教室

 あなたって優しいのね。初めてできた彼女がそう僕に伝えてくれたことをふと思い出した。確か付き合い始めてすぐのことだったと思う。他人から皮肉ではなく素直にそんなことを言われたのは初めてのことだった。なんと返事したら良いのかわからず、ありがとうとだけ返事をしたことを覚えている。

 教室には20人程度の人が講義を受けている。黒板の前では指し棒を持った教授が教壇を右へ左へ移動しながら呪文のような数式について解説している。最前列では金髪の学生が教授の話すことに相づちを打ちながら都度ノートにメモを取っている。僕のひとつ前の席では机の下でスマホを弄ってる学生がおり、その隣では頬杖をつきながら寝ている学生がいる。

 一昨日彼女と北海道へ旅行に行く予定だったが、彼女の母親が突然他界したらしくキャンセルとなった。彼女からはLINEで一言だけごめん、母親が死んだから行けなくなったと連絡が来たきりである。僕はこんな時どんな言葉を返せば良いかわからず、了解、気をつけてとよく分からない返事をしてしまった。

 教授はチョークで何か文字を書いている。金髪の学生はそれを懸命にメモしている。教室にはチョークと黒板が擦れる音とひとつ前の寝ている学生の寝息だけが響いている。

 本当に優しい人間は母親を失ったばかりの彼女に対してなんと声をかけるのだろうか。さもわかったかのように、相手の悲しみに共感するのだろうか。それとも、辛い時は何でも相談に乗るよと対して力にもなれないクセにカッコつけるべきなのだろうか。悩んだ挙げ句何もまだ連絡できていない。

 金髪の学生が何か質問をしている。その声に驚いたかのように前の席の学生は一瞬目を開ける。スマホを弄っている学生は画面だけを見続けている。その他の大半の学生は興味のなさそうな顔をしながらただ相づちを打っている。

 スマホが振動する。画面を見ると彼女からのメッセージが届いていた。そこには、ドタキャンしたことに対する謝罪や落ち着いたらまた旅行に行こうといったこと、自分は元気であると伝えようとしている文章が書かれていた。自分のことより僕のことを気遣った言葉ばかりが並んでいた。きっと彼女は弱音なんか吐かずに他人の前では明るく振る舞うのだろう。どうしたら彼女の力になれるのだろうか。情けない僕はそんなことばかり考えてしまう。答えはわからないが、彼女に頼って貰えるように頑張ろうと思う。まだ曖昧だけど何事にも真面目に、一生懸命に取り組もうと思う。

 教室にはただ一人の学生の声が響いている。教授は学生の質問に対して話しやすいように相づちを続けている。

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