第13話

 学校の寮とは違い、シェアハウスで生活するなら料理が出来ることは必須条件。だけど包丁を使った事の無い人がいきなり一人で料理をするのは、とても危険だ。


 怪我をしたら大変だし、最初は本人だって不安かも知れない。


「慣れたら料理は楽しくなって来るから、応援するね!」


 基本的なルールを守り、料理さえ出来る様になってしまえば、この生活は自由で楽しく、とても快適だ。


「…ありがとうございます!」


「…ううん」


 無邪気な笑顔が、可愛すぎる…。



「あ、…猫!」

 彼は急に、楽しそうに声を弾ませた。


 今の今まで姿を隠していたクールが、彼を警戒しながらも、リビングの隅からちょこちょことすぐ側まで寄ってきた。


「わあ!可愛い!…アメリカンショートヘアーですね?」


「うん。クールっていう男の子なの。司君、猫平気?」


「大好きです。…元いた家は、母が猫アレルギーだったから飼えなくて。だから一緒に住めるなんて嬉しい!」


 彼はクールにそっと笑いかけながら、手を差し出した。


「おいで!」


 すると驚いたことに、クールはすぐに彼の手のひらに自分の頭を滑り込ませ、大人しく撫でられるままになっている。


「…珍しい!クールはなかなか初対面の人に自分から近づかないのに」


「へえ!そうなんだ?よろしくね、クール」


 クールはゴロゴロと、喉を鳴らして気持ち良さそうにじっとしている。


 やっぱり、クールにはわかるんだよね?

 動物の本能と、野生の直観で。


 彼が、すごく優しい人なんだって事。



 私はふと、思い出した。

「…そういえば、『霽月の輝く庭』には、猫が沢山出て来るね」


 あ…。


 言ってしまってから、少しだけ後悔。


 彼は母親であり『霽月の輝く庭』の作者である神原先生と何かあったから、ここに引っ越して来たのだ。


 作品の話をしてしまったら、何か嫌な事を思い出させてしまうかも知れないのに…。


「はい。母は猫が大好きなので」


 彼は別に気にした様子も無く、返事をしてくれている。


「…猫アレルギーなのに?」


「沙織さん、猫アレルギーと猫嫌いは全く違うんですよ?」


「そうなの…?知らなかった…」


 知らなかった事がちょっと、恥ずかしい。


「触ると涙や鼻水が出て顔が腫れ上がり、体調が悪いときは喘息発作を起こすので、猫に近づく事が出来なかったんです」


「…それは大変だね」


 クールは撫でられる事に飽きたのか、落ちていたクリスマス飾りのシルバーの玉で遊び始めた。


「多分、一緒に住めない欲求不満を、母は小説の中で解消していたんでしょうね」



 彼はしゃがんでクールを見つめながら、表情を曇らせた。



「…どんなに大好きでも、現実では決して、近づく事が出来ないから」



 話の途中から、彼は別な事を言っている様な気がした。



「ごめんね、聞かれたくない事だった…?聞いちゃいけない事を私が無意識に聞いていたら、答えたくないって、はっきり言ってね」


 それを聞くと驚いて彼は、首を横に振った。


「…沙織さんは、本当に…」


 彼は突然私の右手を、両手で包み込んだ。



「……!」



「優しいんですね」



 花開く様な柔らかい、彼の笑顔。



 その眩しい微笑を、思わず私はじっくりと、心の奥に焼き付ける。


 全身に廻り出した熱い血が、信じられなくらい大きな音で、高鳴る動悸を生み出していく。



「2階も見たいです」



 あ、2階、…そう、2階ね。



「…うん。じゃあ、部屋に、案内するね」


 自分の言葉がロボットの様になり、情けないほどぎくしゃくしてしまう。









 螺旋状になっている階段の金色の手すりに片方の手でつかまりながら、もう片方の手は彼と繋いだまま一緒に、階段を登る。


 …緊張のあまり、うっかり足を滑らせて、落ちてしまいそうになる。


「司君、そのケース以外の荷物は?」


「今日の夕方に、宅配便で送られてきます。ほとんど衣類と本ばかりですけど」


「何か必要な物があったら、後で買いに行く?外を案内するよ、私」


「はい。是非!」


 あ~もう!ずっと、どきどきしっぱなし!!

 今日一日、心臓が持つのかな?私。



 司君のために準備された2階の一番奥の部屋に着くと、彼は一番最初に窓を開け、外の景色を楽しそうに見つめた。


「…いい眺め」


 出窓になっている南西向きの窓からは郵便ポストやバス停の他に、クリスマスデコレーションが施された、華やかで楽しい雰囲気で彩られた住宅の数々が見える。


 シェアハウス深森も例外ではなく、燈子さんに命令された高野さんが、1週間前にクリスマス用の飾り付けを完成させていた。


 西側には少しだけ海が見えており、風に乗って潮の香りが漂ってくる。


 彼は室内に目を向けた。


 備え付けのベッドと机だけの、がらんとした寂しい部屋。


「なんだか、親近感が湧きます。この部屋」


 彼は窓を離れ、自分のベッドに腰を下ろした。


「…親近感?」



 私はその言葉に、思わず首を傾げてしまった。



「僕も今、空っぽだから。似ているなあって」




「…」




 空っぽ。





「…司君…?」



 また、

 返す言葉が出て来なくなってしまう。



「…色々、不安はありますけど」



 まるで綺麗な、万華鏡みたいな男の子。


 くるくる、くるくる、表情を変える。



「今は不思議と怖くないです。これからは、沙織さんと一緒にいられるから」


 その表情はまるで、本当の自分を見つけて欲しくないみたいに見える。


「それだけで、嬉しい」


 彼は私の目の奥にある何かを、探し始めた。


「…そう?私も嬉しいよ。司君と一緒にいられて」



 今の彼に、今の私がかけられる言葉は、これしか思いつかない。



「沙織さん…」



 彼はほんの一瞬、私の唇を見つめた。



 …まただ。



 …昨日も、確か…。




 彼は私に右手を差し出し、



「…?」



 誓う様に、こう言った。




「…僕、あなたを大切にします」




 私がその手に自分の左手を乗せると、

 彼は私の薬指にそっと、

 触れる様なキスを落とした。





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