第1話
中代ヨーロッパ、地図にも載らないほど小さな国が存在した。エマーリア王国。特に目立つ戦績があるわけでもない、特産品があるわけでもないこの国は、ほとんど貿易はせず自給自足で成り立っている国だ。その王国のはずれに、エアルドという小さな村があった。農夫が過半数を占めるこの村は、三方向を山に囲まれた穏やかで静かな村だった。ある農夫の家から、大きなかごを頭に乗せて、無邪気に走り出てきた少女がいた。彼女の名前はビーデル・アステノア。曾祖父の代からずっと、ブドウ農家を営む家の一人娘だ。彼女はかごを両親の待つ畑に届けた。
「お母さん、イルと遊んでくるね!」
イルとは、近所の農夫の娘で、ビーデルの親友のイルネシアだ。
「夕飯までには帰るのよ!」
そう呼びかけた声が聞こえたのかと、母は心配した。何故なら彼女は既に、蔵の角を曲がってしまっていたからだ。
「イル、遊びましょ!」
元気のいい声を聞いて、小さな妹に兄のハンスが声をかける。
「イル、ビーデルが呼びに来たよ」
「すぐ行く!」
窓から叫ぶ妹に少し呆れながら、ハンスは領主であるアルハデイトの家に向かった。彼はアルハデイトの家の厨房で働いているからだ。今はちょうど昼飯を食べに帰っただけで、すぐに戻らなければならない。
「もう少し待っててやってな。」
扉の外で待っていたビーデルの頭を撫で、ハンスは家を出た。ようやく支度の終わったイルネシアを急かして、ビーデルは林に向かって駆けだした。
学校に入ってからも二人は仲が良く、ビーデルは運動も勉強も出来るので、周りの子どもたちの信頼も厚い。イルネシアはおっとりしているが優しく、よく年下の子どもたちの面倒を見ていた。今日も二人は仲良く帰ってくると、いつもの二股の道で別れた。ハンスはその様子を畑から見ていた。イルネシアが学校に入る少し前、父親が体調を崩したのでハンスは畑仕事を手伝う為、厨房での仕事は辞めたのだった。ビーデルは鼻歌を歌いながら、今日の夕飯のことや、明日のことを思い浮かべた。零れそうになる笑顔をぐっとこらえ、にやけの収まらない顔で頬を赤く染める。彼女は足がスキップを始めたことにも気づかず、急いで帰るのだった。
ビーデルとイルネシアは中学生になった。ビーデルの両親は彼女の生活のしやすさを考え、母親がアルハデイトの家政婦を務めるようになった。しかし父親は流行り病で、続いて母親も過労死で他界してしまった。ビーデルは近くに住む叔母の家に引き取られ、両親のいない悲しさを外に出さないように努めていた。ある朝、ビーデルはいつものようにイルネシアを迎えに行った。
「イル、学校行くよ!」
ドアの外で声をかけた。しかし、とても静かだ。いつもならハンスが顔を出すはずなのに。それに今日は朝食の、温かいスープの匂いがしていない。ビーデルは首を傾げた。
「イル! ハンス兄さん!」
やはり何の音も返って来ない。彼女は少し怖くなって、玄関の扉をそっと押した。何故か鍵の掛かっていない扉が、ゆっくりと開く。誰もいない。体を悪くして寝ているはずの父親も、朝食の片づけをする母親も、ハンスも、イルネシアも。キィッと小さな音がして、思わず身をこわばらせたビーデルの目に、毛布の塊が奥の扉から転がり出てくるのが見えた。ほっと一息ついて見直すと、ビーデルはその場に立ち尽くしてしまった。それは真っ赤に目を腫らし、艶が自慢の髪を顔に貼り付け、毛布にくるまって震えるイルネシアの姿だった。見るからに異様な姿に、ビーデルは何も出来ずただ立ち尽くした。
「ビーデル・・・!」
ようやく沈黙を破ったのは、イルネシア本人だった。彼女は震える声で言った。
「父さんたちが帰って来ないの・・・!」
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