第9話 未来はないけど今はある僕たち
突如思い出した、この感覚。大切な何かを見つけたのにそれが何かわからなくて、手が届かなくて、それが何かを考えれば考えるほどその大事なものが遠くに行ってしまう奇妙な渦巻き。そんな時に目が覚めた。
起きたあとも疲れが残ってた。夢の内容が頭の中を反芻する。何を意味するかなんて、目覚めた今となれば明白だった。
言葉にしなくても伝わってしまう思いがあると美茶が、言葉にしたことで、彼女は僕への気持ちを暗に伝えてきた。僕は、その気持ちに思わず夜中の2時という時間も気にせず電話をして、会えるかもしれないと期待してしまった。でも、家族のいる美茶に、そんな時間に会えるはずが無いのもわかっていたつもりだったのに。
そんな気持ちが、夢にまで影響したのかと、今まで一人の人としか付き合ったことのない自分の恋愛に対する余裕の無さが露呈して情けなくなった。美茶よりも、僕の会いたい気持ちの方が大きすぎる。
少し落ち着かないといけないと思っていたところで、
「今からテイクアウト持って行くから30分後に。」
と先輩から連絡があった。時間を確認するともうすぐ正午だった。先輩はいつも突然やってくる。男同士だとそんなのおかまいなし。僕のモヤモヤしていた頭の中は、今、目の前に積まれている、やらなくてはならない勉強が視界に飛び込んできた瞬間に一気にクリアになった。
買ってきてもらった、焼き鳥丼を掻き込むと、勉強に取りかかった。隣の部屋で、障子ごしにオンライン会議をしている先輩のたまに聞こえる笑い声や、真剣なやりとりなどが、彼とプロジェクトメンバーの風通しの良さや、プロジェクトの成功が既に保証されているような感じさえ覚えた。
勉強をし出すと集中しすぎることがある僕は、たまに先輩から声をかけられ、少し休みそして、また勉強するという繰り返しだった。外はもう真っ暗になっている。そろそろ、夕飯何にするか考るかと先輩が言った時すでに午後7時だった。その横で、僕の電話が鳴り出した。美茶からだった。
先輩の目の前で、僕が美茶と話をするのは無理だ。明らかに不自然な会話になるのは目に見えてた僕は思わずスマホの通話終了のボタンを押していた。先輩は特に気にしていないようだった。そしてすぐに、メッセージを送った。
「ごめん、今、出れない。」
「もうすぐ、坂の下につくよ。」
「え?まさか美茶さん外?一人?」
「そうだよ、出てこれる?」
頭の中がクエスチョンマークで一杯だった。家族で夕飯を囲んでる時間帯になぜ、美茶が一人で外にいるのかが。蓼科の夜は、真っ暗でドライブに行くようなことは普通ならしない。
「わかった。今から行く。」
と美茶に返信した僕は、先輩に今日までの振りこみを忘れていたと適当な用事をつくり、車で家をあとにした。美茶が車なのはわかっていたが、歩いて行けば、先輩につっこまれるのは必至だったからだ。
美茶にだいたいの家の場所は伝えてあったから、彼女は少し先で車を停めて待っていた。僕は今、乗ったばかりの自分の車をすぐそばの、道路脇に停めて美茶の車に駆け寄った。
「コンビニ行くから付き合って、乗って」と、僕が乗るのをわかっていたかのように、助手席の扉を開けた。僕はティーシャツに短パンに革靴というあまりにも急いでて猛烈に普段着そして、ちぐはぐな組み合わせで色気も何もない中学生みたいな格好だ。乗り込むときに急に気恥ずかしさを覚えた。
「颯馬、その組み合わせ!そんなに急いで慌てて来てくれたんだね。すごい嬉しいよ。」
その言葉に僕は、思わずギアに手を乗せ発進させようとした美茶の左手を包み込んだ。彼女は、驚かなかった。その包み込まれた手の温かさを確認するかのように反対の手で僕の頬に触れた。
昨日、僕がしっかりしないとと言った言葉が、こんなに簡単に崩れ去るとは思ってもいなかった。気づいたときには、僕は美茶の唇の温かさに触れていた。そして、両手で彼女を抱きしめていた。二人の間に言葉はいらなかった。
車を走り出させた美茶の左手に触れながら僕は聞いた。
「コンビニ行く用事って何」
「煙草買いに行くの。」
「美茶さん、吸うの?」
「いや、夫の煙草だよ。煙草吸う男の人と付き合ったこと無くて、吸う人と結婚したらそれが、すごくストレスになってて、でも今日だけは、煙草が切れてて、ビール飲んでて運転できないって状況に感謝しちゃった。」
「あの時間に着信あったから、旦那さんになんか気づかれたかなって心配した。」
「夫は、私にお金を貸してくれた大学の後輩って想ってるから何にも心配しないで。」
そう言いながら彼女はまっすぐ前を見ていた。その眼差しにはお互いの大切にしているものを崩さない姿勢、そして僕を心配させない母性すら感じた。
僕はあえて、一番近くではないコンビニを提案した。彼女はすんなり受け入れた。急いで帰らないと家族が心配するからと言うと思っていた僕は、また美茶の余裕にかえって自分の余裕の無さが恥ずかしくなり、その気持ちを隠すかのように信号待ちの彼女を引き寄せ唇を重ねた。国道の信号は、僕たちに気を使うかのように、十分すぎるほどの時間を与えてくれた。
コンビニに着くと、彼女が言った。
「颯馬もおいでよ。誰かいたら、別荘のお隣さんちでみんなでごはん食べてるって言えばいいよ。」
「僕も行くよ。」
降りて、コンビニに入るまでの、ほんの一瞬僕たちは手を繋いだ。いつもしているかのような自然な流れだった。
中に入ると美茶は、ビール一本を手に取り、レジに向かって煙草を買った。コンビニの中で無駄な動きは一切無かった。
支払いを終えると、また僕たちは当たり前のように手を繋ぎ車に乗り込んだ。僕はその手を離したくなかった、もう帰り道だけ、あと数分でこの時間が終わってしまうとわかっていたから。
家のそばまで来ると、さっき停めた車が見えた。
「先輩に紹介したいから来ない?変な意味じゃなくて、美茶さん車好きだし、蓼科で友達なんてなかなかできないから、先輩も会いたがってたし。」
「そうだね、この前はお互い挙動不審な動きしてたから挨拶しておこっと。そしたら、帰るね。」
目の前の道を曲がってすぐ家についた。さっきまで停まっていた先輩の車が無くなっている。突然やってきて突然帰る先輩らしいなと思ったのも束の間、僕はこの状況に気まずさを覚え、思わず言った。
「先輩帰っちゃったみたいだけど、良かったらうち見ていく?」
「時間無いからじゃ、さっと見せてもらおうかな。隣近所の人の別荘しか見たことないから新鮮。」
僕は玄関がわりに使っている居間の窓を開けて、彼女を中に案内した。脱ぎ捨てた僕のサンダルを、一連の流れの中で揃えてる、その立ち居振舞いをそっと見守った。その横に飲みかけのコーヒーがいくつも置いてある。片付けておけば良かったなと後悔していると、
「懐かしいなあ、この男の独り暮らし、学生時代に付き合ってた彼の部屋思い出す。もう20年も前か、歳の差感じるわ。」
その瞬間、僕は会ったことの無い美茶の昔の男になぜか嫉妬し、手の届くところに立っていた美茶を自分のものにしたくて抱き寄せた。
「この瞬間が幸せならいいって、美茶さん言ってたよね。僕もそれでいい。」
「うん」
と小さく頷くと、美茶はしばらくなにも言わず僕の温もりの中に頭を埋めていた。そして、ゆっくりと僕の背中に回していた手をほどき、
「そろそろ帰るね」
と言って、こちらを見た美茶の目にうっすらと光るものが見えた。最後にもう一度キスをした。喜びと迷いの感情に揺れている彼女の気持ちが唇を通して痛いほど感じ取れた。先が無いから僕たちは今の幸せを大切にしている。その事実だけでいいと僕は思った。
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