第7話 カレーの日


 国宝の城の北側、歴史のある小学校に面した一画に、「キッチン 当たり屋」はある。

 落語好きの店主で、当たり屋の屋号は柳家喬太郎の時蕎麦のネタから取った。もっとも、これは初期のネタで、今では「外れ屋」ということが多い。


 ウッディな店の中には、観葉植物の大鉢が一つ、四人掛けテーブルが二つ、二人掛けが三つ、小さなカウンターに五つの椅子が置いてある。

 決して大きくはない店だ。

 メニューは日替わり、定食一種類のみ。

 その代わり、料理は本格的で手を抜かず、美味いコーヒーか紅茶などの飲み物が付く。


 店主は脱サラした四十代の男。

 梅雨が始まった。標高が高いため、他の街よりはマシかも知れないけれど、それでもじめじめして、じっとしていると体にまでカビが生えてきそうな気のする季節。

 今日のランチメニューは、カレー。


 この店は客を選ぶ。

 「一見様お断り」ということではない。

 店主が好みのものを作る。そこに妥協がない。客が好みに合えば良い店になり、合わなければその逆だろう。

 ベジタリアン向けとか、辛さは五段階、などという選択はない。ただ、ぶっきらぼうな字で「ローガンジョシュ定食、アレルギーのある方は材料の問い合わせを」と書かれた黒板が、店の前に置かれるだけだ。

 「ローガンジョシュ」という単語に「定食」という単語を繋げるのはどうなのか、それ以前に、この場所でローガンジョシュをムガール風のカレーと言うことをどれだけ理解してもらえるのか。

 美味いことに間違いはないにしても、料理名のみの黒板では常連でも不安になろうというものだ。


 今日の客は、観光客が三割、スーツが二割、商店街の店員が五割。雨のせいか、作業服はいない。また、席もポツポツ空いている。が、ランチタイム終了までには満席となるだろう。カレーの抗いがたい良い香りが、店から漂い出しているからだ。


 大ぶりの青磁の平皿に、ローガンジョシュ、サフランライス、玉ねぎのピクルス。

 ローガンジョシュとは、ペルシア語で熱い油を意味する。

 インドでも地域によってレシピは異なるし、当たり屋でも、店主なりのレシピがある。

 マトンとラムの中間ぐらいの肉を使うが、脂身を丁寧に取ることで臭いは抑えられる。かといって、羊くささを全く感じないのもつまらない。三センチ角ぐらいに切った肉を、ヨーグルトと砕いたナツメグ、クミンに漬けておく。

 玉ねぎを多めのギーで炒め、濃い茶色になったら、砕かないスパイスとしてカルダモン、グリーンカルダモン、ビッグカルダモン、クローブ、クミンシード、フェンネルシード、コリアンダー、メース、アジョワンシード、シナモン、ローリエ、黒胡椒、赤唐辛子を加える。ニンニクと生姜は、丸のまま一緒に炒め、火が入ったら拾い上げて、すりつぶす。

 多めの油が、スパイスの香りを引き立てるのだ。そして、その油は分離し、鍋と皿に残る。乳化はさせないので、カロリーは見た目よりは少なくて済む。

 生トマトと大きい缶詰のトマトピューレを加え、煮込んでソースとする。

 ヨーグルトとスパイスに漬けた肉を炒め、パウダーにしたコリアンダー、クミン、フェヌグリーク、ターメリックを加え、ソースに入れる。

 さらに煮込んで、肉の硬さを確認し、塩を決めたら完成となる。

 仕上げに、シナモン、カルダモン、ナツメグ、クローブ、クミン、コリアンダー、ローリエ、黒胡椒を乾煎りし、すりつぶしたものをガラムマサラとして振りかける。これで、煮込んでいる間に減った分の香りを足すだけでなく、重層的に良い香りを演出するのだ。

 さらに、生の生姜の千切りと、コリアンダーの若芽、レッドペッパーを散らすことで、香りだけでなく、見た目も華やかになる。


 ご飯は、サフランを入れ、黄色く炊き上げた。バターを少し足している。

 付け合せのタマネギのピクルスは、タマネギを刻んで塩をして水と辛味を抜いた後に、ガラムマサラと酢に漬けたもの。


 白磁の小皿には、サラダ。

 サラダはシンプルにレタスとトマト、晒しタマネギ。細かく裂いたタンドーリチキンがアクセントに入っている。タンドーリチキンは、このために鶏の足を三本焼いた。一本は自分が食べる賄い用だ。仕上げはヨーグルトソース。


 知り合いの農家から、小さすぎて出荷できない、はねだしのタマネギをただ同然で大量に入手している。これを濃い茶色になるまで炒めたものを、凍らせて大量にストックしてある。こうしておけば、カレーだけでなく、オニオングラタンスープなど万能に使えるのだ。

 トマトも同じように、知り合いの農家からはねだしを入手し、煮詰めてストックしてある。

 体調が今ひとつの時などは、この二つのストックにトマトピューレの缶詰と小麦粉を炒めたものを足し、牛肉と合わせるだけで、即席のビーフストロガノフで営業できるという目論見もある。なにせ、一人だけの営業なので、いざということも考えておかねばならない。

 サフランは、量をまとめて個人輸入。他のスパイスも、ホールのまま大量購入。これがなかったら、原価が高くなりすぎてしまう。

 これで税込900円。



 俺は、街の一画にある、組織の重要な施設に、任務を果たすために三ヶ月前から赴任して来た。

 ターゲットの観察の結果、事態の進行に合わせて監視人数が一人増えている。俺の相棒バディである、双海という嗅覚の鋭い男だ。


 俺達は骨董店を出て、観察対象建物を横目に通り過ぎ、ちょうど五十歩めで「ローガンジョシュ定食、アレルギーのある方は材料の問い合わせを」と書かれた黒板にぶつかった。

 双海は、午前中、骨董品の山を掻き分けている時から嬉しそうな顔をしていた。その理由は、黒板の字が見え出す頃に俺にも解った。当たり屋の方から、「カレーってのは、こんなにいい香りがするものだったっけ」という香りが漂っている。

 店の戸が開いて、商店街の顔見知りが一人、店から出て行く。ドアを開けると、暴力的なまでに食欲を掻き立てる香り。今日は、もう、ここ、日本じゃないな。


 「らっしゃい」

 低い声に迎えられて店に入ると、二人掛けテーブルが片付け始められている。俺は、双海と共に、空いている二人掛けテーブルに座る。

 店主が、水とペーパーおしぼりを目の前に置く。

 注文は選ぶことができないので、聞かれない。


 ただ、その一方で、聞かれたのは次のこと。

 「コーヒーにしますか、紅茶にしますか」

 「紅茶で」

 俺が先に答える。後を追うように、双海も紅茶を選ぶ。

 店主が次の言葉を紡ぐ前に、双海が言う。

 「ミルクティーで、マサラは多めで」

 店主が笑顔になる。

 「かしこまりました」

 そう言って、厨房に戻っていく。


 さて、双海のここまで嬉しそうな顔は、久しぶりに見る。ここのカレーがよほど気にいる確信があるらしい。でも、俺には、ローガンジョッシュが何かすら分からない。

 「ローガンジョッシュってのは、カレーの種類か?」

 双海に聞く。

 「美味いぞ。ムガール風の羊のカレーだ」

 そう言われても、ピンとこない。羊と聞いて、頭の中のイメージとしては、ジンギスカンのカレー味。明らかに間違っているであろうその想像を、改めて口に出す気にもなれない。


 間を置かずローガンジョッシュ定食が置かれた。いつもと違って、スプーンとフォーク、そして箸だ。

 「ごゆっくり」

 低い声で言って、店主は厨房に戻っていった。


 今更、この店でカレーが出たからといって驚きはしない。が、ある意味、定食という単語を繋げるのにふさわしいカレーってのは、黄色いどろっとした奴ではないだろうか。だが、目の前にあるのは、香りを嗅いでいなければカレーには見えない皿だった。


 黄色いご飯に、濃い焦げ茶色のつぶつぶ感の濃いソース。見た目すべてが黄色っぽくなるところを、生の生姜の千切りの鮮やかな黄色、パクチーの緑、赤胡椒の赤が良いアクセントになっている。

 どことなく、麻婆豆腐を思い出す。あれも、俺の頭の中は、赤くて透き通ったものだった。濃い茶色のつぶつぶ感があるものが美味しいのは、ここで覚えたのだ。もしかしたら、このカレーも同じで別次元のものなのかも知れない。

 そして、白いドレッシングがかかったサラダ。ほの黄色く染まった鶏肉が裂かれて、ドレッシングの上に乗っている。


 目で双海と「いただきます」の挨拶をしあって、スプーンを持つ。

 口の中に、複雑なスパイスの香りが重層的な和音を奏でる。生の生姜の千切りが、鮮やかな爽やかさのアクセントを加える。

 双海は、ああ、と声をあげ、ひたすらスプーンを口に運んでいる。今日は、いつもの嗅覚分析結果の解説は、無しにしたらしい。


 どことなく釈然としないまま、カレーに浮かんでいる肉の塊を口に運ぶ。

 歯ごたえを失う一歩手前の羊が、旨味とコクを主張しながら胃に落ちていく。かなりの大きさの肉が三切れあった。まだあと二つ残っている。

 無意識に引き算をしたのは、予想以上に美味かったからだ。一気に食べたらもったいない。

 相当に辛味も感じるものの、他のスパイスとバランスが良いのだろう。まろやかさを感じる複雑な味だ。口に運ぶごとに、スパイスや玉ねぎなどのいろいろな主張を感じる。

 サフランライスと一緒に口に運ぶと、米の甘みがスパイスの強さを受け止めて、いくらでも食べられてしまう予感。

 こういうカレーもあったのかと思う。日本にもインド料理を出す店がたくさんあるが、ここまでスパイスの香りを感じることはなかった。もしかしたら、インドではこれが主流なのかもしれない。


 隣のテーブルの、顔だけは知っているOLが席を立つ。同僚と、「会社に帰ったら、お化粧直さなきゃね」となどと言いながら。

 確かに、カレーの刺激で汗ばみ始めているが、単に辛さによるものではない。舌と目の周りだけが熱くなるような、唐辛子の刺激ではない。

 全身が、指の先やつま先まで温まるような、優しい温まり方だ。


 舌がカレーに疲れると、玉ねぎのピクルスにスプーンを伸ばす。これはこれで、スパイスが効いているのだが、カレーとは異なる刺激を感じる。生の玉ねぎの爽やかさが、火を通した玉ねぎとの違いを主張しているのだ。

 カレーとビールは必ずしも相性が良いとは言えないと思っていたけど、スパイス風味ながらこのピクルスは飲みたくなる味だ。

 どうも良くない。俺は、さほど飲むことを考える人間ではなかったはずだ。それなのに、ここで美味いものを食べていると、合わせるアルコールが欲しくなってしまう。


 サラダは、小さく刻んだタンドーリチキンによって、単なるヨーグルトサラダとは別のものになっていた。鶏のコクとスパイシーな香りが強いからだ。

 そして、香りや食について通常の感覚しかない俺でも、スパイスの鮮やかさと生野菜の鮮やかさが、この昼食を一つにまとめ上げているのが解った。



 カウンターの中を見ていると、やはり下準備が上手くされていて、店主は盛り付けるだけ、散らすだけの作業で素早くこなしている。

 いつもながら思う。これだけの料理を仕込むのにどれほどの時間がかかるのか。そして、それを感じさせないランチ時間内での手順。そのための準備。

 好きでなければ出来ない仕事という言葉があるにせよ、食べるこちらとしては本当にありがたいことだと思う。


 店主が紅茶を出してくれた。ここにもスパイスを感じる。

 食事の火照りだけを落とし、温まった身体自体は冷まさない不思議な感覚。

 「ガラムマサラは、カルダモン、月桂樹、黒胡椒、ナツメグ、クローブ、クミン、シナモン、コリアンダー。それを煎って、ランチタイム前に粉にしましたね。紅茶を淹れる時には、さらに生姜も足していますね。

 ここまで素晴らしいローガンジョシュは、インドでも数回しか食べたことがありません」

 双海が店主に声をかける。


 えっ、そうなのか?

 インドでもなかなか食べられないほど、旨くできたものだったのか。

 双海は学生時代に、香りからスパイスにはまって、インドに行ってきたのだ。 

 「配合については、おっしゃる通りです。多分、インドで数回というのは、私が過去に食べて、目指している同じお店かと思います」

 「やはり、ですね。

 オリジナリティはありますが、同じ系統の香りと味だったかと。国内では、なかなかスパイスも入手できないかと思いますが」

 「いえいえ、日本人は凝り性ですから。近頃、スパイスの入手も楽になりましたね」

 双海が深く頭を下げた。

 「ありがとうございます。今日も、大変美味しく頂きました。

 嗅覚が人より鋭いことで、喜びを感じることはとても少ないのです。今日は、生きていて良かったとまで思いました。ここまで食事を楽しめたのは、人生でも数えるほどです。

 もはや、美味しいではありませんね。素晴らしかった」

 「ありがとうございます。次もご期待に添えるよう、努力します」

 双海は、無邪気と言って良いほど、喜んでいる。そして、どことなく、店主はほっとした顔をしている。もしかしたら、店主なりの双海の嗅覚への挑戦だったのかもしれない。


 「一人900円になります」

 双海が五千円札を一枚渡す。

 「ありがとうございます」

 「お願いがあります。お釣りを出さないでください。ここまでの感動をさせていただいたことに、微力でもお返ししたいのです。

 客たる立場では、他に手段が無いことを理解していただけたら嬉しいです」

 双海と店主が五秒ほど、お互いの目を見合った。無言の話し合いが済んだらしい。

 「ありがとうございます」

 店主が、いつもより若干深く頭を下げた。

 トータルで二十五分。

 食事を、俺より双海が喜ぶのは、極めて珍しい。いつもは俺が旨い旨いと食う横で、双海には何らかの粗が見えてしまうのがパターンなのだ。


 双海は、ターゲットの施設に、鉄とオイルの臭いを嗅ぎ取っていた。おそらくは銃火器だ。窃盗団が持つものではない。加えて、何らかの薬物。これは搬送経路を嗅ぎ分けたことによる推測なので、モノが何かまではわからない。

 だが、その銃火器を使用する人材が揃った風はない。その使用はまだ先と思われる一方で、こちらの即応体制の発動準備は整っていた。



 ★ ★ ★ ★ ★


カレーなぞ。


https://twitter.com/RINKAISITATAR/status/1305782025228410881

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