第9話  混沌散界

「どう? あった? 」

 小声で話し掛けて来る美津帆に、爽は浮かない表情で首を横に振った。    

 書物のインクが醸す無機質で味気ない匂いが仄かに二人の鼻孔をくすぐる。

 とある図書館の郷土関連コーナーに、二人の姿はあった。図書館と言っても彼らが務める大学の施設ではなく、彼らの故郷にある県営図書館だ。

 地方の経済誌なら、瀬里沢グループ崩壊の顛末と一族のその後について書かれているかもしれない――そう思いついてから即行動、今は目的地の図書館での探索に勤しんでいる二人だった。

 休日ということもあってか、図書館はそこそこ人の姿が見られたものの、コロナウイルス感染を嫌ってか、席について読書にふける人影はまばらで、ほとんどの来館者は目的の本を見つけると貸出受付カウンターへと並んでいた。

 それ故に、書棚の間をせわしなく行き来しても他の利用者に迷惑をかけることはなく、ましてや二人の探索箇所が結構マイナーな分類であるためか、そのコーナーの一角は二人の貸し切り状態だった。

 郷土コーナーとしてはタウン誌から郷土史に至るまで、地元に関わるありとあらゆる書物が揃えられているものの、目的の経済界ジャンルは二誌のみで、それぞれ県内全域のものと市内限定のもの一誌ずつとなっていた。

 図書館の職員に話して保管されている過去のもの用意してもらい確認したものの、関連した記事は瀬里沢の会社が倒産した事実を記載したものばかりで、その後の一族の動向について触れたものは皆無だった。

「よくある週刊誌みたいな記事って無いものなんだ」

 美津帆が落胆の吐息をついた。

「この手の雑誌って、結構お堅い内容ばっかなんだな」

 爽は読み掛けの経済紙を机上に置いた。

 不意に、爽のスマホから呼び出し音が流れる。

 爽は慌ててデニムの後ろポケットからスマホを取り出した。

 姉からだ。

「あ、もしもし。うん、今、大丈夫だけど・・・何? えっ! 」

 爽の表情がにわかに強張る。

 彼の緊張した面持ちから不穏なものを感じたのか、美津帆は雑誌のページをめくる手を止めると、心配そうに彼を見つめた。

「ありがとう! また何か分かったら連絡頂戴! じゃあ」

 爽はスマホを机上に置くと、大きく吐息をついた。

「どうしたの? 」

 美津帆が心配そうに爽を見つめる。

「姉ちゃんからでさ、瀬里沢のことで情報が入ったからって連絡してくれたんだ」

 爽は顔を紅潮させながら興奮気味に美津帆に答えた。

「どんな事?」

 すかさず顔を寄せる美津帆。息遣いが爽の顔の間近に迫る。

「瀬里沢の父親が亡くなったのって、病死じゃないらしいぜ。表向きは心筋梗塞らしいんだけど」

「それって、まさか・・・自殺ってこと? 」

「ああ。親父の客で瀬里沢の父親と公私ともに付き合いのあった人から聞いたらしい。姉ちゃんが俺達が瀬里沢の事を探しているらしいって親父に言ったら、たまたま通院してきた客に聞いてみたんだって。色々話しているうちに、急に声を潜めて誰にも言わんでくれって前置きした上で教えてくれたらしい」

「経営で悩んでたのかな」

「それがそうでもないらしい。コロナ禍で客足が遠のく中でも、新事業を色々やろうとしてたみたいだから。実際、会社が傾いたの、瀬里沢の父親が亡くなってからだからな」

「じゃあ、何故・・・」

「家族のことで何かあったみたいらしい」

「何があったんだろう」

「その人、瀬里沢の父親が亡くなる二日前に会って話をしているんだけど、何でも憔悴し切って見てられない程の衰弱振りだったそうだ。理由を聞いても応えず、ただぽつりと『俺はあの女に騙されていた』とだけいったらしい」

「何らかの詐欺にあった? 」

「かもしれないな・・・」

 爽はふと雑誌に目線を落とした。

「え、これって・・・」

 爽は記事の一文を凝視した。

「どうしたの? 」

 爽のただならぬ反応に、美津帆が横から覗き込む。

「えっ! 」





 

 激しく降りしきる雨が、摺り硝子の窓を容赦なく打ち据える。

 サッシではない。今の時代には珍しい、昭和の匂いを感じさせられるような煤けた木枠の窓だ。窓だけではない、壁も、床も、天井も、木目むき出しの板張りで、家具が一つもない。広さは小さな宴会場位か。仄かに立ち上る気の匂いに森林浴を彷彿させる清々しさはない。埃っぽい無機質な空気と、酒蔵の様な微妙な発酵臭が部屋を満たしている。

「何だろ、この部屋・・・生活感が無い。空気も淀んでいるし」

 美津帆は部屋の空気があわないのか、鼻と口を右手で覆いながらくぐもった声で呟いた。

「廃屋? にしてはきれいだよな」

 爽はじっと床と天井に目を向けた。床には塵一つ落ちていないし、天井にも蜘蛛の巣一つない。ただ、人が住んでいる感じは全くしなかった。

 不意に、背後で仄かな衣擦れが無機質な旋律を刻んだ。

 二人は振り向き、息を呑んだ。背後の数メートル先に、背もたれ付きの椅子があった。

 誰かが、腰かけている。こちらに背を向けて、俯き加減で。

 ショートヘアーの襟足から項の白い肌が見える。

 白いシーツにくるまっているらしく、覆いきれずにむき出しになった肩のラインは柔らかな曲線を描いており、恐らくはその人物が女性であることを物語っている。

 それも、二人がよく知っている人物。

 ただならぬ緊張感が、爽をどっぷりと包み込む。

 声を掛けなければ。

 そう思いながらも、彼の唇はからからに乾き、まるで瞬間接着剤を注入されたかのように、上下がぴったりと接着して開かない。

 そればかりか、喉もきゅっと気管が閉塞したかのような感覚にとらわれており、整体を震わせるだけの吐気を排出する力を失っていた。

「君は・・・? 」

 漸く、爽は無理矢理唇を引き剥がすと、椅子に腰かけている人物に恐る恐る声を掛けた。

 僅か一言だった。

 だが、その一言を吐き出すのに、彼は全身の力を全て振り絞る必要があった。これ以上の言葉を綴ると、それは禁忌の呪文となって、彼を不幸のどん底に陥れるだろう。認めたくない現実という不幸に。

 爽の声に、彼女はゆっくりと顔を上げた。

「香純なの? 」

 美津帆が悲痛な面持ちで彼女に声を掛けた。

 美津帆の声に答えるかのように、彼女は椅子から立ち上がると、ゆっくりとこちらに振り向いた。

 ずり落ちかけている白いシーツを右手で押さえるものの、その行為が深く切り込んだ胸元の谷間をかえって強調し、けしからん状態になっている。

 童顔とはアンバランスな体躯に、爽は不思議な魅惑を覚えていた。男の父子本能というべきか・・・この子を守らなければという感覚。自分がボディーガードかナイトになったかのような妙な保護本能が、爽の潜在意識に芽生えていた。

 だが、それ以上深くのめりこむことはなかった。

 彼の深層心理が急制動をかけていたのだ。彼の意識に、それが禁忌の行為であること気付かせるかのように。

「香純・・・さん」

 爽は熱病にうなされているかのように苦悶で顔をゆがめると、一文字一文字確かめながら言葉を紡いだ。激しく脈打つ心臓の鼓動が、意識と思考を極度の緊張に追い込み、彼の頬の筋肉を石の様に硬直させていた。

「香純さんは・・・瀬里沢のお母さんだったんですね」

 爽は大きく息を吐いた。とてつもなく長い坂を一気に駆け上がった直後の様に、彼の血圧はレッドゾーンにまで振り切っていた。

 彼にとって、大きな仕事だった。研究の一環で、あらゆる人々の深層心理に迫り、中でも犯罪に手を染めた人の背景を取材や謁見で聞き取りをする時よりも、遥かに負荷の大きい仕事だった。

 でも、やり遂げたという達成感はない。むしろ聞かなければよかったと言う後悔が、何故か彼の意識下で扇動を繰り返していた。

 ただこの大役を美津帆に委ねる訳にはいかなかった。この事実の決定的な証拠を最初に目の当たりにしたのが彼だったからだ。

 図書館所有の地方財界関連の雑誌の一ページ。瀬里沢の父親の葬儀の記事に貼り付けられた画像に、香純が映っていたのだ。

 亡くなった彼の父親の妻として。

 年齢的には、爽の両親よりも少し若いくらいか。勿論、異界での姿ではなく、苗字も瀬里沢となっていたが、年齢相応の風貌でありながらも面影が残っており、又、ショートの黒髪といった異界同様のヘアースタイルであったので、チラ見で拾った写真であっても、彼の眼を引くには十分だった。

 爽の問い掛けに、香純は無言のまま笑みを浮かべ、そっと頷いた。

「何故、私たちに近付いたのですか」

 美津帆が敬語で香純に問い掛けた。爽同様に緊張しているのもあるだろうが、彼女は彼女なりの敬意を表したのだろう。姿は同年代でも、現実の世界では香純は自分達の親に近い年齢なのだ。

「今は、言えない」

 香純は短く言葉を綴った。彼女も爽同様、苦悶の表情を浮かべながら、伏目がちに一文字一文字絞りだすような声で美津帆に答えた。

「ひょっとして、この異界を創ったの、香純さん? 」

 爽はふと脳裏に浮かんだ憶測を香純にぶつけてみた。

 香純は目を細めると、無言のまま首を横に振って否定した。

 嘘ではない――爽は、そう感じ取っていた。

 香純の取ったささやかな仕草。そこに言葉の羅列による言い訳や虚言は無く、彼女のよどみない動作や表情からにじみ出る誤魔化しの無い素朴で真っ直ぐな気風を感じていた。

「これから、どうするつもりですか? また私達と一緒に? 」

 美津帆の問いかけに、香純は再び首を横に振った。

「私は、私一人の力で賢人を探します。今までありがとう・・・」

 香純は優しい眼差しで二人を見ると、そっと微笑んだ。

 彼女を包んでいた白いシーツが、乾いた衣擦れと共に静かに床に落ちる。

 消えた。

 香純の姿が、二人の視界から忽然と消え失せていた。

 残された背もたれのある大きな椅子と、床に落ちた白いシーツが、さっきまで彼女がいた痕跡をかろうじてとどめている。

「消えた・・・」

 爽は、香純が座っていた椅子に歩み寄ると、床に落ちた白いシーツを手に取った。

 まだ仄かなぬくもりが残っている。

 僅かに醸している植物的な匂いの残渣が、爽の鼻孔をくすぐった。女性特有のホルモンと皮脂が合いまった香純の残り香だった。だがそれは、明らかに成長期の少女のものではなく、成熟した大人の女性のそれに似ていた。

 爽はシーツを綺麗にたたむと、そっと椅子の上に置いた。

「香純はさ、ひょっとしたらこの異界の住民なのかもね」

 美津帆がしみじみと呟いた。

「でも、異界と実界を行き来しているようなことを言ってたぜ」

 爽は首を傾げた。

「私たちに合わせていただけじゃないかな・・・」

「どうしてだろ」

「私達を利用してたのかも。瀬里沢を探すために」

「この異界の瀬里沢って、何故か取り巻きを使って近付いて来る者達を追っ払おうとしてるじゃない。何故そんなことをするのかが分かんないんだけど。それで、立ち向かうのに仲間が欲しかったんじゃないかな」

「確かに、そうかもな・・・でも、何故母親を拒絶するんだ? うーん、何かごちゃごちゃしてきた」

 爽は頭を抱えた。

「まあね」

 美津帆は苦笑を浮かべながら、爽の肩を軽く叩いた。

「小夜の存在もよく分からないしな・・・最初、体育館で瀬里沢を連れ去った手は、明らかに小夜だった。香純から瀬里沢を遠ざけようとしながらも、彼の取り巻きや深い関係にあった人物を消そうとしている。そう考えると、彼女は瀬里沢一派とは別の立ち位置に存在するのかもしれないし・・・どうなんだろ? 」

 爽の考察に聞き入っていた美津帆は、眉をハの字にすると首を傾げた。

「謎が多過ぎ。あ、そうだ! 忘れてた! 」

 美津帆の目が、きらりと光る。

「どうした? 」

 美津帆の突然のリアクションに、爽が驚いた表情で彼女を見る。

「爽がさっき言ってた、瀬里沢の父親が亡くなる前に言った『俺はあの女に騙されていた』ってやつだけど」

「ん? 」

「ひょっとしたら、小夜の事じゃない? 実は小夜の実年齢も香純みたいにもっと高くて、瀬里沢本人じゃなくて父親と何か関わっていたんじゃ」

「そうか・・・そうともとれるよな」

 美津帆の得意気な推理に、爽は大きく頷いた。

「二人の間に何があったんだろう 」

「そこがね・・・分からない。それに、異界での彼女の行動も理由が分からないし」

「じゃあ、全く関係がなかったかもしれないってことか」

「まあね、そうなるか」

 美津帆は顔をしかめると不服そうに口を尖らせた。

「とりあえず、ここから出るか」

「うん。でも、どこから出るんだろ」

「え? 」

 美津帆の指摘に、爽は改めて部屋を見渡した。

 無駄に広いがらんとした空間のどこを見ても、出入り口らしいところがない。

「開かずの間ってか・・・まさかな」

 二人は部屋の中を歩き回って確認してみたが、やはり戸や扉の類は全く無かった。見渡す限りでは元々あった出入口を後に封印した痕跡は無く、間違いなく建てられた当初からこの部屋は隔離された空間だったようだ。

「そうだ、窓は? 」

 二人は摺り硝子の窓に駆け寄るが、直後に落胆的事実に直面した。

「この窓、みんなはめ殺しになってるよ」

 爽は重い吐息をついた。

「私達、閉じ込められた? 」

 美津帆が不安げに爽を見つめた。

「まさか。誰が、こんな事・・・香純? 」

 爽は信じたくない推測に表情を歪めた。

「かも・・・」

 美津帆は悲しそうに口をつぐんだ。

「さっき、香純は瀬里沢を自分で探すって言ってたけど、俺達に探すなとは言ってないよな? 」

「ええ、まあ・・・」

 美津帆が訝しげにつぶやく。

「じゃあ、閉じ込める理由はない。何かしら方法があるはずだ。あっ! 」

 突然、爽が素っ頓狂な声を上げると、椅子に向かって駆け出した。

「ど、どうしたのよ急に! 」

 爽の突拍子のない行動に、美津帆は目を真ん丸にして驚きの声を上げた。

「これだよこれっ! 」

 爽の手には白いシーツが握られていた。

「それって、香純が体に巻き付けていたシーツ・・・」

「そう! 彼女がこの部屋から忽然と消え失せる直前まで身に着けていたやつだ」

「どうするつもりなの? 」

 美津帆が怪訝な表情で爽を見つめた。彼を見つめる目に心なしか不安の色が浮かんでいるような気がする。

「これを被るんだ」

「えっ? 」

 意気揚々と言い切った爽に、美津帆は呆気に取られて言葉を失っていた。

「さっきさ、香純はこれを纏ってて忽然と消え失せたろ。この部屋の脱出アイテムはこれだぜ、きっと」

 興奮気味の爽を、美津帆は沈着冷静に呆れ果てながら見つめた。

「行くぞっ! 何処に跳ぶか分からないけど」

「えっ! 」

 戸惑う美津帆にお構いなしに、爽は彼女を抱き寄せると頭からシーツを被った。

 

 

 



 

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