第7話 世間知らずの美少女は、僕の匂いに包まれたい




「柚、久しぶり」

「ひっ……久しぶり」


 5月5日、10時半、ハチ公。

 広すぎるハチ公に戸惑い、ハチ公前の定義を調べかけたその寸前、彩香さんの声が聞こえた。振り返ると、私服姿の彩香さん。

 少しびっくりして声を詰まらせてしまう。


 彩香さんの声が突然聞こえたからじゃない。彩香さんがまぶしすぎたせいだ。

 純白のワンピースに、素足のまま履くちょっと底の高いサンダル。肩にかかっているポーチ。そして何より……小さな赤いリボンのついた麦わら帽子。


 当然、彩香さんは目立っていた。周りの視線は彩香さん一人に集中していた。


「似合ってない?」


 彩香さんは麦わら帽子のつばを少し持ち上げてまぶしそうに目を眇め、僕を見上げてそう言った。その瞳は、少し不安げに揺れていた。

 確かに『似合って』なかった。沢山の人が行き交う、少なくとも『潔癖』ではない渋谷には、清廉すぎた。


「……渋谷には合ってないかな? 彩香さんには似合ってるけど……」

「そっか。じゃあいい」


 頬を赤くして、もじもじとして目を逸らした彩香さんは、目を逸らしたままニコッと笑った。天使の笑みだった。



 *



「ふぅ……ちょっと寒いかも」

「そうだね、この季節からクーラー入ってるっぽいね」


 カフェ。

 どこに行くかも決めてなかったので、スクランブル交差点を眺めることのできるカフェで一旦おしゃべりをすることにした。

 彩香さんは少し寒そうに、自分の二の腕を抱えている。

 これって……僕のジャンパーを貸してあげるべきなのかな?でも僕の臭いがしみこんだジャンパーとかイヤだろうしなぁ……。

 いやでも、一度は聞くべきか。


「ジャンパー貸そうか?」

「柚は寒くない?」

「目の前で寒がられる方が困る」

「じゃあ、貸して」

「こんなんでよければぜんぜんいいけど……」


 すんなりと手を伸ばしてきた彩香さんに驚きつつ、ジャンパーを渡す。

 僕の臭いとか気にしないんだ。なんか、嬉しいかも。

 そう考えてると、彩香さんはワンピースの上からジャンパーを羽織り、僕を睨んだ。


「変態」

「え? 酷い。貸してあげたのに」

「匂いとか気にしないから。柚は何がいい?」


 言いつつ、彩香さんが立ち上がる。

 このカフェは自分で飲み物を買いに行くタイプのカフェだ。飲み物は何がいいか、ということだろう。


「いや、僕が買いに行くよ」

「いい。柚はここにいて」

「……じゃあ、カフェオレのSでお願いします」


 私が買いに行くっ! いや俺がっ! ……みたいな言い合いは不毛なので、一度断られたら相手に任せることにしている。

 決して、僕が不精なわけじゃ無い。


「柚のそういうサッパリしてるところ、嫌いじゃない」


 ココロを読んだのか、彩香さんはそう言って、彩香さんはツカツカと音を立てながら早足にレジの方へ向かっていった。


 嫌いじゃない——ってことは好き? いや、そういう不精な考えって普通は嫌われるよ、っていう忠告?

 彩香さんの言葉の意味を考えつつ、カフェオレの値段ぴったりのお金を揃えておき、窓の外を眺める。

 交差点を行き交う人の中には、会社員、大学生、カップル……その一人一人に違いがあった。歩き方だったり表情だったり――


「柚、ドコ見てるの」

「ん? あぁ、お帰り、早かったね。ありがと。これ、カフェオレの代金」

「レジが空いてた。ドコ見てるの?」


 彩香さんに揃えておいたお金を滑らせつつ、カフェオレをもらう。お金を受け取った彩香さんは再び同じことを繰り返した。

 少し、彩香さんは拗ねた顔をしていた。


「拗ねてない」

「ごめん。えと……交差点を行き交う人々? を見てた?」

「疑問形?」

「うん。ぼーっとしてたからあんまり覚えてない」


 すると、彩香さんはむくれた顔をした。どうしてそんな顔をするのか分からない。何かに怒っているのだろうか。


 ……はっ、もしかして僕が彩香さん以外のことを考えていたからっ!? いやいや、そんなわけ――

 カフェオレに刺したストローを吸いつつ、彩香さんを窺う。彩香さんはむくれた顔のまま、交差点を行き交う人々を睨んでいた。

 そんなわけ――ありそうだなこれは。


「柚、私といるのに他のこと考えられるとあんまり嬉しくない。柚には私がいるから」

「うん、ごめん……」

「重いかもだけど女の子ってみんなそういう生き物だから」

「気をつけます」


 頭を下げて謝り、もう一度ストローを吸う。

 でもさ、嫉妬するってことは僕のことが……。

 思いかけた瞬間、彩香さんは無表情になって言った。


「ただの交友関係でもそういうのはあるから」


 ずずっとブラックコーヒーを啜った彩香さんは、カップを置いて顔を顰める。

 口をもにょもにょと動かしているのを見ると、どうやらコーヒーが熱かったようだ。もしくは、粋がってブラックコーヒーを飲んでみたけど思っていた以上に苦かった、か。

 そう思った瞬間に、彩香さんの眉が跳ねた。あ、後者だ。図星なんだ。


「図星じゃない」

「ブラックコーヒーを大人の飲み物って思ってる限りブラックコーヒーは美味しく飲めないよ?」

「うるさい」


 いいつつ、僕と目を合わせて睨んできた。心臓が痛みで縮こまる。この痛みも久しぶりで、少し懐かしい気もしてしまったけれど——決して僕はマゾヒストではない。


 彩香さんは立ち上がってどこかに行く。数十秒後、帰ってきた彩香さんの手には大量のガムシロップとミルクがあった。

 彩香さんはそれらを次々にコーヒーにぶち込み、かき混ぜる。

 ブラックコーヒーはその跡形を残していなかった。


「ん、ちょうどいい」


 彩香さんはコーヒーを啜って、そう言ってうなずく。

 それはもうブラックコーヒーじゃなくて……。ココロの中で呟きかけて、やめた。

 彩香さんに睨まれたからだ。


 交差点に目を逸らして、ストローを吸う……と、彩香さんが机に頬杖を突いて、身を乗り出してきた。

 ふわり、と彩香さんの甘い匂いが漂ってきて、ドキリとする。


「お土産話、聞かせて」

「え? あ、うん。えっと……」


 そしてそれから、彩香さんはニコニコと笑って楽しそうに、僕のさほど面白くもない土産話を聞いてくれた。

 時々、羽織ってるジャンパーに口を当ててクスクスと笑いながら……。








【おまけ】会計待ちの彩香。


 すんすん……はぁ……。久しぶりの柚の匂い……すんすん……しあわせ……。

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