第4話 始まりの地 終わりの地

「何、これ・・・」

 香純の声が、小刻みに震えている。

「ここは何処・・・?」

 美津帆が不安げに辺りを見回した。

「分からない。来た事も見たことも無い場所だな」

 爽は大きく目を見開いたまま、じっと目の前に広がる光景に見入っていた。

 膝位までの背丈のイネ科と思しき植物が大地を埋めつくしている。夕暮れ時にちかいのか、薄暗く色あせた空。何処までも広がる草原。その先に広がる大きな湖。だか、地表に広がる草は枯れて半ばしおれており、遠くに広がる湖も黒く淀んでいる。  

 見慣れた桜並木も住宅街もここにはない。一陣の風と共に、彼らは記憶にすら全く存在しない風景の中に放り出されていたのだ。

 それは、ある意味荒涼とした砂漠よりも遥かに絶望的な、負の韻律を刻む時の移ろいに支配された空間だった。まるで真綿で首を絞めるように、訪れた者の気力をじわじわと剥奪していく様な重苦しい雰囲気に沈んでいた。

 静かな残虐性を秘めた光景だった。

 明らかな失望と喪失よりも、それに向けてのカウントダウンの最中である事が、導かれるだろう不幸に向けてのプロセスを目の当たりにすることになる。

「次のステージかよ。唐突過ぎるな」

 爽は不安を押し隠すかのように苛立たし気に台詞を吐くと、二人に気取られない様、叫びだしたい気持ちを奥歯でぐっと噛み殺した。

 それは美津帆たちも同じだった。もし、彼らが一人きりで異界に迷い込んだとしたら、途方に暮れてただ泣きわめき散らしながら、理性と自我と尊厳をことごとく損失していくに違いなかった。

「ところでさ」

 爽が目線を伏せながら不満げに呟いた。

「何よ」

 美津帆は腕を組むと強気な口調で爽を見据えた。

「これって、なんで? 」

 爽は、恐る恐る自分の右目を指差した。目の周りが青黒く腫れ上がり、瞼が重く垂れ込んでいて、本人の意思に反して目線は足元にしか向けられない。

「見たから」

 美津帆がおっかない表情でぎろんと爽を睨みつけた。

「見たって・・・見てねえよ。見えたけど」

「ほら見たんじゃん! 」

「見ようとして見たんじゃない! たまたま眼に映ったのっ! 」

 爽は美津帆の追及に必死になって抵抗したが、どう見ても分が悪い。

「どうだか。これだから男ってやだよねえ」

 美津帆が眉を顰める。

「それってセクハラだぜ」

 爽がすかさず口を尖がらかせて呟く。

「どっちがセクハラよっ! 」

 真っ向から反撃する美津帆。

 そんな中、香純は二人の尽きることの無い不毛な小競り合いを苦笑いを浮かべながら見届けていた。

「賢人が私達をここに導いたのかな? それともあいつ・・・」

 香純は遠くの湖を見つめながら前髪を掻き分けた。

 彼女のさりげない一言が、仲間の殺伐とした疑似戦闘モードにくぎを刺す。

「どうだろう・・・ふーん、成程。まだ完全には枯れてはないな」

 爽は徐に足元の草の葉を抜くと、まじまじと見つめた。

「それがどうかしたの? 」

 美津帆は眉を寄せると爽を伺い見た。

「この異界も誰かの心象風景を投影したものだとしたら、この世界はその誰かの心の中そのものだ」

 爽は強張った表情で美津帆と香純を見た。

「まさか」

 美津帆が怪訝な表情を浮かべた。

「まあ、俺の仮説だけどさ。何となくそう思って見てみると、この風景が瀬里沢そのものの様な気がするんだ。あの体育館で見たあいつの雰囲気、変だったろ? 言っちゃなんだけど生気が全く感じられなかった 」

「うん・・・あんな賢人、初めて見たような気がする」

 香純が前髪を揺らせながら大きく頷いた。

「ちなみにさ、心理学的に言えば草原ってのは生命力を表すんだ。例えばそれが枯れかけているだったら、かなり弱っている証拠だな。それと湖だけど、これは魂の状態を表す。黒く濁っているってことは、心を深く閉ざしているってことになる」

「流石ね」

 美津帆が関心した表情でゆっくり頷くと、頷いた。

「爽、凄い。ひょっとして心理テストとか好きなの? 」

 香純が目を輝かせて爽を見た。

「こいつね、元の世界じゃ心理学者の卵だから」 

 美津帆が、くいっと爽を指差す。

「うんまあ・・・ちょっとジャンルが違うけど。どっちかというと、こんな話は一般的な心理学の部類だし」

 爽は、照れながらはにかんだ笑みを浮かべた。

「でもさ、もし、あの時の賢人が私の心象風景を模写して創られたものだったとしたら、この世界は私そのものってことになるよね」

 不安色に揺らぐ表情で上目遣いに見つめる香純に、爽は困惑しながら口をパクパクさせた。確かにそういう見解もあり得るだろう。爽の仮説はあくまでも瀬里沢が彼らと同じく異界に迷い込んだ「異邦人」であることが前提だった。でもこの仮説を唱えるの前に、彼は、この異界が何者かによって誰かの心象風景をスキミングされ、加工されたものではないかとの見解を述べている。そうなれば、この異界が瀬里沢の意識の具象化かどうかは判断できず、むしろ香純が言った通り、彼女自身の意識を投影しているものとも言えるのだ。

 だが、香純を見る限り、そんな枯れ果てた心の持ち主の様には見えない。瀬里沢への思いが断ち切れず、苦しんでいるかのようにも見えるものの、それはまた違うベクトルに存在する特異点に過ぎないように感じられる。

「爽の仮説も怪しくなってきたね」

 美津帆がにまにま意地悪く笑うと、右手の人差し指で爽の頭をつんと突いた。

「私は、あの女だと思うな」

 美津帆は腕を組むとしたり顔で爽を見た。

「そうかもな・・・なんか凄く怪しげなことを言ってたものな。何だか今にもリスカしそうな雰囲気があった」

 頷きながらも爽はやや不満げに美津帆を見る。

「でも、あいつはそんなに弱くない」

 香純は表情を強張らせると、強い口調で言い切った。

 思わぬ香純の態度に、爽と美津帆は目を見張った。

 爽は迷った。一見天真爛漫な彼女をここまで追い込むあの少女の正体を聞くべきかどうか・・・。

 彼女は明らかに瀬里沢を連れ去った巨大な白い手の主だ。両手ですっぽりと覆うようにして瀬里沢を捉えている。と言うことは、彼はかなり強靭な管理下に捕捉されているのかもしれない。

「あいつ、私から全てを奪ったの」

 香純は唇を震わせながら、露骨なまでに怒りと憎しみををあらわにした。童顔の彼女にはそぐわない情念の炎が、かっと見開かれた両眼の奥でゆらゆら揺らめいている。

 美津帆と爽は互いに目を合わせ、無言のまま頷いた。二人が思い描いていた推測と一致していたのだ。だがそれは決して意図的に思考した訳ではなく、無意識のうちに香純の表情や言動から心の闇を感じ取っていたのだ。二人とも人の心の深層部を垣間見るのを生業としているだけに、体に染みついた潜在的思考が知らず知らずの間に起動してしまうのかもしれない。

「何となく見えてきた」

 爽は遠くに見えるほの暗い湖面をじっと見つめた。

「何が? 」

 美津帆が尋ねると、爽は待ってましたとばかりに得意げな笑みを浮かべる。

「体育館で消えた瀬里沢だけど、あれはきっとさっきの奴の心象風景だ。あいつもこの世界に迷い込んだビジターっぽいっし。多分、この異界のどこかで香純を見掛けて、ここでも瀬里沢に近づけないようアンタッチャブルなイメージを植え付けようとしたんだろう」

「じゃあ、瀬里沢は異界にはいないの? 」

「いると思う。いるからこそ、あいつは香純の姿を見て、絶対に瀬里沢に近付けたくないって強く思ったんじゃないかな。その思いが幻影となって俺達の前に現れた」

「成程ねえ」

 美津帆の感心した素振りに、爽は得意げに親指を立てた。

「それじゃさ、ここは誰の心の風景? 」

 香純が爽に問い掛けた。

「うーん、分からない・・・」

「まあ、心象風景を模してるってのもあくまで爽の過程だからね。そうとも限らないから」

 回答に詰まる爽を、美津帆がすかさずフォローする。

「うん、俺んじゃない」

 爽は確証を得たかの様に頷いた。

「そういう意味じゃなくてさあ」

 美津帆は困ったちゃんな爽に苦笑した。

「何とも言えない世界よねえ」

 香純は大きく伸びをすると深呼吸を繰り返した。

「殺風景だけど、空気は澄んでる」

 香純は周囲を見渡すと、深い吐息をついた。

 草原と湖と空しかない。草原のはるか向こうに見える稜線がかろうじてアクセントになっているくらいで、あとはこれといったものは何も存在していなかった。

「湖に向かって歩いてみるか」

「えーっ! 遠いよお」

「見た感じ何も無さそう」

 爽の提案に、美津帆も香純も不満たらたらの態度で返す。

 確かに二人が拒否るのも分かる。見る限り、進んだところで何も起きそうにないような気がするのだ。

「せめてダンジョンか何かあればねえ」

 美津帆が呟くと、香純は何度も頷いて同調の意を示す。

「ここ、賢人居そうにないし」

 香純はそっちだった。

(とんでもないパーティーだな)

 RPG的世界観に囚われる美津帆と元カレにしか興味を示さない香純に、爽は頭を抱えた。

「ここから出たいのか」

 不意に、低いしゃがれた声が彼らに話しかける。

「えっ! 」

 爽達は慌てて振り向いた。

 旅人の様だった。

 チャコールグレイの煤けたフード付きのコートを纏い、幾つもの荷物を括りつけた白い馬にまたがっている。フードを目深に下ろしている為、顔は見えないが、声からして壮年の男性かと思われた。

 いったい、いつからそこにいたのだろう。馬の嘶きはおろか蹄が地面を駆る音すらも三人には全く聞こえなかったのだ。

「あなたは・・・? 」

 爽は恐る恐る旅人に声を掛けた。

「見ての通り、旅の者だ。今まであらゆる現実と虚構の狭間を巡り歩いて来た」

 旅人の抑揚の無い声が、静かに響く。

「この世界は、いったい何なの? 」

 美津帆が旅人に尋ねた。

「始まりと終わりの地」

「始まりと・・・終わりの地? 」

「そうだ。君達の様にここから出たいと思う者にとっては始まりの地だ。反対に、ここに訪れたいと願う者にとっては終わりの地となる」

「・・・」

 爽は無言のまま、その旅人を見つめた。彼が語った抒情詩の様な一節は、難解な秘文となって爽の思考に響いていた。

「この世界はどうなっているんですか? 町や村はあるんでしょうか」

 爽は更に問い掛けた。何者か分からない相手にここまで積極的になる自分が不思議に思えたが、好奇心が躊躇する間も与えない程に彼の意識内に噴出していた。

「見ての通りだ。ここには何もない」

 旅人は答えた。余りにものストレートな回答に爽は言葉を失った。見える限りの風景しか存在しない世界。そんなのある訳ない――そう思いながらも、それはあくまでも現実世界での話だ。忘れてはいけない。ここは異界。常識と非常識が混沌とし、どちらも存在する空間なのだ。

「あなたは、そのう・・・どこからどうやってここに来たんですか? 」

 香純が少し遠慮がちに旅人に尋ねた。

「また別の世界。この馬に乗ってな」

「道はあるんですか。この世界と他の世界を繋ぐ道は」

 香純は更に彼に問い掛ける。

「道はない。だが、必要となった時、道は開かれる」

 旅人の言葉に香純は表情を曇らせた。今、彼らの前には道は開かれていない。旅人の解釈が正しいのなら、彼らはまだ旅立ちの時が熟していないということになる。じゃあ、いつになったらこの何もない空間から出られるのか。

 香純は苛立ちを誤魔化すかのように唇を噛んだ。

「自分の意思でどうにかならないんですか? 」

 爽は旅人を見つめた。だが、彼はすぐに爽の問い掛けに答えようとはせず、まるで何かを推し量るかのように沈黙を保っていた。

「・・・君達はどうやってここに来た?」

 それが、旅人の答えだった。

 しやがれた声が綴った答えに、爽は言葉を詰まらせた。

 自分の意思で来た訳じゃなかった。恐らくは美津帆や香純の意思でもない。もっと別の意思――力が働いてこの地に召喚されたのだ。

 あくまでも、この異界を司る何かしらの意思によってのみ進路を定められるというのか。

(俺達は弄ばれているのか。この世界を創造した何者かに)

 納得いかない憤りに苛まれながら、爽は落胆した思いで足元に目線を落とした。

「この世界を創ったのはあなたなの? 」

 いきなり美津帆が突拍子の無い質問を旅人にぶつけた。真顔で真っ向から旅人を見据える美津帆に呆気に取られながらも、爽は硬直しかけた空気が瞬時にして粉砕するのを感じた。

 彼女は良い意味でのクラッシャーなのかもしれない。会議や打ち合わせが行き詰った時、こういった一言で解消され、新たな展開へと進む場合がある。

 美津帆の問い掛けに、旅人は明らかに狼狽していた。手綱を取る手に、心なしか力が入っているようにも見える。

「私ではない・・・」

 旅人は低い声で呟いた。それは決して美津帆への回答ではなく、自問自答しているように思えた。

「ここは、あなたにとって終わりの地なんですか? 」

 爽は更に切り込んだ問い掛けを旅人に投げた。

 彼は答えなかった。美津帆の質問を受けて動揺する彼を追い詰めるつもりは、爽には毛頭なかったものの、明らかに平静を失いかけているのは確かだった。フードをすっぽりと被り、俯いたままの姿勢を崩さないが故に表情を伺うことは出来ない。だが、その困惑ぶりは彼の態度からはっきりと見て取れた。

「・・・そうだ」

 旅人は頷いた。だがそれは、どう見ても彼の本心ではないような気がした。声質に今までにないぎこちなさが感じられたのだ。ほんの一言綴られただけでしかないその声は、躊躇いと不本意な思いに裏打ちされ、心のブレーキが掛かっているかの様な歯切れの悪さが否応なしに伝わってくる。

「でも、このまま終わらせたくない――そう思ってますよね? 」

 爽は彼に静かな口調で問い掛けた。語り掛けるような声で綴られた言霊は、張り詰めた緊張から解き放たれた矢のように空を駆り、旅人の意識を貫いた。

 彼は驚いた様に顔を上げた。爽の言葉は、彼の意識化で彷徨う様々な心情の中の一つを捉えていた。それは恐らく、彼が最も関心を寄せていた事項であり、彼が最も希望する選択肢であったに違いなかった。

 爽は息を呑んだ。

 そして、明らかになった彼の顔をじっと見つめた。

 瀬里沢だった。

 深いしわが刻まれた額、落ち窪んだ目、痩せこけた頬――その姿は、今の彼とは明らかに異なる風貌だった。だが所々に残る特徴的な名残が、間違いなく瀬里沢でであることを著明に物語っていた。まるで壮年期の彼を想定して再現したかのような、そんな風貌だった。

「瀬里沢・・・」

 爽は吐息をついた。

 意味が分からなかった。何故彼が老けた姿で彼らの前に姿を現したのか。

「もうとうの昔にその名は捨てた。今はただの名も無き旅人だ」

 旅人――瀬里沢が淡々とした口調で語った。

「賢人、私達と一緒に行こうよ。こんな所に一人でいるのって寂し過ぎるよ」

 香純が目を潤ませながら瀬里沢に訴え掛けた。

 瀬里沢はじっと香純を見つめていた。まるで、意識の深淵部に埋もれてしまった遠い記憶を発掘するかのように、彼は探るような目つきで、切実に思いを告げる香純の顔を食い入るように見続けた。

 瀬里沢は忘れてしまったのか。かつて愛した女性の姿を。出会った時とは経年変化によって顔付も体格も違うかもしれないものの、面影は何かしら残っているものだ。

 彼が消えた。

 ほんの一瞬のうちに、馬だけを残し、荷物もろとも消え失せていた。

「俺は、まだ終わりにはしない」

 瀬里沢の声だった。それは、不意に駆け抜けていった一陣の風に乗って彼らの耳に届いていた。

「瀬里沢っ! 」

 爽は空を見上げ叫んだ。

 だが、それ以上彼からの応答は無かった。

 ただ、彼が残した馬だけが、所在無げに三人を見つめていた。

「瀬里沢もこの世界に来ていたんだ。それもかなり前から」

 爽は唸るように呟いた。

(いったい、この世界ってなんなんだ? )

 爽は苦悶の表情を浮かべた。思考を張り巡らすにしても情報が少な過ぎる。

(瀬里沢は再び旅立ったのか。でも何故この馬を残していったんだ? )

 爽はじっと馬を見つめた。馬も何かを語り掛けているかのように、優しい目で彼をみている。

「賢人は何処へ行ったんだろ」

 香純は寂しそうに空を見つめた。と、ふと我に返ったかの様に瞳を輝かせながら美津帆を見た。。

「ね、この馬に乗ったら別の世界に行けるかな」

 香純は馬の頬を手で愛撫しながら、美津帆に弾む声で言った。

「うーん、どう思う? 」

 美津帆は眉間に皺を寄せながら爽にバトンを渡した。

「それ有りかも。恐らくこの馬は瀬里沢をここに導く役割の『道』だったんじゃないかな。瀬里沢は迷った挙句、新たな道を見つけて旅立っていった。それがさっきの風だと思う。だとすると、馬はもう役目を終えたのだから、ここにいる必要が無いだろ? それでもここにいるってことは、答えは一つ」

「私達にとっての『道』? 」

 香純はうわづった声で答えた。

「そういうこと」

 爽が得意げに親指を立てる。

「冴えてんじゃん! 」

 美津帆が嬉しそうに爽の頭を拳でぐりぐりぐり。

「でもさあ。この子に三人は乗れないよね」

 美津帆はそう言いながら残念そうに馬を見上げた。

「そうだよな。それに俺、乗馬経験ないし」

「私も」

「私も」

 三人は落胆の思いで馬を見つめた。彼らのの心情を感じ取ったのか、馬は鼻息を荒げながら身震いすると一際高く嘶いた。

 次の瞬間、馬の形状が大きく変化し始める。胴体が長く伸長し、頭には鹿の様な節くれだった角が二本生えたかと思うと、全身を覆っていた白い体毛は次々に白い鱗へと変貌を遂げた。

 爽は呆然としたまま、ごくりと生唾を飲み込んだ。

 白龍だ。全長綱引きの綱ぐらい。胴周りは太い所でドラム缶ぐらいはあるだろう。短めの四肢には猛禽類のそれのような鋭い爪が生えている。

 白龍は頭を下げると、顎先で己の背を示した。

「背中に乗れって言ってるの? 」

 美津帆の問い掛けに、龍は黙って頷いた。

「爽、先に乗ってよ」

「乗るってったって・・・やっぱあそこしかないよな」

 爽は迷いながらを龍の首の辺りにまたがり、恐る恐る角を掴んだ。龍に変化した際に、馬の時にはあった手綱が消えてしまっていたので、つかまるところは角しかない。  

 ひょっとしたら龍は嫌がるんじゃないかと思ったが、意外にも特に抵抗する素振りは見せなかった。

「次、美津帆お願い! 」

 香純が申し訳なさそうに美津帆に手を合わした。

「いいけど、どうして? 」

「そのう・・・胸が、当たっちゃうし」

 香純は顔を赤らめるとごにょごにょと言葉を濁した。

「はははははあっ! 分かったわ」

 美津帆は香純を見つめながら、冷ややかな乾いた笑い声を上げた。

「残念でした」

 美津帆は魔女が呪詛を紡ぐような声で爽に囁くと、彼の後ろに座った。

「ごめんね」

 誰に対してのごめんねなのか、謎めいた謝罪とともに香純はスカートを足の間に挟み込みながら美津帆の後ろに乗った。

白龍は三人が背中に乗ったのを確かめると、目をかっと見開き、低い唸り声を上げながら正面を見据えた。

 白龍の体が、ふわりと中空に浮かび上がる。同時に、体重が急激に減少したかのような浮遊感を三人は覚えていた。

「見て! 」

「ん? 」

 美津帆が驚きの声を上げて地面を指差した。

 何気に地面を見下ろした爽の目が、皿のように丸くなる。

「これは・・・」

 爽の喉から唸るような呟きがこぼれる。

 枯れかけていたはずの草が、瑞々しい緑葉を取り戻していた。

「ここだけじゃないよっ! 」

 香純の声に爽は息を呑んだ。

 中空を漂う白竜を中心に、草原の萎れた植物が次々に緑葉の息吹を吹き返していく。

 変化が起きたのは地表だけじゃない。どんよりと曇っていた空も見る見る間に晴れ渡り、抜けるような青空に変貌を遂げていく。

「道が開いたんだ。始まりの地としての」

 爽の呟きに美津帆は黙って頷いた。

 不意に、白龍が動く。

「きゃっ 」

 美津帆は悲鳴を上げると、ぎゅっと爽にしがみついた。

 爽に緊張が走る。背中に密着する思いもよらぬ柔らかな感触に、彼の全神経が集中していた。

 意外だった。

 意外過ぎた。

 そう言えば、彼女はいつもぶかぶかのブラウスを着ていた。ジャージだってそうだ。噂では姉からのおさがりらしいとのことだったが。

(ひょっとしたら、胸の大きさを目立たなくする為にわざと大きめのブラウスを着ていたのか? )

 爽の憶測は暴走を極め、とどまることを知らないままに突っ走っていく。

 それは白龍も同じだった。まるで水を得た魚の様に、ぐんぐん高度を上げ、意気揚々と空中を滑空していく。それはさながら抑圧された虜囚の身から解放されたかのように、自由を満喫しているように思える。

 風が、轟と唸り声を上げながら後方へと猛スピードで過ぎ去っていく。

 遠くに見えていた湖は、もう目と鼻の先だ。草原や空と同様に、湖も大きく変貌していた。暗く沈んだ湖面は鮮やかな蒼に替わり、そよぐ風に湖面がキラキラと輝いている。

 爽は急速に迫る湖に、一つの不安を抱いていた。白龍はまっすぐ湖に向かって飛んでいる。もしこのまま湖に飛び込んだとしたら・・・。

 ごくり、と大きな音を立てて爽の喉が鳴る。もはや背中に感じる幸せを噛みしめるどころではなかった。このまま白龍が湖に突っ込んだとしたら、彼らは成す術もなく湖水の中に放り出されるだろう。爽自身は多少は泳げる自身はあるものの、あとの二人はクエスチョンだ。

(多分、後ろの二人は気付いていない)

 爽は焦燥に駆られながら、龍の向かう進路を見定めた。

「爽、泳げる? 」

 美津帆が彼の耳元で囁く。

「えっ? 」

 爽は驚きの声を上げた。爽の憶測とは裏腹に、彼女は近い将来起きるかもしれない最悪の事態を察知していたのだ。

「このまま、行くと湖に突っ込むよね。そうはならないように祈りたいけど」

 美津帆は不安げに表情を曇らせた。

「俺、多少は泳げるから、助けてやるよ」

「大丈夫。私、小学校の時スイミングスクールに通っていたし。香純も泳げるって言ってたから心配ないよ」

 美津帆は笑みを浮かべると、ぎゅっと爽にしがみついた。大丈夫のサインのつもりなのか、着水時の心配が薄らいだ爽の意識に、再び妄想の妖しい旋律がハイテンポの時を刻む。

 爽達の心配通り、龍は確実に湖に向けて進路を取っていた。それも、湖が近づくにつれ、徐々に高度を下げ始めている。

「美津帆! 」

 爽は肩越しに美津帆に声を掛けた。

「分かってる」

 緊張した面持ちで答える美津帆。

「香純、そろそろよ」

「うん! 」

 美津帆が香純に声を掛ける。香純も覚悟していたのだろう。若干上ずった声だが比較的落ち着いている。

 三人の覚悟が固まったのを感じ取ったのか、白龍は嘶きを上げると一気に急降下に転じた。

 急激な加速が三人を無重力状態へと陥れる。遊園地のアクティビティーを遥かに凌ぐ恐怖と緊張に、爽は声にならない絶叫を張り上げた。世間一般の遊園地にあるようなアクティビティーに比べれは余りにも単純かもしれない。だが、そんな施設とは根本的に違う点がある。

 このアクティビティーには、セーフティーバーもライフジャケットも何もない。 

 一つ間違えたら、確実に起こりえることがある。

 それは、死だ。

 異界だから死なないと言う保証も無ければ根拠もない。

 彼の耳元で美津帆の断末魔の叫びが響く。爽にしがみつく彼女の手に、更に力が加わった。美津帆の胸の拍動が爽の背中を通じて直に伝わってくる。

「なるべく体を低くしろっ! 着水時の衝撃に備えるんだ」

 爽は緊張と恐怖に強張る唇を無理矢理こじ開けると、湖面を見据えたまま美津帆と香純に向かって叫んだ。

 一瞬きもしないうちに湖面が間近に迫る。恐ろしく澄んだ湖水は、ごつごつした岩が連なる湖底まで透過しており、群れを成す魚影までもはっきりと肉眼で捉えることが出来る程だった。

 着水まで、後僅か。

 爽は目を閉じた。

(5・・・4・・・3・・・2・・・1・・・? )

 爽は首を傾げた。

(着水していない)

 タイミング的には既に水中に放り出されている状況であってもおかしくないのだが、いっこうに水面に叩きつけられる衝撃もずぶぬれ感もない。

 爽は恐る恐る目を開けた。

「えっ!? 」

 彼の目が巨大な皿と化す。

 彼らは間違いなく水中にいた。それも、水中に出来たトンネルの中に。トンネルは白龍の進路に従い生じている。だがすぐに消えるわけではなく、肩越しに背後を確認した爽の目には、湖面まで水のトンネルが維持され続いているのが見えた。

「綺麗・・・」

 美津帆が嘆息をついた。透明度の高い貧栄養湖の割には魚影が濃く、銀輪を輝かせながら泳ぐ魚の群れがトンネルの壁越しに見える。

 どのような力が働いているのか、爽達には全く見当がつかなかった。今まで学校で学んだ物理学の知識を完璧にひっくり返すような、法則も定義も超越した現象をどう捉えるべきなのか。白龍の神通力――一言で片づけるならそうなってしまう。でも実際に起きている現象を目の当たりにすると、そんな簡単に表現出来てしまうような薄っぺらいもんじゃないような気がする。

 でも残念ながら、爽はそれ以上的確に表現可能な言葉のストックを持ち合わせていなかった。美津帆なら、読書家ゆえに脳裏に刻み込んだありとあらゆるボキャブラリーを駆使し、小説の一節を彷彿させる感動的叙情的文語表現を巧みに綴り上げてくれるに違いないだろう。だが彼女は言葉短に吐息の様な感嘆の呟きを綴るだけで、震えるような爆発的感情の解錠まで至っていない。香純に至っては無言のまま目を潤ませている。

 感動の表現に言葉はいらない。心を揺さぶる情景を表現するのに当てはめる言葉の羅列など、意味がないのかもしれない。その眼で捉え、記憶に焼きつけた情報に揺さぶられる感情の覚醒は、捉え方により一人一人視点が異なって来るのだから。

 例えようのない感動と想像を絶する驚愕の渦に囚われた三人を背に乗せたまま、白龍は更に湖の深淵部へと進行していく。

 湖の主なのだろうか。鯨並みの巨大な魚影が三人の目の前を通り過ぎて行く。形態は鯉でも鱒でもない。どちらかと言うとシーラカンスを彷彿させる古代から生き続けているかのような魚体だった。

 水のトンネルを破壊したり進路を妨げようとする様子は無かったが、その圧倒的な存在感に三人はただ無言のまま優雅に深淵を移動する姿に見入っていた。


 邪魔しないでよ

 彼は渡さない


 表情の無い大きな皿の様な目で三人を見ながら、主がそう呟いた。

 呟いたような気がした。

 否、違う。

(この声・・・・・・? )

 爽は気付いた。桜吹雪の中にかき消すように消えた、あの少女の声だ。

「さっきの娘よね! 何処にいるんだろ? 」

 美津帆が慌てて周囲を見回した。

「ひっ! 」

 香純が短い悲鳴を上げた。

「どうしたっ? 」

 振り向いた爽の目に、震える指で背後を指差す香純の青ざめた顔が飛び込んで来る。

 彼女が指さすその先には、彼らが湖に飛び込んだ際に生じた円形の空間。本来なら青空が見えるはずのそこから、巨大な眼が覗き込んでいる。

 あの少女の目だ。

 巨大な眼は小刻みに震えながら涙を流し始めた。次々に溢れ出る透明な液体は、爽達の後を追うかのように猛スピードで一気に水の隧道に流れ込む。

「まずい! 」

 爽は、ぎりりと歯を鳴らしながら噛みしめると、背後から迫り来る無機質な追手をじっと見据えた。

 爽達の狼狽振りを感じ取ったのか、白龍は大きく嘶くと更にスピードをアップした。

 容赦なく迫り来る涙の噴流。

 行く手には、湖底に連なる巨大な岩が。

 白龍の野太い咆哮が響き渡る。

 同時に、白い閃光が視界を埋め尽くす。






「えっ? 」

 美津帆はきょろきょろと周囲を見まわした。

「戻って来たんだ・・・」

 爽は大きく吐息をつくと、安堵の呟きを漏らした。

 二人は、『きっちん椿』から一歩踏み出したその瞬間の時点に舞い戻っていた。

 立ち竦む二人を避けて、数人の男子学生が店内へと入って行く。すれ違いざまに向けられる醒めたようなチラ見。店先でいちゃついているように見えたのか、明らかに敵意と羨望の入り混じった視線が、さり気ないしぐさの中に紛れながらも無防備な爽の胸に吹き矢の毒針の様に突き刺さる。

「珈琲飲もうよ。落ち着きたいし」

 爽は美津帆の提案に二度頷く。絶対絶命の緊張感から解放された安堵感からか、足元がふわふわしておぼつかない。それは美津帆も同様の様で、結果的に二人はピタッと身を寄せて互いに体を支え合いながら歩くという、第三者から見れば超バリラブラブな恋人同士みたくなっていた。

 かろうじて近くのスタンドカフェに辿り着く。二人はメニューを見るのもそぞろな感じで珈琲を頼むと端っこの窓辺に腰を下ろした。

「疲れた・・・」

「ああ。疲労感半端ねえし」

 爽はカップをテーブルに置くと大きく吐息をついた。

「香純は今頃パスタにありついたのかな」

 美津帆は珈琲を口に含むと、ほっとした表情を浮かべた。

「心臓バクバク状態で食べるどころじゃないかもな」

 爽は苦笑を浮かべながら美津帆を見つめた。

「ねえ、私達、助かったんだよね? 」

 美津帆が不安気に爽の顔を覗き込んだ。

「ああ。多分」

 確証は無かったが、爽自身そう思いたかったのは事実だった。再び異界に召喚された途端、涙に溺れるなんて余り考えたくは無かったのだ。

「何となくなんだけどさあ」

「ん? 」

 遠慮がちに呟く美津帆を、爽が訝し気に見つめる。

「私達の向かっている方向にいるような気がするんだよね」

「誰が? 」

「誰って瀬里沢よ」

 当然でしょっ! て表情で、美津帆が上目遣いに爽を見る。

「何故そう思ったの? 」

「あいつが私達を行かせようとしないのは、その先に確実に瀬里沢がいるって事じゃない」

 美津帆が得意げに爽を見た。確かに、あの少女がが不可思議な術を使い、俺達の進路を阻もうとしたのはその為かもしれない。

「でもさ、何か違うんだよね」

 美津帆が何処か不満げに呟く。

「違うって?」

「異界よ。私が思い描いていたのと全然違う」

「RPGの実写版的なイメージでも描いていたのか? 」

「正解」

「俺もそうだよ。襲い掛かって来るモンスターやミュータントを剣や魔法でバッタバッタと――でもさ、意外と異界って、あんなものかもしれない」

「そうかなあ」

 美津帆は何処か納得がいかないのか、不満気に眉間に皺を寄せながら頷いた。

「都市伝説でそんな感じのあったよな。乗り物が媒体になって見知らぬ街に飛ばされてしまうやつ」

「うん、聞いたことある」

「異界ってさあ、実は俺達が思っている程ドラマチックじゃないのかもな」

 爽は残念そうに呟くと、珈琲を口に含んだ。豊潤で香ばしい挽きたての豆の香りが、疲弊した意識に優しく浸透していく。

「私達が飛ばされた異界って、全部同じ次元だと思う? 」

「うーん・・・多分同じだと思う。ステージはがらっと変わったりしたけど」

 爽は美津帆の疑問に共感していた。だが、彼が分析して導き出した一つの仮説が、その疑問の回答としてつじつまが合うという結論から、それ以上の深堀はあえてしないでいたのだ。

 異界は何者かの心情風景を具象化したものかもしれない――彼が異界に迷い込んで早々に導き出した仮説だったが、もはや仮説の域を通り越し、かなり信憑性の高いものになっていた。この事象を更に追求した場合、とある回答に辿り着く事を、彼は既に察していた。そして、その新たな仮説に触れると、様々な問題が生じる事も。

「ひょっとして誰かの夢の中に迷い込んだとか」

 美津帆の目が、じっと爽を見つめていた。大きく見開かれた茶を帯びた瞳の奥に透明感のある輝きを湛えている。

「同じ事を考えてた。やっぱそう思う? 」

「うん。ステージが繋がっていたかと思うと見たことの無い場所に転移したりって展開、どう考えたっておかしいもの。異界ってったって、ここと違う次元に存在するもう一つの現実って考えたら、あんな展開不自然だし――」

 美津帆は的を得た意見に気を良くしたのか、頬を紅潮させながら興奮した口調で爽に訴え掛けた。

「でもさあ・・・」

 美津帆の声のトーンが徐に深く沈んだ。

「誰の夢なんだろ」

「分からない。仮に分かったとしても、どうすることもできない。多分、夢を配信している本人は第三者が紛れ込んでいるとは思っていないだろうからな。存在したとしても、それは配信者が作り出したイメージに過ぎないし、当の本人もそう感じ取っているはずだから」

「誰の夢なのか・・・探さない方がいいかもね。私達がやってることって、他人がずけずけと自分の家の中に入ってくるようなものだものね」

「うーん・・・まあ、そういう事になるかもな」

 爽は頷くと、珈琲を飲み干した。

「また、異界に迷い込むのかな」

 美津帆がぽつりと呟く。だがその声色は決して嫌悪ではなく、冒険に挑む勇者の様な好奇心に満ちた弾んだものだった。

「爽、何故私達があの異界に呼ばれたのか分かる? 」

「えっ? 考えてもみなかったな」

「心療内科の医師と犯罪心理学者が呼ばれたってことはさ、異界の創造主は何かしら追い詰められ、苦しんだ挙句に私達に救いを求めてきたんじゃない? 」

 美津帆の目がキラキラ輝く。

「すげえな、その考察」

 爽は舌を巻いた。突拍子にない考察もさることながら、有り得ない状況に陥っていながらもプラス思考的な前向きの姿勢でぐいぐい前へ踏み出す美津帆の姿に驚きを覚えていた。

 高校時代の隔離空間に一人息を潜めていた彼女の姿からは全く想像がつかないのだ。あの時息を潜めていた彼女の自我が、今になって覚醒的解放の時を迎えたのかもしれない。

「じゃあ香純も何かしら関連のある仕事をしてんのかな」

「もし、また異界に行くことがあれば、その時に聞けばいいよ」

 美津帆はカップをテーブルに戻すと、納得した表情で力強く頷いた。

「行く気満々だな」

「流石に今日はもう勘弁してほしいけどね」

 美津帆は眉毛をㇵの字に下げると、ひきつったような笑みを浮かべた。 

 


 

 

 

  


 

 

 


 





 

 

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