だ。叫ぶどころか、囁くことさえできない。それどころか、知らないうちに謝ってる。
手が伸びてきた。髪の毛を、わしゃわしゃと乱される。嫌がって首を振るが、その動きに合わせて真彩の手も動くので逃げられない。汗が飛び散る。汚いからやめろよ。言葉には出せない。
「なんだよ!」
「――謝れたね、えらい」
思いもよらなかった言葉に、俺は固まった。そんな俺のことを気にも留めず、真彩は好き放題もみくちゃにしてくる。
謝る勇気がなかった俺が、勇気がなくて謝った。真彩がそれを、褒めている。
そういえば、褒められたのは初めてかもしれない。迷惑かけて叱られることはあっても、真彩が喜ぶようなことは、これまでしてこなかった。
そりゃ、見向きもされないわな。ずっと、悪ガキだったんなら。
そろそろ、大人になれってことかもしれない。
満足した真彩が手をどけた。
俺は呼吸を整えて、咳払いをする。真彩は猫のポーズに戻った。指示を待っている猫。いや、猫はお座りとかしないんだっけか。
足を地面について立ち上がる。縁側から離れたズボンの尻の部分が、汗をかいているのを感じた。熱い風が背中を抜ける。
「どこ行くの?」
同じく立ち上がった真彩が聞いた。
「……最後の1本だったんだろ」
「え?」
「アイス、買いに行くんだよ」
「なにそれ」
笑い声から逃げるように、一歩踏み出す。太陽は、雲に隠れる気がないらしい。
「一緒行ってもいい?」
少し大きな声で、真彩が叫ぶ。その声で、セミが一瞬黙ったような気がした。
「勝手にしろよ」
俺の言葉と共に、セミの合唱が再開する。ポケットに手を突っ込んだ。財布は持ってるな。腿が熱を持っているのがわかる。
「サンダル、取ってくるから待ってて」
しかたねぇなと、言うより先に真彩がいなくなった。
しばらくして、真彩がサンダルを両手に持って戻ってくる。麦わらでできた厚底に黒いベルト。縁側でそれを履いて立ち上がった真彩は、俺よりも背が低かった。並んで立ったのなんて、いつ振りだろうか。
大きめに足を開いて歩き出す。ぱたぱたと、後ろから足音が近づいてくる。足を速めるが、同じように向こうも速めてくるので追いつかれた。
「ねぇ」
「なんだよ」
「もうちょっと、近寄ってもいい?」
「勝手にしろよ」
「じゃあ、腕に抱きつくのは?」
「嫌だよ、暑苦しい」
「ほんとは、されたいクセに」
からかう声を背中に浴びながら、大股で歩く。
求愛するセミ。愛の言葉のひとつも言えない俺。
どっかで、大人にならないと。
まあ、いいか。
アイスが溶けたら、きっと大人になってるはずだ。
いうきもゆうきも 柿尊慈 @kaki_sonji
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