第54話

 12月20日の朝。


 ようやく目が覚めてきた。


 私は枕元にある小さな目覚まし時計を見つめ、ぎょっとした。


「…もう6時!!」


 私はがばっと飛び起きた。

 慌てて頭の中が動き出す。




 昨日、私は『未来志向』を17時に退勤し、高野さんは忙しくて帰宅が遅くなるので、燈子さんと2人だけで夕食を摂った。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


「…………」


「…………」


「何アンタ、しけたツラして幽霊みたいに。ご飯がマズくなるじゃないか」


 燈子さんはほうれん草のおひたしをつまみながら、私をぎろっと睨みつけた。


「橙子さん、私…」


「…」


「大切な何かを、見失ったみたいなんです…」


「…………」


「…司君の事が好き過ぎるせいなのか…」


 燈子さんに一喝されそうなのを分かっていながら、私は想いをぶちまけずにはいられなかった。


「言葉にしてしまいそうで。…ぞっとする様な、嫉妬心まで」


「……………」


「真っ暗でドロドロした、醜くて嫌な感情まで…」


「……………」


「胡桃と司君が一緒にいる所を見ただけで。あの二人を疑う事そのものが馬鹿げているって、頭ではちゃんと分かっているんですけど」


 想像していた怒号などは飛んで来ず、橙子さんは私の言葉に答えてくれた。


「嫉妬やら何やらを言葉にする事は、いけない事なのかい」


「………言葉には、魂があると思うから」


「…」


「嫌な言葉を口にしてしまったら、それを元に戻す事はもう二度と出来ないから……」


 悩んでしまう。とても。


「…そりゃそうだろうけど。それもアンタの言葉の魂では無いのかい?」


「……………それは…」


 どうなんだろう。こんな汚い感情、押し殺して眠らせておくわけにはいかないの?


「…見失った何かというのは、どうしても取り戻したい物なのかい?」


「…はい。絶対に」


「言葉にしてもしなくても、結果は同じかも知れないけど。取り戻したいなら、自分の答えを見つけるんだ」



「……」



「アンタが今まで必死に守ってきたものは、一体何だったんだい?」



 …………守ってきたもの?



「思い出してご覧」


「…はい」


 燈子さんは豆腐の味噌汁をすすってから、こう言った。


「少し落ち着いて、ご飯でも食べな」


「……はい」


 …ありがとうございます、燈子さん。


※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※※


 司君も胡桃も、夜遅くまで家に帰って来なかった。リビングでずっと二人を待っていた私は、一旦部屋に戻ってしまった。…それが良く無かったらしい。


 あまりにも疲れていたせいか、着替えもせずにベッドで朝まで眠ってしまったのだ!


 …早く準備を済ませて『未来志向』に向かわなきゃ!!


 バスルームに直行してシャワーを浴びてから行く方が断然早い。今の時間なら絶対に誰も使っていないはずだし。


 私は大慌てで、洗面所のドアを開けた。



「…………!!!」



 上半身裸、

 下だけ制服ズボン姿の司君と、

 目と目が合った。



 ……………………!!!!!



 …み、見ちゃった…!!!!!



「…………おはよ、沙織さん」



 肩にかけた白いバスタオルで、彼は濡れた髪を拭きながら挨拶をした。



「…………ごめん!!!」



 …どうして鍵かけないのどうして鍵かけないのどうして鍵かけないの……?!!!!!



 ピシャッ!!!!!



 洗面所のドアを思いっきり閉めた。



 ヤバい…目に焼き付いてしまった。



 …………鼻血出そう。



 ボードを見ると『12月20日:午前6時:白井』ってちゃんと書いてある!


 あああ、私のバカバカバカ!!


「…沙織さん、もう入っても大丈夫だよ」

 中から声がする。


 私は赤くなりながら洗面所のドアを開いた。


「…開けちゃってごめん、司君。…私、慌てて」


 制服のワイシャツを羽織った司君が、

「僕も鍵かけるの忘れててごめん。…いつドア開けても全然いいよ。沙織さんなら」


 照れてはいたが、気にはしていない様子で、


「朝は会えないと思ってたから、すごく嬉しい」

こう言いながら、笑ってくれている。


 私は恥ずかしすぎてどんな顔をしていいか分からず、くるっと後ろを向いてから彼に聞いた。

「司君、今日、…夜でいいから時間をくれる?」


「うん。何かあった?」


 何をどこまで話せばいいか、自分でも全く分からないまま。


「話をしたいの。司君と」


「…………わかった」


 彼は突然、後ろから私を抱きしめた。



「…………!!」



 …柑橘系の、あの香りが体中に広がる。



「…仕事終わる時間、5時でしょう?それに合わせて『未来志向』に迎えに行くよ。今日は早く図書局の仕事、終わりそうだから」


「うん、ありがとう。…また夜にね」

 私は一度だけぎゅっと、首に回された彼の手を握った。


 彼は名残惜しそうに腕を離し、洗面所から出ようとドアに手をかけ、こちらにぱっと振り向いた。


「…後で僕も覗いていい?」

「鍵かけるから、絶対無理!」



 …『僕も』って。


 …私は覗いたわけじゃない!!



 彼を外にぎゅっと押し出してから洗面所のドアを閉め、しっかりと鍵をかけた。















 『未来志向』にどうにか7時半に着くと、私は開店準備を始めた。


 土居君は、8時ピッタリに裏口のインターホンを鳴らした。私はドアを開けて、彼を中へと招き入れた。


「おはよう、土居君」


「おはようございます」


 私はカフェの電気を点け、エアコンのスイッチを入れた。

「…今日も寒いね」


 紺と白のツートンカラーのマフラーを外しながら店内に入った土居君は、小さな壇上にあるグランドピアノの脇に自分の鞄を置いた。


「…はい」


 私は深呼吸をして土居君の正面に立ち、彼の瞳を真っ直ぐ見ながらこう言った。



「ごめんなさい、土居君」



「…………」



「私、付き合っている人がいるの」



「…………!」



「だから、土居君とは付き合えない」



 土居君の、いつも変わらない表情に、

 一瞬、暗い影が落ちた。


 真っ直ぐで黒い前髪から覗く、

 切れ長の一重瞼の奥にある

 灰色がかった大きな瞳が、


 言葉に出来ない感情を必死に

 押し殺している様に見える。



「…………そうですか。わかりました」



「…………」



 伝える事が出来た。ちゃんと。


 

 …何というか、つらい。



 決してこれ以上こちらからは、話しかけてはいけない気がする。




「…同じ学校の人ですか?有沢さんが付き合っている人は」


「え?…うん」


 …質問された…?!


「大学までエスカレーター式ですよね、七曜学園高校も。…同じ学校の大学生?」


「…ううん、一つ年下」


「…俺のいっこ上か…悔しい…」


「…………」


 土居君は私から目を逸らすと、ピアノに手を添えて

「…振られたからといって、演奏がボロボロになったりは絶対にしません」


 不敵な雰囲気の笑顔を見せた。


「そこはプライドがありますし。安心して下さい」






「…ありがとう」



 …私はこれだけしか、気持ちを言葉にする事が出来なかった。


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