第53話
12月19日、土曜日。
今年からクリスマスケーキの予約販売が始まったため、引き渡しに係にも新アルバイトを募集したカフェ『未来志向』は、過去最高の忙しさが予想された。
仕入れにトラブルがあったという連絡を受け、業者への連絡と対応に時間を取られて店に来れない高野さんに代わって、私は朝7時半に店の鍵を開け、カウンターの中で1人、9時半に開店するための下準備を始めている。
探せば探すほど、仕事ってあるものだな…。
店の裏口のドアブザーが鳴り響いた。…誰だろう、こんなに朝早く。
「おはようございます、有沢さん」
急いで駆け寄り、裏口のドアを開けると新人アルバイトの男の子が立っていた。
「あ、おはようございます。えっと、…土居君」
12月初めからピアノ生演奏のバイトで採用された、東国芸術大付属高校の一年生。切れ長で大きな一重瞼が印象的な、
「…来るの早いね?」
すらっとしていて華奢な体つきに見える土居君だが、さすがは東国芸術大付属の演奏科。ダイナミックで力強いジャズピアノの腕前は、誰もが舌を巻くほどの超一流。
「はい。早めに来ました」
『未来志向』のピアノ生演奏は最近募集して始めたばかりなのに、よくこんなプロ顔負けの腕前を持つアルバイトが来てくれたなぁ。
「仕事は9時半からなのに、…まだ8時だよ?」
黒いジャケットにグレーのシャツ姿の土居君は、分かっているといった様子で頷いた。
「有沢さんがもう店に来ているかも、と思って」
「…………?」
………私?
「練習してもいいでしょうか?店のピアノに早く慣れておきたいから」
突然思いついて、早めに来てしまったのだろうか。…まだ店が開いてなかったら、どうするつもりだったのだろう。
「…大丈夫だよ。入って」
店の外に土居君を立たせておくわけにもいかず、私は彼を店内に招き入れた。カフェの奥へ先に入り、電気を点けてエアコンの温度を上げておく。
「…寒くて指が動かないよね、これじゃ」
ピアノの練習するならもっと、室内を暖かくしなくちゃ。
「…広いから暖かくなるまではちょっと、時間がかかるかも」
店内は冷え切っており、息まで白い。指が冷たくなったら演奏どころでは無くなるかも知れない。
「平気です」
彼は一段高くなったスペースに設置された黒いグランドピアノの蓋を開け、鞄から楽譜を取り出し、こう続けた。
「…早く来て良かった」
準備が終わると私は再び元の仕事に戻るため、ピアノの椅子に座った土居君に軽く挨拶をした。
「じゃ、練習頑張ってね」
「あの!!」
「…ん?どうしたの?」
「……いえ」
元々、感情を表に出さない男の子なのかも知れない。少し灰色がかった瞳からは、何を考えているのかが伝わって来ない。
「色々ありがとうございます」
真面目な土居君は、私に頭を下げて律義にお礼をしてくれている。
「どういたしまして。演奏、楽しみにしてるね!」
私は心から彼にそう言った。
午後3時までの間中、超一流のピアノ演奏を聞けるなんて!仕事をしながらとはいえ、なんと贅沢な時間なんだろう。
店内の掃除が終わり、コーヒーの準備に取り掛かると、華やかなジャズピアノの音楽が耳の奥に響いてきた。
『As Time Goes By』だ!
大好き!この曲!!
心が躍る。
音色が、浮かび上がらせてくれる。
心の中に眠る、隠された想いを。
私は流麗に響くメロディーにうっとりしながら、朝の下準備を終わらせた。
高野さんが来るまでは特にする事が無くなった私は、土居君が弾いているピアノの側に近付いた。
演奏を終えたばかりの彼はピアノから手を離し、姿勢を正して私の方を真っ直ぐ見た。
私は心を込めて、彼の素晴らしい演奏に拍手を贈った。
「今の曲、私、大好きなの!ありがとう土居君。聞かせて貰えて嬉しい!」
「…有沢さん」
「…………何?」
「俺と付き合っていただけませんか?」
「…………」
「好きです」
…………!!!!
彼は椅子から立ち上がって私のすぐ近くまで歩み寄り、躊躇せず直球で聞こうとした。
「付き合っている人、いますか?」
「ゴメン!有沢さん!!遅くなって…」
高野さんが息を切らせながら、突然店内に現れた。
「……!」
「……!」
ずっと走って来た様で、暑そうにコートを脱ぎながら。
「…高野さん……お疲れ様です!」
高野さんは一瞬にして場の空気を読んだらしく、
「……1番悪いタイミングで来ちゃった?…ゴメン」
と気まずそうに、私達に謝った。
その直後、ケーキの受け渡しをする新人アルバイト達がガヤガヤと出勤してきたため、土居君にきちんと返事をする事が出来ないまま、開店準備に戻る事になってしまった。
午後12時のランチタイム。
目の回る忙しさ。
「これ10番」
「はい!」
トレイに入ったホットコーヒーを2つ受け取って10番テーブルに運ぼうとした私に、高野さんはそっと声をかけてくれた。
「白井君には言わないから、安心してね」
…!
今朝の土居君の雰囲気で、内容を察してくれたのかな、高野さん。
「はい。…お願いします」
司君が今朝の件を知ったら、どうなってしまうんだろう。
「なかなかやるね、ピアノの土居君」
高野さんは興味深そうに、壇上のグランドピアノで演奏をしている土居君を見た。演奏を褒めているのか、今朝の告白の件について言っているのかは、よく分からない。
私はそれに答えず、高野さんに
「明日も、今日と同じ時間に出勤していいですか?」
と聞いてみた。
「いいよ。俺は別の仕事して、今日と同じ時間に来るから」
高野さんは頷き、何も聞かずにこう言った。
「開店準備頼むね。鍵、よろしく」
「はい」
10番テーブルにホットコーヒーを運んでからふと窓の外を見ると、驚きの光景が目に飛び込んできた。
胡桃と司君が体をくっつけて一緒に並んで歩いており、二人で何か深刻そうに話している。
二人は『未来志向』から大通りを挟んだ真向かいにある和風カフェ『ランタン』へと入って行った。
図書局の仕事が一日中あったはずの司君と、演劇部の練習で一日中謀殺されているはずの胡桃が、校内のどこかで待ち合わせして、2人だけで『ランタン』までランチを取りに出て来ている…?
『ランタン』へと二人が入る直前、司君は優しい仕草で胡桃の肩を抱いて、自分の方へと引き寄せていた。
…どうして肩を…………?
心臓が、鈍くて嫌な音を立てた。
…何かの間違いに違いない。
…だって胡桃と司君だ。もしかしたら、何かがあったのかも知れない。
でも、どうしよう。
こんな気持ちになるなんて。
『Winter Wonderland』
軽快で心躍る楽しいリズムで刻まれる土居君のピアノ演奏が、カフェ『未来志向』の隅々まで響き渡る。
優しさと感謝の気持ちを、伝えてくれる。
美しく輝いたメロディーが、それと合わせ鏡になった、どす黒くて真っ暗な今の心の奥深い部分に、鋭利な刃物の様に突き刺さる。
カフェ『未来志向』の忙しさは午後3時近くなるとようやく一段落し、少しだけだが私はやっと休憩が取れた。
土居君の仕事は午後3時まで。
ピアノの蓋を閉めて楽譜を鞄の中に仕舞う彼に、私は声をかけた。
「土居君、お疲れ様でした」
「お疲れ様です」
「…明日の朝、今日と同じくらいの時間に来てもらえないかな?」
「…はい」
「明日、ちゃんと返事させてね」
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