第77話 ベッドで錯乱する美少女は、僕の料理をお気に召す




「すー……すー……」

「――……」


 なぜだか、僕のココロは落ち着いていた。

 目の前で、彩香さんが柔らかい寝息を立てて寝ているというのに、僕はとても落ち着いていた。


 状況把握も、こうなった原因も、全部理解して、それでも僕は落ち着いていた。


 確かに、彩香さんが目の前で寝ているという事実にはドキドキしたし、顔が赤くなったかもしれない。だけど、僕は落ち着いていた。


 その理由はひとえに、経験の問題だろう。半年前、正月辺りに似たようなことがあったからではないだろうか。


 ――と、長々と僕は自分のココロに語りかけ、バクバクする心臓を押さえて、彩香さんに手を伸ばす。

 目にかかっている髪の毛を払ってやると、彩香さんは少し苦しそうな顔をやめ、嬉しそうにはにかんだ。

 寝ているのに、こんなに表情が豊かなのか。


「んんっ――んぁ……」


 彩香さんのうめき声にドキッとして手を引っ込める。だけど、彩香さんは起きなかった。少し間を明けてから、もう一本、彩香さんの目にかかっている髪の毛を払う。


 その瞬間、魔が差した。

 体が動き出して、その時には理性の声は意味をなさなくなっていた。ベッドを揺らさないよう細心の注意を払って体を少し持ち上げ、首を伸ばし彩香さんの額に顔を近づける。


 音はない。一瞬、優しく触れるだけのキス。

 一緒の布団で寝ている彩香さんが悪いのだ。そんなことをしているから、僕に額にキスなんかされるんだ。

 責任を彩香さんに転嫁して、ばくばくと高鳴る心臓を抑える。


 後悔よりは、やってやったぞ、という妙な達成感の方が大きかった。


 時計を見ると、もう二時だった。ぐぅ、とお腹が鳴る。

 そういえばお昼食べてなかったな、と思い出して、僕は彩香さんを起こさないようにそろりと、布団から抜け出す。そのついで、彩香さんの体に掛け布団を掛け——……クーラーの風量を弱にして、部屋を出た。

 もう一度、彩香さんにキスをする勇気はなかった。


 きっと、あのまま同じ布団にいたら、僕は暴走していた気がする。だからこの選択は間違っていない。

 名残惜しさを振り切る意味も込めてココロにそう呟き、リビングに向かうべく、暑い廊下を歩いた。



 *



 状況整理を終えた私は、クラクラしそうな頭を強く叩きつつ、体を起こそうとする。だが、それは叶わない。いや、体がそのことを拒否していた。

 もっと、柚の布団にくるまっていたかった。


 柚の匂いが染み込んだ枕に頬を預け、布団を体に巻き付けて、その端を鼻の近くに持ってきて、嗅ぐ。


 出来心でつぶやいてみる。


「柚……大好き……」

「っ――……は、はい……」


 少し状況説明をしよう。

 目が覚めるとそこは楽園だった。柚の香りで包まれていた。

 多分、柚の介抱(なんで柚が気絶したのかについては不問とする)をしているついでに添い寝していて、そのまま寝てしまっていたのだろう。


 そこに柚はいなかったが、柚の香りがあるので、私は発狂しなかった。まぁ少し、柚がそこにいないことに悲しみを覚えたけれど。


 手に触れた柔らかいもの――掴もうとすると手が沈む、もちもちの熊のぬいぐるみを引き寄せ、抱きしめて顔を埋める。やはり柚の匂いがしたのだ。


 肺が満たされて、ドキって胸が喜んで、快楽物質のように頭の中が蕩けてしまう。これは柚のぬいぐるみに間違いない。

 そう思った私は、柚のモチクマを抱きしめたまま軽く二度寝をしてしまっていた。


 そして今、再び目が覚めて、状況整理を終えたところだった。


「あの~……」


 腕時計を見ると、短針と長針はそれぞれ2と6を指していた。

 ぐぅ、と小さくお腹がなる。お昼はコンビニのおにぎりと簡素なものだったので、お腹が空いてしまったようだった。


「んん……柚の匂い、好き」


 空腹を紛らわせるため……という建前で、私はモチクマをぎゅっと抱きかかえ、口から零れた言葉もそのままに、布団にくるまって枕に顔を埋める。


「あの~……さ」


 体がぽかぽかして、幸せで、頭の中がふわふわだ。

 語彙力まで失った私は白昼夢の中、そんなことを呟いていた。

 そして、突然狂った。


「ふみゅみゅみゅっ……柚っ、柚っ……ふわぁ……あぁ……しゅき……」

「わぁ……精神科医必要かな……?」


 あふれ出てきた幸福感を声に出して消化して、モチクマをぎゅっと抱きしめて強すぎる多幸感に堪え、周囲から与えられる快楽物質をあらためて甘受する。


「柚……」

「はい……。さっきからここにいます……」


 名前を呼ぶと、その人が後ろにいた、なんて経験はよくあるかもしれないが、その人が、自分が今くるまっている布団の持ち主、という経験はほとんどないだろう。

 少なくとも私はこれが初めてだ。


 振り返ると、そこに柚がいたのだ。


「きゃぁっ! いつからそこにっ!? き、聞いてた!?」

「いや――……最初の、柚大好きって所からしか……」

「それ最初だから! バカ! あと別に大好きっていうのはただの人としてって意味で――!」

「あのさ、彩香さん。いい加減、意地張るのもやめた方がいいんじゃない?」

「えっ……?」


 柚は呆れたような顔つきでそう言う。

 そしてため息を吐き、何かを言いかけて――諦めたように首を横に振り、言葉を切った。

 その間、私は柚のココロを読むことができなかった。覗こうにも柚のココロは複雑すぎたし、なんだか読んじゃダメな気がした。


 柚は表情を改め、いつものつかみどころのない、人生そのものに呆れたような、穏やかだけどそこに冷たさのある、可もなく不可もない——だけどそれが私にとっては絶妙にカッコイイ顔をして、言う。


「軽いお昼ご飯作ったけど、食べる? ハッシュポテトとか、春雨スープとか」


 聞いた瞬間、私の脳内には『柚の作ったご飯』と『ハッシュポテト』のワードのみが浮かび、全ての思考が流される。

 そしてすぐに反応した。


「ハッシュポテト!? たべるぅっ!」


 ハッシュポテトは私の大好物である。



 *




 春雨スープを啜ると、柚胡椒の入ったワンタンが破け、口の中で春雨に絡み、ツンとした香りとともにその味を変える。

 我ながらうまい。

 自画自賛して、僕は水の入ったコップを傾ける。


 そうやってひとしきり軽くお腹を満たした後、僕は頬杖をついて彩香さんを見つめることにした。


「はむっ、んっ! おいしぃ……幸せ……」


 幸せそうにハッシュポテトにかぶりつき、その手でそのままスープを飲み、幸福さを顔全体に出している彩香さんを眺める。


 先ほどキスした記憶は、もう頭の奥底に隠しておいた。

 ずっと見ていると目が合い、彩香さんは不思議そうに首を傾げて僕に問うた。


「どうしたの? 私のことそんなに見つめちゃって。私に見惚れたの?」

「い、いや。ただ……幸せそうに食べる人だなって」

「なにそれ、訳わかんない」

「だよね。僕も訳わかんないもん。でも、幸せそうに食事する人って可愛いくない? 好きだよ、そういう人」

「なっ――! な、何を!?」

「ん? 別に何も――……っ! い、今のなし! ただ無意識に言っちゃっただけだから!」

「っ……この無自覚野郎! 柚なんてきら――す、好きじゃない!」


 彩香さんは顔を真っ赤にして、言いかけた言葉を飲み込んで変えつつ、ハッシュポテトにかじりつく。

 僕も、本心を漏らしてしまったガバガバな口を手で塞ぎ、これ以上に何も言わないようにする。


「――……まぁ、好きだけど……」

「っ――!」


 なのに、なのに彩香さんは、僕にそれを許さない。

 僕に、彩香さんに告白したいと思わせる。想いを伝えたい、この堪えきれない衝動を僕に与える。


 赤い顔で、ぷいっと僕から顔を逸らして、小さな声で彼女は呟く。その意味はなんだろうか。人としてなのか、それとも恋愛としてなのか。

 はたから考えれば、彩香さんの赤い顔を見れば、その意味は後者なんだって思うだろう。でも、もし仮に前者だったら。そう思ってしまうと、僕は彩香さんに告白できない。


 だけど伝えたい。そう思った僕は、口をもごもごさせながらも、言う。


「それは、僕も、好きだし……」

「っ――」


 ぷしゅぅ、という効果音と共に俯された彩香さんの顔はよく見えなかったが、真っ赤であることはその耳を見れば分かった。

 そして、僕の顔も真っ赤であることは、何も見なくたってわかっていた。


 そうすること数秒、彩香さんがわざとらしく話を変えようとしたので、僕もそれに乗る。


「ゆ、柚がさ、ここまで料理できるって知らなかった」

「そう? 出来合いのものを混ぜて味整えただけだよ?」

「それがすごいの。昭和の流れで世の男どもの大半は料理しないから。お料理男子ってモテるらしいよ?」


 前言撤回、彩香さんは話題をそらそうとしているのではない。

 僕を恥ずかしがらせようとしているのだ。そしてこの会話は、そこに繋げるための伏線であり、前準備なのだ。

 彩香さんと長いこといるので、僕は彩香さんの策略が手に取るように理解できた。


 ——だからといって、特別に何かすることはない。

 いつも通りでいいのだ。彩香さんにからかわれて、僕は恥ずかしくなって。時々僕が言い返すと彩香さんも恥ずかしがって。

 そんな毎日で構わない。むしろ、そんな毎日を過ごしたい。


 少々、車輪を線路からずれた安全志向へと向けすぎていたせいかもしれない。

 先ほどの僕は、さらけ出してしまった感情を取り繕おうとする彩香さんを見て呆れていたというのに、だ。


 僕はつぶやいていた。


「彩香さん、ずっと一緒にいよう」


 ただし、車輪がずれると、電車は脱線するものだ。

 彩香さんは、あんぐりとした顔でハッシュポテトを箸の隙間から落とした。

 そこで、自分の発言に気づく。


「っ——ご、ごめん!」

「——……また無意識なら、そろそろ怒る」


 彩香さんは赤い顔をしつつも、怒った顔で僕を一睨みし、そう言った。そして今度こそ、先ほど僕が予期したような小悪魔な表情になって、彩香さんは続けた。


「柚、結婚してあげよっか? にししっ」

「なっ——い、いきなり何言い出すわけ!? ぼ、僕らまだ高校生だしっ、こ、交際もしてないし!」

「ずっと一緒にいたいって言い出したのは柚だけど? あ、柚、ほっぺに春雨ついてる」

「え?」

「とってあげるね」


 彩香さんはそういって机に身を乗り出し、僕の顔に手を近づけて——、顔を近づけた。

 僕の頬に春雨なんかついてなんかいなかったのだ。


「ちゅっ」


 キスの音とともに、額に柔らかい感触を感じた。

 僕が硬直すると、彩香さんはニマニマ笑いながら体を椅子に戻し、頬杖をついて行儀悪くハッシュポテトに齧りついて言う。


「ベッドでのお返し。悔しかったら額じゃなくて唇にしたら?」


 言いつつ、彩香さんはにししと、いつもの小悪魔な感じで笑った。

 どうやら、僕のいたずら心は、いつの間にか読まれていたようだった。


 そのことに気がついて、発狂したのはその数秒後のことである。



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