第10話 反撃と解放
激しく行きかう人々の姿が、爽の目に飛び込んで来る。
車がようやくすれ違えるかどうかの瀬戸際レベルの狭い路地。道沿いには商店が軒を連ね、ひしめき合っている。
雨は上がっているものの、陽が傾きかけているのか、西の空が赤く染まり、
夕暮れ時の地方都市の商店街――のようだ。
寂れたイメージのシャッター商店街とは違い、この通りに面した店舗はどれも営業中で、仕事帰りの買い物客が殺到する盛況ぶりだ。
「え!、何!、ここは? どこ? 」
急激な変化を遂げた風景に、美津帆は戸惑いながらきょろきょろと周囲を見渡した。
「え? 嘘! 出られたの? 」
美津帆は興奮していた。余りにも異常事態に完璧に平常心が崩壊し、さっきまでとは打って変わって、まるでいけないお薬を体内に入れたかのような気の高ぶりを見せていた。
「うまくいったみたいだね」
美津帆のお祭り状態を目の当たりにして、かえって平静を保てたのか、爽は笑みを浮かべながら落ち着いた口調で答えた。
「凄いじゃん! でも、ここどこだろ?」
美津帆は目を輝かせながら爽を見た。まだ気が高ぶったままなのか、頬が紅潮している。
「さっきまでいた部屋のある建物の前だよ。後ろを見てみて。例の部屋は二階だな」
爽に促されて振り向いた美津帆の眼には、黒っぽい板壁と古い引き戸が特徴的な商店の店構えが目に映る。恐る恐る上を見上げると、見覚えのある摺り硝子が目に映った。
「一回は造り酒屋のようだ。だからあの部屋にいた時、発酵臭のようなにおいが鼻を突いたんだろうな」
「へええ」
爽の説明に納得したのか美津帆は満足げに何度も頷いた。
「香純も、この通りのどこかにいるのかな」
「たぶん」
爽は行き交う雑踏の中に香純の姿を追った。だが彼の目に映るのは、見覚えのない人物ばかりだった。
彼は首を傾げた。通行人達の姿が、妙に色褪せて見えるのだ。姿が地味というわけでもないのだが、何故かセピアカラーの映像を無理矢理総天然色に焼き直したかのような違和感が漂っていた。
不意に、雑踏を駆け抜けて来る一群があった。上下黒の長袖シャツとスラックスを纏った男達。歳は見るからに20代から50代と幅があるものの、誰一人として立ち止まるものはなく、口々に何かを叫びながら爆走してくる。
「大変だっ! ※※※が来るぞおおおおおっ!」
通行人達はぎょっとした表情で立ち止まると、慌ててその場から逃げ出した。彼らが走ってきた方向からも無数の通行人達が血相変えてこちらに向かって走って来る。
「何が来るんだ? 」
爽は何が何だか分からないまま、ただ茫然と立ち竦んでいた。
「爽、あの人達、何て言ってるの? 」
美津帆が焦燥にかられながら爽に問い掛けた。
「それが、よく聞き取れないんだ」
困惑顔で答える爽を、美津帆は驚きの表情で目を丸くして見つめた。
「私も。ほかんとこは聞き取れるんだけど、肝心の所が分からない」
二人は顔を見合わせた。非常事態の波に翻弄されながら、二人は共通の不可思議な体験をしていたのだ。
「お前達、何ぼおっと突っ立ってんだ! 早く逃げろっ! ※※※が来るぞっ! 」
黒装束の中年の男の一人が、一向に逃げようとしない二人に見かねたのか声を掛けて来る。短髪の頭から額にかけて、大量の汗が流れ落ち、肩で大きな息をしている。
ぽっこりと出たお腹は、激しく繰り返す呼吸と共に大きく上下している。日に焼けた丸顔に、大きな眉毛。血走った眼と緊張で乾ききった分厚い唇は、得体の知れぬ恐怖に打ち震えていた。
「何が来るんですか? 」
爽は男に問い掛けた。
「何がって? ※※※だよっ! 奴ら、調子に乗りやがって時々開放しやがるんだ。ここにいれば捕まっちまうぞ! 早く逃げろっ! 」
男はそう言い残すと、あたふたとその場を去っていった。
「なんで肝心な所が聞き取れないんだろ」
爽は首を傾げた。
「口伝屋さんに遅れるなっ! 逃げろっ!」
茶色のコーデュロイの長袖シャツにこげ茶色のだぶだぶのズボンを履いた老人が、二人に声を掛けると彼らの前をよたよたと通り過ぎて行った。
立ち止まったままの二人の存在が、よほど異質に見えるのだろう。
「さっきの人――ていうか、大勢で走ってきた黒ずくめの集団、口伝屋さんて言うんだ」
美津帆が興味深そうに走り去った黒服達の後姿を目で追った。
「緊急事態の時にふれて回る公報車的な感じなのか・・・この異界、情報網がよくわからない。通行人にしても、携帯いじっている人がいないし」
爽が訝し気に周囲を見渡した。以前、美津帆が気付いたのだが、この異界を訪れると、爽達の携帯は痕跡一つ残さずに消え失せるという不可思議な現象に見舞われていた。現実界に戻れば、再び彼らの手中に現れるのだが、そのあたりも含めて、そのメカニズムが皆目見当つかないでいた。
この異界を記録してはならない――創造主のそんな意向が少なからず働いているような気がする。
「どうする? 」
美津帆が爽に問い掛けた。
「行こうぜ、そのなんたらかんたらを見にさ」
「同感」
爽の返事に、美津帆は満足のグッジョブゼスチャーで返す。
二人は通行人達の流れに逆らいながら、黒ずくめ集団――口伝屋達が走ってきた方に向かって駆け出した。
通行人の数が半端無く、なかなか前に進まない。
爽ははぐれないようにと美津帆の手を握った。
美津帆も決して離すまいと爽の手をぎゅっと握り返す。
しばらく進むにつれ、通行人の姿はまばらになり、そして途絶えた。
商店街にいるのは、爽と美津帆の二人だけ。
先程までの喧騒が嘘のように、街並みは静寂に沈んでいる。
明るい朱に染まっていた西の空は、濃紺の闇の勢力に押され、深紅に燃え上がりながら最後の抵抗を試みている。
時は、黄昏時から逢魔時へと移ろう陽と陰の狭間。秒刻みで陽は陰に飲み込まれ、それと共に立体の存在は次第に輪郭を失い、組成そのものも点描画と化していく。
だが、その風景の中に、明らかに異質な存在が紛れ込んでいた。
巨大な塔――じゃない。
それは誰もが知っている「もの」をモチーフに作られた・・・否、それそのものだ。
「哺乳瓶・・・」
美津帆は目を見開くと、戸惑い気味に頬を強張らせた。
哺乳瓶だった。それも、何かのモニュメントとして作られたかのような巨大な物体だった。本体は大人数人が手をつないだくらいの太さで、高さは直ぐそばにある5階建てのビルよりも高い。中にはご丁寧に白い液体のようなものがなみなみと注がれており、硝子の容器が残照を受けて緋色の輝きを放っている。
その巨大な哺乳瓶の存在も不思議だったが、輪にかけて奇妙な現象を伴っていた。
哺乳瓶が動いているのだ。
音一つ立てることなく、滑るように路面を移動しているのだ。
哺乳瓶の硝子と路面のアスファルトのような硬質物が擦れたら、それこそ耐え難いレベルの甲高い騒音を奏でるはずだった。
だが、哺乳瓶は全くの無音で、ゆっくりと滑るように道を進んでいた。
「気味悪いな 」
爽は呆気にとられながら、その異様な巨大モニュメントを凝視した。
「見た感じ、襲ってくるとか、害があるようには見えないけど」
美津帆は拍子抜けしたのか、苦笑を浮かべなら爽を見た。
「やっぱりきやがったか」
哺乳瓶の背後から、一人の少年が姿を現せた。
黒いシャツに黒のジャケット。スリムなボトムも黒のパンツといった、さっき通行人達に避難を促していた『口伝屋』の様な風貌をしている。襟足にかかるほどの髪は、微かに茶色の光沢を放っている。額よりも長く前に垂れ下がった前髪の奥に覗く、二重瞼で爬虫類の様なぎょろりとした目は、爽と美津帆を射貫くように捉えていた。だが、その殺気立った目つきとは裏腹に、口元には仄かな笑みを湛えている。
冷たく、ぞっとするような笑みだった。
侮蔑、愚弄、嘲笑・・・その全てが入り混じったような、見る者を心の底から不快にさせる感情むき出しの表情だった。
「菅嶋・・・」
爽が彼を凝視した。菅嶋幸喜――元同級生であり、瀬里沢の取り巻きの一人。周囲の者から『瀬里沢の腰巾着』と揶揄されるほど、瀬里沢と常に行動を共にしている人物だ。と言うことは、この一件は間違いなく瀬里沢一派が絡んでいると言う裏付けになる。
「何なんだよ、その馬鹿でっけー哺乳瓶は」
爽は菅嶋に問い掛けた。だが、菅嶋は口角を吊り上げ、小馬鹿にした表情を浮かべるだけで、爽の問いには答えようとはしない。まるで彼の存在は眼中に無いかのような態度だった。だが、その目線は所在投げに中空を彷徨ってるのではなく、明らかに何かしら品定めをしているようにも見えた。
「今日の獲物は確保したけど、保住はもらっとこうかな。咲良はいらねえや」
菅嶋はふんと鼻でせせら笑うと、両手を前に突き出した。
「何を――?」
するつもりだ――そう言いかけた爽の口が硬直する。
地面に映った菅嶋の影が伸びている。
それも、両腕だけが。
それだけじゃない。するすると伸長するにつれ、二次元の存在だった影は本来あるはずのない厚みを帯びて立体化すると、更に巨大な像へと変貌を遂げた。
大きく広げた掌は、爽達を片手でもすっぽり包み込めるくらいにまで巨大化すると、真っ直ぐ美津帆に向かって襲い掛かる。
「させるかっ! 」
爽が美津帆の前に立ちはだかる。が、菅嶋の右手が一瞬大きく振りかぶると、裏拳で容赦なく爽を弾き飛ばした。
大きく空を舞う爽の身体。
砂袋で全身を打ち据えられたような鈍い衝撃と共に、爽は離れた商店街の二階の屋根に叩きつけられた。
「爽! 」
美津帆の喉から悲痛な叫びが迸る。爽はトタン屋根の上に仰向けに倒れたままぴくりとも動かない。
美津帆が爽の安否に気を取られている隙を突き、菅嶋の左掌が間髪を入れずに彼女の身体を捕捉した。
「こらっ、離せっ! 」
美津帆は手足を動かして抵抗しようと試みた。が、影手の拘束は緩むことなく、彼女を中空に持ち上げた。
「諦めな、もう逃げられないよん」
菅嶋は勝ち誇った表情で右手の影を使い哺乳瓶の吸い口を器用に取り外した。
「何するのよっ! 」
美津帆は顔を真っ赤にしながら菅嶋を睨みつけた。
「へええっ、驚いたよ。大人しくて無口な奴かと思ってたけど、結構気が強いんだな」
菅嶋は言葉の割にはさほど驚いた素振も見せず、また、美津帆の問い掛けにも無関心を装ったまま、左手をゆっくり動かした。
美津帆は悟った。菅嶋は彼女を哺乳瓶の中に入れようとしているのだ。ミルクとは思えない、得体の知れない白色の液体で満たされた哺乳瓶の中に。
美津帆は、かろうじて自由の利く両脚をじたばたさせて哺乳瓶に入れられまいと抵抗を試みた。
「諦めが悪い奴だな。どうでもいいけど、パンツ丸見えだよお」
一瞬、美津帆の足が動きを止めた。菅嶋の猥雑な声に、美津帆の羞恥心が抵抗にブレーキを掛けたのだ。
「はい、おしまい」
美津帆が躊躇した瞬間、菅嶋は彼女を哺乳瓶の中に放り込んだ。
その時だった。
菅嶋の視界に黒い軌跡が過ぎる。
爽だ。爽が屋根の上を走っている。
彼のターゲットは哺乳瓶。
「こいつもあきらめの悪い奴っちゃな」
菅嶋は面倒臭そうにファイティングポーズをとると、シャドゥボクシングをし始めた。
菅嶋の腕の影が、彼の腕の動きと連動し、次々に爽へ拳を繰りだしていく。
だが、爽はぎりぎりのところでそれをかわし続けた。
菅嶋の表情に焦燥が浮かぶ。
彼の両眼は、真っ直ぐ哺乳瓶を見据えて突き進む爽の顔を捉えていた。
爽の顔に、恐怖心は一欠けらもなかった。それどころか、激しく脈打つ闘争心と激高が生み出す気迫の熱い気が、彼の身体をすっぽりとプロテクトしていた。
むしろ、恐怖を覚えているのは菅嶋の方だった。
クラスでも特に目立った訳でもなく、人付き合いは悪い方ではないが特定のグループに属することもなく、自分にとっては脅威に感じる存在では決してなかった爽の隠れた一面に、菅嶋は得体の知れぬ畏怖を感じ、戦慄していた。
だが爽にはそんな菅嶋の動揺に気付く余裕はなかった。
美津帆を救い出す。
その一心が、屋根を激走するという無茶に駆り立てていた。屋根に叩きつけられた衝撃で気を失いかけた彼だったが、自分の名前を呼ぶ美津帆の叫び声を耳にした時、彼の本能が閉鎖しかけた意識を覚醒へと無理矢理導いたのだった。
全身を打ち据えた痛みはない。
否、感じていないと言った方がいいか。
高ぶる意識が交感神経を揺さぶり、アドレナリンを激流の様に放出させており、言わば今の彼はリミッターのすっ飛んだ状態になっている。
まさしく、狂戦士だ。
次々と繰り出される拳の動線を見極めながら、爽はタイミングを計っていた。
哺乳瓶が間近に迫る。
爽の進路を阻むべく、菅嶋は拳を彼の進路を塞ぐ形でうちはなった。
目と鼻の先の屋根に食い込む影の拳。
拳は再び引き戻され――刹那。
爽は拳の上に飛び乗った。
もう少しで哺乳瓶の口に近付く。
今だ!
爽は影を蹴った。大きく跳躍し、哺乳瓶の開口部の縁に蹴りが炸裂。
瓶が大きく揺れる。
爽の行動に慌てた菅嶋が、咄嗟に彼を叩き落そうと裏拳で反撃。
爽は中空で身を反転させると綺麗にそれをかわす。
標的を失った菅嶋の裏拳は、勢い余って哺乳瓶にヒットした。
彼の反撃が爽の蹴りの後押しをした形となって、哺乳瓶は後方に転倒した。
周囲に、乾いた硝子の衝突音がけたたましく響く。硬質な硝子を使用しているのか、見るからに激しい衝撃の割には、以外にも哺乳瓶は砕け散りはしなかった。
倒れた口から、白い霧のような気体が静かに流れ出ていく。
「しまった! 」
菅嶋は自分のしでかしたオウンゴールに狼狽した。其の動揺のせいか、彼の影は一気に収縮し、元のサイズに戻っていた。
御方様の機嫌を損ねてしまう――彼の思考はその苦界を彷徨い、後悔の念が冷静な判断を下す意識の指示系統を根こそぎ奪っていた。
「中身はミルクじゃなかったんだ・・・」
哺乳瓶のそばに降り立った爽は、哺乳瓶から静かに溢れ出る気体を呆然と見つめた。が、すぐに我に返ると、溢れ出る白い気体の中に突入した。
「美津帆! 」
爽は美津帆の名を呼びながら、闇雲に哺乳瓶の中に飛び込んだ。
ひょっとしたらこの気体は人体を溶かしてしまう危険な物質かもしれない。
彼は一瞬そう思った。だが、無謀とも取れる行動を、彼は中断しようとはしなかった。
もし、跡形も無く消え去るのなら、それはそれで構わない。
ずっと美津帆と一緒にいられるのなら。
傍らで立ち竦む菅嶋の姿など、もはや彼の眼中にはなかった。
彼は美津帆だけを見ていた。
気体の中に、あるいは気体と化したかもしれない美津帆の姿だけを。
爽は不思議な事実に気付く。
気体は、彼を避けるように外へ外へと流出しているのだ。
不意に、誰かが彼にしがみついた。
美津帆だった。
爽は彼女を抱きしめると、哺乳瓶の外へ脱出した。
「大丈夫? 何ともない? 」
心配そうに声を掛ける爽に、美津帆は笑みを浮かべながら頷いた。
安堵のせいか、彼女の瞳から涙が零れ落ちる。
「よかった・・・」
爽の眼にも涙が光っていた。再び自分の腕の中に美津帆が戻ってきた喜びの涙だった。
二人は、見つめ合い、そして自然に唇を重なていた。
その姿を、菅嶋はじっと見つめていた。
美しいと思った。
愛する人の為に我が身を顧みずに行動する爽と、爽が助けに来てくれると信じて最後まで抵抗を試みた美津帆の姿が、切なくなるほどに美しく、そして心の底から羨ましく感じられたのだ。
自分はどうなのか。
今までの自分は。
御方様の為に。
全てを犠牲にしても、御方様だけの為に。
それは、友情? 其れとも性別を超えた愛情?
違う。
彼は自覚していた。
御方様――否、瀬里沢の持つカリスマ的な人望が紡ぐ人脈と、性別を超えて誰しもが認める美貌、それに、将来を保証された財力――それらに、魅せられた訳じゃない。他の者達は、瀬里沢目的で集まる異性との関係を深めたり、瀬里沢の財力の恩恵を目的にしているのが露骨なまでに目に付く中、彼だけは違う存在であることを自負していた。
瀬里沢が羨ましかったから。自分にはないカリスマ性を秘めた瀬里沢という存在が。
近くにいれば、それが何なのか分かると思った。彼の意に沿う行動をとれば、彼の真似をすれば、自分にもカリスマ性が芽生えるのではないかと思った。更に付き合いを重ねるにつれ、彼の特異的な一面を吸収しながら、反対に彼に不足しているものを補えていけば、自分は彼と同じベクトルに立てるのではないかと思い始めた。
特に、この異界に自己の存在を認めてからは。
確証はなかった。確証などなくても、簡単にことは進むだろうと考えていた。
でも、それは間違いだった。
菅嶋は気付いた。
ただ単に自分の価値観を瀬里沢に押し付けていただけだと。
自分の行為を、瀬里沢は喜んでいた――それは自己満足に過ぎなかったと。
瀬里沢は、菅嶋に時折寂しげな笑みを浮かべることがあった。それは決して彼の行為を愛でるものではなく、的外れな行為であることを諭そうとしていたのではないか。
瀬里沢は人を傷つけることを心底嫌っていた。それは以前、彼の口から直接聞いたことがあった。幼い時、自分に好意を持っていた女子がくれた手紙を友人達が見つけてしまい、騒ぎ立てたことでその女子を傷つけてしまったのだと。その時、友人達を止められなかった自分の弱さと女子への罪悪感が、未だに彼を苦しめていると。
その当時の友人達とは高校時代も親交はあり、自分が極力手本になる行動をとって彼らが人を傷つけないように悟らせようとしているらしい。
でも、それは簡単じゃないよねと、彼は苦笑を浮かべていた。ただ単に考えの押し付けではなく、悟らせ、理解させることは、とんでもなく大変だことなのだと。
それが誰なのか、瀬里沢は決して名前を明かそうとはしなかった。その女子のことも、友人のことも。
菅嶋は吐息をついた。
肺の奥底に溜まった吸気を全て絞り出すかのような、大きくて深い吐息だった。
何やってんだ、俺。
目の前で抱擁する爽と美津帆の姿を微笑ましく見つめている自分に、菅嶋は何だか救われた気分になっていた。
「爽、あれ見て! 」
美津帆は唇を離すと、哺乳瓶から溢れ続けている白い気体を指差した。
「ん? 」
爽は、美津帆に言われるままに、彼女の指さす方向に目を向ける。
彼は息を呑んだ。
流れ出た気体がアメーバのように伸長しながら分裂すると、次々に凝縮し始めたのだ。
気体は見る見るうちに人型を成し、やがて色彩が表面を染め上げていく。
二十代から三十代くらいの女性ばかり。服装もスーツからジャージ姿までとまちまちの格好だった。
この哺乳瓶の虜囚になっていた被害者達だ。瓶が倒れ、気体がこぼれ出た瞬間、彼女達に掛けられた呪縛が解けたのだ。
彼女達は状況が呑み込めていないのか、驚きの表情で周囲を見まわしている。
「ママッ! 」
「お母さん! 」
突然、商店街の陰から大勢の子供達が駆け寄ってくる。その後ろには、避難したはずの町の人々が、恐る恐るこちらを眺めて様子をうかがっているのが見える。巨大な哺乳瓶が倒れたのを見て、彼らは様子を伺いに舞い戻ってきたのだ。
歓喜の声が、あちらこちらで湧き起こる。
我が子と抱き合い、再会を喜ぶ者。家族と抱き合い、泣き崩れる者――辺りは再会を喜ぶ祝福の声で満ち溢れ、さながらお祭りの様な騒ぎになっていた。
「助かった」
聞き覚えのある声に振りむいた爽の目に、一人の少女の姿が映った。
小夜だ。
「ありがとう。あれに取り込まれてしまうと、中からじゃ何もできなくて」
小夜は微笑みを浮かべながら爽と美津帆に頭を下げた。
「君も捕まっていたのか・・・」
爽が感慨深げに呟いた。今まで爽達の前に現れた妖じみた取り巻き連中を難無く倒してきた小夜にしては珍しい展開だった。
「油断した。彼は他の連中と違って心に不思議な迷いを抱えていたから」
小夜はばつが悪そうにぺろっと舌を出した。
その表情に、美津帆は吹き出しそうになるのを両手で口を押えて我慢する。
爽も、小夜が見せた人間味のある表情に驚きを隠せなかった。今まで感情を押し殺したような能面のようなマスクで接してきただけに、妙に親近感を感じる。
爽はふと、思考の引き出しを開き始めた。小夜に抱いていたイメージが誤りではないか――そう疑い始めたのだ。
ついさっき、美津帆との考察の中で、瀬里沢の父親をだましたのは小夜かもしれないと触れたくだりがあった。だが今の彼女の姿を見ると、何となくそんな過ちに手を染めるようには感じられなかった。
全てを見抜ける力を授かっている訳じゃない。
だがそれは、合成しようのない仕草や表情に顕著に表れる。
(慎重に進めるべきか。あくまでも推測なわけだから)
爽はそう自分に言い聞かせた。
その時、不意に黒い影が彼の左目側の視界を過ぎる。
菅嶋だ。彼はとぼとぼと歩きながら哺乳瓶に近付くと、両手を大きく天に向かって突き出した。彼の手の影が、巨大なボクシンググローブの様に膨れ上まさか。
再会の喜びに浸っていた街の人々から不安に満ちた悲鳴が沸き起こる。
「菅嶋っ!」
(反撃するつもりなのか? まさか、あの手で街のみんなを叩き潰すつもりか? )
爽が菅嶋に飛びかかろうとした刹那、小夜が手を彼の前に出し、それを妨げた。
驚きの表情で小夜を見る爽。
「大丈夫、彼は目覚めた」
小夜は静かに呟くと、菅嶋の動きを目で追った。
菅嶋は両拳の両拳はぐんぐんと伸長し、押し迫る夕闇に溶け込んでいく。
「このくらいかな・・・」
菅嶋はそう呟くと、一気に腕を振り下ろした。巨大化した拳の影は彼の動きと連動し、猛スピードで地表めがけて落下した。
巨大な黒い拳が、哺乳瓶に激突。同時に、乾いた粉砕音が周囲に響き、破片が氷の様に路面を滑る。
役目を終えた巨大な拳の影は、輪郭を失うと空間に溶け込むようにその像を失った。それに付随するかのように、粉砕した哺乳瓶の成れの果ては、夕闇に深紅を落とす残照に照らされて燃えるような朱の光を瞬かせながら、痕跡一つ残さずに路上から消滅した。
再び湧き上がる歓声が、界隈にこだまする。
菅嶋はほっとした表情で歓喜に沸く民衆の姿を見つめた。
「これで俺の呪力は無くなった。もう必要無いしね」
菅嶋は笑みを浮かべた。苦し紛れに粋がって浮かべている訳ではない。心から安堵しているかのような、柔らかな満足げな笑みだった。
「さあ、俺を消してくれ。君の剣で」
菅嶋が、落ち着いた声で静かに小夜に語り掛けた。
「その必要はない。貴方は自身の力で昇華する」
小夜はやさしく微笑んだ。その表情に、今まで介してきた取り巻き達に向けられていた冷ややかな殺気と嫌悪は、微塵も感じられなかった。
小夜の答えに、菅嶋は笑みを浮かべながら頷いた。
「住民の皆さん、今までご迷惑をお掛けし申し訳ありませんでした」
菅嶋は徐に住民達に向かって謝罪すると、深々と頭を下げた。
一瞬、最悪のシーンが脳裏を過ぎる。民衆の怒号と罵声を浴びながら、袋叩きにされる彼の姿が。
(止めなければ。菅嶋は反省し、虜囚を解放しただけでなく、人々を苦しめていた嫌悪と恐怖の象徴を自らの手で破壊したのだ。自分の呪力と引き換えに)
爽の表情に緊張が走る。
深々と頭を下げる菅嶋を、人々は黙って見ていた。
重い沈黙の時が、空間をセピア色に染めていく。
「ありがとう」
その声は、押しつぶされそうになった意識の重圧に、小さな穴を開けた。
子供の声だった。
「ありがとう」
「ありがとう」
子供達の中から感謝の声と共に拍手が沸き起こる。
子供達が紡いだ感謝の言霊と拍手は、無表情だった大人達の表情に当惑を投げ掛け、やがてそれは柔和へと変貌した。
「ありがとう」
「ありがとう」
感謝の声と拍手が、大人達にも伝播する。
菅嶋は泣いていた。自分の犯した罪への懺悔と、それを許してくれた民衆の温かい心に打たれ、感涙していた。
爽はほっとして美津帆を見た。美津帆も安堵の笑みを浮かべながら爽を見つめた。「みんな、瀬里沢を救ってやってくれ。頼んだぞ」
菅嶋は涙をぬぐうと、爽達を見つめ、頭を下げた。
菅嶋の像が、ゆっくりとぶれ始める。輪郭が朧げな点描画と化し、消えた。
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