第12話

 恐る恐る、玄関のドアを開けると。


「おはようございます、沙織さん!」


 肌ざわりの良さそうな濃紺のセーターの上に、淡いグレーのウールジャケットを羽織った司君が目の前に、立っていた。


 お天気がいい朝に、キラッキラの司君。


 彼はホワイトの小さなキャリーケースを片手で曳いている。



「…おはよう、…司君…」



 …あまりにも眩しくて、一瞬眩暈が…。



 驚き過ぎて、言葉が続かない。


 彼は、ちょっと照れた様に口を開いた。


「…びっくりしました?沙織さん。僕、今日からここに入居するんです!」



 ……!!!



 ……心臓がまた、妙なリズムを刻みだす。


 やっぱり司君が、新しい入居者?!!



「…びっくりした…!」



 …としか、言いようがない。


 びっくりを通り越して、卒倒しそう。




「『多分明日も会える』って、昨日言ったでしょう?」


「…そうだったね…」


 あの言葉の意味は、こういう事だったんだ!


「でも、本当に偶然なんですよ?昨日沙織さんをここに送って来るまで、同じシェアハウスに住む事になるなんて、僕も知らなかったから」



「…そうなの?!」



 彼は悪戯を思いついた子供の様な表情で頷いた。



「驚いた沙織さんの顔を、見てみたくて」



 昨日の夜は内緒にしていました。

 という確信犯的笑顔。




 こんな偶然が、あるのだろうか?!




 彼は、私の手を握った。



 ……また手を!!!





「一緒のシェアハウスに住めるって昨日分かった時、すごく嬉しかったです!」



「……」



 握られた手の温かさが、私の現実と非現実をごちゃまぜにしていく。



 状況について行けず、言葉が全く出て来ない。昨日もそんな気分に陥った事を、デジャブの様に思い出してしまう。



「沙織さんは、嬉しくないですか?…僕が一緒のシェアハウスに住むの」



 ……。



 彼は少し、心配そうな様子で私を見つめている。


 あまりにも私が戸惑っているから、不安にさせてしまったのかも知れない。



 私は、あわてて首を横に振った。



 …それは。



 …嬉しいか、嬉しくないかと聞かれれば、

 


「…ううん、嬉しい。上がって、司君」




 …本当は、嬉しい。




 彼は少し、ホッとした様な笑顔を見せた。

「良かった!これからよろしくお願いします、沙織さん」


「…こちらこそ、よろしくね」


 私は徐々に現実を受け入れ、先に家に上がってスリッパを出し、司君を家の中へ招いた。


「ここに10時に来るように言われていたんです、深森燈子さんに。…ちょっと早く着いちゃったけど、大丈夫かな?」


 彼は廊下を歩きながらあちこちに視線を向け、燈子さんを探した。


「実はね、燈子さん今日、いないの。急に予定を思い出しちゃったんだって」


「……そうなんですか」


 リビングのドアを開ける。


「ごめんね、司君。私、良かったら家の中とか近所を案内するから…」


 彼はそれには答えず、感嘆の声を上げた。



「…わあ!」



 リビングの中央にある飾り付け途中だった大きなクリスマスツリーを、彼は眺めている。



「あ、これ?今ね、飾り付けしていたの。まだ未完成だけど」


 彼は目を見開き、その笑顔は輝きを増した。


「…僕も、やってみたいです!」


「…やった事無いの?ツリーの飾り付け」


「はい!」


 …家にツリーが無かったのだろうか。


「じゃあ、後で手伝ってもらってもいい?」


「ぜひ!」


 …司君、一体どんな幼少期を送っていたんだろう。全然想像がつかない。


 家の中を観察しながら彼は、楽しそうにはしゃいでいる。まるで、誰かが住んでいる家に入った事が一度も無い様な感動の仕方だ。


 リビングからキッチンへ移動した彼は、キッチンカウンターの端に置いてある白いボードを手に取った。


「…これは何ですか?」


「お風呂用のボード。入浴したい希望時間を、その日の朝に書いておくの」


 ボードには『9時:有沢』『10時:増田』『11時:高野』と書いてある。


「お風呂は1人1時間まで。入りたい時間帯は書いた人順で早い者勝ち。洗濯機用のボードもあるよ」


 私はキッチンから見えている洗面所の、壁面に掛かった緑色の洗濯機用ボードを指差した。


 彼は目線をあちこち動かし、また手元にある白いボードをじっと見つめ出した。


「…へえ!面白い」


「乾燥機付きの洗濯機は2台あるから、あまり誰かと使いたい時間が重なって困る事は無いかも」


 私は彼をバスルームへと案内した。


 中はかなり広々した造りになっており、燈子さんの趣味で壁面には小さなテレビがついている。


「お風呂に入りながら、テレビ見てもいいんですか?」


「時間を守ればね」


「やった!」

 司君は小さな子供の様に目をキラキラさせ、先程よりさらにはしゃぎながら、バスルームと洗面所を交互に眺めた。


「洗面台も2つあるから、好きな時に使って大丈夫。トイレも2階と1階に1つずつあるから、大体1つは空いてる事が多いかな」


「はい!」


 彼はとっても嬉しそうで、昨日とはまた違った表情を見せている。


 昨日の夜、燈子さんは司君の事をホストや詐欺師呼ばわりしていたが、今の彼を観察していると、まるで天然小学生男子だ。


 彼の素顔に、ますます興味が湧いてしまう。


「1階にはオーナーの燈子さんと、高野さんっていう男の人が住んでいるの。燈子さんは『燈子さん用ドア』から、隣の自宅とこっちを行き来していて…」


「燈子さんの家、隣にあるんですか?」


「うん。燈子さんが今住んでいる家。でも燈子さん、夜寝る時に自宅に帰るだけの事が多いかも。普段はこのリビングにいて、食事は私たちと一緒なの。食事当番に燈子さんも入っているのよ」


「…食事当番…!」


「うん。司君、料理は出来る?」


「…一度も、やった事無いです」


 彼は不安そうに台所を見つめた。


「どうしよう…」


「じゃ、慣れるまで一緒にやろうか?」


 私が彼に提案すると、


「ありがとうございます!...助かります」

彼は、ほっとした表情で私を見つめた。


「私も腕はまだまだだけど。基本的な包丁の使い方は、教えてあげられると思う」


 彼は台所に手をついて、想像する様に目を瞑った。


「…楽しみです。沙織さんと料理するの」



 

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