第9話


 町は荒廃しているが、それでも旧時代のものがたくさんあって、僕は好きだった。帽子屋は何故か動物が根城にしていない数少ない建物の一つだった。独特の香りがするが、そのせいだろうか。帽子屋というのも僕が勝手につけた店の名前で、元々は雑貨店のようなものだったのだろう。使い道の無いようなガラクタや、おもちゃがたくさんあった。その中でも、その店のカウンタに並べられている帽子が特に気に入っていたので、帽子屋と呼んでいた。店の名前は英語で書かれていて、僕にはそれが読めなかった。

 ビロォドの帽子に鼻を埋めて、匂いを嗅いだ。この匂いが好きだった。

 いつものように、帽子を選んで鏡の前でファッションショウをしていると、背後で音がした。

「おじいちゃん?」

 振り返るが、返事が無い。音の主はごちゃごちゃ並んだ店の奥の方からしたように聞こえた。

「おじいちゃんでしょう?」

 もう一度呼びかける。

 返事の代わりに、再び物音がした。先程よりも音が近い。

 僕はかぶっていた帽子を握り、ゆっくり出口の方へにじり寄った。動悸がした。熊ゴリラのことを思い出す。

 ガシャ、と音がした。僕が手をついた棚から、缶詰が落ちた音だった。見ると、おもちゃの缶詰と書いてあった。食べ物でも無いのに缶詰に入れる必要性がわからなかった。

 音が断続的になった。こちらへ近付いてくる。

「ねえ、おじいちゃん。悪ふざけはよしてよ」

 なおも音の主は答えない。

 ゆっくり、ゆっくりと出口へ後ずさる。正体不明な相手に背を向けられるほど、僕は勇気が無い。

 まだ出口には大分ある、というところで店の隙間から相手の姿が見えた。

 気付いていた。この臭い、あのときの獣臭さと同じである。だが、気付かないフリをしていた。認めるのが怖かったから。この店は絶対に安全だと信じていたかった。

 こちらを見ていたのは、動物図鑑には載っていない化け物だった。ファンタジー小説の挿絵で見たことがある。レッサーデーモンだ。羊の頭に、熊の体を持つ化け物だ。羊の頭と言っても、くるりと愛らしい角を持った頭ではなく、もっと禍々しい攻撃的な角に、深い闇をたたえた大きな目、この世のすべてをかみ砕く大きな顎を持っている。体毛に覆われた体は、毛皮の上からでもわかる筋肉で盛り上がっている。大きな蹄で、足下にあるプラスチックの箱を割った。

「ひいっ」

 思わず声を上げた。それを合図にレッサーデーモンはこちらへ大きく飛んだ。

「助けて、おじいちゃん!」

 僕は叫んで頭を抱えた。瞬間、ドン、という大きな音が頭上に響いた。

 羊というよりも牛のような低い声でレッサーデーモンが唸った。辺りは硝煙の臭い。顔を上げると、祖父がショットガンを持って立っていた。指先が震えている。それが銃身に伝わって、狙いが定まらないのだ。

「おじいちゃん!」

「早く逃げろ!」

 祖父が叫ぶ。レッサーデーモンは起き上がり、再びこちらを睨み付けた。

 距離があったため傷はほとんど無いが、レッサーデーモンは今の一撃によほど度肝を抜かれたらしい。何度も低い声で唸り、蹄で足下を削る。口元からは涎が零れた。

「おじいちゃん・・・・・・怖いよ」

「いいか、ここから出たら振り向かずに走れ。車の中で待ってろ」

「でもおじいちゃん・・・・・・」

「必ず行くから。待ってろ」

 祖父はこちらを一瞥もせずにレッサーデーモンとにらみ合った。

 緊張が走る。蜘蛛の糸が張ったみたいに、緊張がこの空間に張り巡らされている。鼻の奥がツンと痛んだ。空間がゼリーで満たされたみたいに、動きづらい。ほんの一センチ尻を動かすだけで体中のエネルギが搾り取られたように感じる。

 手が震える。ペタ、ペタ、と一歩ずつ出口へ這い進む。足には先程から力が入らなかった。祖父は走れと言ったが、無理だった。四つん這いで進むほか無い。膝小僧から血が出た。不思議と痛みは無かった。

 汗が頬を伝う。一滴、地面に落ちた。

 レッサーデーモンが雄叫びを上げた。膠着状態にしびれを切らしたらしい。近付いてこようとしたところに、再び一発。レッサーデーモンはギュ、と目をつぶった。そこに再び撃ち込む。距離があるとはいえ、散弾を浴びて平気でいる生き物に、人間がかなうはずが無い。

 ドン、ドン、と銃声が続く。どうやら、ショットガンではレッサーデーモンに傷を付けることが出来ないらしい。熊ゴリラと良い、レッサーデーモンといい、不自然なまでに頑強な体である。

 最初こそ驚いたようだが、レッサーデーモンはショットガンを浴びても大丈夫だということに気付いたようだった。ニタリ、と口許をゆがめると、体を丸めて突っ込んできた。

「早く逃げろ!」

 祖父が僕に体当たりをした。僕は吹き飛ばされて出口付近の陰に倒れ込んだ。レッサーデーモンの体が、祖父を跳ね飛ばす。勢い余ってぶつかった棚のいくつかが折れて吹き飛んで行った。倒れ込んだ祖父に、レッサーデーモンがつかみかかろうとした。つかむと言っても、人間のような指は無く、蹄で押さえつけるつもりだろう、そこに祖父が再びショットガンを撃ち込む。ショットガンは距離が近付くほど威力が大きい。まして、蹄に散弾が集中したため、足首ごと蹄を吹き飛ばした。

 レッサーデーモンが叫ぶ。鼓膜が破れそうだ。僕が耳を塞いでいる間に、レッサーデーモンは祖父を組み敷いた。ショットガンが床に転がる。思い切り踏みつけられた祖父の腕はまるで小枝を踏み潰すみたいに簡単に折れた。レッサーデーモンの叫びに祖父の声が重なる。

 僕はレッサーデーモンの前に飛び出した。

「やめろ! 逃げるんだ」

 僕はレッサーデーモンから祖父を助けようと、体当たりをしてみたが、びくともしなかった。生臭い息が顔にかかった、と思った瞬間僕は吹き飛んでいた。何があったのかわからず、衝撃があって少ししてから痛みが襲ってきた。視界が赤く染まってから、頭が切れたんだなと気づいた。

「子供に手を出すんじゃない」

 祖父が叫ぶ。レッサーデーモンは人間の言葉がわかるのだろうか。祖父を見下ろして笑ったように見えた。

 祖父はまるで獣のような雄叫びを上げると、潰され押さえつけられた腕を引きちぎって抜け出した。片手でショットガンを拾う。

 レッサーデーモンは祖父に前足を差し出したが、吹き飛ばされたことを忘れていたのだろう、体勢を崩して転んだ。丁度転んだときに開いた口に、祖父は残った片腕でショットガンの先を突っ込んだ。

「運が悪かったな」

 ズドン、という音とともに、レッサーデーモンの脳漿が飛び散った。そのまま床に倒れ込むと、動かなくなった。頭だった部分はグズグズに飛び散り、角がひっついていなければ、そこが頭部の肉だとはわからないだろう。

「おじいちゃん!」

 祖父が倒れ込んだ。体当たりされたときに、内臓を痛めたのだろうか、祖父は血を吐いていた。

「おじいちゃん!」

 僕はなすすべなく泣き崩れることしか出来なかった。こんなとき、本で見た病院があったなら、医者がいたなら、回復魔法があったなら、祖父を助けることが出来るのに。

 僕は無力だ。

「お前に、言っておきたいことがある」

 祖父は息も絶え絶えに、僕の頭を撫でた。僕は涙が止まらない。

「決して、壁に近付くな。魔物は人間の姿に化けて襲ってくる。決して誰も信じるな」

 再び血を吐く。呼吸も苦しそうだった。

「これからどうやって生きていけば良いの」

 絶望に襲われながら、僕は叫んだ。

「大丈夫、お前ならやっていける」

「おじいちゃん、おじいちゃん」

 急激に、祖父の顔色が悪くなった。腕から流れ出していた血が、いつの間にか出なくなっていた。

 呆然と、僕はその場に座っていた。

 どれくらいたったろう。すっかり体が冷えていた。祖父の体は冷たく、固くなっていた。

 祖父の体を引きずって、車に戻った。僕があんな店に行きたいなんて言わなければ、祖父が死ぬことはなかった。僕の責任だ。

「ねえ、おじいちゃん。すぐ家につくからね」

 エンジンを掛けた。車の運転の仕方は、おじさんたちに教えてもらっていた。旧時代では、免許と言うものが必要だったらしいが、ここには誰の許しを得る必要はない。逆に言えば、どんな罪を背負っても、僕を許してくれる人は、もう誰もいない。

 道はデコボコしており、助手席の祖父の体はグラグラ揺れた。カーブで運転席側に倒れてきたとき、僕は慌てて車を止めた。起こそうとした祖父の体が、いつものように柔らかくて温かい祖父ではないことを知り、二度と帰ってこないという実感が湧き上がった。

 僕は泣いた。車の中で、ずっと泣いていた。二度と、涙は涸れないのでは無いだろうか。そう思うほどに、声を上げて泣いていた。

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