第7話 傷心者の心象風景
「いいところで異界の時間か」
爽は忌々しげに呟いた。
「ここ、どこだろ」
美津帆は目を凝らした。
夜の住宅街。かなり昔に建てられたのだろう。瓦屋根やトタン屋根の家並みは似通った造りになっており、くすんだフォルムのシルエットが幾重にも連なっている。月明り一つ無い濃厚な紺青の闇に沈む町並みは静寂に包まれ、時の経過すら息を潜める程、動く影は全く存在していない。
「見たことのない街だな」
爽はありったけの記憶の引き出しを引っ掻き回してみたものの、何一つとして手掛かりになる痕跡は見当たらなかった。それは美津帆も同様らしく、見知らぬ街に対する警戒心がわらわらと全身から迸っている。
「爽、香純は? 」
美津帆が訝し気に爽を見た。
「そういや、いないな。どうしたんだろ」
爽は首を傾げた。
「私達が香純の事調べ始めたからかな」
「でも、香純には分らんだろうに」
「よね・・・あ、でも、もしこの世界が彼女の思いが作り出したものだったら、どうよ? 」
「思い? あ、ひょっとして瀬里沢への思いか? 」
「そう。もしこの世界が、彼女の桁外れに強い瀬里沢への執着心が創り出したものだとしたら、そのフィールドに飲み込んだ私達の思考は彼女に筒抜けになってんじゃないかな」
「確かに、そう考えるとつじつまが合ってくる」
爽は感慨深げに頷いた。
「でしょ! ここにきて私達が香純と小夜の関係に興味を持ち始めたから・・・それこそ、探られたくない何かがあるのかも」
美津帆の推測に、爽は再び大きく頷いた。
同感だった。
冷静に考えれば、ストーリーは瀬里沢を追い求める彼女中心に進んでいる。客観的にみると、爽と美津帆はサブキャラに過ぎないのだ。
但し、疑問なのは、何故この二人がキャストに選ばれたのかだ。それも、高校時代同じクラスだったとは言え、明らかに瀬里沢とは距離を置いていた二人を。
「分からんよね。でも、はっきりしているのは小夜が瀬里沢の今カノで、香純が元カノ・・・まてよ、そうとは限らないか」
「どういうこと? 」
「うん。香純はさあ、ひょっとしたら瀬里沢と付き合っていたんじゃなくて、片思いしてるだけかもね。だから今カノの小夜に嫉妬して、執拗に瀬里沢に近付き、奪おうとしている」
「ストーカーみたいな感じ? 」
「そんな感じ」
「成程、腑に落ちる」
爽の推測を肯定するかのように、美津帆は小さく頷いた。
「そうなれば、瀬里沢に近過ぎず遠からずの俺達をキャスティングしたのも分かるような気がする」
「瀬里沢のプライベート情報を掴んでないから? 」
「そうだろうな。その方が色々と扱いやすいだろうから・・・ん、どうした? 」
不意に目線を泳がした美津帆に、爽が問い掛けた。
「何か変な音がする。ずりっずりっとかぐにゅぐにゅって感じの音」
美津帆に言われ、慌てて爽は耳を澄ませた。
聴こえる。
美津帆の言う通り、水気を含んだ粘着質な異音が爽の耳にも捉えられていた。
生理的に嫌悪感を抱くような不愉快な音だった。
それも、何となく次第に彼らに近付いてきているように感じられる。
「RPG的な妖魔かもな」
爽は音源を求めてじっと闇を凝視した。
「やめてよ。私達、武器も防具もないし、呪文も使えないし」
美津帆の顔が苦悶に歪む。
「いざとなったら、この前の変態野郎みたく蹴っ飛ばしてしまえよ」
「それは相手によるでしょ。人間ならいいけど、この感じ、何となくそうじゃなさそうな気がする」
楽観的な爽とは対照的に、美津帆は不安に表情を硬く強張らせながら、生唾を嚥下した。
その間にも、異音は確実に二人との距離を詰めてきている。
住宅街であるにも関わらず、街灯一つ無い町並みは、闇と建造物との境界がすこぶる曖昧だった。闇に浮かぶ点描画の様な輪郭を留めている黒い影が、かろうじて家並みの立体的な存在をかもしているに過ぎない。
不意に眩い橙色の明かりが周囲に灯る。爽達の傍らに立っていた街灯の一つに光が灯ったのだ。決して強い光源ではないものの、圧倒的な勢力を誇る闇に一矢を報いる心強さが、光の波動を通して二人の意識にも語り掛けていた。
爽は、息を吞んだ。
美津帆も同様に、口を開いたまま身じろぎもせずに前方を凝視している。
大玉送りの玉くらいはある巨大な白い球。その中央には茶色の縁取りと黒の二重になった円が爽と美津帆を捉えていた。
眼球だった。白目の部分には充血したような赤い毛細血管が走り、眼球を支えるように無数の管の様なものが絡み合いながら路面で蠢いている。
視神経だ。体液に濡れたそれらは艶めかしい光沢を放ち、器用に収縮を繰り返しながら、少しずつ眼球を前へ前へと送り出していた。
爽は美津帆をかばって眼球の妖の前に立つと、その異形と真っ向から対峙した。
どちゃつ どちゃっ
眼球は不快な不協和音を奏でながら、ゆっくりと、着実に爽達に近付いて来る。
「逃げよう! 」
爽は美津帆の手を取り、反対方向に駆け出そうと――踏み出した足は即座に停止した。
二人の目に、背後から近付いて来るもう一つの眼球の姿が映っていた。眼球だけだはない。二人の両サイドからは神経の束とともに三半規管を引き摺りながら迫りくる耳が、眼球の斜め後ろからは巨大な鼻が鼻孔をひくひくさせながら近付いて来る。
「ひゃひゃひゃひゃはははっ」
突然、二人の背後からけたたましい嘲笑が響いた。
間近に迫る眼球の後ろで、巨大な唇が中空を漂っていた。抱き枕を二つ重ねたような、一気に人一人ぱくりと飲み込んでしまいそうな巨大な口が、ぬめぬめと怪しげな光沢を放ちながら野卑な笑声を奏でていた。
男声だった。それも、爽には聞き覚えのある声だった。
「やめとけやめとけ! やめとけやめとけ! お前らごときに御方様を渡せるものか! 帰れ帰れ! 」
口は唇の端から泡を吹きながら、爽達に罵声を浴びせた。
「無理無理、お前達にはむりだってさあ! 」
鼻の後ろから、もう一つ口が現れた。
口だけではなかった。眼球が、耳が、鼻が、あちらこちらの闇の中から忽然と現れ、爽達を取り囲んだ。
「なんで手をつないでんだ? 」
「ひょっとして、お前達、付き合ってんの? 」
「下々の者同士仲良くやってろっ! 」
「あれえ、保住じゃん! 」
「保住! 」
「保住! 」
声は一つだけではなかった。男だけじゃない。女の声も交じっている。
声は次第に美津帆を取り囲み、囃し立てるように彼女の名前を連呼した。
「保住ってさ、御方様のことが好きだったんじゃないのお? 」
目の前の唇が、口角を吊り上げながら皮肉っぽく吐き捨てた。甲高い男声。最初に嘲笑を上げたのもこの口だ。
美津帆の顔色が、さっと血の気が引いたように青白く変貌する。
「手紙を送ったんだよねえ」
「学校の御方様の下駄箱にいれて」
「俺達が見つけてみんなの前で発表したんだよな」
「うけたよなあ」
「うけた! うけた! 御方様も腹抱えて笑ってたよなあ」
爽は驚いた表情で美津帆を見た。
いない。高校時代の彼女の姿は、搔き消すように消え去っていた。
狼狽する爽の目に、一人の少女が映っていた。ショートカットの髪。白いカッターシャツに、きっちりプリーツの入った紺色のスカートを履いている。
爽とは違う地区の小学校の制服だ。確か彼の地元にある国立大学の付属小学校。
彼の腰ほどしかない背丈から、まだ低学年の様に見える。
美津帆だった。
幼い面立ちとは言え、その容姿からは美津帆の面影を見出すことができた。
彼女は泣いていた。
かっと見開いた瞳から、大粒の涙を流していた。
悔しそうに、ぐっと唇をかみしめて。
でも。暴言を吐く唇の化け物からは決して目を逸らしたり、顔を背けたりしないで。
「やーい、やーい、上から読んでも下から読んでもホヅミミヅホ~!」
「上から読んでも! 下から読んでも! 」
「上から読んでも! 下から読んでも! 」
「上から読んでも! 下から読んで――ぎゃっひいいい! 」
突然、巨大な口が悲鳴を上げると苦悶に唇を歪めた。
爽が、罵り続ける下唇を右足で思いっきり蹴り上げたのだ。
「お子様かよ」
爽が、悶絶する唇に冷ややかな一声を吐き捨てる。
「ぼ、暴力反対! 」
巨大な口は急遽口元を下げると身を小刻みに震わせる。
「何が暴力だ。その台詞、平気で人を傷付け続けるお前にそっくり返してやるよ。力だけが暴力じゃない。言葉だって相手を傷つければ立派な暴力だ」
爽はじっと巨大な口を見据えた。彼の懇親から放たれた怒りの言霊は、淡々と静かに重い旋律を刻み、調子にのりまくっていた輩どもの動きを一瞬にして凍てつかせていた。
「ぐぬう・・・」
口の化け物は悔しそうにわなわな震えた。
刹那。
爽の右ストレートが、妖の上唇に喰い込む。
「ふぎゅいいいーっ! 」
唇は絶叫を上げると大きく後方へ素っ飛んだ。
「二度と俺の嫁を泣かすんじゃねえっ! 」
激高の叫びが熱い波動となって妖達に襲い掛かる。先程の静かな語りとは対照的な感情の炸裂に、妖達は動揺したのか体を震わせながら右往左往し始めた。
だが、爽は容赦なくもう一つの巨大な口に殴り掛かる。
口はかろうじて爽の拳を交わすと、慌てて後方に撤退を試みる。
だが、口は動けなかった。
引きつった唇の端を、美津帆の手がむんずと引っ掴んでいたのだ。
元の姿の――高校生の美津帆が。
「何が上から読んでも下から読んでもだあ? いい加減に覚えなさいよ! 私の名前はホズミミツホ。全然ループしてないだろがっ! 苗字はホズミで『ス』に点々、名前はミツホで濁点無しで、しかも『ツ』。わかったかあっ! このすっとこ野郎!」
美津帆の右脚が大きく弧を描く。
「ひゅびいいいいいっ! 」
甲高い悲鳴とともに、巨大な口の妖は夜空へと消えた。
美津帆は高々と上げた右脚を、何事も無かったかのようにゆっくりと下した。
「凄い――な」
爽はごくりと生唾を飲み込んだ。
美津帆の懇親の蹴りを受けて、哀れな妖は何処まで飛んで行ったのか。
「見えた! 」
「見えた! 」
「白! 」
「白! 」
美津帆の背後で、猥雑な声を上げる妖達。
さっき爽と美津帆に吹っ飛ばされた口達だ。
いつの間に戻ってきたのか。
その疑問を抱くよりも、美津帆の動きは早かった。
まずは目撃者の眼球達に正拳を連打し、おしゃべりな口を再び蹴りで封じ、右往左往する耳と鼻にも次々に拳と蹴りを打ち込んでいく。
「すげえ、無双じゃん・・・」
美津帆の圧倒的な攻撃力に、爽は呆気にとられたまま呆然と立ち竦んでいた。
(さっきまでみんなから囃し立てられて泣いていた姿は、いったい何だったんだろ)
いつも一人で読書をしている高校時代の大人しいイメージばかりが付きまとっていたのだが、爽の中で美津帆のイメージが一気に塗り替えられていくような気がした。
(面白い――面白いじゃねえか、この娘! )
「これで終わりっ! 」
最後に残ったでか鼻を蹴り倒すと、美津帆は風っと息を吐いた。
吐息じゃない。どこか満足げな、締めの呼吸だった。
「めっちゃつええんだな」
爽は高揚した半音上がり気味の声で、一仕事終えた美津帆に声を掛けた。
「びっくりした? 私、子供の頃に空手やってたのよ」
美津帆はあははと声を上げて笑った。
「意外だな・・・そんな風には見えなかった」
爽は率直に思ったままの言葉を綴った。
「そうよね。高校の時は大人しいイメージしかなかっただろうしね」
「結構活発だったんだ」
「根っこはそうでもないよ。ただ強くなりたかっただけ。名前のことで冷やかす連中に負けたくなかったし、手紙のことも悔しくて――あ、手紙は小学校の二年生の時の時の話だから気にしないでねっ! 」
慌てて手を振り回しながら弁明する美津帆を、爽はにやにや笑いながら見つめた。
「分かってるよ、大丈夫」
「そう、よかったあ」
美津帆は安どの吐息をつくと、満面に笑みを浮かべながら爽を見つめた。
「ありがとう・・・爽のあの言葉が力をくれた」
言葉・・・そう、思わず口走ったあの一言。寝室で告白した時、付き合ってくださいというべきところを思いっきりワープして結婚してくれって言ってしまった流れから、気が付けば嫁になっていたのだ。
「あのままだったら、弱い頃の自分の亡霊に憑りつかれて、押しつぶされてたかもしれなかった。爽のあの一言で、私の中のスイッチがオンになったのよ」
美津帆は頬をほんのりと紅く染めた。何となく恥ずかしそうな素振りをしながらも、そっと爽に体を寄せた。
「俺さ、美津帆に謝んなきゃなんない」
徐に、爽が神妙な面持ちで呟いた。
「え、何? 」
美津帆が目をぱちくりさせながら、怪訝そうに爽を見つめた。
「ごめん。最初で異界で再会した時・・・ほら、高校の教室で、美津帆が言われたくないこと、俺、言おうとしてた」
美津帆は遠くを見るような目つきで首を傾げると、ばつの悪そうな顔つきで爽を見た。
「あの時か・・・でも、爽は言い掛けただけで、言ってはないし。それよりも、その前に私、言っちゃってるし。自分自身が名前のことで揶揄われると怒るくせにさ。最低だよね。私の方こそごめん」
美津帆はペコリと頭を下げた。
刹那、爽は感じた。
得体の知れない圧迫感が次第に近付いて来るのを。
(頭上! )
「危ないっ! 」
爽は本有的に美津帆を抱きかかえると、そのまま側方に飛び、路面を転がった。
重低音の衝撃が地響きとなって爽達を襲う。
爽は音源を目で追い、絶句した。
足だ。
人の右足。それも、ダンプカーサイズの。といっても足首から下の部分だけで、その上はない。
「今度は足? 」
爽の表情が硬く強張る。口や眼球の妖はその風貌が気持ち悪いだけで、実質的な脅威はさほどでもなかった。だが、足は違う。あわよくば踏みつぶそうという意思が明らかにくみ取れる登場の仕方だった。肌の皺に細かな紋様を刻む角質、びっしり生えている産毛・・・その全てがリアルな仕上がりで、誰が見ても明らかに本物だった。
爽達の位置からは見えないが、恐らく足首の断面も超リアルな造形になっているに違いない。
(嫌な予感しかしない)
爽は夜空を見上げた。
来る! 何か白っぽいものが。
「逃げろっ! 」
爽は美津帆を抱き起すと手を引きながらダッシュした。
バチンという衝撃音と同時に、生暖かい風圧が二人を襲う。
手だ。サイズは足より一回り小さいものの、大型のキャンピングカー位はある。
指は大きく開かれ、じゃんけんのパーの様な形態をしていた。
明らかに、手も爽達を潰しに来ている。
爽達は方向を変えると側方に曲がる道へ進んだ。
不意に視界を阻む影。
また足だ。さっきのとは別の。それは突然上から落ちて来たんじゃない。もとからそこに心材していたかのように鎮座し、爽達の行く手を阻んでいた。
「くそう! 」
爽は狼狽した。ぐっと歯を噛みしめ、後退しようと振り返った刹那、今度は手が路面から出現した。
アスファルトをぶち破って現れたのではない。音一つ立てずにそれは現れた。雨後の筍のように、あたかも地面からにょっきりと生えてきたような現れ方だった。
手は掌を道いっぱいに大きく開き、爽達の退路を断った。指を交互に動かしながら、爽達を威嚇している。脇をすり抜けて逃げようものなら捕獲するという警告なのだろうか。
「楡崎、いい加減にしろっ! 」
爽が苛立たしげに叫ぶ。
彼には分かっていた。美津帆を嘲笑する声を耳にした時、それが誰なのか。当然、美津帆も分かっている。
「隠れていないで出てこいっ! 」
美津帆の喉から憤怒の咆哮が迸る。
その言霊は凄まじい感情の噴流を伴い、びりびりと夜気を震わせると、鋭利な凶器を携えた矢となって闇を貫いた。
「うぜえな・・・うぜ過ぎるよ、お前ら」
軒を連ねる家の塀。朧げな輪郭を留める闇に沈む点描画の佇まいから、のそのそと蠢く黒い影が離脱した。
長袖の白いカッターシャツに黒い学生ズボン姿の男子学生。ただカッターシャツの袖からはあるはずの手が見えず、又、足も同様に余った裾を袴の様に引き摺っている。
元クラスメートの楡崎未來人。瀬里沢の取り巻きの一人で、にぎやかしと言おうか、昔で言う太鼓持ち的な存在だった。特に整った顔立ちではなく、何となく呆けたような滑っとした面相故に、それなりの面々が揃う瀬里沢の取り巻きの中では異色の存在だった。
だが、彼が道化者としての役割を演じるのはあくまでも瀬里沢とその取り巻き達の前だけだ。瀬は自分の得た存在意義に独自の価値観を見出しているらしく、瀬里沢一派以外の者に対しての態度は、明らかに素っ気なく、むしろ蔑みを匂わせていた。
瀬里沢の取り巻きであることが、彼のステータスシンボルなのだろう。恐らくは容姿のコンプレックスをばねに勝ち取った存在枠故に、歪んだ価値観を伴っているのかもしれない。
周囲の者は、誰もが彼のその馬鹿馬鹿しくも哀れな生き様を侮蔑し嘲笑するものの、助言をする者は誰もいなかった。
周囲を蔑む輩が、実は周囲から蔑まれている。
残念ながら、本人はそれに気付いちゃいない。
「お前らさあ、うっとおしいからここで消しとくな」
楡崎は面倒臭そうに吐き捨てると、今はない右手で頭をがりがりと搔いた。
「相変わらずだな・・・」
爽は呆れた表情で楡崎を見据えた。先程まで最高値を振り切っていた怒りの指標は、いつしか冷静さを伴った装いに属性を変えていた。
「なんだよ」
楡崎は不機嫌そうに毒付く。爽が自分に命乞いでもするかと思ったのか、彼の的外れな態度に動揺し、平静さを失った意識の暴走を無理やり押さえこもうとしていた。
「楽しいか? 」
爽は笑みを浮かべた。口角を僅かに上げ、含み笑いの様な表情で楡崎を見つめる――その眼は、少しも笑ってはいない。
理性的な意志の宿るゆるぎない瞳の奥に、冷ややかで侮蔑に満ちた静かな感情の輝きが宿っていた。
「人を傷つけて、それで場を盛り上げて楽しいのか? 」
「い、いいんだよ! みんなその程度の奴らばっかしなんだから」
「瀬里沢が望んでいることか? 」
「ああ。笑ってくださってたよ。楽しんでもらえればそれでいいんだ」
「本当にそう思うのか? 」
爽の一言に、楡崎は言葉を飲み込んだ。
「お前が人をけなしたり馬鹿にしたりしている時って、あいつは喜んでいたか? 」
「一緒になってからかったり――してたよ」
楡崎の声のトーンが急降下する。彼の横柄な態度に、陰りが生じていた。落ち着かない視線は決して爽達を捉えようとしない。
目を合わせば、感づかれる。
何かまずいことを二人に見抜かれてしまう。
そんな心の葛藤が動揺となって、彼の行動は更に怪しく意味不明なものへと変わっていく。
「奴はお前と一緒に人をからかったり蔑んだりいしちゃいない。俺の記憶じゃあ、笑みを浮かべたことはあってもそれ以上はなかったな。お前と一緒に騒ぎたてていたのは、取り巻きの面々だろ」
「そんな、ことない・・・」
楡崎は俯くと、自信なさげにぼそりと呟いた。
「瀬里沢はさ、決して望んじゃいなかったと思う。お前が人を得意気にいじってた時、あいつは冷めた目で見てたぜ。お前のことをさ」
爽は静かな口調で楡崎に語り掛けた。
楡崎は震えていた。ただでさえ青白い顔が、輪にかけて血の気を失っていた。
「お前も気付いてたんだろ? 瀬里沢がお前のやることに無関心だったのを」
爽の問い掛けに、楡崎の顔が驚愕に引き攣る。
「どちらかと言うと、お前にけしかけて喜んでたのは取り巻き達だろ」
「違う・・・」
「お前自身もやりたいって思っててやったんだよね、人をからかったり、馬鹿にすることを」
「ち・が・う・・・」
「自分より弱いと思った連中を馬鹿にしたりからかったりして、必死になって自分の方が優位になろうとしてたんだろ。自分は瀬里沢に認められた人間なんだ、自分は瀬里沢の仲間なんだ――そう思うことで、他人よりも格が違うって自分に言い聞かせてたんだろ? 」
「ああそうだよ。俺はお前達とは違うんだ」
即答だった。爽の執拗な尋問に苦悩の色を濃くしていた楡崎の顔にふてぶてしさが戻った。
「いい加減に気付けよ」
爽は含み笑いを浮かべながら首を左右に振った。
「何がだよっ! 」
楡崎の青白い顔が怒りにうっ血する。
「おまえさあ、いいように使われているだけだよ。瀬里沢ってより、他の取り巻きどもにさ」
爽の一答が、楡崎の表情を瞬時にして凍てつかせた。
「ほんとは気付いてんだろ? 自分がただの盛り上げ役で汚れ役で何かあればパシリにされているだけだって」
爽は更に彼の戸惑う意識に楔を穿つ。
「だから尚更、自分より弱い立場の者を攻撃したり蔑んでたんだよな。自分の存在を自分自身で祭り上げるために」
爽は幼子に語りかえるようなほんわりした口調で楡崎の潜在意識に語り掛けた。
楡崎は唇をぎゅっと噛みしめ、爽をじっと凝視した。限界まで見開いた瞳がゆらゆらと揺らめくと、静かにあふれ出す。
楡崎は泣いていた。深層心理に的確な揺さぶりをかけ、潜在意識に潜む闇を掘り起こされたためなのか。
気付いていたのだ。取り巻き陣の中での自分の立ち位置を。他の取り巻き達とは明らかに違う自分の存在価値を。
自分の意思で、道化として、下僕として接しているものの、いつの間にかそれは瀬里沢に対してではなく、同等の側近であるはずの取り巻き達に対しての行為に変貌していたのを、彼は潜在意識下では感じ取っていたのだ。
だが、彼はそれを否定し続けた。あくまでも他の取り巻き達と同じであることを自負し、現実を誤魔化しながら生きてきたのだ。恐らくその苛立ちの捌け口が、無抵抗の者に向けられたのだろう。
ギリギリのところで自我を保っていた楡崎の精神は、全てを見抜いていた爽が綴った言霊に共鳴し、崩壊した。
巨大化した彼の手が、足が、掻き消すように消失する。と同時に、何も無かった彼の衣服の袖や裾に、本来あるべき骨格が蘇る。
が、次の瞬間、彼の姿は黒塵となって路面に崩れ落ちた。
乾いた音を立てて崩壊する楡崎の背後に人影が佇んでいた。
爽は息を呑んだ。
小夜だ。どこか悲しげな憂いに満ちた表情で、路面に堆く積もった楡崎のなれの果てを見下ろしていた。手には椚木を両断した時と同じく刀身から柄まで漆黒の剣を携えている。
「君は、何者なんだ? 」
爽は小夜に問い掛けた。唇が異様に乾き、上下の皮が貼り付いている。
緊張しているのだ。この世界のキーパーソンであり、得体の知れない存在である彼女への警戒と好奇が入り混じったアンバランスな感情が、彼の意識を翻弄していた。
「あと、四人・・・」
小夜の唇が微かに動き、吐息のような声で言霊を綴る。
答えになっていなかった。彼女は塵となった楡崎をじっと見つめたまま、顔を上げようともしない。
はなっから爽の問いに答えるつもりはないようだ。
小夜の態度が不愉快だったらしく、爽は不満げに唇を歪めた。
刹那。
小夜の背後で人影が躍る。
影の手に、異様な凶器が。
鉄パイプだ。長さ1メートル、直径5センチ程の。
同時に、小夜は正面を向いたまま剣を背後に突き立てた。
乾いた金属音が、静まり返った夜気を激しく震わせる。
小夜が後ろ手に伸ばした剣の先には、鉄パイプの曲面があった。剣先は鉄パイプの不安定な曲面の一点を捉え、絶妙なバランスで微動だにせずそれを受け止めていた。
鉄パイプを握る影は大きく後方へ跳躍し、間合いを取った。
「気付いてたの? 私がチャンスを伺ってたのを 」
彼女は忌々し気に小夜をねめつけた。肩が大きく上下している。激しい息遣いと凶器に伝わる震えから、小夜の冷静な反撃に動揺が隠せないでいるのが明らかに見て取れる。
腰まで伸びた長い黒髪は、奇襲のあおりを受けて激しく乱れ、切れ長の眼は憎悪に歪み、薄い唇は悔し気にわなわなと震えていた。美津帆と同じく白いブラウスと制服のスカート姿なのだが、その容姿は彼女の方が大人びて見えた。更にそのスカートは長い両脚の曲線美必要以上に丈を短くしており、さながら成人モデルのなんちゃってJKのような風貌だった。
昔からこうなのだ。彼女は。
香久山玲。瀬里沢の取り巻きの一人で唯一の女子。瀬里沢に積極的にアピールして近づくと、後続して接近しようとする女子達をことごとく排除して今の位置を保持し続けている。瀬里沢の前では、社交的だが飾らない好感度抜群の魅力を振りまいているが、その陰では、瀬里沢に好意を持つ女子達に陰湿ないじめを繰り返しているのは有名な話だ。
その二面性を瀬里沢は知っているのかどうかは定かではない。ちなみに香久山の努力も空しく? 瀬里沢は彼女と付き合っている訳ではなかった。近くにいても煙たがられない――その程度の存在だったように感じる。
小夜はゆっくりと振り向き、香久山と対峙した。爽達に無防備な背後を晒したのは、彼らが敵ではないと認識しているのか。
「顔のパーツの妖が二人分いたから」
小夜は長い沈黙の後、抑揚のない声でと呟いた。
「そっかあ、それでバレバレだったか・・・やるじゃない。楡崎の奴、完璧な作戦だって言ってたけど、全然ダメじゃん。まあ、その程度の奴だしね、あいつ、自分がこの女を誘き出すための囮になってたことに最後まで気付いてなかったし」
香久山はやれやれといった感じで愚痴をこぼした。
「囮? 」
美津帆が眉をひそめた。
「そうよ。所詮あいつはそんな役回りだから。私達と同じ御方様の仲間だと思っていたみたいけど、とんでもない話よ」
「仲間じゃないの? 」
「あいつは下僕。私達御方様の側近のね。馬鹿だけど従順だったから、パシリは丁度よかったからそばに置いてただけ。あの顔で私達と対等なんてありえないでしょ? 」
香久山の口元に冷笑が浮かぶ。
爽はじっと彼女を見据えた。彼の意識下で怒りが瞬速で最高値を迎え、同時に楡崎への哀れみも僅かながら静かに裏打ちされていく。
余りにも自意識過剰で思い上がりも甚だしい玲の発言に、爽は反吐が出るような不快感を覚えていた。
ある意味では、楡崎も被害者なのかもしてない。だが、そう擁護するには値しないほど彼は人の心を傷つけ、数多くの被害者を生み出している。
自業自得なのかもしれない。
自分の愚かさに気付かなかった――否、気付こうとしなかったが故に。
不意に、巨大な落下物が彼の視界を過ぎると香久山を地面に打ち据えた。
一瞬の出来事だった。
爽と美津帆は目を大きく見開くと、驚愕のまなざしを落下物に注いだ。
巨大な足だった。
足は瞬時にして点描画の様に輪郭を失い、掻き消すように消え失せた。
アスファルトの路面には、人一人分くらいの、こんもりと盛り上がった小さな黒塵の山が出来ている。恐らくは、香久山のなれの果てだろう。
あの足は、間違いなく・・・。
「残るは三人」
小夜は刀を鞘に納めた。
「小夜、君は何者なんだ? 香純と瀬里沢との関係は? 教えてくれ、この世界へ俺達を召喚しているのは君か? 」
小夜は俯いたまま吐息をついた。
「今に分かる」
小夜の口元に仄かな笑みが浮かぶ。
至近距離に迫る爽の顔に、美津帆は思わずたじろいだ。爽も同じくきょどりながらぽかんと口を開けている。こっちの世界では時間の経過はないとは言え、あの時盛り上がった感情のうねりはピークを終えており、こうなればもはやムードもへったくれもない。
「帰って来たのか」
「うん、そうみたい」
二人は周囲を見渡した。紛れもない。ここは爽の実家の彼の部屋だ。
「気になる・・・小夜はどうして瀬里沢の取り巻き達を消すんだろ」
「俺もそこんとこ気になっている」
美津帆が口にした疑問に爽は即座に同意した。
「取り巻き達が俺達を消したがっているのは、瀬里沢に近付こうとするからみたいだけど、何故奴に近付いちゃ駄目なのかが分からない」
「知られたくない何かがあるのは確かよね――ねえ、詮索は明日にしてもう寝ませんか? 」
「ああ」
美津帆の妙にかしこまった申し出に爽は頷くとベッドから腰を上げる――その腕を、美津帆ががっちり掴んだ。
「え、何? 」
「嫁を一人寂しく寝かす気? 」
戸惑う爽に、美津帆が意味深な笑みを浮かべた。
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