白百合の涙

野風月子

prologue

 あれはいつの頃だったろうか。記憶の端に残る楽しくて、悲しい外国の祭り。その光景は、まだ幼かった拓馬の目にも異様に移った。だがなぜだか、その理由を聞いてはいけないと思った。うっすらと残るその記憶は、大学生になった今も拓馬の頭の隅に陣取っていた。文学部西洋文学科、この科に進んだのはこの記憶がきっかけのような気もする。大学二回生になった拓馬は、両親に尋ねた。


「ねぇ、小さい頃に行った、外国人ばっかりの祭りって何か覚えてる?」


 両親は首を傾げ、お互いの顔を見合わせた。彼らが海外に行ったのは拓馬の記憶のある限りでも、おそらく十回は超えている。その中から拓馬のわずかな情報で選び出すのはとても難しい。二人はしばらく頭を悩ませていたが、父親がふと何かを思いついたような顔でテレビ台の下を探り、一冊のアルバムを取り出した。三人で顔を突き合わせ、写真を丁寧に見ていく。やがて拓馬が、小さく声をあげた。『フランス・エアルダにて』―—そう書かれた写真に、拓馬の記憶が重なった。


「これだ……」


 拓馬は両親に向き直ると、急に真剣なまなざしで口を開いた。


「俺、フランスに留学したい!」





 それから半年後、拓馬はフランスの大学に留学に来ていた。今年の九月から翌年の三月末までの短い期間だが、祭りの情報を得るには十分すぎる長さだ。拓馬は最初の二ヶ月を留学生として大学の勉強のみに励んだ。ホームステイ先の家には小学生と中学生の兄弟がおり、拓馬によく懐いてくれた。彼らの両親も優しく、拓馬を我が子のように可愛がってくれた。留学先の大学ではすぐに友人も出来た。留学生のサポートをする学生として、女学生が一人付いてくれていたからだ。彼女は拓馬を自分の友人たちに紹介し、共に勉強や休み時間を過ごすようになった。それほど言葉が話せるわけではなかったが、拓馬の勉強に対する熱心さは誰もが称賛するほどのもので、フランス語も少しずつだが話せるようになっていった。二ヶ月目に入って、ようやく生活に慣れ始めた頃、拓馬に待っていたその時が来た。十一月一日は、フランスでは『聖人の日』という祝日になっており、今年は三連休になるのだ。拓馬はホームステイ先の両親に切り出した。


「今度の休みなのですが、僕にはどうしても行きたい場所があります

 そこまでの行き方を教えてもらえませんか?」


 両親はいつになく真剣な拓馬の様子に少し驚いたが、快く引き受け、更には車で送迎するとまで言ってくれた。拓馬は素直に甘えさせてもらうことにした。向かう先はもちろん、フランスの田舎町の一つ、エアルダだ。特に特産品などがあるわけではない平凡な町で、三方向を山で囲まれ、ブドウ畑と昔とあまり変わりのないレンガ造りの家々が立ち並ぶその光景は、異国の地で生まれ育った拓馬にもどこか懐かしささえ感じさせるものがある。ホームステイ先の両親は何もない町に何の用だろうとは気になったが、聞くのはやめにした。

 いよいよ約束の日、拓馬を乗せた車は山に向かって走り出した。宿泊先の予約も済ませ、一泊の旅行気分だ。両親の子どもたちも行くと駄々をこねたが、結局母親に怒られ、少し落ち込みながら手を振って見送ってくれた。エアルダの駅前のロータリーで車を降ろしてもらい、トランクから小さなボストンバッグを取り出した。明後日にまた迎えに来ると言うと、父親は再び同じ道を戻っていった。その後ろ姿を見送り、拓馬は早速駅員に声をかけた。祭りの名前はすぐに判明した。


「兄さん、そりゃあきっと『ソヴェール祭』だな」


 駅員は楽しげに答えた。ソヴェール、フランス語で救世主の意味だ。その祭りの由来は、昔村人たちを守る為に戦った女性だと駅員は教えてくれた。詳しいことまでは知らないからと言うので、仕方なく宿泊先への行き方を聞いてその場を後にした。宿泊先は小さな民宿で、チェックインを済ませるとその場で女将に声をかける。祭りについて聞いたが、駅員と同じ答えしか返って来ない。拓馬は荷物を置くと、すぐにノートとペンを持って宿を出た。あちこちの店に入ったり、畑で作業していた農夫に声をかけたり、拓馬はそれほど大きくはない町を、昼から夜の数時間、祭りの調査の為に歩き続けた。この町のサイズは町というには少し小さい気がする。村と言ったほうが適切なようだなと拓馬は思った。疲れ果てて帰ってきた拓馬に、女将はエアルダの家庭料理だと言って、たくさんの料理を作って待ってくれていた。今日の宿泊者は拓馬しかいないらしく、女将は拓馬が美味しそうに頬張るのを、楽しげに眺めていた。

 翌日もまた、朝早くから拓馬は情報収集に出かけた。ミサの終わった教会に足を運び、出てくる人々に聞いて回る。それでも何も新しい情報は手に入らなかった。拓馬は昨日、この町に来て話を聞いてからというもの、救世主と呼ばれた女性が気になって仕方がなかった。誰も彼女について知らないことを、とても悲しく感じるのだ。どうしても彼女のことを知らなければいけない気がする。拓馬は誰もいなくなった教会で、祭壇に手を合わせて祈った。どうかこのもやもやとした気持ちを収めるためにも、新たな情報が手に入りますように。その様子を見ていたのか、教会の神父が拓馬に声をかけた。


「君、昨日からこの町で、ソヴェール祭について聞いて回っているそうだね」


 一瞬驚いたが、すぐに小さく頷く。神父は穏やかな笑顔を向け、拓馬に椅子に座るように勧めた。


「この町の人々が知らないのは当然なのだよ

 たしかに昔、フランスのこの地方には救世主と呼ばれる女性がいた

 だが、彼女は救世主でありながら大罪人でもあった

 ここは元々フランスではなくてね、今住んでいるほとんどは、その当時のフランスからの移民の一族なんだ

 そして彼女は自らの正体を隠して一生を終えた

 私が彼女のことを知っているのはね、代々我々一族に受け継がれている話だからなんだよ」


 神父は静かに話し始めた。

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