第11話
町に着くと、手近な建物に車を止め、トイレットペーパといくつかの食料をトラックに積んだ。この店のトイレットペーパが無くなったら、僕は何で尻を拭けば良いのだろう。トイレットペーパは植えたら生えてくるだろうか。
あれから三年経つ。少しずつ、恐怖の記憶は薄れて生きていることを実感している。それは、あんまり天気が良良いから、図書館に寄ってみようなどと思い立ってしまうほどだ。
図書館は、あの日と変わらず天窓から光が漏れ、温かく机を照らしていた。見上げてみるが、妖精の歌声は聞こえない。
本の背を撫でるように歩く。積もった埃の上に跡が残った。埃が舞って、くしゃみが出た。鼻の奥がツンと痛かった。
本に夢中になってしまっていたからかもしれない。気付いたときには、図書館の奥の方まで来てしまっていた。
入り口で物音がした。
瞬間、体が硬直する。あの日の悪夢が蘇る。全身の血が、凍り付いたかのように体温を奪って行く。関節が思うとおりに曲がらない。逃げなくては、という意思に反して体が他人のもののように振る舞う。
足音がした。
声を上げたい。今すぐに泣き出して、取り乱して、頭を抱えてうずくまりたい。今すぐ、目の前の世界が消え去ってほしい。
そう願ってみても、足音は少しずつこちらへ近づいてくる。
ヒタ、ヒタ・・・・・・足音が止まる。
そっと目を開いた。ぼやけた視界の先に、見覚えのあるシルエットが見えた。まるで、人間のような。
「人・・・・・・」
人だった。
「あの・・・・・・」
声をかけようと思って、ふと祖父の言葉を思い出した。
「魔物は人の姿に化けている」
よく見てみると、少し様子がおかしかった。肌が真っ黒で、消し炭のようだ。日焼けしたというレベルでは無い。まるでそこだけ、光も通さない闇が浮かんでいるようだ。それが顔だと認識できたのは、顔の左半分の肌がめくれてうろこのようになっているからだった。人間の顔のような輪郭が確認できた。それに、目玉が一つ、人間で言う右目に当たる部分に嵌まっていた。つまり、左目がなかった。右半分はなんともなっておらず、ただ黒い。右目の虹彩が二つあり、どちらも別の方向を見ていた。
「あの・・・・・・言葉わかりますか」
語りかけても、相手は何も言葉を発しなかった。彼は僕を見つけると、震える右腕で僕を指さした。
「わあ!」
僕は叫んで逃げ出した。やつは魔物が化けた人間に違いない。僕も牛や豚のように喰われてしまう。
積まれた本に足を取られて転んだ。ほこりが舞った。鼻に詰まってくしゃみが止まらなくなった。
魔物が背後から走り寄ってくる。先ほどまでゆっくり歩いていたのに、やはり僕を喰らう気だ。
僕は走った。よだれを垂らしながら、鼻水を垂らしながら、涙を流しながら走った。合間にくしゃみ。棚にぶつかって肩が外れそうになったけれど、テーブルにぶつかって腰骨が折れるかと思ったけれど、それでも走った。
図書館の出口が見えてくる。もうすぐだ。出たらすぐに車に乗って逃げよう。
僕が図書館の扉に手をかけるよりも早く、扉が開いた。何かが入ってこようとする。僕は慌てて方向転換し、二階へ上がる階段を上がった。背後から言葉のような声が聞こえた。先ほどの魔物は言葉を話さなかったが、新しく来た魔物は言葉を操り人を惑わすようだ。たしか、ギリシャ神話にそういう魔物がいたはずだ。
二階は半分が読書スペースで、もう半分が倉庫だった。僕は倉庫に隠れた。
呼びかけるような唸り声がする。ギリシャ神話によると、人の声をまねて興味を持った人間を湖に引きずり込む魔物がいた。きっとその類いに違いない。
僕はぎゅっと耳を塞いだ。
ゆっくりと数を数える。
一・・・・・・二・・・・・・三・・・・・・、
耳から手を離す。耳を澄ましてみても、物音はしなかった。自分の耳が聞こえなくなったのでは無いかと思って、頬を叩いてみたが、間違いなく聞こえた。
そっと扉を開けてみる。無音。
階段をゆっくり降りてみるが、何の気配も感じない。出入り口の扉に手をかけた。心臓が飛び出そうだ。思い切って開けた。
外はとても穏やかで、不自然な存在は何も無かった。
僕はホッと胸をなで下ろした。しかし、次の瞬間僕は恐ろしいことに気付いた。不自然な存在どころか、僕が乗ってきた車がなくなっていた。
慌てて外に飛び出す。見渡してみても、やはり車はなかった。
魔物だ、魔物が車を盗んでいったのだ。家畜や野菜だけに飽き足らず、車も盗むなんて。
僕は途方に暮れた。どうやって家に帰ったら良いのかということよりも、貴重なトイレットペーパごと持って行かれてしまったことに絶望していた。
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