第5話 愚者礼賛

「こっちこっち!」

美津帆に声を掛けられ、爽は小走りで彼女が腰かけているベンチに駆け寄ると傍らに腰を下ろした。

 朝の河川敷の公園。川沿いを散歩する人の姿や、釣り人の姿がちらほらと見受けられる。昨日、二人は別れ際にここで会う約束をしたのだが、彼は再び研究室に戻り、夜遅くまで書類を作成していたのだ。自宅のマンションに帰り着いた時にはもう日付けが変わっており、その上、異界探索の疲れからか、見事に寝坊してしまったのだ。      

 ただ幸いな事に、約束した待ち合わせ場所が彼の自宅近くであったのが救いだった。彼はぼさぼさの頭髪を直す間もないままに、慌てて着替えて素っ飛んできたのだ。間に合ったとはいえ、到着したのは実に約束の時間数秒前だった。

「ごめん、待った? 」

「大丈夫よ。私も今来たとこ」

 美津帆は目を細めて微笑んだ。だが、それは彼女の優しい気遣いであることを爽は知っていた。彼は慌てて跳び起きてカーテンの窓を開けた時、ベンチに腰を下ろして所在無げに佇んでいる彼女の姿を真っ先にとらえていたのだ。

「爽、朝ご飯は食べた? 」

「食べてない。実はさ、寝坊して・・・」

「良かった。朝ご飯作って来たんだ。一緒に食べよ! 」

 美津帆は傍らに置いたリュックから大きめの四角いタッパーをいくつか取り出した。蓋を開けるとパンと食材の香ばしい香りが爽の鼻孔をくすぐった。卵やハム、野菜のサンドイッチに一口サイズのパインアップル。おまけにフライドチキンまである。

「凄い! これみんな美津帆が作ったの? 」

「そうよ。全部が全部今朝作ったわけじゃないけど。揚げ物とかは普段は忙しいから休みの日にまとめて作って凍結保存したりしてるの。さ、どうぞ」

 美津帆は水筒からこぽこぽとカップに珈琲を注ぐと爽の前に置いた。

「いただきます! 」

 爽は早速卵サンドに手を伸ばした。切り込みを入れた厚手のパンにマヨネーズをあえたスクランブルエッグがぎっしり詰まっている。濃厚な風味の中に黒コショウのピリッとした爽快な辛みが更に食欲をそそるアクセントとなっていた。

「おいしい! 」

「ありがとう。そう言ってくれると作り甲斐があるな」

 美津帆は嬉しそうに笑った。

「私ね、休みの日によくここで朝ご飯食べたりランチしたりしてるんだ。のんびり出来るし、そんなに人も多くないから落ち着けるし」

「へええ。俺もよく来るよ。夜にジョギングしてるんだ」

「そうなんだ。爽もこの近くに住んでんの? 」

「うん。すぐそこ」

「え、すぐそこって...」

 美津帆は驚きの表情で爽を見つめた。

「ひょっとして、ここからでも見える? 」

「うん。見えるけど」

「いっせーので指差してみて」

「ああ」

「いっせーの! 」二人は同時に振り返ると、まっすぐ後方を指を差した。

 それも、全く同じ方向を。

 川の傍に立つ4階建てマンション。モノポリーの外壁はまだ真新しく、各部屋の窓が朝日を受けてキラキラと輝いている。

「アレグリーア・・・なの? 」

 美津帆が指さす方向に見えるマンションの名を紡いだ。

「うん・・・えっ! まさか? 」

「私、203号室」

「俺、303号室」

 二人は愕然とした表情で顔を見合わせた。

「同じマンション・・・」

「それも階上と階下の部屋だったなんて」

 美津帆の表情が崩れる。

 大爆笑だった。二人は顔を真っ赤にしながら、体をくの字に折り曲げて笑い始めた。

「信じられない。ひょっとして、大学に入ってからずっと? 」

目をまんまるにしながら美津帆は身を乗り出して爽を見つめた。

「うん、最初姉が住んでて、大学入った時に俺が転がり込んだんだ」

 爽は目を細めると珈琲カップを口元に運んだ。 

「そうそう、女の人が住んでたのは知ってた。私、爽のお姉さんとは顔を合わせた事あるよ」

 腕組をするとうんうん頷く美津帆。

「じゃあ、美津帆も進学してからずっとあそこなの? 」

「そうよ。でも気付かないもんよね」

「信じられんけどそんなもんか。未だに隣の住民の顔も見たことないしな」

「でもよかったよ。家が近くて。何かあってもすぐ相談に行けるもんね」

「まあな」

 爽は照れ笑いを浮かべながら頷いた。彼女いない歴イコール年齢の彼が、彼女ではないものの、仮想的彼女みたいな雰囲気にわくわく感が抑えきれずにいたのだ。昨日の突然の再会からの急接近は、信じられない位にドラマチックな展開をみせ、しかも更なる奇跡的な運命を刻む糸車を現在進行形で回し続けているのだ。

「余り深く踏み込みたくはないんだけど、あの異界が誰かの夢だとしたら、いったい誰の夢なんだろ・・・そうとは限らないわけだし、考えたところでどうにもならないし――とは思っても考えちゃうんだよね」

 美津帆のカップから珈琲の白い湯気が仄かに立ち上っている。

「そだね。俺も仮説の域から出れなくて、同じ事を考えてたよ」

 爽は頷きながらフライドチキンに手を伸ばす。






「いきなり、かよ」

 爽が不満げに呟く。手に取りかけたフライドチキンは、掻き消すように彼の視界から消え去っていた。

「前兆も何もないもんね」

 美津帆はしかめっ面で爽のぼやきに同意した。

「まだ寝てたのに~」

 いつの間にか美津帆の横に佇む香純が、悲しそうに呟くと眠そうに手の甲で目をくしゆくしゅと擦る。

「おはよう、香純」

「美津帆、爽、おはよう・・・ふあああっ」

 朝の挨拶もままならぬうちに、香純は顔中口をおっぴろげて大欠伸をブチかました。

「その感じじゃ朝ご飯も食べてないな」

 爽に痛いところを言い当てられて、純は悲しそうに頷いた。

「いつもはもっと早く起きてんだけど、昨日の夜ちょっと飲み過ぎちゃってさあ。だしお腹もあんま空いてないんだよね」

 ぐぐうっとタイミングよく香純のお腹が鳴った。

「体は正直だな」

 爽は香純に気遣ってか、必死で笑いをこらえるものの肩が不自然に震えていた。

「何とか水難は逃れられたみたいだけど、前にも増して殺風景よね」

 美津帆はぐるりと周囲を見回した。

 赤茶けた岩肌を削っただけの道が続いている。片側は斜面になっており、もう片側は崖になっていた。斜面や道には雑草はおろか苔すら生えておらず、また近隣の山々も同様で、見渡す限り荒涼とした風景が広がっていた。

「どこだろ、ここ」

 爽は美津帆に倣って周囲を見渡したが、彼の記憶に引っ掛かる痕跡は皆無だった。

「グランドキャニオンをしょぼくした感じよね」

 香純の呟きに、爽は思わず頷いた。言いえて妙だった。彼自身は実際に見た事はないものの、テレビや雑誌でその風景は何度か目にしている。

「取り合えず、行ってみる? 」

「うん、そだね」

 美津帆の提案に、爽は頷いた。とにかく進まない事には新たな展開は望めそうもない。ただRPGにありがちな魔境探索にはならないのは、彼らは何となく諦めに近い理解と確証を得ていた。

 分からなかった。

 この世界の創造主がいったい何を望んでいるのかが。

 美津帆のの考察通り、追い詰められて深い闇に沈む精神世界から救い出してほしいと渇望する何者かが、爽達「こころ」の専門家に救いを求めているのか。

 創造主は、恐らくは驚異的な念を秘めた生霊ではないのだろうか――異界はその強烈な思念が生み出した虚実の世界なのではないか。それも、本人が気付かないうちに、本能の叫びとも言える恐ろしく閉鎖的な思考が凝縮し、三次元方向のベクトルを保持する残留思念となって時空に仮想空間を創世したのかもしれない。

 建物、風景、現象・・・その全てが何となくアンバランスで、歪のある存在なのはその為ではないか。

 爽の思考は留まることなく急流の様に激しく動線を刻む。

 不意に、香純が立ち止まった。

「気のせいかな・・・何か人の話し声がしない? 」

「えっ! 」

 爽は立ち止ると耳を澄ませた。

 先頭を切って歩いていた美津帆も、不意に立ち止った二人に気付い、慌てて歩みを止めた。

「何! 何かあったの? 」

 美津帆が訝し気に後続の二人を見つめた。

「香純が人の話し声が聞こえるって」

「声? 」

 美津帆は首を傾げながら耳を澄ませると、さっと顔の表情を強張らせた。

「ほんとだ、聞こえる」

「一人じゃないよね」

「うん、結構大勢いるみたいだ」

爽は目を凝らすと、声のする方角――前方を凝視した。上り道は緩やかな曲線を描くカーブになっており、ちょうど山の斜面に隠れて見えない辺りからくぐもったような声らしきものが聞こえる。何人くらいいるのか。声質から男女混成である予想はついた。それもただの会話じゃなく、一人の男が掛け声を上げ、それに複数人が答えているような感じだった。

 それともう一つ。

 声には動きがあった。声の主を追う彼らから逃れようとするかのように、声の音源は徐々に遠ざかっているように思われた。

 爽は二人に目配せすると、小走りで声の方向に進む。

 カーブを抜け、視界を遮蔽していた斜面を過ぎる。

 捉えた。目の前に無数の人影。

「何、あれ・・・? 」

 美津帆が目を見開きながら前方を指差した。

 制服姿の女子が数名、それぞれがばらばらに歩いている。その周りを、長髪やらツーブロックやらソフトモヒカン的な髪形の制服男子が数名、彼女達の周りをうろうろとつき纏っていた。

 彼らは時折女子の耳元で何かしら囁くと猥雑な笑みを浮かべながら彼女たちの腰の周りを嫌らしい手つきで撫でまわした。不思議にも女子達は誰一人と嫌悪や拒絶の態度を取ろうとせず、成すがままにさせている。                     

 彼らの行動も異様といえば異様だったが、もっと不可解な光景がその先にあった。二十人近い男女が、御輿を担いでいるのだ。それも一糸まとわぬ姿で。その中央には玉座の様な巨大な背もたれのついた椅子がしつらえられており、恐らくは何者かが腰を下ろしていると思われるのだが、あいにく背後からはその人物の姿は確認出来なかった。

 御輿の前に一人の男子が、」後ろには数人の男女がたむろしており、先頭を歩く男子が時折担ぎ手達に激を飛ばしていた。  

 だがその掛け声は何故かはっきりとは聞き取れなかったものの、雰囲気的に決して担ぎ手を激励するものではなく、何となく見下したような嘲笑混じりの不愉快極まりないものだった。

「美津帆、あいつ――」

 爽が御輿の取り巻きを凝視しながら美津帆に声を掛けた刹那、甲高い悲鳴が響いた。

 見ると、凄まじい形相で立ちはだかる美津帆の足元で、ツーブロックの男子が股間を抑えながら悶絶していた。

 さっきの悲鳴は美津帆ではなく、どうやらこの男子のものらしい。

「どうしたんだ・・・? 」

 凄まじい殺気を放つ美津帆に、爽は恐る恐る声を掛けた。

「こいつが私のお尻を触ったのよっ! 」 

 美津帆は忌々し気に吐き捨てると、足元の男子に侮蔑の視線を注ぎこんだ。

「なんだよ・・・お前・・・御方様に取り次いでやるって・・・のに」

 ツーブロックの男子は苦悶の表情で両目に涙を浮かべながら美津帆を見上げた。日に焼けた浅黒い顔が苦痛の余りに醜く歪み、額に深い皺を刻んでいた。

「訳分かんないし。誰よ、その御方様って」

 美津帆のそっけない態度を目の当たりにした男子は、驚きに頬を強張らせた。

「嘘だろ・・・? おまえも御方様と関係を持ちたいからついてきたんじゃないのか? 」

「だから誰? 」

 美津帆が足元の男子を睨みつける。

「それは・・・その・・・言えない」

 男子は弱気な素振りで目を伏せた。

「何故よ」

「俺みたいな下賤な輩はその名を口にすることは許されてないんだ」

 男子は消え入るようなか細い声で弱々しく呟いた。

「はあ? 」

 美津帆は呆れかえった表情で首を傾げた。それは爽達も同様だった。その男子の発言はどう考えても理解し難い規律に支配されており、それを理解するにはとてつもない不条理に縛られた戒律を目の当たりにする羽目になりそうだった。

「その・・・あれだよな。名を口にするのもおこがましく感じる立場の者がさ、関係を取り持つなんて出来るのかよ」

 爽の一言はまさに正論だった。その一言のダメージは美津帆の蹴りよりもダメージがあったのか、男子は真っ青な顔でぶるぶる震えながら顔を覆った。

「あんた、そのなんとか様の名をかたって好き放題やってたって事? 」

 侮蔑に満ちた美津帆の言霊に、男子は声にならない悲鳴を上げ、かっと目を見開いた。と、その視線が不自然に泳ぐ。

「どさくさに紛れてスカートの中覗いてんじゃねえっ! 」

 美津帆のローキックが男子の腹に食い込む。

「ほげえええええっ! 」

 男子は口からよだれの糸をひきながら、どこかうれしそうな表情で中空を舞った。

 男子の体は前方を進む御輿のすぐそばに落下した。

 爽はその威力の凄まじさに目を見張った。明らかに常人の域を脱している。この異界故に筋力のリミッターが解除されているのか。否、それだけじゃない。何かしら創造のつかない不思議な力が関わっているのか。

「なんだよてめえはっ! 」

 御輿の取り巻きの一人が突然激高し、ツーブロック男子を見据えた。

 先頭を仕切って歩いていた奴だ。制服の襟が隠れる程の長い黒髪はつややかな光沢を放ち、二重瞼の目は唇同様怒りに吊り上がっている。鼻筋の通ったギリシャ彫刻を彷彿させる風貌は、まるで歪んだ性格を裏付けているかの様に冷淡なオーラを放っていた。

「も、申し訳ありません! 」

 ツーブロック男子はすっくと立ち上がると、取り巻き男子にぺこぺこ頭を下げた。 

 あれだけ強烈な蹴りを受けたにもかかわらず、機敏に動けるとは意外とタフなようだ。

「御輿に近寄るなって約束だったよな」

 取り巻きの男子が、冷ややかな目線をツーブロック男子に注ぐ。

「し、承知しておりますっ! 直ちに退散致しまするっ! 」

 ツーブロック男子は路上に膝まづくと、頭を深々と下げて土下座した。

「もういい、分かった・・・俺が退散させてやるよ」

 取り巻き男子は冷笑を浮かべると、間髪を入れずにツーブロック男子の顎を蹴り上げる。彼のつま先は容赦なくツーブロック男子の顎に食い込むと、更にその体躯を軽々中空に打ち上げた。ツーグロック男子の体が後方へと吹っ飛び、大きく弧を描きながら山道をはずれて崖の下へと消えた。

「まじかよ!」

 爽は慌ててツーブロック男子が消えた崖を覗き込む。ツーブロックの体は斜面に何度も接触し、大きくバウンドしながら転げ落ちていく。彼の手足や首はあらぬ方向に曲がっており、誰が見てももはや存命は難し様に見て取れた。

「爽、あいつ――」

 美津帆が爽を見つめた。

「ああ、瀬里沢の取り巻きの一人、椚木だ」

「じゃあ、あの御輿の椅子に乗っている御方様って、まさか」

「たぶん、そのまさかだろうな」

 爽は落ち着いた声で美津帆に返すと、徐に取り巻き――椚木に向かって歩き始めた。

 椚木は自分に近付いて来る爽に気付くと胡散臭そうな目付きで彼を見た。

「何だ? 従者希望か? それとも御輿の担ぎ手か? 担ぎ手なら服を脱げ。全てを

曝け出して服従の意思を示すんだ」

「何てことをしたんだ。あいつ、多分死んだぞ 」

 爽は椚木をじっと見据えた。驚くほど静かに綴られた言葉の節々には、かろうじて暴走を制御している熱く煮えたぎる憤怒の渦がじっと息を潜めていた。

「いいんだよ、あんな奴。何の価値もないから。それにお前の連れの女も思いっきり蹴飛ばしてたじゃねえか。てより、何なんだよお前!」

 椚木は不快気に顔を歪めると、爽を上目目線でねめつける。

「マジ分からんのか? 高校の時に同じクラスだったのに」

 爽は呆れた顔で椚木と対峙した。

「え? お前らみたいな奴居たっけかなあ――なんせ俺、自分の役に立たない奴とはつるまねえから分かんねえな」

 椚木はへらへらと乾いた哄笑を上げると、御輿の後を追従していた者達にちらっと目配せした。同時に、彼らは無言のまま爽達を取り囲む。

「おまら、こいつと連れを畳んで崖下に落としちまいな。そうすれば御方様も大喜びだ」

 椚木が面倒くさそうに従者に指示を出した。

 だが。

 意外にも、誰一人として爽達に襲い掛かる者はいなかった。

 爽達を取り囲む従者達からは、殺気は全く感じられない。むしろ、争いを避けたいような微妙な表情が、彼らの顔に貼り付いていた。

 彼らは戸惑っていた。御方様の側近である椚木に従うことが当然であり、反論するなど思考の片隅にも無かった彼らにとって、真っ向から対峙する爽の姿が、理解できない異形の存在として捉えられ、底知れぬ警戒心を抱くまでになっていたのだ。

 彼らに二の足を踏ませているのはそれだけではない。

 恫喝することも咆哮を上げることもせずに無言のままじっと椚木を見据えている爽の姿に、近寄り難い威圧感を覚えていたのだ。

 椚木の非人道的な対応に、爽の全身の筋肉は静かに怒りの叫びを上げていた。寡黙な彼から迸る熱い気の噴流が、従者達の意識を見る見るうちに萎えさせていた。

「おいどうした、お前ら? 早く片付けてしまえよ」

 椚木が苛立たし気に従者たちを睨みつけた。

 従者達は困惑した顔で互いに顔を見合わせる。

 刹那、爽の傍らを黒い影が過ぎった。

 香純だ。

 彼女は一気に御輿に近付くと、スカートを翻しながら猫の様な身のこなしで飛び乗った。

「お、おい、こらあっ! やめろっ! 」

 椚木は狼狽した素振りであたふたと御輿に駆け寄る。

 が、香純は椚木の静止を無視し、玉座の主を覗き込んだ。

「えっ? 」

 香純は驚きの声を上げたかと思うと、即座に失望と落胆の吐息に取って代わった。

「香純、どうした? そこに座ってるのは誰だ? 瀬里沢か? 」

「賢人だけど・・・賢人じゃない」

「え、どういう事、それって」

 美津帆が眉を顰めながら香純に問い掛けた。

「本物じゃない。人形よ」

 香純が恐る恐る玉座の人物の肩に触れる。

 すると、それは崩れる様に玉座から転げ落ち、仰向けに地面に落ちた。フード付きのマントで身を包み、仄かな微笑みを浮かべ、澄んだ瞳が爽を見つめている。

 爽は息を呑んだ。

 瀬里沢だった。だがそれはあくまでも顔だけだった。一瞬、本人かと思うほどにリアルな造形の風貌に驚きを隠せない爽だったが、マントからこぼれる手足は木目がそのままで指は無く、手などはミトンの手袋をはめているかのような状態で、よく言えば粗削り、悪く言えば手抜き状態の仕上がりになっている。顔が息遣いすら感じる程の出来映えなのに対し、余りもギャップのある四肢の扱いには興醒めしてしまうほどの酷さだった。

 御輿の担ぎ手達が騒めき始める。彼らは悪夢からたたき起こされた直後の様な強張った表情で、地面に転がる傀儡を凝視していた。御輿から降り立った香純が、傀儡すっぽりと被っていたフードをめくった。その拍子に、瀬里沢の顔が外れ、カラカラと音を立てて地面に転がり落ちた。

「お面・・・?」

 香純が吐息と共に驚きの声を紡いだ。

 むき出しになった顔の下は、粗く削られた木目だけが顔を覗かせている。

 不意にがらがらと低い衝撃音が響く。

 御輿だった。担ぎ手達が御輿から手を離したのだ。支えの力を失くした御輿は、重力のけん引に従って大地に落下し、地面に叩きつけられると大きくバウンドした。

 同時に、担ぎ手達は悲鳴を上げると手で胸部と下腹部を隠しながら一目散に駆け出した。

 脇目もふらずに山道を下って行く白い尻の群れを、爽達は呆然と見つめていた。

「どうしたってんだ・・・」

 呟く爽の背後で、重苦しい吐息が空気をか細く震わせる。

 椚木だった。彼は崩れ落ちるように地に膝まづくと、地面に張り付いたままの瀬里沢の面をぼんやりと見つめた。

「もう終わりだ・・・奴が木偶ってばれちまったら、もう誰も戻ってや来やしねえ」

 椚木は力なくひとしきり呟くと、憎悪の視線を爽達に注いだ。

「お前ら責任取れっ! 裸になって御輿を担げっ! 」

 椚木は血走った目で爽達を睨みつけ、口から泡を飛ばしながら怒号を吐いた。

「椚木、あんた何がしたいの? 」

 美津帆は、取り乱す椚木とは対照的な醒め切った口調で、彼に語り掛けた。

 椚木はぎょっとした表情で美津帆を見た。

 彼は言葉を失っていた。陸に挙げられた魚の様に、口だけをぱくぱくさせている。

「ねえ、この山の上には何があるの? 」

 美津帆が更に冷ややかな口調で椚木に詰め寄る。

 だが椚木は美津帆の声が耳に入っていないのか、答える素振りを全く見せずに、あたふたしながら地面に転がる瀬里沢の面を拾い上げた。

「これがあれば何とかなる。これさえあれば・・・」

 椚木は引きつった笑みを浮かべながら、瀬里沢の面を大事そうに抱えた。

「どういう意味よ、それ 」

 香純が訝し気に椚木を見据えた。

「あいつの顔さえあればいいんだ。本人がいなくても顔さえあれば何とか格好がつく。あいつは木偶で十分なんだ」

 椚木の顔が天を仰ぐ。彼は泣きながら笑っていた。時折喉をひゅうひゅう鳴らしながら、甲高い嘲笑を張り上げていた。

「賢人が可哀そう」

 香純の表情が曇る。

「糞みたいな輩だな」

 爽の表情が憤怒から侮蔑に替わった。奴のやったことへの腹立たしさは変わらない。ただそれを遥かに凌ぐ嫌悪感が、彼の思考に渦巻いていた。

「とんだ親友よね。親友というより、エセ親衛隊ってとこか」

 美津帆が呆れた表情で吐息をついた。

 さっきまで玉座に祭られていた木人形の本体は無造作に地面に捨て置かれたままになっている。

 不意に、椚木の不愉快な笑声が止まった。目を吊り上げ、口元に泡を蓄えたまま微動だにしない。

 彼の頭頂部から股間へと黒い軌跡が走る。

 彼の身体が、軌跡を中心にゆっくりと左右に傾いていく。

 グロテスクな解剖シーンを想像したのか、爽は顔を顰め乍ら目を背けた。だが、彼の予想を大きく裏切り、椚木の半身はまるで検閲に合ったかのように漆黒の闇に塗りつぶされていた。

 椚木の躯は地に着くまでの経過の中で黒い灰とって地に降り注ぎ、地に伏す寸前には完全に消えた。

 さっきまで椚木が存在していた空間の後方に、一人の人影があった。

 射貫くような黒い瞳が、じっと爽達を見つめている。美津帆や香純とは異なるデザインのセーラー服、セミロングの黒髪、そして人の心を全て見通しているかのような大きな瞳。

 昨日のステージで、校門のそばの道で桜吹雪と共に消えた、あの少女だ。

 彼女の右手から、細長い黒い影が伸びている。

 爽は目を細めた。

 剣だ。柄も鍔も刃も何もかもが漆黒の剣。刃は細身で、日本刀の様に片刃であるらしく緩やかな曲線を描いている。

 椚木を真っ二つに両断したのは、紛れもなく彼女だった。

(刃までもが真っ黒な刀なんて見たことも聞いたことも無いぞ。何か呪文めいたものでもかけられた代物なのか。椚木が黒い灰となって消えたのも、あの刀のせいなのかもな)

 様々な憶測を孕みながら見つめる爽には全く興味を示さず、彼女は冷めた表情で地に転がる瀬里沢の面を見据えるとと、躊躇うことなく刃を突き立てた。

 刃先が面の額を貫く。と同時に、刃を中心に亀裂が四方に走り、面はぐすぐすと崩壊すると、地に吸い込まれるかのように消えた。

 ふと気が付くと、瀬里沢の身体を模した木人形に御輿、そして玉座も痕跡一つ残さずに跡形もなく消え失せていた。

「君は...」

 爽は呆気に取られた表情で彼女を見つめた。

 が、、少女は爽達には目もくれず、椚木が消え失せた地面を忌々し気に見据えた。

「あと5人・・・」

「えっ? 」

 少女は意味不明の台詞を呟くと、虚脱感漂う重い吐息をついた。

 消えた。

 少女の姿が、まるで空間の構成物の隙間に透過していくかのように爽達の視界から消え失せた。

「これって何なの・・・? 」

 美津帆は途方に暮れた表情で少女が消えた空間を凝視した。

「香純、あの子の事、教えてくれないかな」

 爽は、ゆっくりと言葉を選びながら香純に問い掛けた。今までで聞けずに聞けなかった、香純とあの少女との関係――敵対しているのは明らかだったし、前に香純がぽつりと呟いた『私から全てを奪った』という台詞から、何となく察しがついたものの、それはあくまでも爽の推察に過ぎず、彼自身言い切れるだけの確証が無かった。

 それに爽自身、そういった類の話には深く追求するものでも触れるものではないと感じていた。だが、ふと舞い込んだこの瞬間こそ、彼女に真実を告げてもらうにふさわしいロケーションではないかと感じ得たのだ。

 香純はちらっと爽の顔を見ると、俯いたまま静かに唇を開いた。しかし、言葉が彼女の動きについてこない。香純の潜在意識が言葉を組み綴るのをこばんでいるのか。それほどまでに、香純にとってあの少女の事を語るのはタブーなのか。

 長い沈黙が、荒涼とした山岳地帯に不毛の時を刻んでいく。

 俯き加減だった香純の顎が、少し上向きに変わった。

 香純は、意を決したかのように口元をきゅっと引き締めた。

 彼女の唇が、ゆっくりと言霊を刻み始める。

「彼女の名前は、霜月小夜しもつきさや。私から、賢人を奪った・・・」


 

 



 



 



 

 

 


 




 








 

 

 










 

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