二十七、黒い世界
真っ白い部屋に、私は居た。何色もそこには存在しない、そこが部屋なのかどうかすらわからない。でも確かにわかる事は、白い空間に存在する私は無色透明の箱の中にいる。つまり私にとっては出られない真っ白な部屋なのだ。
だけど、二つだけ違う色がそこには存在していた。何もない真っ白な空間に透明な箱にいる私の色と。箱の外で遠くを見上げるようにただ立ち尽くしている黒い色。
それは、黒くて長い髪をしていた。綺麗な容姿、だけどその表情は凍えたように冷たく、寂しさすら感じることのできない表情は見ているだけで涙が溢れてきそう。
一糸纏わぬ姿で立ち尽くす黒い色は、何かを発する事はしない。ただ、そこにいるだけだ。私の声が届くこともない、私の事を見ることもない。
知っている。本当は私もあちらにいたのだから。黒い色はこの透明な箱から、私の事を見ていたのだから。でも、私は彼女を見ようとしなかったし存在すら無かった事にしていた。
だから、今度は逆になっただけ、仕方のない事だった。そう思って諦めていたけれど、黒い色はだんだんと白い空間も真っ黒に染め始めた。じわじわとインクが染み込んでいくように黒い世界に覆われていく。その度に私の胸には針で刺されるような痛みが走った。だんだん強くなる痛みに私は叫び、黒い色を拒絶しようともがいた。だけど、痛みも塗り潰されていく世界は、変わる事はなく。
今まで動くこともなかった彼女がこちらを振り向いた。底の見えないどこまでも続く階段のような瞳で私を見つめる黒い彼女はゆっくりと私のもとへ歩いてくる。その足が白い空間を歩いていくごとに黒い染みが滲み、私の胸に痛みが走る。そして彼女は私の前に立つと深淵のような瞳で私を覗き込みながら言った。
『あなたは私じゃない』
「知ってる、あなただって私じゃない」
『私はルゥシフィル』
「私もルゥシフィルだよ」
『あなたは違う!!』
感情の片鱗すら見えなかった黒い彼女の瞳が開かれ、あたりは一気に漆黒の世界へと成り果てた。私はまるで心臓を鷲掴みにされたような鋭い痛みと共にその場へ崩れ落ちる。
「わ、た、しは」
『あなたは消えて。ここは私の場所、私の世界、私そのもの』
彼女は黒い世界へ溶けていくように消えてなくなった。私は黒い世界へと沈んでいく、まるで底無しの砂に埋もれていくようだ。冷たい、暗い、怖い、寂しい。
気が付けば、もう私の身体は殆ど残っていない。私はこのまま黒になるのだ、ただ、真っ黒に。
『ルゥ、シィ……すまなかった。私たちは、お前に酷い運命をっ』
懐かしい声が聞こえた。遠い意識の中に埋れていた懐かしい、暖かい声。真っ黒な世界に一瞬だけ光ったそれは、もう消えて無くなりそうな私をそっと照らしてくれる。
『この、指輪を……』
暖かい。私の心を包んでくれるこの声は、誰だろう。私の名前を優しく読んでくれるこの声は。
『ルゥシィ。母さんは、お前を愛していた』
黒い砂に呑み込まれていた私の身体が元に戻っていく。気が付けばあたりは白と黒が混ざり、反発を繰り返す混沌とした空間へと変わり。私の頬にはどこからともなく大粒の滴が絶えず流れ続けている。
「お、とうさん、おかあさん」
絞り出すように呟いた言葉が、その世界に真っ白な空間を作り出し、黒い染みを消し去りながら次第に広がっていく。私の世界に流れ込んこんで来る様々な色、悲しみ、苦しみ、痛み、そして愛。
『ルゥシィ? やっと会えたね?』
白と黒、混沌とした世界に佇んでいた私の前に、忽然と姿を表したのは桜色の髪をふわりとなびかせる幼い少女であった。
「あなたは……私?」
『うん、そうだよ。過去のあなたでもあり、今の私でもあるの』
「すごく混乱してきた、つまり小さい頃の本当の私なのね?」
『そう。私は失われたあなたの一部。おじさんがね? “ルゥシフィル”に呑み込まれないようにあなたの中で私を守ってくれてたの』
「お父さんが……」
『うん、おじさんとおばさん、私に名前をくれて、沢山の愛情をくれた私の大切な人達だよ』
「そっか、そうだよね? お父さんとお母さんは私のこと」
幼い少女は屈託のない笑みを浮かべ、私の心を満たすように私の欲しかった言葉をすんなりと与えてくれた。
『あまり時間がないの、あなたに私の全部をあげる。私たちは一つに戻る』
「私たちが一つに……」
そう言って幼い少女は私の手を握る、小さくて優しい手は私の手と重なり、それは次第に私の中へと入っていく、光の粒子が私の中にあいた穴を埋めるように流れ込んで来る。お父さんとお母さんの優しい笑顔、エリシアとの約束、彼との思い出、優しくて暖かい記憶と感情が私を深く満たしていく。
————私の本当の力は『
私は眩く光る衣を纏い、その思いを力強く胸に刻みながら私の世界と拮抗するように存在している黒い世界へ足を踏み入れた。
黒い世界は私を激しく拒絶する。再び私を染め上げようと黒い染みが私の全身を覆っていく。
「私はもう、染まらない。あなたも、寂しかったんだよね? ただ、居場所が欲しかっただけなんだよね」
黒い世界は、私から静かに剥がれ落ち、まるで一人で泣いている子供のように小さくなっていく。
やがて黒い世界は、彼女だけを残して消えていった。
『やめて、こないで。消えたくない、私は消えたく————』
「あなたは私。私の中にいるもう一人の“私”だよ」
幼く震える黒い彼女を私は抱きしめ、優しく包んだ。
『私は、あなたじゃないのよ? 私は誰でもない、私は存在しない』
「あなたはルゥシフィル、私と同じルゥシフィル。同じお父さんとお母さんに愛されたルゥシィだよ?」
怯えるように俯いていた彼女は、ゆっくりと顔を上げ。私はその心を包み込むように穏やかな光を両手に宿しながら彼女を抱きしめる。
『私も、ここにいていいの?』
「うん、私たちは一つだよ。大丈夫、もう大丈夫だから」
“ルゥシフィル”はその言葉を抱くように、安らかな表情を浮かべると宵闇を思わせる光の粒子となって私の中へと消えていった。
瞬間——世界は空間ごと砕けたガラスのように崩壊した。そして急速に、私は“私”を取り戻していく。
————私は『
□■□■□
「お、とうさん」
目を開いた。瞬間、視界に映り込むのは私に覆いかぶさたったまま硬直した父の横顔。
わかっていた、心の奥に入ってきた父の言葉。“ルゥシフィル”を通して入ってくる感情が全てを物語っている。胸が痛い、張り裂けそうなほど。今すぐに泣きたい!! 泣き叫びたい!! でも今は。
「アレックスくん、ごめんね!! 手加減できそうにない」
父の背中から剣を抜き、私を見据える無機質な瞳。正直、彼の顔を見た時怒りで我を忘れそうになった。でも、その思いをぶつけるのは彼ではない。
「応えて、私の力!! 《
この手に宿るのは一振りの美しい刀。宵闇色の刃文、ひとひらの花弁を刀身にしたかのような儚げで、しかし真に宿る力強さを感じさせるその刀は、今の私……この思いの全て。
「はぁあああ!!」
「————」
鋭い気迫を込めた掛け声と共に、自由を奪われた彼へと思い切り刀を振るう。正面から受け止めた彼の剣を流れるような動きで、弧を描くように剣筋を真下へと逸らし、一気に斬りあげる。彼の剣が宙を舞い、一瞬の虚をついて刀身を反転させ、がら空きになった彼の胴体へ横一閃の峰打ち。
「————!?」
彼の鎧が砕け、大きく身体を折り曲げると苦悶の表情を浮かべながら前のめりに崩れ落ち、真上から降ってきた彼の剣が私の足元へと突き刺さる。
「ほほぅ」
「ルゥシィ? 元に、戻ったのか?」
見慣れない女性と共にいた“彼”の姿を一瞬視界に入れ、安堵し、そんな彼に応えるように小さく微笑みを返すと、私は地を蹴り高く跳躍しながら、こちらを見下すように睥睨していた男へと刃を振りかざす。
「あなただけは、絶対に許さない!!」
「ふん、ガラクタの分際で」
父の仇、全ての元凶。私は熱く煮えたぎる想いを刃へと乗せ、なぜか余裕を崩さない男へと刀を振り下ろす————刹那。
「——っ」
「……」
私の前に突如現れ、いともたやすく全力の一撃を自らの剣で受け流したのは全身を重々しい鎧で覆った人物で。
「貴様のようなガラクタが、この国最強の勇者にかなう筈もない。そこで伸びている出来損ない共々処分しろ。全く、私に恥を欠かせるな」
同時に地へと降り立った私と鎧の男は、無言のまま互いを見据える。そして互いに地を蹴ろうとしたその時。
「待て!! 其奴は余が相手をする」
「ぇ、あなたは?」
外見的な年齢、背格好は私とさほど変わりがないように思える女性は長いブロンドの髪を優雅に揺らしながら私の元へと毅然とした態度で歩み寄り。しかし、彼女の纏う雰囲気は底が知れない、その圧はロゼさんのそれを遥かに上回っていた。
彼女は、戸惑いに目を見開く私を一頻り眺めると。
「気に入った。其方、余に仕えよ」
「は? はい?」
「なんだその間抜けづらは、余の為にその力を振るえと申しておるのだ」
「急にそんな事言われても、あなたは誰で……仕えるって一体」
「ルゥシィ、そい——その人はこの国の王女だ」
「おうじょ? おうじょ……王女!?」
彼がなぜか彼を担ぐ兵隊のような人に軽く足を踏まれながら、教えてくれた言葉を聞き、反復し、理解した瞬間思わず私は叫び声をあげ。
「騒がしいやつだな、余はシャーロット。其方はルゥシフィルだな」
「は、はい!! と、と、とんだご無礼を失礼いたしましたでございます!!」
「——? よい、歳も大して変わらぬのだ、自然に振舞え」
「ぁ、うん、わかった。よろしくねシャーロットちゃん」
「順応がちと早すぎはしないか? ちゃんはよせ、王女殿下と呼べ」
「ぇ、だって可愛いし、王女ってイメージとだいぶ違うんだもん」
「ふん、面白い娘だ……そ、それで余は本当に可愛いのか?」
「うん、びっくりするぐらい可愛い」
「な、なんと。そんなにか」
急速に表情を赤らめる彼女を見て。なんとなく、王女シャーロットという人間性を垣間見た私は、ちょろい……ではなく、悪い人間ではないと確信し、ホッと胸を撫で下ろす。
彼女が王女であって、私達に好意的であるということは、この苦境さえ乗り越えれば僅かにでも明るい未来が望めるかもしれない。
そんな期待に胸を膨らませ私は、微動だにせずこちらを見据えたままの鎧の人へと向き直る。
「ご歓談はお済みでしょうか? 汚れた姫よ。それでは、永遠の別れを、冥府で国王にもよろしくお伝えください」
「貴様……」
下卑た笑みを浮かべながこちらを見下げる男。シャーロットは先程とは別人のように雰囲気を一変させその男を睨みつける。
そして、鎧の男が剣を構え私達の方へと一歩を踏み出し。シャーロットはどこか悲しげな色を宿した瞳で鎧の人物を見つめ。
「久しいな、ルーク・エバンス」
「ぇ——エバンス? それってまさか」
「兄さん、なのか?」
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