異界散策は日帰りで

しろめしめじ

第1話 ただの散策のはずだったのだが。

 本当に驚いた時、人は言葉を失う。

 忘れるのではない。失うのだ。想像を絶する事態に直面した時、思考は記憶にある限りの語彙を綴り、その現象を称賛あるいは危機回避の逃避行動を促す。ただそれが意識の器を遥かに凌駕する事象であったとしたら、其れを凌ぐ感情の暴走が思考の指示系統を全て打ち消してしまうのだ。

 咲良爽は知らず知らずのうちに今の心理状態を自己分析している自分に苦笑した。心理学研究者のはしくれ故の悲しい性とは言え、常に客観的思考に撤するが出来るのは、彼の誇るべき点だろう。

 週末の夕刻。いつものように大学の研究室を後にした彼は、散策がてら、もはや週末のルーティーンと化している行きつけの町中華の店に向かっている途中だった。目をつぶってもたどり着ける、慣れ親しんだ道――の、はずだった。のだが……最後の角を右折し、細い路地に入った瞬間、彼の視界から見慣れた風景は消え去っていた。

 但し、全くの見知らぬ風景と言う訳ではなかった。むしろ、見慣れた風景と言おうか。さほど遠くない記憶に裏打ちされたノスタルジックな世界に、彼は唐突に放り出されていたのだ。それを瞬時にして理解し、納得し、スルッと呑み込める程、ぶれない心の持ち主などいやしない。仮にいたとしたら、もはや神の領域に足を踏み込んだ者と言っても過言ではないだろう。

 彼は突然視界を埋め尽くした光景を、無言のまま見渡した。理路整然と並ぶ小振りでシンプルな机とクッション性皆無の背もたれ付き椅子。ワックスの匂いがほんのりと立ち昇る傷だらけの床。どこからともなく楽器の音色が聞こえる。管楽器のようだ。それも、幾種類かの音源が絡み合いながら、中途端に同じ旋律を繰り返し奏でている。吹奏楽部が練習しているのだ。その音色に導かれるように、空間を彩る様々な音声が重なっていく。グラウンドを駆る靴音。沸き起こる歓声。

「ここは……」

 彼の呟きは吐息となって静かに喉を震わせる。

 学校の教室。それも、彼が高二の時の教室。

 ふと、視線の片隅に人影を捉える。

 見覚えのある懐かしい容姿が、振り向いたまま固まっている。

 鏡だ……じゃあ、映っているのは俺? 半袖の白いカッターシャツに、黒いスラックス。定番の学生スタイルで、ちょっと間の抜けた表情を満面に湛えてこっちをじっと見つめている。咲良は首を傾げた。鏡の中の青年が自分であることは何となく理解していた。だが、何となく違和感がある。

 彼は息を呑んだ、そして吐息と共に仄かな笑みを口元に湛えた。

 気付いたのだ。己の身に生じた、摩訶不思議な現象に。

 若返っている……たった数年前とは言え、世間のしがらみと荒波にもみくちゃにされ、疾風怒濤の中を何とか生き延びてきた今の彼とは、面影こそあるものの、全く違う顔付きをしている。受験勉強に明け暮れる中で、ストレスと疲労に打ちのめされながらも、これから切り開いていく明るい未来への希望に満ち溢れていたあの頃の自分だった。

 有り得ない現実の真っ只中にいる不条理さに困惑しながらも、咲良は恥ずかしさとなつかしさに目を細めながら鏡の中のもう一人の自分を凝視し続けた。

「咲良、これはどういう事よ」

 不意に声を掛けられて振り向いた彼の目に、ロングヘア―の少女が映る。百七十五センチの彼とさほど変わらぬ身の丈で、細身の体躯。銀縁眼鏡の奥から鋭い眼光を放つ大きな瞳は、彼をまっすぐ射抜いていた。

「保住…美津帆?」

(うわっ、俺が一番苦手な奴!)

 咲良は一瞬眉を顰めたものの、慌てて取りつくった様な笑みを浮かべた。

 そんな彼を、美津帆は冷めたような目線で見つめている。

 冷静沈着で、感情を一切顔に出さない鉄面皮。よく考えれば彼女が笑ったところ、一度も見たことが無かったような気がする。人の噂話にしかめっ面すらするものの、聞き耳を立てることなく、勿論話に加わることはない。どちらかというと、周囲の者が避けているのではなく、自ら人とのかかわりを断っている風に見えた。実際、彼女と親しく会話するクラスメートを見たことは無く、いつも一人で本を読んでいるか、ぼんやり外を眺めている姿が印象的だった。

 不思議ちゃんといやあ不思議ちゃんなのかもしれない。だが、其れで簡単に済ませてしまうようなものではないような気がする。何となく、他人には理解できないような奥深い闇を抱えているようにも思えたが、その領域に触れようとするものは誰もいなかった。勿論、咲良も同様だ。 

(変わんないな、あの時のままだ。)

「保住か。久し振りだな。いつからここに?」

 咲良は誰が見てもはっきりとそれと分かる愛想笑いを浮かべながら、社交辞令めいた台詞を綴った。

「たった今。気付いたらここにいた」

 美津帆はそんな彼のとってつけたような態度を見透かしているかのように、むすっとした態度で短く返す。

「俺もそうだ」

 咲良はどこか不機嫌な彼女の態度を気に留めることなく、神妙な面持ちで頷いた。

「でもなぜこんなことに……」

 美津帆は目を細めると、怪訝そうな表情で教室を見渡した。

「分かんね」

「余りも非現実的で言葉にするのもおこがましいけど、タイムスリップでもしたのか? 」

 彼女は視線を中空に泳がせた。意見として述べたものの、本人は納得していないのだろう。不本意な思考を言葉に紡いだ事に、後悔しているようにも見える。

「たぶんそうじゃないな。なんせ、姿格好が高校時代にリターンしているし」

「何、それは本当?」

 咲良の言葉に美津帆が目を見開きながら食らいつく。

「俺の姿を見て気付かなかったのか? 」

「うん。変わり映えしねえ奴だなって思ってたから」 

「どういう意味だよそれ」

 歯に衣着せぬ美津帆の発言に苦笑しながら、咲良は机の上に腰かけた。

「咲良は何故気付いた?」

「さっきそこの鏡を見て気が付いた」

 咲良は顎先で黒板横の小さな鏡を示した。

「じゃあ、私も高校生の時に?」

 半信半疑のまま、美津帆は小走りで鏡に向かう。

「そうだよ。服装はもとより、容姿そのものがあの時にリターンしている……ね、話聞いてる?」

 聞いちゃいねえって感じ。彼女は感慨深げに自分の頬を撫でまわしたり、人差し指でつんつん突っついたりの現場検証に勤しんでいる。

「ほんとだ…それに肌に張りがある♡」

 美津帆の目が、僅かに波打つ。刹那、爽の頬が硬く凍り付く。まるでツチノコと鉢合わせになったかのような驚愕が、彼の思考を鷲掴みにしていた。

(美津帆が笑った……ように見えた。いや、確かに笑ったよな)

 ごくりと、音を立てて生唾を嚥下する。

 一瞬垣間見たそれは、爽にとって超レアなシーンだった。彼の記憶の中で美津帆が笑顔を浮かべたのはほぼ皆無だったような気がしていた。いつも感情を押し殺した表情で、自分だけの世界に浸っている姿しか、彼の記憶にはないような状況だった。故に、笑顔どころかこうやって話し掛けられることすら希少な経験と言っていい。

「他の連中は? 私達だけ?」

「どうかなあ、グラウンドは?」

 窓外に目を向ける。

 誰もいない。さっきまで明らかに部活に勤しむ歓声や物音が聞こえていたのに、グラウンドには人影一つなく、足音一つ聞こえない。

「おかしいな。さっきまで歓声やらブラスバンドのぴーひゃららーが聞こえてたんだけどな」

「確かに。私も聞いた」

 美津帆は首を傾げながら窓から外を見渡した。

「まんまの風景。でも誰もいないって......」

「あのさ、保住。ちょっと聞きたいことがあんだけど」

「ぬ?」

 葛城の問い掛けに保泉は訝し気に顔を顰めた。

 ぬ?ってのは何。よく分からんリアクションをする奴だ。

「この世界に迷い込む直前の記憶、覚えているか?」

「覚えてるも何も、ついさっきのことだし」

「どんな感じだった?」

「大通りから脇道に入ったらここだった」

「その時、車に撥ねられたとか、上から何か落ちてきて・・・」

「何それ。無いよ」

「そうか・・・」

「なんでそんなこと聞くの?」

「いや、よくあるじゃん。事故に巻き込まれて・・・それで、転生したら異世界来てったって話」

「あれはラノベの中の話でしょ」

「そりゃまあ、そうだけど。えっ! もしかして保住って、ラノベ読んだりするの?」

 咲良が驚きの声を上げた。勝手な彼の思い込みなのだが、どう見ても純文学かもっと難解な学術的書物しか興味がないものとイメージしていたのだ。

「読むよ。学校で読んでたの、ほとんどラノベ」

 咲良の問いかけに事務的に返す保住の台詞が、彼が認識していた保住の虚像を根本から打ち砕く。彼が抱いていたイメージは純文学にどっぷりのめりこむ文学ガール的な感じだったのだが、意外な告白に妙な親近感が湧いてくる。

「咲良はどうなの?」

「え、どうって・・・結構読むけど」

「そうじゃなくて。ここに来る直前の記憶はっ!? 」

 呆れた声を上げて嘆きのポーズをとる保住に、咲良は慌てて思考の照準を己の行動にセットした。

「保住と同じだな。特に事故に巻き込まれたって感じじゃない」

「てことは、生きたままここに来てしまったってことよね。それも、若返って」

 美津帆は腕組をすると眉間に皺を寄せて首を傾げた。

「変よね。転生したわけでも、空間の歪に紛れ込んだわけでもなさそうだし...ん? どうしたの? ぼおっとして」

 咲良は、はっと我に帰ると苦笑いを浮かべながら頭を掻いた。

「いや、意外だなって思ってさ。有り得ないこの状況をすんげえ冷静にそれも非科学的なファンタジックに解釈してるだろ。もっと現実的な考えしかできない娘かと思ってた」

「全く。ろくに私を知りもしないで変な色眼鏡で見てるからよ。ま、いいけど。私自身、ずうっと他人とはかかわらないようにしてたから仕方がないか」

 一瞬怒られるかもと身構えた咲良だったが、美津帆は何故か自己反省しながら一人で納得したらしく、彼にそれ以上突っ込んでくることはなかった。

「咲良、慌てても仕方がないから。タイムスリップではないのは明らかだから、多分何らかの目的で作られた異空間に引っ張り込まれたのさ。若返りの施術までしてね」

「高校の時の教室そっくりに作られた異世界ってことか」

 咲良はごくりと生唾を飲み込んだ。信じられないとはいえ、これが現実であることには変わりがないのだ。

「そう。誰が何の目的で創ったのか、それと何故私達が召喚されたのかは分からないけど」

 美津帆は腰に手を当てると、背筋をぴんと伸ばして周囲を見据えた。

(凄すぎる。彼女、少しも狼狽するどころか、滅茶苦茶冷静じゃん)

 咲良は、空を睨みつけながら思考を張り巡らせている美津帆を目を細めて見つめた。不思議と戦慄も焦燥も感じられないほっこりした安心感とぶれない安定感が彼をまるっと包み込んでいた。

 これで、もし彼女が激しく取り乱していたら、彼もこうも冷静にはいられなかっただろう。ある意味では、そんな常人離れした思考とメンタルを持つ彼女に救われた気がした。

(空想嗜好者というより、環境順応型の超現実主義者って感じだな)

 咲良は美津帆をそう分析し、心の中で笑みを浮かべた。

「教室、出てみない?」

「え、そんなことしてここから帰れなくなったら...」

「ここにいたら何か元の世界に帰る手段が見つかる?」

躊躇する葛城に詰め寄ると、美津帆は至近距離から彼をねめつけた。

「いや、まあ...そうかも」

 咲良は勢いに圧倒されてたじろぐと、もごもご口ごもりながら俯いた。

「でしょ。多分、このままここにいても何の進展も無いと思う」

「でもさ、その逆パターンも考えられっだろ」

「そりゃそうだけど、このままここにいたって、何も変わらないような気がするのよねえ」

 美津帆は相変わらず慎重な葛城に背を向けると、不満マックスな面持ちでずかずかと教室のドアに向かって歩き出す。

「お、おいちょっと待てよ。もう少し現状分析しても遅くはないだろ」

「心配しないで。ちょっと廊下を覗くだけ」

 美津帆の細い指が、教室のドアの掛け手に触れーー。

 そのコンマ一秒前にドアは静かに開いた。

「わっ!」

 思わずたじろいで退く彼女。

「あ、ごめんなさい。驚かしちゃった?」

 ショートヘアーの小柄な女子が、申し訳なさげに美津帆に手を合わる。美津帆よりも頭1個分低いものの、ブラウスの胸のふくらみは明らかに彼女に勝っていた。それも、大差をつけてのぶっちぎりだ。

「あ、大丈夫だから」

 美津帆はボソッとつぶやきながらも、悲しげな羨望のまなざしを女子の胸に注いでいた。この手の事案を意識するのは男だけじゃない。同性だって気になるらしい。 

「ごめん、誰だっけ?」

 咲良は頭を掻きながらぼよよん女子に声をかける。見覚えのない容姿だった。クラスの女子の顔をいくら思い浮かべてもその中にロックオンするものはなかったのだ。

「あ、私、このクラスの生徒じゃないので…二組の川添香純です」

「私は保住美津帆。あいつは咲良…なんだっけ?」

 美津帆は振り向くと肩越しに首を傾げた。

「え、まじかよ。クラスメートの名前を知らねえのかよ。爽だよ、爽!」

 決して呆けではない美津帆のリアルな言動に咲良が不満げにぶつぶつぶつぶつ。

「姓さえ分かれば十分でしょ」

 咲良の小怒りの三角目には目もくれず、美津帆は彼に背を向けた。

「サクラソウ、さんか…かわいい名前♡」

 香純がくすっと微笑む。

 思いもよらぬ香純の反応に戸惑う咲良だったが、どこかまんざらでもなかった。

(君のほうがずっと可愛いよ――なんてなああ。言えねえ。けど、この子、まじ鬼可愛い)

 眼を細めて微笑むほんわかした表情に、彼はどきどきしながら思考を埋める煩悩の秘文を隠匿するのに必死になっていた。謎めいた超不思議ちゃんが同じ空間に存在しているのだ。ひょっとしたら自分の思考を覗き見られているかもしれない――ありえないとは思いつつも、ありえない現実に放り出されている今、当たり前な常識は通用しないと考えても不思議じゃない。

「さくらそう、ね。確かに面白い」

「おめえ言われたくない。上から読んでも下から読んでも――」

「言うなあっ!」

 美津帆は般若の形相で咲良にずかずかと近づくと、カッターシャツの襟首をグイっと掴み上げた。

「それ以上言うと殺す」

 くわっと限界まで見開いた両眼には、決して冗談ではない意思の輝きが宿っていた。

「ごめん、分かった! 分かったから手エ放せ」

 苦し気に抵抗する咲良をぎろんと睨みつけると、美津帆は吐息とともに拘束を解いた。

「なんて、力だ…」

 咲良はげほげほと激しく咳き込むと、大きく深呼吸を繰り返した。か細い手指が、高校生の男子を締め上げるほどの力を秘めているなんて…やはり謎めいている。

「二人とも、仲が良いのね」

 微笑みながら二人を見埋める香純の反応が、妙にずれている。この子も何となく怪しい性格なのかもしれない。

「川添さんは、どうやってここに来たの?」

 まだダメージから立ち直れていない咲良を放置したまま、美津帆は香純に声をかけた。

「気が付いたら自分の教室に立ってた。本屋を出たとこまでは覚えてるんだけど…」

 香純は顎に右手の人差し指を添えると首を傾げた。

「俺たちと同じパターンだな」

漸く復活した咲良が話に加わる。

「川添さんの教室には他に誰かいた?」

 咲良が問いかけると、彼女は首を横に振った。

「他に誰かいないか探そうと思って教室を出たら、ここの教室で話し声がしたので、ドアをあけたら…」

「俺達がいた」

「そう」

「最初、校庭とかで声してたよね」

「でも、外を覗いたとたんに声はしなくなった」

「吹奏楽の演奏も」

「うん」

 三人は顔を見合した。間違いなく、三人はほぼ同時期にこの世界に迷い込んでいる。だが三人が迷い込んだ異世界の扉は、それぞれが全く違う場所に開かれていたようだ。ならば、ひょっとしたら彼ら以外にも、この世界に迷い込んだものがいるに違いない。三人はそう確信していた。

「他の教室も見てみようよ。私達以外にも迷い子がいるかもしれない」

「そだな」

 美津帆の提案に、今度ばかりは流石の咲良も頷かざるを得なかった。

「川添さんもOK? 」

 美津帆の問い掛けに、意外にも香純は困惑顔で答えた。

「OKです。けど、川添さんはやめて。川添か香純でよいので」

「分かった。じゃあ香純、私の事は美津帆でお願い。こいつは…」

 ちらっと咲良を見る。

「爽だよっ!」

「そうか」

「そうだよ」

「そうなのか」

「そうだってば」

 二人の間でよく分からんようなややこしい会話が繰り広げられている横で、香純は吹き出しそうになるのを必死でこらえていた。が、急にくるりと二人に背を向けると、教室のドアに手を掛ける。

「行きましょう!」

 香純が教室のドアを開け、先頭きって教室を出た。二人のカオスな会話を強制終了させるためなのかその真意は分からないが、二人はその意図の深淵には気付いていないようだった。

 静まり返った長い廊下が続いている。三人は足早に進むと、次々に教室のドアを開けていった。が、どの教室も人影のない寂しげな無人の机と椅子が並んでいるだけで、人の気配は皆無だった。同学年だけでなく、他学年や音楽室、美術室、コンピュータールーム、職員室、保健室と片っ端から調査をしたものの、人っ子一人いない。

「誰もいない」

 美津帆が怪訝な表情を浮かべながら顔をしかめた。新たな展開が望めない現状にに、焦りを感じているようにも見える。

「残すところは体育館か」

 咲良――爽が周囲を見回しながらつぶやく。彼も何か声や物音がしないかと絶えず周囲に意識を張り巡らせているものの、何一つ引っかかるものはなかった。

「行きましょう。いざ体育館へ! きっとそこに何かある!」

 何の成果も得られずにへこむ二人に、香純は元気よく声をかけた。

「すげえ、ポジティブ」

「ね」

 爽と美津帆は顔を見合すと、先を進む香純に遅れまじと歩みを早める。

 校舎を長尺方向に縦走し、体育館へと続く通路に差し掛かる。

「待って」

 不意に、美津帆が立ち止まった。

「何か、物音しない?」

 三人はそっと耳を澄ませた。何かが打ちつけられるような低い音が時折連続的に響いている。

「体育館、か?」

「そうよこれ、ひょっとしたら、バスケットボール!」

 三人は駆け出した。間違いない。この音は、バスケットボールが床に打ちつけられる音――ドリブルの音だ。時々途絶え、やや高めの響かない音に代わるのは、ゴールのボードにボールが当たる衝撃音だ。

 三人は確信していた。体育館に誰かいる。一人は確実にいる。

 爽は防音タイプの重い扉に手を掛け、ゆっくりと開いた。扉は蝶番が錆びているのか、鳥の雄たけびのような甲高い軋み音とともにじわじわと開いていく。

 途端に、白い光が三人を包み込む。

 異世界への扉――違った。代り映えのしない、閑散とした体育館。ただ、三人の目は一つの影に注がれていた。

 いた。男子生徒が一人。

「瀬里沢だ。あいつ、こんな時に何やってんだ? 」

 爽と同じクラスの瀬里沢賢人だった。背恰好は爽とは変わらない。だが、その容姿に圧倒的な違いがあった。二重瞼が強調する大きな澄んだ目、すっきりと整った鼻筋、薄い桜色の唇、揺れるさらさらした黒髪…それこそ目鼻立ちの整ったギリシャ彫刻に和を取り入れてアレンジしたかのような、完璧なイケテル系男子。それだけじゃない。部活には入っていないものの、スポーツは何でもそつなくこなし、おまけに成績優秀。大学は確か海外に留学したはずだ。まさしく文武両道の完璧な逸材である上に、父親が建設業や飲食業と幅広く手掛ける有名な実業家と、全てが満たされた真のセレブなのだ。

 爽達の存在に気付いていないのか、翔はわき目も触れずに黙々とシュートを打ち続けている。

「瀬里沢っ! 」

 余りにもの反応のなさに見かねた爽が、彼に声を掛けた。

 が、彼はそれに答えようとせず、ただ只管ゴールにボールを投げ入れることに専念し続けていた。

 それも、生気が宿っていないうつろな目で。

 おかしい。こんな異常な状況で、何故爽の呼びかけに答えないのか。高校時代、特に仲が悪かったわけじゃない。彼には男女の隔てなく取り巻きが大勢いたが、彼らの一員ではなかったものの、彼らともトラブルを起こしたことはない。

「賢人っ!」

 香純が大声で呼びかける。

 不意に、瀬里沢の動きが止まった。ゴールをそれ、ボードに当たって跳ね返ったボールがバウンドを繰り返しながら彼の傍らを通り過ぎていく。

 瀬里沢はゆっくりと振り向くと、こちらをじっと見つめた。

 正確には、香純を。

 表情が失せていた彼の顔に感情らしきものが宿る。

 悲しみだった。

 ひきつった頬、閉じたまま震える唇、そして、瞳から零れ落ちる涙。重くのしかかる悲壮感に沈む空気が、体育館を隙間無く満たしていく。

 爽は固まったまま、そんな瀬里沢を凝視していた。高校時代のいつも自信に満ちた彼の姿はそこにはなかった。まるで抜け殻のような、それこそネガティヴな思考と感情に憑依されてしまっているかのような危険な気を纏っていた。

「賢人っ! 」

 再び香純が瀬里沢に呼びかける。

 爽はちらっと香純の横顔に目線を向けた。瀬里沢を姓でなく名前で呼ぶってことは、相当親しい関係なのかもしれない。俺達即席探検隊とはまた別の次元だった。

 香純は意を決すると体育館に突入を試みた。一歩足を踏み入れた刹那、甲高い無機質な粉砕音が激しい不協和音を奏でる。体育館のガラスというガラスが、爆風を受けたかのように砕け散る。

「危ない!」

 爽は咄嗟に香純の手を引くと、体育館の入り口を背に二人の女子に覆いかぶさった。

「いやあっ! 放してっ! 賢人がっ! 賢人がっ! 」

 爽の手を振りほどき、体育館へ駈け込もうとする香純を、今度は美津帆が腰に抱き着いてそれを阻止する。

 同時に、体育館中の床面のフローリングがバリバリと音をたてて大きくめくれ上がった。

「何、あれ…」

 美津帆が呆然とした表情で畏怖に目を見開いている。

「え、何? 」

 美津帆のただならぬ様相に、爽は肩越しに体育館の中を見た。

「これって…? 」

 爽の唇が強張ったまま動かない。

 大きく見開いた彼らの目は、大きく裂けたフロアーをじっととらえていた。

 めくれ上がった床材の下から、巨大な白い手が現れていた。血の気のない、まるで白磁でできたオブジェのようなフォルムだが、表皮の角質や皺の感じは決してフェイクではない。ただ、その大きさは尋常じゃなかった。指先で人を軽々摘み上げられるほどの馬鹿でかさだ。

 手は呆然と立ち尽くしている瀬里沢をひょいと摘まみ上げると、再び床下へと消え失せた。と、同時に、めくれ上がった床材や飛び散ったガラス片は映像を逆回転しているかのような動きで急速に修復されていき、あっという間に元の何もない体育館へと変貌を遂げていく。

 ほんの、一瞬の出来事だった。彼だけじゃない。ついさっきまで彼が使っていたバスケットボールもいつの間にかフロアーから消え失せていた。

 まるで最初から誰もいなかったかのように、静寂に拘束された薄暗い館内を重い空気が満たし、ありとあらゆる彼の痕跡を空間座標から消去していく。

「そんな…」

 香純はふらふらとした足取りで、さっきまで瀬里沢がいたバスケットボールのセンターサークルまで進むと、へなへなと崩れた。

 爽と美津帆が慌てて香純に駆け寄る。

「大丈夫か? 」

 香純の肩を叩こうとした爽の手を美津帆が止め、首を横に振った。

 爽は怪訝なまなざしを浮かべるが、すぐに彼女の意図に気付く。

 香純は泣いていた。肩を震わせながら、瀬里沢が消えた辺りの床を愛おしそうに両掌で触れていた。

 そんな彼女の姿に、爽は何故か妙な違和感を持ち始めていた。瀬里沢の名を呼ぶ姿に普通でない熱くたぎる感情の噴流が迸るのを感じていた。生半可な憧れとか好意なんてものじゃない。

 情念――彼の思考が導き出した香純の今の心理は、焚け狂う情念の炎に身を焦がす極限の愛に執着した感情が支配する、魂がありのままの情にに流され、なりふり構わず暴走している危険な状態。

 一見、快活で爽やかな雰囲気の彼女をここまでに追い込むとは、瀬里沢の魅力は魔性のそれに近いのかもしれない。

 高校時代の瀬里沢は芸能界のアイドル並みにもてた。彼の知らないところでファンクラブやら親衛隊ができ、いつも女子の熱い目線に囲まれているような存在だった。

 それが災いしてか、彼には特定の彼女がいなかった。取り巻きの女子達は互いにけん制することで均衡を保ちながら、瀬里沢を共有していたのだ。また、そのおこぼれ狙いの男子も彼の周辺にいつもたむろし、構内での一大勢力を築いていた。その存在を妬んだり煙たがる者(特に上級生)もいたが、いかんせんレベルが違い過ぎて太刀打ちできる者はいなかった。

 そんな彼の取り巻き達の中には、暗黙のルールがいくつも存在していたらしい。特に女子の間では、話しかけるときは必ず苗字を「君」づけで呼ぶこととなっており、決して名前で呼んではならないらしかった。これはルールの中でも特に重要必須項目となっていて、犯した者はSNSで酷く責め立てられ、学校にも出てこれなくなるという残酷極まりない仕打ちが待ち受けている。

 にもかかわらずだ。香純は瀬里沢を名で呼び掛けていた。さすがにこの世界には親衛隊はいなそうだが、長く培われた約束は特殊な秘文となって潜在意識に鍵を掛けてしまい、とっさに掟破りの発言を吐くことは困難だ。恐らくは普段から呼ぶ習慣があったから、咄嗟の時も言葉として出るのだ。じゃあ、この娘と瀬里沢の関係って…?

「香純、ひょっとして…瀬里沢と付き合っていたのか? 」

 咲良が聞くに聞けなくて躊躇しているのを尻目に、美津帆がはんなりと直球勝負に出る。

 いた。ここにも瀬里沢ルールに縛られない奴が。「君」をつけようがつけまいが、美津帆にはどうでもいいことなのだろう。公式ルールでないルールは彼女にとって拘束力は皆無に等しい。文句をつけたところでスーパーロジックな彼女の論述に勝てる訳がないのだ。恐らくだが、親衛隊の中に彼女に文句をつける度胸なある女子は、誰一人といないような気がする。

「前に、一緒に住んでた。6か月くらいだけど」

 香純が、ぽつりとつぶやいた。

 爽と美津帆の顔が、白磁のそれになる。

(一緒に住んでたって…大学の時か? じゃあ香純も留学してた? それとも社会人になってからか? )

 爽の頭の中を様々な憶測が駆け巡る。

「前に、ことは…」

 爽はそこまで言いながらも、後続の台詞を綴るのにまたもや躊躇していた。見かねた美津帆が口を開こうとした矢先、香純の方から静かに話し始めた。

「今は一緒に住んでいない。彼の方から去って行ったの…仕方がなかったのよ」

 香純は唇を閉ざすと、すっくと立ちあがった。

「二人に、お願いがあるの」

「え、何?」

「私と一緒に、彼を助け出してほしい」

 熱い情念の炎を宿した香純の目が、二人をじっと見つめていた。

「私だけじゃ、どうにもならない。なりそうもない。だからお願い! 力を貸してっ! 」

 小柄な彼女の体から、熱い気の噴流が迸る。それは彼女の体躯の何倍にも膨れ上がり、爽と美津帆の頬をちりちり刺激した。

「分かった。力になるよ」

 爽は今度ばかりは躊躇せずに即答した。

「ついでにここから出る方法も探すけど、それでもいい?」

 美津帆は堅実に現状打破の手段をも踏まえて香純に諭すように語った。

「はい! 」

 二人の顔を見ると、香純は嬉しそうに頷いた。

「で、どうする。これから」

 美津帆が腰に手を当てると周囲に目線を走らせた。

「まずここを出よう。この世界を作った輩が俺達に何か仕掛けてくるかもしれない。そこから手掛かりを探るしかないだろ」

 爽が理路整然と行動計画を紡ぎだした。

「納得。そうかもしれない」

 以外にも素直に頷く美津帆。

「よし、そうきまったらガンガン行こうぜ」

 爽が大股で外に向かって歩き出す。

「さっきまでくそ慎重だったのが嘘みたい」

 ぶつぶつぼやきながら美津帆が其の後を追う。

 そんな二人の掛け合いを見つめながら、香純はそっと溜息をつくと口元に仄かな笑みを浮かべた。。

 

  






 

 

 

 


 




 



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