十六、美女と獣
その姿は漆黒の毛並みに鋭い牙を唸らせる獣。大きな犬と表現するには些か凶悪に過ぎる様相の獣は吠える事も甲高い遠吠えをあげることもなく、ただ悠然と視線の先にいる私たちをその禍々しく揺らめく赤眼で見据え、佇んでいた。
「ま、魔物って滅びたんじゃないの?! 確かに大きいけど、犬じゃないの?」
「そうね、その認識は半分正解。魔物は滅びた。正確には人間の脅威となるような魔物はね? でもあれは、別名“地獄の番犬”その昔、人間を恐怖の底に陥れた凶悪な魔物よ。一匹で、数百の軍隊を壊滅させたと言われているわ」
眼下に佇む漆黒の獣を怯えた様子で眺めながら問いかけたエリシアへ、目を細め真剣に応えるロゼさん。その表情にいつものような余裕は微塵も感じられない。
「地獄のばんけん……でもそんな魔物がなんでこの国に」
「噂では、このエリシャ王国が裏で危険な実験を行なっていて、その一つに魔物の復活を目論んでいるって。半信半疑だったけど……ほんと、なんて任務なのかしら」
頭を抱えながらロゼさんは呟く、本当に厄介な事態なのだろう。この国がそんな事をやっていると言う事実は衝撃であったが、自分たちの状況を考えると、ふに落ちるのも早かった。
それよりも、ただ動くことなくこちらを見上げている漆黒の獣がそこまでの脅威には思えず。彼も同じ気持ちであったのか、ロゼさんへ問い掛けた。
「……魔物と言っても、ただのデカい犬とどう違うんだ? こちらには魔装銃もある、対して問題にはならないんじゃないか?」
その通りだ、と思った。幼い日の私達がどうなったかは分からない。けれど、生きて出られたのだ。銃を所持している今の私達がそこまで苦戦するとは思えない。
しかし、ロゼさんの表情は険しいまま、眼下の獣を見据えている。
「警備が薄い理由はそのデカい犬が、今の私たちにとって大問題だからょ? 魔物と動物。違いは、あの独特な赤い目と、決定的なのは『スキル』を使えるということかしら?」
「スキル?! 犬がスキル使うの?!」
「ちょっと静かに、ね? だから、魔物なのよ」
エリシアは驚きに声をあげ、それを片手で制すると珍しく余裕のない笑顔で応えたロゼさん。
「一匹でも厄介そうなのに、それが二匹ねぇ……流石のおねぇさんも守りながら戦うのは難しいかな?」
「私達にできることは——」
「ないわね」
自分たちのわがままで、協力してもらっているのにロゼさんだけ危険なめに合わせるわけには。そう思い、切り出した私の言葉を、乾いたトーンでにべもなく遮った彼女は軽くため息を漏らし。
「心配しなくても、乗り掛かった船よ? こんな所で降りないわ。それに
「ロゼさん」
「とにかく、おねぇさんがワンちゃん達を片付けるまでここで待っていて?」
ロゼさんはその瞳に柔らかな光を宿しながら私達を見つめ告げた。
「もし、おねぇさんが負けそうになったり、想定外の事態が起きたら。わかるわね?」
「……拠点に戻って非常用の緊急連絡を使用して国を脱出する。でも私っ」
言いかけた私の頭をそっと撫でた彼女は片目を瞑り、ロープを下へとたらす。
「あなた達がおねぇさんの心配なんて、十年早いわょ」
そう言い残して、颯爽と漆黒の獣が待ち構える地上へ降り立つ。
「……」
「レインくん?」
どこか彼は、思いつめたようにその表情を暗くしていた。
□■□■□
並び立つ漆黒の獣はロゼさんが地上に降り立つのを見届けると、二匹同時にゆっくりと左右からその足を進め、だんだんと間合いを詰めて行く。
「ぁら? 歓迎してくれているの? 残念だけど、おねぇさん……犬が嫌いなの」
一言、彼女が告げると同時に二匹の獣はその場から、一瞬で彼女の元へと肉薄。左右から前足をしならせて頭上へと強力な一撃を放った。
「ロゼさんっ!!」
思わず両手で口元を覆いその姿を探す。舞い上がった
「ざぁんねん、外れょ? ワンちゃん達の“スピード“
漆黒の獣達は背後に佇み赤髪を揺らす妖艶な美女に、警戒を強めすぐさま向き直る。
「私のスキルは『
「「————!!」」
漆黒の獣、ヘル・ハウンドは初めて唸り声を上げ、ただならぬ雰囲気を纏う彼女を睨み付ける。
ロゼさんはいつの間にか刃先の湾曲した“グルカナイフ”を両の手に持っていた。そして、二匹の獣が牙を剥いて地を蹴ろうとした瞬間。その姿がブレる。
ヘル・ハウンドは彼女の姿を見失い。動揺をあらわに、二匹の獣は鼻と耳を立て彼女の気配を探っている。突如、赤い閃光が走り二匹の獣の間を縫うように駆け巡る。
「「————っガァ!!!?」」
二匹のヘル・ハウンドは四肢と胴体から大量の血飛沫を撒き散らしその巨体が地に沈んだ。
「あら? 噂のわりに大したことなかったわね? ちょっと残念だわ」
ロゼさんは倒れ伏した二匹の獣を一頻り見据えると、動かないことを確認。
私達の方を見上げて合図を送る——。
「ロゼさん!? 危ない!!」
弾かれたように彼女は背後を振り返る。身の丈ほどある巨大な炎の塊がその全身を呑み込んだ。
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