第55話

 その日の夕方5時。


 仕事が終わって裏口から外に出ると、そこで待っていたのは司君では無くて、ツートンカラーのマフラーを巻いた土居君だった。


 あれ?


 …司君、まだ来ていないのかな…?


「土居君、仕事は3時までだったよね?何か忘れ物でもあった?」


「いえ。有沢さんを待っていました」


「え?…私?」


「聴いて欲しいんです。僕が作った曲を」


 …………曲?


「前に1度、『未来志向』に客として来たんです。ピアノが生演奏じゃ無かった時」


 来てくれた事が、あったんだ。


「接客してくれた有沢さんの笑顔を見た瞬間」



 土居君は少しだけ、表情が明るくなった。



「…音楽が湧いて来たんです」



「……………」



 音楽…。



「曲なんて頭に浮かんだの俺、初めてで」


 彼は思い出しながら、嬉しそうに


「もう一度会って有沢さんと話をしたくて、この店でアルバイトを始めたんです」


 私に、打ち明けてくれた。


「…………」


「今から少し時間を貰えませんか?高野さんにOK貰えたので、店のピアノで弾きたいんす」


「…えっと、聴きたいけど土居君、今日は…」


「もう俺、今朝振られてるんで」


「あの…」


「曲を聴いてもらえれば、それで満足です。ご安心下さい」


「ごめんね土居君…今日は、彼がもう迎えに…」



「僕も聴きたい」



 …………!!!



 建物の間から、制服の上に紺色のコートを羽織った司君が現れた。

「こんばんは。…お待たせ、沙織さん」



 …………司君?!


 …………いつからいたの?!!



 土居君は驚いた様子だったが落ち着きを取り戻し、司君に頭を下げて挨拶をした。


「…はじめまして、土居湊音です」


「土居君、この人が私の彼なの」


 私が慌てて紹介すると、司君は土居君の目の前で私の肩をそっと引き寄せた。その表情は静かだが、何の感情も読み取れない。


「白井司です。…土居君は時々ピアノ演奏している人だよね?『未来志向』で」


「…はい」


「すごく上手だから感動してるよ。いつも」


 二人の目と目が合い、何秒か経った。


「ありがとうございます。…もしお時間があれば白井さんも聴いて下さい。今から」


「うん、是非。楽しみに聞かせてもらうよ。…行こ、沙織さん」


 司君は私の肩を抱いたまま、店の正面入り口の方へと歩き出した。土居君は裏口から再び『未来志向』の中へと入って行く。

 

「ノーマークだった…。まさかあのピアノ奏者に、沙織さんが告白されるとはね」


 彼は何を考えているか全く分からない表情で、独り言の様に呟いた。


 ………妙な事になってしまった。


「これからは学校以外にも、良く気を配らないと…」


 こういう時の彼は陶器の人形みたいな無表情になってしまうため、少し怖い。


「油断も隙もありはしないね、本当に」


 …言葉も返しづらい!!


 カランカラン、と鈴の音が鳴り響く。


 『未来志向』の正面入り口から、二人で中へと入る。店はとても混雑してほぼ満席になっており、空席に見える場所も予約で一杯の状態だった。


「いらっしゃいませ…あれ?」

 高野さんは少し意外そうな顔をした。先ほど退勤したばかりの私が、司君と一緒に客として戻って来たからかも知れない。


「なんだ君達か」


「高野さん、空いている席ありますか?」


 司君が聞くと、高野さんは

「カウンターで良ければ2つ空いてるよ」

と答えてくれた。


 カウンターは、ピアノが一番良く聞こえる席だ。


「はい。では、カウンターで」


 司君と私は、カウンター席に横並びに座り、ホットコーヒーを二つ注文した。





 土居君が再び、壇上に上がる。





 彼は鍵盤に指を当てた。







 

 曲の冒頭部が鳴り響く。






 キラキラと輝いた清らかな天女が、天上から下界へと微笑みながら、滑り降りて来るみたい。






 …………美しい音色の響きに、鳥肌が立つ。






 大きくて丸い、綺麗な月と

 光り輝く星々が空に瞬く、


 澄み渡る空気の中の、

 鮮やかな夜の風景が、



 心の中に、ぱっと広がった。




 その音色は、土居君が昨日まで店で弾いていた軽快で楽しいクリスマス・ジャズピアノのメロディーとは、全く違っていた。




 私の心の奥底にある、

 隠された想いまで全部、

 見透かされているみたい。



 自信が持てない、揺れ続ける、

 激しくて、甘い恋心。



 司君の輝きに、

 惹かれれば惹かれるほど



 深く深くなっていく、

 巨大迷路の、闇の奥。



 切なくて、苦しくて、

 たまらなくてもう、いっその事、



 どこかへと

 逃げ出してしまいたい。



 愛される事は

 信じられない嬉しさで。



 決して、失いたく無いはずなのに。

 この幸せな時間全てを。



 些細な何かが触れただけで、

 鋭利な刃物で刺された様に、



「…………沙織さん」



 敏感な心は血を吹き出して、

 涙が溢れて、止まらなくなる。




「…………泣いてるの…?」





 曲が終わり、土居君は鍵盤から指を離した。






 店の客のほぼ全員が、雷に打たれた様に一瞬静かになった後、彼のピアノ演奏に心を打たれ、割れんばかりの拍手を贈った。









 …………本当に、素敵だった。








 …………鋭すぎて痛いくらい。







 土居君は鞄に楽譜を再び仕舞い、壇上から下りて私の前へと歩み寄った。



 私は手が壊れそうになるくらい拍手をし、涙が止まらなくなりながら土居君に


「素晴らしかった………今の曲」

と伝えた。


「俺には、これしか出来ませんから」


 私の泣いた顔を見て土居君は、照れた様に微笑した。



「受け取ってもらえましたか?有沢さん」




「うん。ありがとう、土居君」



 私を、好きになってくれて。





「俺、もう帰ります」


 土居君は満足そうにこう言ってから、私の隣に座る司君に向かって頭を下げた。


「お邪魔してすみませんでした」


 ずっとぼんやりしていた様子だった司君は、土居君をしばらくじっと見つめ、彼に向かってこう言った。


「…………土居君」


「…………はい」


「…………今の曲、沙織さんだよね」



「…………そうです」



「…………凄いね。びっくりした」



「…嬉しいです。そう言ってもらえると」




 土居君が私達に再び挨拶して帰ってしまうと、司君は私の方に向き直った。




「沙織さん、話があるんでしょう?今聞きたい」





「…………うん」





 私は大きく、深呼吸した。





「昨日の昼、胡桃と司君が『ランタン』に入って行くのが見えたの。ここから」






「…………!」





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