第12話 心の城壁は分厚くも脆い

「お取込み中、申し訳ないんだけど」

 小夜が困った表情を浮かべながら爽と美津帆に声を掛けた。

「えっ? 」

「えっ? 」

 我に返った二人の目に、恥ずかしそうに眼を伏せながら何とも言えない複雑な表情で見つめる小夜と、その背後で幾重にも三人を取り巻き、歓喜に酔いしれながら拍手する群衆の姿が映っていた。

「きゃわっ! 」

 悲鳴ともとれる妙な声を張り上げた美津帆は、爽を思いっきり突き放した。

「何? 何? 何? 」

 きょとんとした面相で呆然としたままよろける爽の姿に、周囲から爆笑が沸き起こる。

 漸く二人は状況を察した。

 また、異界に召喚されたのだ。

「前と同じところだ・・・こんなこともあるのか」

 爽は周囲を見渡した。

 黄昏時の商店街。彼らを囲む人々も前に見かけたことのある顔触れだった。

 今までの展開だと、一度現実界に戻ってしまえば、次に召喚される異界は必ず別のステージだったのだ。

「どうしても行きなさるのかい」

 民衆の一人が、爽達に声を掛けて来る。こちらの世界の時間経過で言えば、ついさっき爽達に避難を促した黒服の男だ。

「ええ。それが役目なので」

 返事に戸惑う爽達を尻目に、小夜が落ち着いた口調で言葉を返した。

「行くって、どこへ? 」

 慌てて美津帆が小夜に囁く。

「あそこよ」

 小夜は背後上方を指差した。

「あれは・・・」

 爽は息を呑んだ。残照の深紅に染め上げられた西空に黒く聳え立つ黒い存在に気付く。

 巨大な石の壁。

 逆光のせいでその石組みの状況までもは、はっきりは見えない。でもそれは明らかに人工物であり、重厚なフォルムが醸す雰囲気からは要塞の様に見える。

「近いようで遠そう」

「一瞬よ」

 爽の不安を払しょくするかのように、小夜は即座に答えた。そして二人の間に割り込むように立つと、それぞれの肩にそっと手をのせた。

「えっ! 」

 爽は思わず驚きの声を上げた。

体が、中空に浮いた。これから訪れるスリリングな絶叫タイムを彷彿してしまうような不安を駆り立てながら、ゆっくりと体が上昇していく。

 まるで、徐々に上り詰めていくジェットコースターの序盤の様な感じ。

「行くよ」

 小夜がそっと呟く――それが、合図だった。

 固定されていた両サイドの風景が、凄まじいスピードで高速に流れ、強烈な浮遊感と急加速に伴い、視界が一気に上昇していく。

 飛んでいる。

 瞬時にして視界に流れ込む膨大な情報の洪水に

二人の思考はフリーズし、沸き起こるべく驚愕と畏怖の感情が意識から遮断され欠失していた。

 小夜の魔法だった。

 魔法としか言いようが無かった。

 彼女は二人の肩に手を添えているだけなのだ。

 両サイドに過行く風景は輪郭を失い、もはや判別できない線状の映像と化していた。

 判別できるのは正面に見える。石を積み上げて作られた巨大な城壁のみ。

 それも、秒刻みでその風貌がより鮮明な姿に変貌していく。

 不思議なことに、これだけ超高速飛行をしているにも関わらず、息苦しさは皆無だた。まるで目に見えない何かに包まれているかのように、髪や衣類が空気抵抗を受けて大きくなびくことも無い。

 城壁に近付くにつれ、爽はその全貌の壮大さと精工な造形に思わず生唾を呑み込んだ。畳一畳くらいの直方体に切り出された岩が、隙間無くち密に積み上げられているのだ。恐らくは剃刀の刃一枚すら入る隙間はないだろう。表面は風雨にさらされ、粗くはなっているものの、ひび割れや亀裂一つ生じていない。

 驚くべき事実はそれだけではない。城壁の上方は忍び寄る夜の闇に包まれ、どの高さまで達しているのか目視では確認出来ないのだ。

(この高度だと城壁は越えられないぞ。もっと上昇しないと)

 爽は不安げに小夜を見た。

「大丈夫。心配無い」

 爽の思考を読み取ったかのように、小夜は落ち着いた声で呟くと正面をじっと見据えた。

「あの壁を通り抜ける」

 にわかに信じ難い小夜の一言に、爽は食い入るように彼女を見つめた。美津帆も同様に、かっと見開いた眼で小夜をガン見している。

「そんな・・・無理よ、ぶつかる」

 美津帆が震える声で呟いた。

「私に任せて。大丈夫だから」

 不安がる美津帆を励ますように、小夜は自信に満ちた声で彼女に答えた。

 城壁はもう目と鼻の先。

 爽はぐっと歯を食いしばった。全身の筋肉が緊張の余りに石の様に硬直する。

 だが、目はかっと見開いたままだった。

 爽だけじゃない。美津帆もだ。恐怖に顔を歪めながらも、大きく見開いた眼は真っ直ぐ前方を見つめていた。

 見届けてやる。

 小夜の魔法を。

 二人は極度の緊張と戦慄に苛まれながらも、意識が探求へと思考を駆り立てていた。

 前を向こうという意識。

 常に開拓を目指す思考。

 真実を追い求めようとする探求心。

 その三つが足並みをそろえた時、脳は夥しい量のドーパミンを産出し、人は無敵のメンタルを宿すことが出来る。

 爽と美津帆はまさに今、その状態だった。

 石の壁が、視野の全てを支配する。

 接触。

 止まらない。

 接触したはずなのに飛び続けている。

 黒褐色の世界。

 規則正しく緻密に結合した無数の結晶体に生じた僅かな間隙を突き抜けている。

 同じような、それでいて微妙に違う幾何学的な造形が続く無機質の世界。

 複数の異なる形状をを爽は同時に視覚で捉えていた。

 不思議な感覚だった。

 複数の、それも無数の自分の存在を感じる。

 細胞よりも遥かに微細な分子的存在にまで細分化したかのような、不思議な感覚だった。

 洪水のように一気に流れ込んでくる無数の情報量に圧倒されながらも、爽はじっと進路の先を見据えていた。

 僅かに・・・ほんの僅かに見える白い光の点。

 小夜はそこに爽達を誘おうとしているようだった。

 肩に乗せられた小夜の手は温かく、爽と美津帆は不思議とこの上ない安堵と揺らぎない安心を感じ取っていた。

 不思議なものだ。

 爽は思った。最初、自分達の前に現れた時には進路を阻むヒールのような存在に思えた彼女が、今は頼れる水先案内人に取って代わっている。

 彼女はこの世界の住民なのだろうか。

 それとも、爽達と同じような来訪者ヴィジターなのだろうか。

 はっきりしているのは、彼女には目的があり行動しているということ。

 何故か、瀬里沢の取り巻きや懇意にしていたものをこの世界から消去しようとしている。爽や美津帆のように、香純の依頼に付き合っているのではなく、自分自身の意思に従って行動しているのだ。

 今思えば、香純にも明らかな目的があった。瀬里沢を自分の元に取り戻すという。

 元カレを奪い取った今カノから取り戻すため――そう最初は思っていた。でも、小夜が瀬里沢の今カノではなく、香純が瀬里沢の母親だと分かった時点で全ては闇の中に隠匿されてしまった。

 何を探求クエストしているのかが、全く見えないのだ。

 ただ、何かしらの「役目」を担っているのは確か。ここ――城壁に行くことについて、ついさっき街の住民に問われた時、「役目」であると答えていた。

 故に、爽と美津帆が今最も注目しているキーマンは小夜だ。瀬里沢本人に聞き出すのが一番の近道なのだが、未だ当の本人と接触出来ずにいる故、頼みの綱は小夜に絞られていた。

 微細な点でしかなかった白い光が、次第に大きくなってくる。

 爽は不思議な事に気付いた。

 視界に捉えられている光の形状が、一瞬きもしないうちに微妙に変化を遂げているのだ。

(何故だろう・・・形が変わるって――そうか! )

 彼は理解した。複数に分散した彼が、それぞれの 眼に捉えられた情報を互いに共有化し、一つの像を合成しているのだ。

 微妙に変化するも、それら全てが真実の像で在り、現実なのだ。

「もうすぐ抜ける」

 淡々とした抑揚のない声で呟く小夜。

 白い光が、爽の視界いっぱいにまで広がる。

 不意に飛び込んで来る風景。 

 爽は言葉を失った。

 砂と石だけの荒野。

 数十メートル先に、平屋の古びたログハウスが一棟。

 それだけだった。

 城壁に守られたその先の世界は、何もない荒野だった。

(あの城壁は、小さなログハウス一軒守るために造られたのか?・・・まさか、そんなはずはない)

 爽は目前に広がる光景に違和感を覚えていた。彼がイメージしていた風景と余りにもかけ離れていたのだ。

 巨大な石を幾重にも組み合わせ、作り上げた巨大な西欧風の古城――彼が脳裏に描いていた光景は在り来たりだが極めて現実的なイメージだった。

 現実というのは、そうそう思い通りになるものではない。とは言うものの、余りにも拍子抜けした展開だった。

「あのログハウスの中に瀬里沢がいるの? 」

 美津帆が、恐る恐る小夜に尋ねた。

「分からない・・・油断するな! 罠かもしれない」

 小夜の表情が硬く強張る。

「まじかよ・・・」

 爽は身震いした。底知れぬ畏怖が戦慄となって彼の心身を突き抜ける。常に冷静さを保ちながら獲物を捕らえていた小夜の狼狽した様子に、爽はただならぬ緊張を覚えていた。

 ログハウスのドアが、ゆっくりと開く。

 人が出てきた。刹那、べったりと頭皮に貼り付いた鮮やかな紫色のショートヘアーに思わず目を奪われる。

 ぎょろりと見開かれた魚の様な巨大な目。見つめられるとあたかも魂を吸い取られてしまうかのような黒い瞳。西洋人の様な日本人離れした高い鼻。ぽてっとした厚い唇。迷彩柄に似た赤紫と青のワンピースと日に焼けた褐色の肌がエキゾチックな雰囲気を醸し出している。

 女性だ。それも二人。しかもまるでドッペルゲンガーのように全く同じ顔、同じ体格で同じ容姿の。双子なのかもしれない。二人とも病的な位に瘦身な体躯で、それ故に顔のパーツがよりひきたって見える。

「取り巻きじゃないのね」

 美津帆は二人の女性をじっと見据えた。

 見覚えのない人物だった。明らかに元クラスメートでも、知り合いでもない。

 年齢はどれ位なのだろうか。一見若いようにも見えるが、そうでもないように見える。派手なメイクをしているわけではなく、むしろすっぴんに近いのだが、艶やかな張りのある肌の割には顔つきは齢を重ねているかのような風貌をしている。

 二人は瞬き一つせず、じっと直立したまま爽達を見つめていた。

 感情の無い表情で。

 まるで、品定めでもするかのように。

「隔離する」

 抑揚のない低いトーンの声が地表を這う。

 一人の声ではない。彼女達が二人同時に発声したのだ。

「隔離って・・・?」

 爽は首を傾げた。

(何を隔離しようとしているのか)

 意味不明だった。ただ彼女達は明らかに爽達を見据えて言葉を発している。

 爽達に対して何らかの行動に出ようとしているのは察しがついた。

 不穏な空気が、二人の異妖女と爽達の間をじわじわと満たしていく。

 いつ仕掛けて来るのか。

 何を仕掛けて来るのか。

 それが皆目見当がつかないだけに、ぴりぴりと張りつめた緊張と無理矢理心の奥底に押し込めている畏怖の炎が、ちろちろと蛇の舌のように爽の意識を苛んでいく。

 異妖女達の瞳の色が、変わった。

 黒から、赤みを帯びた紫へと。

 異妖女達の髪の毛が、崔電機に触れたように逆立つ。

 伸びた!

 異妖女達の髪の毛は急激に伸長すると、まるで別の生物であるかのように空を蛇行し、美津帆と小夜に襲いかかる。

「きゃあああっ! 」

 美津帆が悲鳴を上げた。恐怖に顔を強張らせたまま立ち竦んでいる。

「美津帆っ!」

 爽は迫り来る妖髪の攻撃を払い落とそうと、美津帆の前に――?

「何!? 」

 何かにぶつかった衝撃が爽の身体を襲った。

 彼は目を見開いた。何もない。何もないはずなのだが、目に見えない壁が、彼の行動を強制的に妨害していた。

「くそうっ !」

 爽は正面の空間を蹴り上げた。爪先は石壁を蹴飛ばしたような衝撃を受ける。

(背後は? )

 一歩退く。がそれ以上は目に見えない何かが彼の動きを封じていた。

(ひょっとして、横も? )

 左右に手を伸ばす。と。完全に伸ばし切らないうちに目に見えぬ壁が彼の動作を拒絶した。

「隔離するって・・・俺の事? 」

 爽は二人の異妖女達を驚きの表情で見据えた。

 鞭のように襲いかかる妖髪。だがそれは爽を避けるように空をうねると美津帆と小夜に執拗に鎌首をもたげる。

 小夜は美津帆をかばいながら黒刃の剣で妖髪の攻撃を交わしていく。

「爽、どうしたの? 」

 爽の行動に違和感を覚えた美津帆が慌てて声を掛ける。

「動けないんだ。妙な結界みたいなやつに囲まれている! 」

「えっ? 」

 驚きの表情を浮かべる美津帆。

 その顔が急速に遠のいていく。

「うわああああああああああっ! 」

 爽は悲鳴を上げた。

 彼を中心に直径一メートル程の円形状に切り取られた地面が目に映る。

 何が起きたのか。

 爽は気付いた。彼の足元の地面だけが急速に隆起したのだ。丁度見えない壁に仕切られた空間だけが。

 眼下には妖髪に捕らわれ、簀巻き状態になった小夜と美津帆の姿が映る。二人はそのまま異妖女の虜囚となり、ログハウスの中に引きずり込まれていった。

 ドアが静かに閉じる。

「くそう、このままじゃあ、何にも出来ない」

 爽は悔しそうに眼下を見下ろした。

 何故自分を隔離したのか――爽にはその理由が皆目見当がつかなかった。

 戦力を削ぐのなら、小夜を真っ先に隔離した方が理にかなっているはずだ。

(何が目的なんだ? )

 何一つ打開策を見いだせないまま、爽は苛立たしく唇を噛んだ。

 ふと空を見上げると、今まで雲一つなかった空が、にわかにかき曇り始めている。

 気味の悪い雲だった。

 仄かに赤紫色を帯びた白い雲が、渦巻きながら見る見るうちに頭上を埋め尽くしていく。

 空が白く瞬き、崩れるような重低音が静かに頭上で響く。

 雷だ。

(ひょっとして、俺に落雷させようとしているのか? )

 爽は顔面蒼白のまま、黙って空を見上げた。

 ここでは身を隠すところは全くない、せいぜい体を低くするくらいで、それでは何の役にも立たないだろう。

「わけわかんねえ。なんでこんな事・・・」

 稲光と雷音の間隔が急速に狭まっていく。

 爽は空を見上げた。

 視界が真っ白になる。同時に、耳を劈く轟音と熱い衝撃が彼の身体を貫通した。

 雷が彼を直撃したのだ。

 足元が、がらがらと崩れていく。彼は崩れる瓦礫の上に佇んだままゆっくりと地面に向けて滑り落ちていく。

 瓦礫の崩落が止まった。

 爽は周囲を見回した。

 地上だった。

 身体の自己チェックをやってみる。

 問題ないようだ。

「信じられない…何ともない」

 落雷の直撃を受け、更には塔と化した隆起した地面が崩落したにもかかわらず、彼は全くの無傷だった。

(そうだ、二人を助け出さないと)

 爽はログハウスに向かって駆け出した。彼を封じ込めていた結界はすでに効力を失っている。落雷と同時に弾け飛んだのを爽は感覚的に感じ取っていた。

 彼はドアに手を掛けると、躊躇うことなくドアを開け、中に飛び込んだ。

 無数の丸太を組み合わせた壁には一つも窓が無く、ただ、妙な距離感をとりながら不規則に点在するかがり火の炎が、薄暗い空間をかろうじて照らしている。その仄かに灯る黄色い光に照らされ、浮かぶ二つのシルエット。

 美津帆と小夜だ。褐色のタペストリーで飾られた壁の前に、妖髪で簀巻きにされたまま床に転がっている。

 だが、不思議な事にその髪の主達の姿はない。いったいどこへ消えたのか。

「爽! 」

 爽の果敢な登場に、美津帆は歓喜の声を上げた。

「二人とも大丈夫か? うわっ! なんだこりゃ? 」

 爽の目に、異様な光景が映し出されていた。

 爽は息を呑んだ。

 外観はこじんまりしたログハウスだった――はずなのに。

 ドーム型球場並みの空間が広がっていたのだ。遠目には分からなかったのだが、二人に駆け寄った刹那、その不可思議な空間が爽の目に映し出されていた。点在するかがり火の距離間が妙に不自然だったのが、これで納得はいく。

 とは言え、この空間の広がり方は素直に受け止められるものではなかった。

 だが、それで驚いてばかりはいられない。 

 異様な光景はそれではないのだ。

 彼女達の背後に、茶色の巨大な塊があった。

 無駄に高い天井に迫る勢いで堆くこんもりとした山の様な塊。表面には褐色の短い毛がびっしりと生えている。

 岩ではない。牛だ。正確には、牛の様なもの。牛の頭部がついているものの、手足は見えない。   

 陶器で出来た干支の置物のリアルバージョンというべきか。タペストリーだと思っていたのは、この異形の妖の胴体部分だったのだ。

 だが、それはただの置物ではなかった。生きているのだ。前に突き出した口の間からはだらだらと涎が零れ落ち、時折何かを咀嚼するように口を動かしている。

 妖牛は一際低く唸り声を上げると体をゆっくりと前後に動かし始めた。手足を使って動いているのではない。うずくまったままの姿勢で、体ごと前後にスライドしているだけのような動きだった。

 妖牛の呼吸が激しく乱れ始める。それと共に、前後にスライドする速度が急激にアップした。

 ぐしゅぐしゅ

 不快な粘着質の摩擦音が、薄暗い室内に淫靡な調べを刻みつけていく。

 妖牛が吠える。

 思い重低音のくぐもった咆哮と共に、妖牛の巨躯が小刻みに震える。

 辺りに立ち込める生臭い匂い。

 儀式は終わったのだ。

 妖牛はゆっくりとその身体を後方に滑らせた。奴が退いた床面には、白濁した粘液がべったりと付着し、かがり火の灯りに怪しげな輝きを放っていた。

 妖牛の胴体と床の設置している辺りが、もぞもぞと蠢いた。あたかも雪崩を起こしたかのように四肢を完璧に覆い隠している胴の肉を押しのけながら、何かが這い出して来る。

 粘液に濡れた黒い影。だが、その直後には肌色の何かが姿を現せた。

 人だ。それも、全裸の女性。つんと上を向いた乳房。くびれたウエスト・・・十代後半から二十代前半位か。ぬめぬめとした粘液に濡れた長い髪が、肌にべったりと貼り付いている。憔悴し切った虚ろな表情に生気は無く、焦点の定まらない目線はかろうじて外へと通じる扉を捉えていた。

「おい、大丈夫か? 」

 爽の呼び掛けには答えず、彼女は露になった乳房や下腹部を隠そうともせずに、ふらふらしたおぼつかない足取りで扉に向かって歩いて行った。

 彼女だけではなかった。

 妖牛の腹部の下から、一人、また一人と女性が這い出して来る。

 ショートヘアー、セミロング・・・髪型は異なるものの、年の頃は最初の女性と同じ位の女性が次々に現れると、無言のままログハウスを出て行く。

 計6人。皆、全裸の姿で。

 耽美で淫猥な光景にもかかわらず、その非現実的な出来事に爽の思考は完璧に麻痺しており、好奇の視線を送るどころか猥雑な思考の断片すら意識していなかった。

 視界を埋める狂気が、爽の本能的に潜む好奇心を根こそぎ刈り取っているのだ。

「爽! 」

 美津帆の叫びに、爽は我に返った。

 美津帆と小夜が宙づりになっている。二人を束縛している妖髪が蛇のように中空をうねっていた。操っているのはあの異妖女二人――だが、姿は見えない。

 いた!

 妖牛の背にしがみついている。

 いや、違う。妖牛の背中から、頭だけが生えている。明らかに首から下は存在していない。

 妖牛と同化しているのだ。ひょっとしたら、妖牛はあの異妖女二人の本体なのか。

 間違いない。

 あいつらの企みは予想がついている。美津帆達と妖牛との儀式を始めようとしているのだ。

 おぞましき種付けの儀式を。

 異妖女達の本体が妖牛だとすると、奴らは雌雄一体型のようだ。

ならば。

 妖牛を叩けばいい。

 爽は妖牛に近付くと一気に跳躍した。超巨大な相手にどう戦うのかまでは考えてはいない。

 ただ、見るからに本体は反撃の術を持ち合わしていないように見える。

 異妖女達はふてぶてしい笑みを浮かべながら爽目掛けて妖髪を繰り出した。

(狙い通りだ)

 爽にとって、それは想定通りの展開だった。正面から襲いかかる爽に対して、異妖女達が取る反撃手段は妖髪による攻撃だ。必然的に美津帆達の拘束を解くか緩めるかしないと無理な話で、奴らはその策略にまんまと引っかかってくれたのだ。

 だが爽に反撃の術があるかと言えば、全くのノープランだった。

 まずは二人を助けないと――その思いが先走る余りに、彼にはその後の展開を冷静に組み立てるだけの余裕が無かったのだ。

 妖髪は投網のように大きく広がると、爽を遠巻きに威嚇した。

 異妖女達の様子がおかしい。

 何か躊躇しているような困惑の表情で爽を捉えている。

 だが、彼の右足が妖牛の横っ腹を蹴とばす寸前、妖髪は意を決したかのように動いた。

 ばらばらにばらけた妖髪が一斉に爽に絡みつく。。

 刹那。

 ぱん、と衝撃音が爽の耳元で弾ける。 

 (何が起きた? )

 爽は目を見張った。彼の身体から迸った青い稲妻が妖牛達を直撃したのだ。

 稲妻は爽を捕獲した妖髪を瞬時にして焼き尽くすと、妖牛の体毛を焦がしながら巨大な体躯に光の剣を突き立てていく。

 部屋中に妖牛の断末魔の悲鳴が響く。

 一瞬にして、妖牛は全身炎に包まれていた。蛋白質の焦げる香ばしい匂いと共に、黒煙が広い室内に立ち込めていく。

 妖牛の巨体が動いた。体の炎を地面にこすりつけて消そうとしたのか、それとも力尽きてその巨体を支え切れえなくなったのか、妖牛の身体はゆっくり弧を描くと横倒しになった。

思い地響きと共に 床がぐらぐらと揺れる。

 今まで床面に接していた妖牛の腹部が露になり、爽の目に飛び込んで来る。

「これって・・・」

 言いかけた台詞を爽は慌てて呑み込んだ。

 妖牛に、四肢は無かった。腹部はまるで身をくねらせた鮑のような肉ひだ状で、薄いピンク色の表皮は粘液でてらてらと不気味な光沢を放っていた。粘液は肉ひだがおりなす渓谷の奥に開く開口部から止めどもなく溢れ、肉ひだの末端部の瘤状に隆起した突起物は小刻みに震えていた。

 女陰だった。

 一言で例えるならば、これに勝る表現はないだろう。

 明らかなのは、奴らは雌雄一体型ではなかったということだ。

 だがその淫靡な形状も、見る見るうちに崩れ始めると、肉色を失い、赤茶けた土の塊に変貌を遂げた。土の塊の表面は黒く焦げた燃え殻が散在し、その中に藁の様なものが混じっているのが見える。

 赤土と藁で出来た傀儡――これが妖牛の正体だった。

 未だくすぶり続けているのか、妖牛からは幾筋もの白い煙が立ち上っている。

 呆気ない最期だった。

 余りにも拍子抜けのする展開に、爽は呆然と立ち竦んでいた。

 勝ちはした。でも、謎が多過ぎる。爽の体から迸った稲妻の発生要因とメカニズムが何とも不自然だった。さっき受けた落雷のパワーが、彼に宿ったのか。

 何が何だか分からない爽だったが、もっと大切なことに気付く。

 美津帆と小夜は無事なのか。

「美津帆、大丈夫か――えっ! 」

 爽は言葉を失った。妖髪から解放された美津帆達を目で追った彼の眼に、白い肌が映り込む。

 全裸だった。美津帆も、小夜も。二人は床に散らばる衣服から拾い上げた白いパンティーに、慌てて足を通そうとしている最中だった。

「うわっ 見るなあああっ! 」

 パンティーをくいっと引き上げながら、美津帆は鬼のような怒りの形相で絶叫を上げた。その向こうで、小夜も同様に冷ややかな視線を爽に投げ掛けている。

「わ、ごめん! 」

 爽は慌てて二人に背を向けた。美津帆とはそれなりの関係を経てはいるものの、高校時代の彼女の姿は新鮮で、感慨深いものがあった。

(美津帆、成長したな・・・)

 現実界の彼女と比較して妙に感動している爽だった。

 美津帆と小夜もあの妖牛の儀式に捧げられる寸前だったのだ。二人から衣服を剥ぎ取ったのは間違いなく異妖女の二人だろう。

 それにしても、妖牛が裸体の女性に施していた儀式はいったい何なのか。当初は妖牛の動きと立ち昇る異臭から、種付けではないかと思われたのだが、露になった奴の腹部がその説を真っ向から否定する事となった。

「騒がしいと思ったら、なんてこった」

 赤土と藁の巨塊と化した妖牛の成れの果てのその向こうで、苦悶と憤慨の入り混じった吐息が重い旋律を奏でた。

 堆く積もる巨大な残土の陰から、長身瘦躯の髪の長い少年が現れた。

 面長で逆三角形の顔立ち。細身の銀縁眼鏡の奥には切れ長の眼が威圧的な眼光を放っている。

 鴨井奏多――熱狂的なサバゲーマーで、瀬里沢の取り巻きの中でもずば抜けた頭脳の持ち主。その上、瀬里沢からの信頼も厚い、いわば軍師的な存在だった。

(厄介な奴が現れたな)

 爽は露骨なまでに表情を歪めた。

 鴨井は常に人の数手先を読み、行動する。噂では、彼が率いるサバゲーのチームは向かうところ敵無しらしい。

「やってくれたね。これだけの呪物を育て上げるのにどれだけの時間のと思念を費やしたと思う?」

 鴨井は苦笑を浮かべながら爽を見据えた。

 笑っちゃいない。奴の眼は、少しも笑っちゃいない。と言うより、むしろ冷徹で貫くような眼光を湛え乍ら、爽をじっと見据えている。

 鴨井の目線の奥には底知れぬ殺気を孕んだ憤怒の情念が、黒い炎となってゆらゆらと揺らめいていた。

「鴨井、こいつは何なんだ? 」

 爽は顎先で妖牛の成れの果てを指すと、冷ややかな目線を鴨井に注いだ。

「御方様に従順な使徒を生み出す呪物さ。御方様だけじゃなく、我々側近にも従順な態度をとるよう仕込んである。私があらゆる呪法を駆使して創り上げた傑作品だったんだがな」

 鴨井は眉間に深い皺を刻みながら、低い声で悔しそうに言葉を紡いだ。

「何故、そこまで瀬里沢の為に尽くす? 」

「御方様の御名前を口にするとは無礼な奴だな。まあ、貴様らは所詮下賤の輩だからな。礼節を期待しても無理か。あの方は特別なんだ。それに、我ら選ばれし者である側近の守護を必要としておられる」

 鴨井は鼻で笑った。

「重度の中二病だな。いい先生を紹介しようか」

 爽は傍らで佇む美津帆に目線を向けた。美津帆も小夜も既に着替え終わっており、鴨井の登場前に何とか事なきを得ていた。

「お前達の行軍もここまで。呪物をないがしろにした責任はしっかりとってもらう」

「責任を取るだと? 」

「ああ。お前達を憑代にして呪物に同化させる。但し、爽以外の二人を使ってな。爽には・・・そうだな。この建屋の屋根に飾ってやるよ。ガーゴイルの彫像のようにね。避雷針の役目位は出来そうだしな」

「何だと! 」

 鴨井の挑発に爽はいきりだった。

「おっと、お前達に抵抗する手立ては無いよ。咲良の電撃は一時的な帯電現象だしな。だいたい、さっきの電撃もお目の意思でやったんじゃないだろ? 」

 鴨井はほくそ笑んだ。全てを見通しているかのような涼しい表情で爽を見ている。

 爽は言葉を失った。鴨井の言った通り、さっき妖牛を倒した電撃は自分の意思で放ったわけではなく、体から勝手に放電したものだった。それに、いきり立つ思いと共に再び稲妻が迸るのを期待した彼だが、静電気すら発生しない現実に、焦燥と動揺と落胆のトリプル攻撃に翻弄され、意識が完璧にフリーズしていた。

「まあ、あの落雷の直撃を受けて何ともなかったは軌跡的だけどな。でも、お前達に抵抗手段が無いのはそれだけじゃないぜ」

 鴨井は誇らしげに右手を爽達の前に突き出した。黒い鞘に納まった一振りの刀――小夜のだ。

「二人の衣服を剥ぎ取った時、めぼしい獲物は除去させてもらったよ」

 鴨井は勝ち誇った表情で爽達を見据えた。抵抗手段を失った弱者を、どう料理しようか――そんなサディスティックな性癖の匂いが露骨に表れていた。

「さて、とりあえずは傀儡達で遊ぼうかな」

 鴨井が愉快そうに眼を細めた。

 同時に、残土の山から焼け残った稲藁がしゅるしゅると抜け落ちると、六か所に分散し、鴨井の前に並ぶや否や、超高速で人型に編み上げられていく。

 藁人形? 案山子? 

 違う。人型は爽達が一瞬きもしないうちに、肌色の色調を帯び、藁の繊維は急激に肉感を宿していった。

 シルバーの頭髪。ゴスロリ調のドレス。バラの模様をちりばめた黒いあみあみのタイツ、足元はピンヒールのパンプス――見た目はアニメチックだけど、やることは洒落にならないのでそのつもりで」

 鴨井の言った通りだ。ゴスロリコスプレイヤー達は手に手に巨大な斧や剣、ハンマーといった代物を携えている。コスプレイヤーならぬスレイヤーだ。

(ゴスロリファッションの五人のスレイヤーだから、ゴスレイヤーってとこか)

 言い得て妙だと一人どや顔の爽であったが笑うに笑えない現実に変わりはない。

「さあて。お待ちかねのおもてなしタイムの始まり、始まりぃ~! 」

 鴨井がにんまりと笑みを浮かべた。

 ゴスレイヤー達は満面に笑みを浮かべながら近付いて来る。

 楽しくて仕方が無いのだろう。反撃の術が無い獲物を相手に、祭りをぶちかまそうとしているのだから。

 血祭という、おぞましき儀式を。

 爽はゴスレイヤーから視線をそらさないようにしつつ、視界に映る情報から何か反撃のきっかけになりそうなものを探った。

 だがこの展開も鴨井の予測の範疇にあったのか、棒はおろか投げつけられるような食器や瓶もない。かがり火も爽達の立ち位置からは離れており、それを振り回して抵抗するにも、そこまでたどり着ける成功率は皆無に近い。

 脱出するにも、ドアはゴスレイヤー達の右後方だ。右真横は窓が無い丸太むき出しの壁だったと記憶している。おまけに反対側は今だ白い煙を上げている無駄にでかい

赤土と稲藁の山。

 絶体絶命だった。

(いや、何とかなる)

「二人共、俺に続け」

 爽は正面の敵をかっと睨みつけたまま、背後の美津帆と小夜に声を掛けた。

「正面突破でもするつもりか? 馬鹿と言うか、潔いと言うか――やっぱ馬鹿だね」

 鴨井は呆れた表情で身構える爽をなじった。

 爽が動く。

 同時に、美津帆と小夜も。

 三人は横に堆くそびえる妖牛の成れの果てに飛びつくと、勢いよく駆け上がった。

「おいおい、何のつもりだ? 」

 鴨井は苦笑を浮かべた。

 ゴスレイヤー達も笑みを浮かべながらスカートを翻すと爽達の後を追った。だが、稲藁の灰に覆われた赤土の山は見た目以上に足場が悪く、ましてやピンヒールが地面にぶすぶす突き刺さり、彼女達の足周りに思いもよらぬブレーキをかけていた。それでも力まかせに先頭切って追いかけて来た少女が、自分の顔三つ分はある巨大な斧を大きく振りかぶる。

 刹那、爽は白い煙を上げながら燻っている稲藁を大きく蹴り上げた。舞い上がる灰の下から、オレンジ色の火の粉が舞い上がる。

 ゴスレイヤーの正体は稲藁。だとすれば弱点は炎。

 燻り続ける妖牛を見た爽が、苦し紛れに思いついた反撃の一手だった。

 舞い散る火の粉にひるむ斧少女。

 爽は続けざまに灰を蹴り上げ、火の粉を彼女にかけまくる。

 美津帆と小夜もすぐに爽の意図をくみ取り、迫り来るゴスレイヤーに火の粉を蹴り上げて応戦する。

 舞い散る火の粉に斧少女のスカートが引火。慌てて手で消そうとするものの、その手にも炎が燃え移った。火の回りは殊の外早く、見る見るうちに斧少女は全身炎に包まれた。仲間のゴスレイヤー達が慌てて仲間の火を消そうとするが、炎はその仲間たちにも次々に引火した。

 燃え上がる仲間を避けるようにして、唯一無傷の剣を握った少女が爽に襲いかかる。顔はもう笑っちゃいない。消失した笑みの痕跡すら感じさせない憤怒に歪む表情が急加速で迫る。

 刹那、美津帆が蹴り上げた火の粉が剣少女の両眼に飛び込む。怯んで体制を崩した少女は、斧少女を巻き込み転倒。すると斧少女の炎が剣少女に飛び火し、一気に燃え上がった。

「んがああああああっ? 」

 鴨井は目ん玉が零れ落ちんばかりに両眼をおっぴろげると、意味不明の雄叫びを上げた。

「貴様らあああっ! 俺がこの手でぶった切ってやるっ! 」

 鴨井は口から泡を飛ばしながら、小夜の剣に手を伸ばす。

 無かった。

 彼の手には鞘だけが握られ、肝心の刀身は跡形も無く消え失せていた。

 鴨井の顔が怒りから一転して恐怖に歪む。

 刀身は、彼の頭上にあった。

 正しくは大きく跳躍した小夜の手中に。

「これで五人・・・あと一人」

 小夜の囁きが鴨井の耳に届いた時、彼は敗北を悟った。

 小夜の刀身は頭頂部から真っ直ぐ下に振り下ろされ、刃に断たれた身は瞬時にして黒い粒子と化して地面に降り積もっていく。

「倒したんだ・・・流石! 」

 爽が驚きの声を上げる。ゴスレイヤーの炎上騒ぎがあったからとはいえ、鴨井に少しも気付かれずに接近し、刀を奪い返した挙句、一刀両断してしまうとは。小夜の凄なせるまじく冷静な判断力と人並外れた運動力のなせる技だった。

「爽の機転の御陰よ。ありがとう、助かった」

 小夜は床に転げ落ちた鞘を拾い上げると刀を収めた。

 不意に、視界が大きく歪む。

 ログハウスの壁が、床が、天井が、そして妖牛の成れの果てが大きく歪み、互いに融合すると大きな渦の中に吸い込まれていく。

 消えた。

 何もかもが。 

 妖牛も、ログハウスも、果てしなく広がる荒野も。

 爽は息を呑んだ。

 御影石を規則正しく組み上げて造られた床や外壁遥かに続く長い石の階段。その先に、微かに見え隠れする神殿らしき建物。

 城塞――これが、この場所の真の姿なのだ。

 妖牛だけでなく、ログハウスも、そしてさっきまでこの世界を覆い隠していた荒野も、全て鴨井が創り出した幻影だったのだ。

「あと一人・・・」

 美津帆が何気に呟きながら、正面に伸びる長い石の階段を見上げた。

「そう、あと一人」

 小夜は頷くと、美津帆にそっとそう返した。


 

 

 


 


 





 


 


 

 

 

 

 

 

 


 



 


 

 


 

 


 

 

 




 

 





 

 



 

 


 

 


 

 


 





 


 

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