第16話 秘められた願望


 改めて部屋に戻って。

 すぐに、貸し別荘のオーナーがきて、棟を替えてくれた。

 小田佐がどう言ったのか、どう弁償したのかは判らない。けど「災難でしたね」という言葉から、俺たちが被害者で、これからの逗留に問題がないことは窺えた。


 久しぶりにシャワーを浴びようかとも思ったけど、慧思の提案で温泉にした。

 観光シーズンを外れているから、松が下雅湯も貸し切りだろう。そこで温まるのは賛成だ。ただ、そのあと、眠ってしまわないように気をつけないとだけどな。塩水の温泉だから、帰ってから真水のシャワーは必要だけど、それでも温泉はいい。せっかくここまで来たのに、入れないかと思っていたよ。


 せっかく釣った魚も、すべて食べつくされてしまった。

 米すらない。

 米は買うにしても、ここまできて魚を買うのもなんとなく腹立たしい。岸壁からなにか釣れたらいいなと思うよ。

 でも、美岬にも、美鈴メイリンにも笑顔が戻ったから、よしとしよう。



 温泉に入り、米を買い、ついでに今日はもう楽をするため、島のり弁当や明日葉ご飯弁当まで買ってしまった。ま、バチは当たるまい。

 明日は早朝に釣りで食材を確保しようと思うので、釣り餌も買っておく。

 でもいいなぁ。

 安心して顔晒して歩けるということが、こんなに幸せだとはね。



 慧思の運転する車を降り、別荘の戸の鍵を開けようとした俺の動きが止まる。

 女性の匂い。

 美岬でも美鈴でもない。

 ここまで統一感のない化粧品の匂いの組み合わせは、今まで嗅いだことがない。

 化粧した男の可能性は……、ないな。

 音を立てず、ドアの正面からさらに身体を外す。

 俺の緊張感が、空中を伝わる。


 慧思がソーコムを抜いた。

 一丁、残しておいてもらったのだ。念のために。

 まったく、念のためにってのが無駄になる生活がしたいよ。

 美岬と美鈴は、車の陰で身を潜めた。



 ハンドサインで慧思とやり取りし、一気に踏み込もうとして……。

 呆気ないほど躊躇いなく、内側から扉が開いた。

 「おかえりっ!」

 って、なんで久野さんがここに……。


 「竹芝桟橋から、ジェット船で来てみた。

 いろいろなお詫びもあるし、種明かしも話しておこうと思って」

 ……寿命が縮むから、そういうの、止めて欲しいなぁ。間違って撃っちゃったら、どうするつもりだったんだ……。

 

 話を聞こうにも、肝心のご本人が今日はまだなにも食べていないというので、慧思が運転して久野さんとさっき弁当を買った店まで戻る。

 相変わらず、頭を使いだすとその他の生活が破綻する人だなぁ。


 俺と美岬と美鈴は、別荘に入る。

 入るなり、また美鈴が俺の頭を抱え込んだ。

 コイツ、予備動作がないから、行動が読めねぇ。きっと、思考と行動の間に境界がない。ゲームばかりやってないで、外へ出ろ。

 「戻ってきたな、嗅覚。

 よかったな」

 「ああ、ありがとう。

 助かったよ。俺だけではどういう事態なのか解らなくて、動揺していたと思う。

 ありがとう」

 「そうか。

 だが、嗅覚がなくても十分に戦えた。双海は大したものだ」

 ……言われてみれば。

 いつもとは違うアプローチにはなった。でも、確かに戦えたよ。

 

 「ありがとう。

 で、離してくれないか」

 「たぶん、これが最後だ。

 だから、あと十秒くれ」

 えっ……?



 ……。

 ……。

 ……。


 ようやく、美鈴の腕の輪から開放された。

 「美岬、済まなかった。

 双海を返す。二度と借りないから、安心してくれ」

 なんで……?

 なに……?


 「美鈴。

 二つ約束して」

 美岬の声は落ち着いている。

 「なにか?」

 「美鈴が今の生き方を続けるのであれば、他に男の人を見つけた方が良いと思う。美鈴は、まだ間に合う。普通の生活ができる。

 今のままではどっちつかずで、先のことを考えると、このままでいいことなんかない。

 美鈴は綺麗だし、もうちょっと表に出るだけで、いくらでも幸せはあると思う。そもそも美鈴、あなたリアルに面識があって、ある程度継続して知っている異性は真と菊池くんの二人だけでしょう?

 だから、そういう努力をすると約束して」

 「言いたいことは解った。

 二つ目はなにか?」

 美鈴の言葉は短い。でも、感情を完全に抑制しているらしく、漏れてくるものはない。

 ぶっきらぼうな男みたいな女性だけど、その中身は繊細さでできている。

 こういう抑制も、自分にきちんと課することができる奴だ。


 「私がなにかで死んだら、そして、そのときに美鈴に恋人がいなかったら、真をお願い。

 私、組織から抜けたら、普通に生きられると思っていた。

 でも今回、簡単には行かないことが解った。

 引き続いて努力はするよ。でもね、それが上手く行かなければ、もしかすることはあると思う。

 その時、真が私の後を追わないようにして。

 これが二つ目の約束。

 でも、一つ目の約束が優先。二つ目の約束のために、一つ目の約束が反故にされるのは厳禁」

 「美岬。あのな……」

 「真はちょっと黙ってて。

 美鈴、どう?」

 美岬は正面から、美鈴の目を見て聞く。


 「約束する。

 一つ目を優先して、二つだな。

 分かった。

 オフ会の出席を増やして、男を掴まえる。

 そして、二つ目の約束をないことにする。

 それが美岬の希望だな。

 一生触ることがないと思っていた、双海の脳に触われた。もう、これで満足だ。

 借りは返す。

 だから、美岬、死ぬな」

 「ありがとう」

 美岬、肝心なことはいつも君が決めるな。

 俺にもなんか言わせろよ。



 車の音。

 慧思と久野さんが帰ってきた。

 なんとなく俺、果てしなくほっとしたよ。

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