第2話 それはそれとして、とりあえず町中華

「えっ? えっ? えええっ? 」

 爽は絶句した。思わず喉元から絞り出された驚愕の呟きも、歩道を行きかう雑踏に掻き消され、誰一人と疑問に思う者はいなかった。

 夕暮れ時の路地裏。居酒屋やこじゃれたバーに明かりが燈り、仕事帰りのサラリーマンやOLで人口密度が徐々に増してきている。

 ここは、元の世界。それも異世界に旅立った街角から一歩踏み出しただけの移動距離だった。

空の明るさの感じから、旅立ち前とさほど変わっていないように思える。

(時間帯は一緒でも、まさか実は何年もたってましたってことはないだろうな)

 爽は慌ててデニムのピスポケットからスマホを取り出し日時を確認した。

 日付は変わっていない。大丈夫の様だ。改めて時刻を確認してみると、研究室からここまで来るのにかかる時間を差っ引いてみても、全くと言っていいほど時間は立っていないのが分かった。

(あの体験は、いったい何だったんだろう・・・)

 狐につままれたような、何とも説明の使用がない――白日夢? な訳ない。あれはどちらかと言うと、願望が強過ぎる余りに空想や幻想が現実味を帯びて意識が覚醒している時に夢を見たかのような錯覚に陥る現象だ。彼自身は特に高校生活への憧憬や思い入れ、未練なんてものはなく、今の生活が充実しており、そのような懐古的願望に浸る要素は全く無かった。じゃあ幻覚? 別にヤバイ薬やってるわけじゃないから、それも違う。

 それに、腰かけていた机の質感といい、ブラスバンドが演奏する楽器の音色と言い、床面の無機質で味気無いワックスの匂いといい・・・あれは夢でも幻覚でもない。間違いなく実際に存在し、彼自身そこにいたのだ。

(そうだ美津帆は? 香純は? )

 爽は慌てて周囲を見回した。だがそこには二人の姿はなく、見知らぬ人々がそれぞれ個々の世界に浸りながら通り過ぎて行くだけだった。

(あの二人も異界の産物だったのか? )

 確か三人で体育館から出たのが最後だった。もし二人もこちらの世界の住民だったら、すぐそばにいてもおかしくないはず。ということは、爽以外は全てあの異界の中だけの存在なのか。

「爽? 」

「えっ? 」

 爽は慌てて振り向いた。彼自身、普段家族以外の者から名前で呼ばれることが無く――異界では成り行きでそうなってしまったが――ましてや、まず街角なんかで掛けられることのない女性の声だったのが、彼をあたふたさせる重要ファクターだった。

 母や二歳上の姉ならばそこまで驚きはしないだろう。とは言え実際には彼は親元を離れて生活しており、それも買い物ついでに寄れるような距離でもなく、姉も婿養子の旦那と小さい子供二人をおいて彼を訪ねて来るなんて考えられない。

 彼の後ろに立っている人物は、明らかに見知らぬ女性だったのだ。アイボリーのブラウスにブルーのロングスカート。振り向いた彼を微笑みながら見つめる澄んだ瞳は、決して人間違えではなさそうに見える。インドア派なのか、日焼けを嫌っているのか、色白で透き通るような肌は日焼けのけの字も無く、更にはほぼノーメイクに近い。派手さは無く、ナチュラルで清楚なイメージの容姿だった。その清楚さを際立たせている長い黒髪は、巫女の様に後ろで束ねて神々しい雰囲気を醸し出していた。

「変わんないねえ。高校の時のまんまだよね」

 爽は漸く気付いた。その声に聞き覚えがあったのだ。

「まさか、美津帆? 」

「やっと気づいたか」

 彼女は呆れた感たっぷりの表情で苦笑を浮かべた。

「ああ、ぱっと見た感じ全然分からんかった」

 爽はまじまじ彼女を見つめた。高校時代は学校でしかあったことが無く、私服姿は一度も見かけたことが無かったのも関係しているのだろう。

「眼鏡からコンタクトに変えたからイメージ変わったんじゃない? 」

 成程。と、爽は頷いた。確かにそれは大きな要因の一つだ。高校時代、余り会話したことが無かったのもあってか、彼女の第一印象は銀縁眼鏡だったのは紛れもない事実。

「あ、でも・・・魅力的になった」

 爽は容姿から抱いたイメージを素直に呟いた。

「あーなんかそれって、昔が魅力的じゃなかったこと? 」

 美津帆は不機嫌そうにしかめっ面で爽をじっと睨みつける。

「そうじゃないよ。今まで隠れていた魅力がぱあっと解放されたってか、なんか雰囲気違うし、封印された感じっていうか、バリアー感無いし・・・ああああっ、何て言ったらいいか分かんないけど、凄く素直に感じるんよ。高校の時、この魅力に気付いていたらなって・・・ごめん」

 爽はあたふたしながら思考に散在する感情を拾い集めながら言うと、ぺこりと頭を下げた。

 美津帆は、一連の爽の謝罪会見を見届けると目を細めて破顔した。

「何よそれ、でも爽らしいな。あなたって高校の時もそんな感じだったよね。てんぱっちゃうと心の声をそのままストレートに吐き出しちゃうところあったもんね」

「え、そんな風に見てたの?」

 爽が驚きながら目を丸くする。

「結構あれだよ。私、周りを冷静に見てたんだよ。余り人と関わりたくなかったから決壊張ってたけど」

「へえええ」

 爽は美津帆の告白に関心を示した。彼女は決してクラスのみんなから除け者にされていたのじゃなく、自分から加わろうとしていなかったのだ。爽が感じていたイメージが、まさに的中していたのだ。それにはきっと何か裏があるに違いなかったのだが、それを問うことに彼は躊躇していた。そこまで切り出すにはまだ時期尚早のような気がしたのだ。漸く自分に結界を解いた彼女の態度が一変するかもしれない危惧を、彼は彼なりに察知していた。

「立ち話もなんだし、歩かない? 」

「あ、そだね」

 美津帆に促され、二人は歩き始めた。

「なんかさあ、さっき爽が私に頭を下げてた時、デートの待ち合わせに遅刻した彼氏が彼女に謝っているように思われてたみたいよ」

「えっ! 」

「通りすがりのカップルが話してんのが聞こえた」

「ごめん、迷惑かけた? 」

「大丈夫だよ、私、彼氏いないしさ。安心して! 一緒にいたところで殴り掛かってくる男はいないから」

 そういうと、美津帆はけらけらと笑った。

 そんな彼女を爽は意外そうに見つめる。彼女がこんなに笑う子だったとは驚きだった。彼女が結界を解くきっかけって、いったい何だったのだろうか。彼の関心はどうしてもそちらに向かっていくものの、慌てて心の中で首を横に振ってそれを制した。

「あのう、変なこと聞いてもいい? 」

 爽が恐る恐る美津帆に伺いを立てた「。

「異世界のこと? 」

 美津帆が声を潜めて爽に問い返す。

「え、じゃあ、あれはやっぱり本当に・・・」

「そうみたい。体育館から出た途端、こっちに帰ってきたからびっくりしちゃった。それに、向こうに結構いたと思うんだけど、時間立ってないし」

「そうなんだよな・・・」

「あっ! 」

「何? 」

「ごめん、私、咲良のこと、爽って呼んじゃってた。ついついあっちでの流れで」

 美津帆が突然顔を真っ赤にして謝った。

「あ、いいよいいよ」

「でも、もし彼女とか知ってる人に聞かれたらまずくない? 」

「大丈夫。俺、彼女いないし。それにこの時間帯にこの辺りで知り合いと出くわしたことないし。俺も美津帆って呼んじゃってるし問題ないだろ? 」

「うーん、まあ、いいか」

 妙な論法だった。が、美津帆は一瞬思案したものの、まんざらでもない表情で爽の提案に同意した。

「あの世界って、いったい何だったんだろうね」

 爽は首を傾げた。何故、高校の教室なのか。何故、容姿があの頃に戻っているのか・・・答えは全く見えてこない。

「香純は? 」

 美津帆が徐に爽の顔を見つめた。

「香純・・・そう言えば見かけていないな。美津帆みたいに雰囲気が変わっていたら気付かないかもしれない」

「あ、でも、香純は爽のこと気付くかも」

「どういう意味だよ」

 爽は苦笑を浮かべた。

「私達、あの世界に迷い込んだ入り口にまた舞い戻って来たんだよね。てことは

・・・」

「そうか! 彼女は全く違う場所から舞い込んだんだ。美津帆は割と近い所だったみたいけど」

 爽が目を輝かせた。我ながら冴えていると思いながらも、実は美津帆の誘導がなかったら閃く素振りなど微塵も無かったのは確か。彼自身、それを実感しているのか、小躍りして得意げに胸を張るのは流石に控えた。

「そうなるよねえ。電話番号かメールアドレス聞いとけばよかったよう」

 美津帆が眉毛をㇵの字にして悔しがる。

 その困ったちゃん顔に、爽は驚きながらもほっこりした気分になる。感情を一切顔に出さない気難し屋のイメージがつき纏っていた高校時代はいったい何だったのって思わせるような、柔らかで変化に富んだ彼女の表情に、何かしらうれしく感じていたのだ。

 妙な気分だった。あれだけ寡黙の人だった彼女が、こんなによく笑い、よくしゃべる子だったとは。高校時代、取っ付き難さが発端で抱いていた苦手意識が全くもって嘘の様だった。

「爽はどこかに行く予定だったの? 」

「うん、夕飯」

「私もそう。ね、一緒にどう? 」

「ああ、いいね。行くか。でもどこがいい? 」

「私、行きたいところあんだよね。ねえ、デートに遅刻したお詫びに御馳走してよ! そしたら許す」

「え、何なのそれ? それってそもそも通りすがりのカップルの誤解じゃん――けどまあいいか」

 美津帆の強引な設定に戸惑いながらも、爽は嬉しそうに渋々了承した。なんせ女性と二人きりでご飯何てここ何年かの間であっただろうか。彼の記憶にあるのは、姉に奢ってもらってファミレスに行ったぐらいで、しかも身内ときた。

 何となくわくわく気分の彼だったが、少しでも本心は顔に出さないでおこうと必死で真面目な顔をしようとする。だが、美津帆にはとっくの昔に見破られているようで、彼女は悟りを開いたような柔らかな目線で彼を見ながら口元に仄かな笑みを浮かべていた。

「その、行きたいお店って? 」

「あ、すぐそこだよ。安心して、リーズナブルだしボリュームあるから」

「へえええ」

 美津帆の言葉を聞いてちょっとばかりほっとする。いきなり何とか牛のステーキとか言われたらどうしようかと冷や冷やしていたのだ。会話していくにつれ、昔の奥ゆかしいイメージが根底から破壊された今、彼女が何処まで暴走し、変貌するのかが怖い。とはいうものの、そんな状況を見てみたい気にもなっている。

「ここよ! 」

「え? 」

 美津帆が指さしたのは『きっちん椿』の看板。

「ここなの? 」

 看板の下には「中華&ベトナム料理」と書かれた、丸太を輪切りにした板がぶら下がっている。赤いひさしに赤い壁。ガラス戸には金色の龍が二柱描かれており、見るからにごく普通の町中華的なお店だ。

「大丈夫、味は保証する。私、ここよく来てるんだ」

「え、よく、来てるの? 」

 驚きの表情を浮かべる爽をよそに、美津帆は待ちきれないって感じでとっとと店に入る。その後を何故か気まずい表情の彼が渋々後を追った。

「いらっしゃーいえい! 」

 厨房の奥から妙な挨拶が聞こえる。手拭いを頭に巻いた恰幅のいい若い店長が、驚いたシーサーの様な顔で二人を見つめていた。

「あれっ、爽ちゃん、今日はどうしたの! 」

 店長の反応に、美津帆は怪訝そうな顔つきで爽を見た。

「こんばんわ――あ、俺もここよく来るんだ。学生の時、バイトもしてたし」

 マスターにひきつった笑みで答える爽に、美津帆はやっちまった感たっぷりのおちゃめな表情を浮かべた。知り合いとは出会わない場所、時間帯のはずが、どっぷり濃厚な知り合いの巣窟に訪れてしまったのだ。

「先生、いつもの席、空いてるよ! 」

 厨房からショートカットの小顔でスレンダー美人のお姉さんが笑顔で美津帆に声を掛けた。

「あ、ありがとう」

 美津帆は困惑しながらも右手をひょいと挙げて答える。美津帆的には少し離れたテーブル席に着くつもりだったのだが、先手を打たれた形になってしまい、やむなく自分の指定席に向かう。

「カウンターでいい? 」

 美津帆が爽にそっと囁く。と、彼は何故か複雑な表情を浮かべた。

「うん、実はさ、俺もいつもあそこに座ってるんだよね」

「え、そうなんだ」

 爽の答えに、美津帆は小さく驚きの声を上げた。

「先に座ってて」

 爽はそう彼女に言うと、カウンターに積んであるグラスを二つ取り、近くにある給水機で冷水を注いだ。十人ほど座れるカウンター席に、四人掛けのテーブルが六つある。夕飯時とは言え、平日のせいもあってか、客は爽達二人以外には男子学生のお一人様が三名、めいめい好き勝手に座っている。

「はいよ」

 爽はグラスを美津帆の前に置くと、自分のグラスは少し口をつけてからカウンターにおいた。

「ありがとう、はいメニュー」

 先に席についていた美津帆からメニューを受け取ると、爽はちらっと眼を通しただけで直ぐに閉じた。

「もう決まってる?」

 爽が美津帆に問い掛ける。

「うん」

「じゃあ呼ぶよ。すいませーん」

 爽が厨房に声を掛けると店長の奥さんがちょこちょこと小走りでやってきた。

「はい、ご注文は? 」

「私、フォーと生春巻きセット」

「僕は叉焼麺大盛りでお願いします」

「はい、ありがとうございまあす」

 奥さんは再び厨房に引っ込むと手際よく調理にかかる。中華料理は店長が作り、ベトナム料理は奥さん担当。その流暢な日本語からは想像できないが、彼女は日本に帰化したベトナム人なのだ。よってここに来れば本場の味が楽しめる上に、安いし、量が多いしと、特に学生達には大人気の料理店だった。

「驚いた。爽、ここでバイトしてたんだ」

「まあね、学生の時だけど」

「今は? 」

「大学の心理学研究室で助手やってる」

「へええ。どんな研究やってるの? 」

「犯罪心理学」

「凄いね」

「凄かないよ。テレビでやってる科捜研みたいに華やかな感じはないし。美津帆は? さっきシュアンさん――店長の奥さんが先生って呼んでたけど」

「私、医師やってんの。大学病院の心療内科の」

「いや、すげえええっ! そういや三年の時理系クラスに行ったんだよな。俺、てっきり文学部に行くかと思ってたから、クラス分けの時に驚いたんだ――あっ! 」

「どうしたの? 急に」

「さっき、大学病院って言ったよね、その大学って・・・」

「ほら、そこの――まさか、爽も? 」

「うん、そう」

「通った大学は別? 」

「いいや、ずっと一緒」

「私も。おまけに行きつけの店も一緒だなんて」

「それでいて、今まで一度も出会わなかったって・・・ある意味奇跡的だよな」

「確かに」

 二人は顔を見合わせ、同時に溜息をついた。学部が違えば校舎も当然違ってくる上に、高校時代はお互い興味の無い者同士だったから、尚更気付かなかったのだろう。

「さっきの話だけど」

 不意に生じた沈黙を破ったのは爽だった。

「うん」

 美津帆の目が、待ってましたとばかりにきらりと輝く。

「何だったんだろう」

「ね」

 再び二人は顔を見合わせた。

「何者かが何かの目的で明らかに俺達限定で引っ張り込んでいるような気がするんだ」

 爽の仮説に美津帆は小さく頷いた。

「それは感じる。場所があれでしょ? 私達が通ってた高校の、まさしく自分のクラスだったし、限られた人数だけど登場人物はクラスメイトだし・・・あっ、香純は別のクラスか」

「でも、瀬里沢と関係のあった人物だろ? それも同棲してた」

「よね。多分大学に行ってからか社会人になってからだとは思うけど」

 爽は眉をひそめた。どう考えても、彼は香純の子供っぽい容姿から同棲と言う言葉がリンクしないのだ。恐らくは時間軸の異なる話だろうから、成人した彼女はひょっとしたら想像がつかない位大人びているのかもしれない。事実、久しぶりに会った美津帆のメタモルフォーゼ振りを見ると、まさに変態的魅力爆開まっしぐらだったのだから。

「登場人物は四人。でも瀬里沢の存在は異質だったな。俺達に絡む訳でもなく、自分だけの世界に入ってたし」

 爽は再開した時の瀬里沢を思い返していた。いつもなら愛想のいい笑みを浮かべながら声を掛けて来る社交的な性格なのだが、あの時の彼は、彼を知る者なら誰でも分かるイメージとは果てしなくかけ離れた、それこそ全くの正反対な方向にぶれていたような感じだった。黙々とバスケットゴールにボールをシュートし続ける姿には、どこか生気がなく、次々と連続して決めているにもかかわらず、その表情には自信と高揚に満ちた覇気は無く、一つ一つの行動がまるで無意味な連鎖運動の様にも見えた。

「彼を攫った巨大な手は、何なんだろう」

 美津帆が頬杖をつくと、遠くを見るような目で呟いた。

「分からないな。最初は馬鹿でかい巨人が地下にいるんじゃないかって思ったけど、そうじゃないような気がする」

「じゃあ何、あれ」

「何かの象徴か暗示かも」

「暗示? 」

「うん。あの手、凄まじくも華々しい登場の仕方だったけど、床に引っ込んだ時には床も窓も元通りになってたろ」

「そうだった。まるで、最初から何も無かったみたいに」

「瀬里沢も含めて」

「瀬里沢も? 」

「多分だけど。あいつ、信じられないような目に会いながらも、動揺どころか逃げようともしなかった」

「香純が呼んでも答えなかったしね」

「何かの理由で別れたにしても、同棲していた元カノが叫んでんのに無視するってのが信じられなかった。そう考えると、あれはただの幻影で、あくまでも何者かの心象風景が具象化されたものって感じる」

 爽が熱く語る推察を、美津帆は黙って聞き入っていた。美津帆自身、あのようなとんでもなくエキセントリックな状謡でただ棒立ちのままでノーリアクションなところに違和感を覚えていたのだ。

「成程ね・・・じゃあ、誰の心象風景? 私じゃないよ。私、瀬里沢には毛の先程の関心も無いから」

 美津帆は少しも迷うことなくきっぱりと否定した。

「俺でもないぞ」

 真顔で答える爽に、美津帆は大きく首を振って頷いた。

「そうよね。それ分かる。爽は瀬里沢に媚びなかったもんねえ」

「まあね。言い方悪いけどしっぽ振ってすりすりしてさ、おこぼれ頂戴なんて情けない真似はしたくなかったからな」

「同感だねえ」

 美津帆は爽に同意にしながら満足げな笑みを浮かべた。恐らく瑞穂は自ら張った結界のフィルターを通して俗世の人間模様を俯瞰していたのだろう。

 高校時代の瀬里沢の周りには男女関係無く人が集まっていた。最初の頃、彼自身は決して奢り昂ぶった態度とる訳でもなく、ごく普通に誰とでも隔たり無く会話を楽しんでいる姿は決して周囲に不快感を与えず、気に障るものではなかった。根っからの社交家と言うか、コミュニケーションの取り方も感心するほど自然で、県内有数の資産家の御曹司故にそういった教育を受けてきたのか、将来の経済界を担うリーダーとしての人を引き付ける資質が見え隠れしているように感じられた。

 問題は、彼の周囲――取り巻き達だった。瀬里沢と共に行動し、彼を引きたてながらその威信を借り受け、他の者に対して露骨なまでにマウントを取るのだ。周りから見ればとんでもなく滑稽な感じなのだが、良くないことに、そんな取り巻く環境に浸り続けて、次第に影響を受けた本家本元が自分を特別な存在だと思い始めたのだ。

 彼は、確実に人を見下すようになった。女性関係も派手になり、それを取り巻き達に得意げに話すくらいにまでなった。表面的にはいつもと変わらない態度で彼とは接するものの、多くの者が深く係わることを避け始めていった。ただし取り巻き達は相変わらず調子のいい事を言っては彼を話題の中心に持ち上げ、より強固な係わりを築いていったのだ。

 まさに、権力欲に溺れる人生劇場とでもいおうか。いち早く彼との係わりを絶った爽にとって、もはや彼と彼を取り巻く集団は別の世界の住民だった。

 今思えば、あの時、瀬里沢のいる空間こそ異界だった――爽は古い記憶を手繰り寄せながら、当時の感情が蘇って来るのを感じていた。

「ひょっとしたらさ、香純は一人で残ってるかも」

 美津帆は遠くを見るような目で呟いた。

「どうして? 」

 爽が尋ねると、彼女は言いにくそうに口元を強張らせる。

「瀬里沢のこと、今も好きみたいだったじゃない」

「確かに。そうか・・・と言うことは」

「あの幻影は香純が作り出した?」

 突発的ひらめきの覚醒に、美津帆がどや顔で爽を見た。

「彼女自身が作り出したわけじゃないかもしれない。あの時の彼女、激しく取り乱してたよな。もし自分が生み出したのなら、あそこまで常軌を逸することは無さそうじゃない? 不意を突かれて動揺したって感じだったろ。これも仮説だけど、何者かが彼女の潜在意識を盗み見て実体化したようにも見えるな」

 爽は熱く美津帆に語った。美津帆はふんふん頷きながらも、時折しかめっ面で彼を見た。彼女なりに立てた推測と幾許かの食い違いがあるのだろう。

「はい、お待たせ」

 店長と奥さんが料理を運んで来る。

「驚きだな、爽ちゃんの彼女が先生だなんて」

 店長はにやにや笑いながら二人を見た。

「店長さん、違うから」

 美津帆は慌てて首を横に振って否定する。

「そうそう、まだ会ったばかりなんで・・・あ、でもこの子、高校の時の同級生なんです。今日、偶然久しぶりにばったりあったんで」

 爽はしどろもどろになりながら店長に身の潔白を訴えた。

「そうかあ、じゃあ俺にもまだチャンスがあるって事か」

 店長は腕組みしながら目を細め、にんまりと笑った。

「店長、後ろで奥さん怒ってますよ」

 爽がそっと店長に囁く。

 彼のすぐ後ろには、にこにこ笑顔を浮かべながらも包丁を握りしめたまま腕を組むシュアンの姿があった。

「さ、仕事仕事。これから混んで来るもんな~♬」

 店長は変な節回しで台詞を歌い上げながら厨房の奥へと消えた。

 爽は苦笑いを浮かべながら彼の背中を見送ると、箸入れから箸を取り出し、美津帆に渡した

「あ、ありがとう」

「どういたしまして」

「ねえ・・・また異界に迷い込む思う? 」

 美津帆は生春巻きを爽にすすめながら、周りに聞こえないようにそっと呟いた。彼らに注文した料理が届いたころから、店内はにぎわい始め、爽の隣の席にも客が座ったので急に声をひそめたのだ。

「あると思う。話の流れからして中途半端だったものな 」

「はむはむはむ」

「何かのメッセージを俺達に伝えようとしているのだったら、何かしらの展開があるはず」

「ずるずるずる」

「ん? 」

 美津帆の妙な反応に訝しげに思いながら、爽はちらっと彼女に目線を走らせる。と、彼女の周囲には有無を言わせぬバリアーが張り巡らせられており、結界内ではベトナム料理の食の祭典が繰り広げられていた。

 爽は黙々とフォーに舌鼓を打つ美津帆に苦笑を浮かべると、目の前の叉焼麺に戦いを挑み始めた。

 二人はしばらく無言のまま食事を続け、漸く食べ終えた頃には店内は満席状態で店の前に行列が出来つつあった。流石に長居はお店に迷惑をかけるってことで、二人は取り合えず店を出ることにした。支払いは、成り行き上爽が渋々払うと、『この後お茶しようよ、私が奢るから』と美津帆が笑った。

「ご馳走様!」

 二人は肩並べて店を出た。心地良い夜風が二人を包み込む。












 




 



 








 

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